2015年12月20日日曜日

人を責めないこと、自分を責めないこと

罪を憎んで人を憎まずという言葉があります。


生きていく上でいろんなテーマがありますが

僕はこのことがちゃんとできれば、

世の争いごとは無くなっていくはず!と、

ずっと一番に思っていたところがあります。


でも、

嫌なことをされて、

それをまったく気にしないようにするなんて、

それはさすがに変だ!


間違いはやっぱり正さなくては!!!

また同じことが無いようにしなくては!!!


と、人を責めてしまう気持ちが湧いてきます。



「あの人があんなことをするからだ!」

「いや、自分も間違うことがあるし、、、」

「いや、でも今のは完全におかしい!」

「でも、分からなかったんだからしょうがないよなぁ、、、」

「いや、分からないからってやっていいことと悪いことがある!」


などと答えの無い問答をして、

何とかその場を収める目的でいるようで

本当の自分に蓋をしたまま

実はものすごい怒りを振り撒いてしまうのでした。


そうなるのが嫌だと思いながらも人を責めてしまうことの

原因となっていたものとそれを解放できたことについて

記させてもらいたいと思います。


僕が素直になることだけを

念頭に置いて過ごすようになると、

自分が自分の行動に違和感を感じることを

どんどんごまかさなくなって行きました。


小さなことでも誰かを責めてしまうことを

嫌だとハッキリ意識できるようになっていきました。


僕はもともと怒りを表現することに

苦手意識がありました。


人に優しくありたいと思っていたこともあって、

とても温厚でめったなことがなければ怒らない

自信のようなものもありました。


辛抱強く、

相手に合わせて言葉を選びながら空気感を大切にして

全体として上手くものごとが回っていくように

心を配ることを意識していました。


偉そうになるのも嫌だったので

上から目線ではなく、

常にどんな相手でも面と向かって、

一対一で対等に話すことを心がけていました。


このように見ていくと、

別にそのまま行けばいいんじゃない?

ぐらいに感じるかも知れません。


もちろん人との調和を保とうと意識することは

人として成長するためにとても重要な要素となります。


でも、僕が上に記したように思っていた要因は、

過去に閉ざしてしまった経験を申し訳なく思っている自分が自分に対して

良い人でいようと一生懸命していることだったのです。


それに気がつくことができたのは、

喧嘩になったしまったときに言ってくれた

妻の一言からでした。


「あなたは自分に対して怒っているのが分かる?」


そう言われたとき、

すでに怒りの向けようがどこにもなく、

観念したような気持ちになりました。


それから徐々に

子供のころのことを思い出し始めます。


僕の育った家庭はとても厳格で、

父親の言うことは絶対でした。


昭和の時代にはよくある話です。


でも僕の場合

小学校に入る頃には、

すでに僕は心を閉ざしていました。


どのような怒り方をされても、

誰も止めることはありませんでした。


そんな中にあっても、

僕は良い子を演じていました。


家族を好きになりたいと思っていたのです。


ある日父の勘違いが原因で、

人のいる前で殴られました。


それは勘違いだと言うと、

父の怒りは止まらなくなりました。


誰も止めることはありませんでした。


そのとき僕はもう誰にも本当のことを言わない、

そう誓ってしまったのでした。


年月を重ねてそんな記憶も薄れていき、

自分の体が大きくなるにつれて、

社会も広がり、経験を積んでいく中にあって、


僕は僕の家庭で養われた生きる術を持って

閉ざしてしまった部分のある心を抱えたまま、

幸せになろうとしていたのでした。


怒りの矛先がどこにも向けられなくなったとき、

この自分だったからこそいろいろ学べてきたことと、

閉ざしたままではこれ以上進めないことがすぐに分かりました。


閉ざしてしまった自分が

子供のままその記憶の中にいて

ずっと言えない思いを抱えたまま

癒えない時間が止まってしまっていました。


その止まったままの自分は

ずっと僕を、僕に関わる人を

見ていました。


嘘をついていないか、

ごまかしていないか。


それに呼応してしまう現実を呼び起こしては、

一番奥に閉ざされたままの自分が怒りを表していたのです。


僕は本当に心の底から

閉ざしてしまったことを

子供のままの自分に謝りました。


そして、

現実にその矛先を向けてしまった妻にも謝りました。


この宇宙に向けても、

怒りのエネルギーを放出していたことを謝りました。


そうすると、

本当に心がどんどん軽くなります。


家族から受けた影響の良い面も悪い面も働いて

自分の弱さを克服することができました。


辛くてたまらなかったのも

もう終わります。


多くの方に自分の弱さから

ご迷惑をおかけしたことを謝りたいと思います。


ごめんなさい。


でも、もう大丈夫です。


誰かが悪いのではないことが、

僕にはハッキリ分かったからです。


僕の場合は

家族というキーワードをたよりに、

自分の閉ざされた部分を開くことが出来ました。


多くの人に同じようなものを感じるのです。


このブログが誰かのお役に立てれば幸いです。




2015年12月10日木曜日

がんばる時代の終わり

僕が、

この日本という国の豊かさに

本当の意味で気づいたのは、

ごく最近のことです。


僕が子供の頃は、

海外の国を手本として、

便利で豊かな国にするために

みんなで一生懸命働いてお金をたくさん持つことが

とても良いこととされていた時代だったと思います。


何となくおかしな部分もあるけれど、

それで幸せになって行けるのだから、

がんばろう!みたいな雰囲気がありました。


大人になるにつれて、

僕の中で、

何となくおかしな部分から、

目を背けることができなくなってきます。


便利で豊かになるはずが、

環境問題は次から次へ出てくるし、

争いごとは必ず何処かで起こってるし、

病気になる人の数は減らないし、


追い求めていた豊かさは

いったいいつになったら

この地上で具現化されていくのかという疑問を

見過ごせなくなったのです。


でも多くの人達が、

豊かさを追い求めてがんばることを

とても良いことと信じていました。


そしてあまりにも当然のように

みんなで豊かな幸せを未来に思い描いていて、


その豊かさのイメージから外れるものは、

良くないことのように扱われていたので、


立ち止まって、

今求めているものごとが、

本当に豊かさをもたらすのかどうか

見つめることはありませんでした。


広い庭付きの家、

大きくて速い車、

仕立てのいい有名なブランドの服、

大きな冷蔵庫には

新鮮なお肉や魚介類、

大きなテレビで迫力の音響、


それらが豊かな人生に必要なものであって、

まだ手にしていないうちは、

豊かではないと考えてしまっていることに

気がついたのでした。


そして、今、、、、


我が家には、

ものがほとんどありません。


断捨離と呼ぶような行為も、

だいぶん前にして、

スッキリとした空間の中で、

テレビもステレオも無くて、

とても静かな時間を

穏やかに過ごしています。


食事は毎食、

お坊さんでもびっくりするだろうほどの、

シンプルな玄米菜食をしていて、

なるべく旬のもので、

無農薬、自然農法のものを選んでいます。


お蔭さまで、

記憶にある年数のうち、

僕は風邪をひいていません。


そんな僕の健康な身体と心を

育んでくれる食材達を

雑な調味料で味付けする訳にもいかず、

塩は対馬の塩、

醤油も木樽仕込みのものを

選ぶようになりました。


そうなると、

料理をするにも、

フライパンを鉄の叩き出しのものにして、

料理用油も圧搾だけで作った

菜種油を使うようになりました。


主食である玄米は、

釉薬に有害性の無い土鍋を使って炊き、

手触りの良い漆の器によそって食べています。


このあたりの食材や道具を選ぶ目利きは、

妻がピシャリと良いものを

捜し当ててくれるので感謝しています。


食べ物から道具に至るまで、

確実に良いものを選んでくれます。


しかもそれほど高額でなく、

本当に良いものでスッキリとした空間を

心地好く演出してくれます。


以前の僕が考えていた豊かさとは、

全く別の豊かさの中にいます。


広い家や速い車といった

象徴的な夢を思い描くこと自体は、

悪いことではないし、

自分自身の向上のため必要な場面もあります。


でも、

それらを手にしようとするために、

心が貧しくなってしまっては、

意味がありませんでした。


すぐ目の前にあるものに全く気付かないほど、

豊かさのイメージを追い求めていたのです。


この国には、

本当の豊かさが溢れていることを、

どれだけの人が気づいているでしょう。


僕はこの国の住人なので、

他の国や地域について、

あまり確かなことは言えませんが、

同じような豊かさが

世界中に溢れていると思います。


ただ、その真の豊かさに気付かずに、

象徴的な豊かさを追い求めて

生きている人達が多くいると思います。


僕は何かを我慢したりとか、

特別な境地に達したりしたのではありません。


自分自身に正直になってみると、

本当に欲しいものって、

そんなに無いことが分かったんです。


欲しいと思って買ったのに使わなかったり、

手にした瞬間から次が欲しくなったり、

本当に欲しいものへのつなぎと思っていたり、

持つことがただの自慢であったりするとき、

それらを本当に欲しいと思って手にしていません。


本当に欲しい必要なものとの出会いは、

心にピンと来るものが

ベストなタイミングで起こって、

ものごとがうまく回って

喜びとともに自分の手もとにやって来ます。


それは

手に触れて心地好く、

見て心地好く、

使って心地好く、

その出会いに深いご縁を感じます。


手にすると嬉しさが湧いて来て、

感謝の気持ちが味わえるものを、

そういうものを吟味して、

選択していくようにすると、

自分の居る空間が

どんどん豊かになって来るのです。


それは道具だけに限らず、

食べ物から自分が口にする言葉も

自分を豊かにしていくこととして、

選択できるということも分かってきました。


豊かさを作り出すのは、

紛れもなく自分自身の選択だったのです。


貧しさを感じてしてしまう

選択を見極めて、

本当に必要でもなければ

欲しくもないものを

手にしないようにするだけで良かったんです。


誰かの意見に流されたり、

誰かに気を使ったりして、

ものごとを選択してしまうと、

豊かさを味わうことはできません。


もしも、

自分に純粋に従っているのに

豊かさを感じないとしたら、

ただの思い込みを

自分の心の声と勘違いしている状態です。


本当に心は自由そのもので、

この世界にある無数の選択肢の中から、

常に心地好い状態で居ることを

選択していきます。


わざわざ心地好くないと感じることを

選択をしているということは、

ナチュラルな心を押さえて

思考や意思が働いているということです。


自分の心に従うより、

思い込みを信じることで成り立っている

この現代人間社会に於いては

なかなか自分の心の声に気がつきません。


自分の心の声に従うことは、

その他大勢の意見と違うかもしれませんが、

それを選択しなければ、

自分に豊かさを感じることはできません。


追い求めた先に

豊かさがあるのでは無くて、

自分の心を自由に解放してあげれば、

豊かさの中にいることを感じるのです。


でも、

あまりにも長い歴史を

豊かさとは何なのかを

求めることに費やして来たために、

求めようとする行為をやめることに

不安を感じてしまうこともあります。


今豊かさを味わえていなくても、

求めることで安心できてしまうからです。


ただ求めることをやめるだけで

この世界の豊かさを味わえるなんて、

嘘だと思うかもしれません。


身体に染み付いた癖を

ただやめるというのが本当に難しくて、

やめる以外のことを探してしまうかもしれません。


そしてあまりにも多くのことを

誤解したまま思い込んでいたために、

それを一つづつ解放していくことが、

途方も無いことのように感じてしまうかもしれません。


でも、

すでに豊かさの中に居ます。


それに気付かないほど、

がむしゃらにがんばっている自分の

肩の力を抜くだけです。


がんばらなくては生きて来られなかった時代は、

もう終わります。


この星に生まれて

豊かさと共に生きることを選択すると、

始めのうちは、

自分で気付かずにしていた

わがままや共生できない考え方が

不必要になってくるので、

自分の嫌な部分としてどんどん出てきます。


でも、

どんどん手放していけば、

この星の豊かさと共に生きる楽さを

実感していくようになります。


がんばってしまっていた自分の

力の抜けていく感覚は、

ただただ気持ちいい限りです。


この楽な感じです。


これが僕の求めていたものだったんです。


豊かさは、

所有しているものを手放していけば、

限りなく共有できるのです。



2015年11月26日木曜日

自信を持って生きる

今自分が置かれている状況の中、

的確に決断して行動すること、

このことが完璧にできれば、

何の心配もいりません。


でも、

そんなに上手くいくわけが無い!と考えて、

自分にちょうどいい感じを探して辺りを見てみると、


何となくそれなりにやっている人達がいて、

それなりにいい感じなので、

良くは分からないけど、

そんな感じでやってみたら、

たまに嬉しいことがある。


良く分かっていないことがあるので、

なるべく大きな決断は避けていて、


それでも決めなければならない時は

多くの人がしていることを参考に

他の人の意見も聞きながら

まず間違いないだろうということを選択する。


まず間違いない選択も

成り行きの中で決まっていただけのことで、

その後からついて来る結果には、

あまり納得できなくて、

その時点になって、

どうしたらいいかを考えている。


そんな時、

ちょうどいい考え方に出会って、

試してみるもののなかなかそのように考えられない。


とりあえず理想に近づけるように、

そこで言われていることを一生懸命やってみる。


これは、

自信を持てない考え方について、

大まかに記したものです。


こう記されたものを見る限りでは、

どこまで行っても自信が持てないのは、

当然だと分かるのですが、


でも、

実際の生活の中で自信が無いとしたら、

おおよそこのサイクルの中にいることに気付かなければ、

抜け出すことはできません。


上に記した言葉と全く違う感じ方の人も、

自信があったり無かったりする人も、

自信が無い状態とは、

基本的に考え方のサイクルに

はまり込んでしまっている状態なのです。


僕自身が以前、

自信を持つということを、

考え方のように捉えていたことから脱して、

あくまでも実践するだけの行為として

意識するようになって、

自信とは何なのかを理解できたことを、

お話しようと思います。


冒頭に記した、

今自分が置かれている状況の中、

的確に決断して行動すること、


このことを、

どうやったらできるかを考えてしまうと、

自信を持つことはできません。


実はものごとを的確にこなしていくのに

自信があるとか無いとかは関係ありません。


どういう状況にあったとしても、

その状態から淡々と進めば良いだけ、と

行動に移している状態が

自信があるように見えるだけです。


右に行くのが良いのか、

左に行くのが良いのか、

自信の無い状態では、

とにかく考えます。


目的に向かって行くより、

どちらから行けば良いのか、

何も考えないのが怖いのです。


そこには目的に向かうことよりも別の、

思考が働いてしまっています。


危険か安全か、

苦か楽か、

損か得か、

それ以外にも

格好良くいきたいとか、

忘れ難い苦い思いがあるとか、

いずれにしても頭の中にあることで、

現実とは違うことを考えてしまっているのです。


実際には、

右へ行っても左へ行っても、

大した差はありません。


右へ行っても左へ行っても、

自分の学ぶべきことが順に訪れます。


必要なことは、

未熟であったとしても、

真剣に一歩を踏み出すことです。


真剣に一歩づつ感触を確かめつつ進むことで

危険から遠ざかることにもなり、

次の一歩を決める判断材料になります。


何となく踏み出した感じからでは、

次の判断材料にはなりませんし、

学ぶべきこともぼんやりとしてしまいます。


一歩踏み出さずに

失敗するイメージを想定して、

そうならないようにいろいろ考えても、

踏み出さない限り

失敗にもならないし、

目的に近づくこともありません。


失敗したと、

本気で感じることができるのは、

真剣に一歩を踏み出した人だけです。


やっとその段階にきて、

学びとして自分の中に残るものがあります。


学びとして経験できるようになれば、

失敗も失敗ではありません。


そこから目的へ向かうために

良い判断材料としての状況変化があっただけです。


多くの人は、

お互いに助け合いながら

目的を達成することが重要な環境にいます。


それぞれの足りない部分を補い合うことで

一歩づつ目的に近づいていきます。


その中で、

目的以外のことに気を取られていると、

行動が的外れなことをしてしまうため、

さらに自信のない状態へと向かってしまいます。


そこでは社会性が必要で

コミュニケーションをとらなくてはならなくて、

などなどいろいろと考えてしまいますが、

そのようなものは全て二の次です。


例えば仕事の場では、

仕事を順序良く片付けていくことを最優先にするべきで、

それが後回しになってまでコミュニケーションなどが問題になるならば、

そこで仕事が始まるのはいつになるのか分かりません。


遊びの場であれば、

ルールにのっとって楽しむことが最優先になりますが、

それを後回しにして人として考えなければならないことがあるならば、

全ての休日はもう台無しになってしまうでしょう。


それこそ仕事も遊びもそういった枠を取っ払って、

真剣に生きるというスタンスで見てしまえば、

それを後回しにしてまで気にするものは、

よっぽどその気になることが好きなのではないでしょうか。


そのことに自信を持って好きだと言えないとしたら、

それは今その場面では関係の無いことだと、

自分でも分かるはずです。


そういったものを自分のこだわりだとか、

必要なものだとかの思い込みが

真剣な一歩を踏み出す自分を妨げる

言い訳になってしまいます。


今できることを全て後回しにして

言い訳してしまうより前に、


ただ行動すれば

全てが変わってきます。


自信みたいなものがあるかないかも

そんなに気になりません。


本当の学びはそれから始まるので、

前もってやっておかなくてはならないことなどありません。


それまでに何となくやっていただけのこととかも、

ちゃんと役に立つ経験であったということにも

それから気づくことになるでしょう。


自信を持って生きる生き方を

探すのではなくて、

今できること、

今やりたいことを、

どんどんシンプルにやっていくことが

自分を信じるという言葉の意味を

分からせてくれるのです。


自信を持つことができるのは、

誰か他の人ではなく、

自分だけだということは、

自分で決めて

自分で行動して

自分で感じなければ

自信にはならないということだったんです。



2015年11月18日水曜日

混沌としている世界に感じること

痛ましいできごとが起きていると

ニュースが伝えています。


この星の中でのできごとです。


悲しむ人達の声が届けられ、

勇気づけようとする人達が

それに答えています。


今僕にできることは、

とても限られています。


僕の手の届く範囲で、

世界が平和であるために

僕自身を平和に保つことです。


この星には、

とても多くの命がいて、

人間だけ見ても、

多種多様な価値感を持っています。


僕の分かる範囲での話しですが、

その中に絶対的なものはありません。


人によって、

時と場合によって変化する、

実体の無いものごとが

この世界を作っているので、

絶対的だと思われるものも

相対性の中でしか存在できません。


例えば、

僕の知っている神様は、

絶対ではありません。


僕の内側で感じることのできるその神様は、

絶対あぁしろ!絶対こうしろ!と、

まず僕に言うことはありません。


僕の主体性を最大限に認めてくれる

とても大きな存在です。


そして、

そういうことを「感じる」ことが

僕の内側でしか起こらないということは、

僕の外側に神様を感じることはできません。


ということは、

僕がいなくなったら、

僕の神様ももう居ません。


どこかに居るとしても、

僕が居なくなって、

確かめる人がいなくなる以上、

考えることもできなくなるのです。


このような感じで、

僕には、

絶対的なものはありません。


絶対に間違っていることも、

絶対に正しいことも、

僕の中にはありません。


時の流れの中で、

起こる必然に対して、

僕という一人の人間は

為す統べもなく

そのまま受け入れるだけです。


そこには悲壮感などなくて、

むしろ受け入れたことで

為すべきことも一緒に

無くなっていきました。


ただ、

この受け入れるということができなくて、

絶対的な何かを作り上げてしまうという

ジレンマに陥ってしまっていたこともありました。


絶対にお金が無いとダメだと思っていると、

何をするにもお金が基準となっているのに、

お金では買えない豊かさを求めて

経済的に混乱してしまいます。


本当に自分に必要のない物まで、

必死で手に入れようとしてしまいます。


絶対的な健康を欲しがってみても、

無茶をすれば体に負担は掛かるもの、

本当に体を大切にすることを学べるのは

弱い体をいたわる思いからしかありません。


絶対にガンになりたくないと思いながら

ガンになるような食事をして、

その体に高額な保険をかけて、

ガンと闘うというのも

少し変な感じがします。


絶対的な正義が

ちょっと意見の違う相手に

暴力的になっている様子をよく見てみれば、

「あぁ~あ、、、」となるのですが、


絶対に自分が正しいと思っているがゆえに

自分の悪いところよりも、

相手の悪いところを探してしまうといったことが起こります。


絶対に死にたくないと思ってみても、

この世で死んでない人が

一人も居ないのですから、

自分だけ都合よくできる訳もありません。


絶対にあぁいう死に方はしたくないとか思うとしても、

そんなことより素敵な生き方を考えたほうがいいのだと

本気で思うようになりました。


この世界を見まわしてみると

絶対的な価値観に囚われている人が

混乱を招いているように感じます。


僕は、

僕の手の届く範囲で直観を働かせて、

僕自身を平安に保つ努力をするだけです。


その空間には、

最大限の愛情を持って、

自分をごまかすことなく、

誰とも違う僕でそこにいます。


誰とも違う僕が

絶対的な価値観を持つことはありません。


僕にとっていいものが

誰かにとっていいとは限らないからです。


タイミングが合えば良くても

ずれると役立たないかもしれないからです。


ただ、

自分の持っている絶対だと思っているものを、

捨ててしまっても大したことは無いということと、


捨ててしまったほうが

絶対だと思っているフィルターが無い分、

ものごとがクリアーに見えてくるということ、


この混沌としているかのような世界が

ちゃんとした流れの中

着実に進んでいるところに、

今僕は生きているということに

変わりはありません。


このタイミングで

大きく変わっていくのが

必然なのですから

素直になることです。


素直になれない分だけ

いろんな思いを経験する、

その経験も必然なのです。


2015年11月15日日曜日

一つずつ順にやっていくこと

どんなものごとでも、

僕は一つづつしか

片付けることができません。


一つめを片付けて、二つめ、

二つめを片付けて、三つめ、

この当たり前のことが

やっと最近できるようになってきました。


以前の僕は、

一つめを飛ばして、二つめをやろうとしたり、

一つめと二つめを同時にやろうとしたり、

一つめから三つめぐらいまで誰かに

やってもらおうなんてことをしていたのです。


何気なくそうやってしまっている自分に

気が付かずにいたために、


上手なやり方がどうとか、

他の人のやり方がどうとか、

自分にはできないと思い込もうとしたりとか、

できない理由を探してみたりとか、

何かとやることが増えてしまって、

疲れてしまうのでした。


そのような状態になっている自分を

整えなければならず、

明るく過ごす必要に迫られているように

感じてしまっていたので、


自然体でいるために、

何をどうすればいいのか、

分からなくなってしまいました。


でも、よく考えてみると、

例えば自然体でいるためにどうしたらいいか?

という発想がおかしいことが分かります。


何かをするために、

まずその前に

別の何かが必要になるという発想です。


この考え方をごく当たり前に

してしまっていることに気がついた僕は、

一旦スタート地点に戻ることにしました。


僕の目の前には、

山積みになって

どうしようもなくなってしまったかのような

ものごとがたくさんありました。


僕はその中から、

気が付いた順に

今すぐに簡単にできることを、

やることにしました。


そこで本当にシンプルなことに気づきます。


気が付いた順に、

今すぐ簡単にできることからしか、

できないのです。


今までもそのようにしか

できなかったにもかかわらず、

いろいろと考えては、

ものごとを難しく捉えていたのです。


その順序でしか

ものごとを片付けられないので、

その通りに

気が付いた順に、

今できることからやっていくと、


ちょっとずつであっても、

進んでいるという実感と、

ものごとが変わっていく様が一致するので、

単純に楽しくなってきます。


そうすると、

また新しく気づくことがあります。


全てのものごとに

自分が取り組める順序があって、

それをそのままやっていくだけで、

できるようになっていくということです。


得意なものもあれば、

不得意なものもありますが、

どんなことでもできるようになります。


一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、

六つ、七つ、八つ、九つ、十、

順序よく一つずついくことが大切なのです。


一つめが終わると、

二つめにやることがはっきり分かります。


上手くできなかったら、

そこからもう一度、

一つずつやっていきます。


一つずつ丁寧にやることに

集中できるようになってくると、

今まで他のことに気を取られて、

目の前にあることを

よく見ていなかったことにも気づきます。


目の前のことを

大切にできるようになると、

他のことは気にしなくて良いことなのが、

分かるようになります。


ここで結果が全てではないことが分かります。


結果は後からついて来るだけのものとなると、

結果が怖くて取り組んで来なかったことも、

自分にとって、

難題ではないということが分かります。


一つずつ

自分に今できることから

やっていくだけです。


自分が生きている間に

上手くできなかったとしても、

問題ではありません。


自分が今ここにいて何をするかに

意識がしっかり落ち着いていることは、


自分が全てと繋がっていることを

分かりながら行動できている状態です。


行きつく先へ繋がっている道の

今ここに立っているという意識があるからです。


この時また理解できることは、

常に100%この状態で居ることが

生きている目的ではないということです。


目の前のことに

真摯に向き合うことが

その状態を作っているという

順序があるからです。


上手くできなくても、

また一つずつ、

上手くできたら、

また一つずつ、

真摯に自分のまことを捧げていくことが

一番始めにある世界を生きているのが

本当に気持ちいい

ただそれだけなんです。


シンプルであればあるほど

生きることは楽になっていくのだと思います。


2015年11月9日月曜日

神様が僕の人生に手を出さない訳

僕の人生に初めて

神様が現れて下さったのは、

8歳の夏の夜のことでした。


それ以前の僕はどこか冷めていて、

誰にも自分の本心を打ち明けることのない子供でした。


もちろん冗談を言ったりもするのですが、

自分をごまかすためだったりして、

自ら楽しいと思う時間を過ごせなかったのです。


ただその年に引っ越して、

学校が変わったのを機に

自分を変えたいという思いが湧いてきました。


そんな夏の日のことです。


夜は扇風機のタイマーをかけて寝ていたのですが、

タイマーが切れてもなかなか寝付けなかった僕の枕元に、

誰かが近づいて来たのでした。


部屋の電気が点けられたのを何となく感じながら、

母親が扇風機を持っていくのだと思って、

まぶたを閉じた状態のまま寝ていたのです。


ところが枕元に立ったまま何もしないうえに、

まぶた越しに感じる眩しい光に、

早く電気を消してくれないと眠れないじゃないか!

と思って目を開けたら、

知らない人の足が見えました。


細いんですが、

すねの辺りの筋肉がしっかりとしていました。


「えっ!誰!」と思って上の方に目線を送るうちに

その人に悪い感じがしないことに気がつきました。


膝の下あたりまで垂れた白い布をまとったその人の

顔を確かめようとして見てみるのですが、

あまりにも眩しい光に

腰よりも上が見えません。


その光のとても優しい暖かさが

本当に心地よくて、

目を閉じて大きく息を吸い込んで、

また目を開けると、


電気の消えた、

扇風機も置かれたままの部屋で

タオルケットをかけて寝ていた自分がいたのでした。


それまでにも青い竜が

部屋を飛び回っていたりするのを

恐い思いで見る経験があった僕は、

とにかくお化けやその類いのものが

嫌で仕方がありませんでした。


でもその人には、

なにも恐怖心を抱かなかったのです。


その人が誰なのか?という思いが、

今の僕へと導いてくれる

きっかけとなっていることは間違いありません。


二十歳代に自分の一つの夢であった

プロミュージシャンになることが決まったとき、

ものすごく当たると言われている手相鑑定を

受ける機会がありました。


その時言われたのはたった一言、

「大丈夫ですから。」

とだけ言われたのでした。


「えっ!何がですか?」と聞いても、

「大丈夫ですから。」としか答えてくれませんでした。


それが意味することも、

今は分かるのですが

その時は何だか嫌な気になってしまったのでした。


その後僕は一つの成功というものを求めて生きていくのですが、

心のどこかで何か別のものを求めていることに気づいたのでした。


三十歳代に入って一旦仕事をやめて、

旅に出たときのことです。


南インドの海辺の丘で

少し疲れて座っていた浜に生えたヤシの木が

心地よく揺れる風が吹いたのです。



手のひらに付いた乾いた砂が

ハラハラと風に吹かれて落ちていくと、

そのまま自分の手も腕も砂となって、

風に飛ばされていくような感覚を覚えたのです。


そうするうちに、

足もお腹も胸も頭も砂となって

飛ばされてしまいました。


視覚には自分の体としてあるのですが、

感覚はどこかもうすでに自分のものでは無くなっていて、


動く意識がそれらを見ているだけのような感じの中、

暖かい風が吹いていました。


その時

自分の見ている景色の中、

太陽も、

青い空も

白い雲も

風も

海も

ヤシの葉も

この身体も

全部違うスピードで動いているけれど、

同じ暖かさの中にいることに気づいたのです。


その暖かさは、

僕が子供のとき見た

眩しい光の暖かさと

同じでした。


そのときから、

どんどんナチュラルな生き方を模索していくようになります。


ほんとうに自分の身の丈にあった

自分らしい生き方を心掛けて過ごすようになっていきました。


そんな中で妻に出会い、

週末はサーフィンを楽しむ

ベジタリアンな生活になっていました。


あの人が僕の枕元に立って

じっと僕を見ていただけだったのは、

今も変わりません。


あの暖かさを

今でもすぐに感じることができます。


でも僕に何かをさせようとしたり、

何かの助言をくれたりはしません。


僕の求めてしまうような奇跡を

起こしたりはしません。


僕が思うように生きて

思うように学んで、

思うように成長して

精一杯自分を楽しんでいるのを

ずっと見守ってくれているのです。


本当に自分に納得のいくように

やらせてくれているのです。


自分の生き方を

自分で決めていいのです。


他の誰かに決めてもらって

生きるなんてもったいないです。


どこかで聞いたことのある

幸せな生き方なんてしなくていいのです。


自分に合った幸せを

自由に作り出しているとき、

本当に嬉しそうに見て下さっているのが分かります。


いつも見守ってくださって

ありがとうございます。




2015年11月8日日曜日

コミュニケーションにおける素直な意思表示の大切さ

この世に生まれてきた瞬間、

自分という意識が

自分を表現するということで

全てが始まります。


個として存在する不自由さは、

コミュニケーションそのものを

深く理解して上達するうえでも

とても重要な要素になります。


自分という個が和のうちに過ごすには、

自分を含めた空間全体を心地好い状態に

調えていくことが大切になるのですが、


その中で

自分の意思を表現するということが、

コミュニケーションの基本となります。


本当に当たり前の、

この基本をもう一度見直すことで、

今までのコミュニケーションを超えて、

新しい世界を開くことができます。


ただぼんやりと感じていること、

それが一番素直な自分自身なのですが、

その感じていることをごまかさずに

そのまま表現することが大切です。


ただ何となく感じていることは

思っている以上に、

言葉や行動に現れていて、

それに周りが反応して

環境を形作っているのですが、

自分に素直であればあるほど、

周りへも素直に伝わっていきます。


この時伝わっていることとは、

今どう感じているかということだけです。


自分がどうしたいかということや、

相手にどうして欲しいかということは、

関係ありません。


コミュニケーションというと

それらを伝えるために

行われているような気がしますが、


自分がしたいことは、

誰に気兼ねすることなく

勝手にすればよくて、

もしも今出来ないなら、

しなくていいことですし、


相手にして欲しいこととは、

まず自分がやるべきことなのです。


~したい、~して欲しいという思いは

なぜそうしたいか、なぜそうして欲しいのかという風に

掘り下げていくことができるので、

一番素直に感じていること、

素直な自分自身とは

別のものなのです。


今ここにいる自分を

どのように感じているか、

このことだけが自分で分かる

一番確かなことなので、


それを意識の中心に据えて、

素直に表現するようにしてみましょう。


それが自分の意識が届く、

この宇宙の中心になってくるのです。


例えば少しわがままだったとしても、

そのまま周りの世界をそのように感じて

それによって嫌な気持になるのが、

自分だと気づけば良いのです。


自分の感じることを

ごまかさないことの方が大切です。


自分の意識の中心に

自分の一番確かに感じることを据えて、

表現をし始めてみれば、


それ以外の不確かなことに

気を取られることは無くなっていきます。


過去に引きずられたり、

未来にさいなまれることは無くなって、


上手くいかないことも、

自分の素直さを磨く経験として、

納得して次へと進むことが出来るようになります。


宇宙の中心が自分の確かな感覚であるということは、

この宇宙で自分が感じることに言い訳は通用しなくなります。


文句の言いようも無くなります。


でも言い訳をずっと探さなくて済みますし、

文句を言わなくても済むようになります。


すっきりと過ごすようになってくると、

ものごとがすっきりと見えるようになってくるので、

自分に自信がついてきます。


間違うことが無くなってくるのではなく、

間違うことから学ぶことが素直にできるようになるので、

何かを責める必要も無くなります。


どこまでも素直な自分になることは、

全くストイックなことではありません。


僕の知る限りですが、

一番楽な生き方です。


それ以外にやるべきことが

無くなるからです。


そうしたら、

次はそれを素直に表現してみましょう。


自分の外へ出すということは、

形ある外の世界が反応し始めるのです。


新しい世界が始まるのは、

そこからです。

2015年10月26日月曜日

陰のちから、陽のちから

この世にあるもの、

全てに陰と陽がある、

とよく言われているものの

幸せであることに

どのように活かすことができるでしょうか。


イメージとしては

陽が明るくて受け入れられやすく、

陰がその逆で陰っていて趣深く、

捉えられていると思います。


でも実は全てのものごとの陰と陽のはたらきは

ちからのはたらく方向の違いがあるだけで、

どちらが良いとか悪いとかではなく、

それぞれが同時に作用反作用としてはたらくことで、

ものごとを上手く未来へ推し進めていくエネルギーなのです。


そのことを理解すれば

身のまわりで起きていることに翻弄されず

自分らしさを維持した状態で

リラックスして過ごすことができるようになります。


それでは簡単なところから、

まず太陽と影を例えにして見て行きましょう。


太陽が昇れば日陰ができます。


暑い夏のことであれば、

日陰はうれしいですね。


でも、暑い太陽があるからこそ

うれしい日陰になっているんです。


日陰をうれしくさせてくれているのは、

暑い暑い太陽の日差しで、

その日差しだけをピックアップしてみると

できれば避けたいものだったりします。


どちらか一方が欠けても

成り立たないにもかかわらず、

一方はうれしくて、

一方は避けたいと

思う対象となっているのです。


当たり前のことしか言っていないのですが、

このどちらかに注意を向けてしまうと

全体を見られなくなって

リラックスできない状況にあるかのような

勘違いを引き起こしてしまうのです。


普段そこまで意識することは無くても、

そういった作用反作用がどんな場面でも

心の中では行われているのです。


もう少し別の話しから説明してみましょう。


例えば欲しいもの、なんでもいいですが、

それが心にどのように作用するかを見てみましょう。


とても欲しいものがあるのですが

それはまだ、自分のものではなく

頑張れば所有できるものだとします。


まだ手元にないうちは

頑張る理由を与えてくれますし

手にいれる未来を明るく照らすことでしょう。


でもこの場面では欲しいというエネルギーが

今自分に備わっているものを見えなくしてしまう方向を

向いているのが分かるでしょうか。


そして手に入れたとき、

それを大切に維持したいと思うようになると思うのですが、

それがすでに悲しみを含んでいるのに気が付きますでしょうか。


このように見ていくと、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、

といった感じになっていきそうですが、

もう少しニュートラルにエネルギーのはたらきとして見てみましょう。


欲しいと思わせるものが良いのでも悪いのでもなく

欲しいという欲が良いのでも悪いのでもなく

まずその、ものによって、

欲しいというエネルギーが呼び起こされ、

その欲が自分を突き動かして頑張ることができて、

所有によって大切にする慈しみを知ることができたのです。


そして失うとき悲しみを知るのです。


欲がなくては前に進むことも無くなってしまいますし、

頑張らなくては所有できないですし、

失わなければ悲しみを知ることはできなかったわけですし、

そういう経験をしなければ大切に扱う難しさを知ることはないのです。


その時その時において、

陰陽どちらかの作用にどっぷりとハマって行動しているがために、

どんな感情を経験して学んでいるかなんてことには気が付くはずもありません。


それに、

分かっていたとしても、

想像以上になるのが

現実世界のすごいところです。


陰陽どちらかだけが作用することはないのに、

どちらかに傾倒して感情移入してしまうと、

どれかが良くてどれかが悪いというような判断をしてしまいます。


そのような判断は

だいたいにおいて自分本位な価値判断になるのは

同時にはたらいている陰と陽のどちらかに注意を向けてしまうことで、

バランスが悪くなっていることに

気が付いていないことから起こってしまいます。


日々の生活の中で、

起こる全てのできごとに陰と陽のはたらきがあって、

いろんな捉え方ができるうえで、

それぞれのエネルギーが次の学びへ向けて

僕たちの心を大きく動かしていくということを理解するだけで

かなり冷静に自分や周りを見ることができるようになるでしょう。


絶対的に良かったり、

絶対的に悪かったりすることなどないという観点で

今の自分を中庸に持っていけば、

陰と陽のエネルギーを利用しながら、

波に乗っていくことが出来ます。


陰も陽もどちらのエネルギーでも

どっぷりとハマってしまうと

上手に抜け出すのは難しくなってしまいます。


それが引き金になって、

さらに大きな反作用を引き起こすからです。


分かっていても飲み込まれそうになるとき、

やっぱり深呼吸してもう一度よく見てみましょう。


陰の面があるということは、陽の面があり、

陽の面があるということは、陰の面がある。


必ずどこかにピークがあって、

それが緩やかに波を描いています。


それがこの宇宙のうねりとなって

次の瞬間を生み出しているのです。


それがどうなっていって欲しいかという観点は

すでにどちらかに傾倒してしまっているので、

手放してください。


ただただ、大きなエネルギーの偉大さを

よく感じてみてください。


僕ら個人個人の小さな悩みや苦しみみたいに感じているものが

本当にちっぽけなことでしかないことがわかります。


そしてその大きな大きな偉大なエネルギーは

ちっぽけな一人一人にも余すことなく

はたらいていることが分かるとき、

そこへ自分のすべてを委ねることに

何の恐れも抱かないでしょう。


2015年10月23日金曜日

和の誓いを立てることで得るものについて

この大地に暮らす僕は、

目に映るものも、

映らないものも含め、

すべての生きているものたちに

支えられて生きています。


そこには人が作った

社会というものがあって、

お互いの幸せのために機能する

システムとして尊重されています。


ところがこのシステムもどこか上手くいかなくて

いろんな所でほころびが出て来ています。


このシステムのほころんだところを探して直そうとしてみても

また別のほころびが次から次へと現れて来て追いつきません。


新しいルールをどんどん作っていかなければ、

約束された幸せな社会は遠のいていってしまうかのようです。


この、どんどん逃げ場が無くなって行くかのような時間の流れかたが

一人一人の心にどのように働いているのでしょうか。


時代がどんな巡りをたどっていくとしても

真のよりどころとなる自分自信に目を向けて見ることになって、

社会も、世界も、この宇宙をも作り出している意識の持ち主が

自分であることがわかるように追い込まれていっています。


この社会も、世界も、宇宙も、

自分がどのように思い、どのように接しているかが

そのままの自分の在り様として映っているということに

気付いていくのです。


そんな中から、

僕は僕自身を含む僕を取り巻く環境、

人だけでなく、動物や植物、

昆虫や菌類に至る全ての命に対して、

そして目に映らないものごとに対しても、

和を尊ぶ誓いを立てました。


指針とするものは

真のよりどころ、僕の心です。


一つ一つ決断して、

行動して失敗すればそこから学び、

行動して歓びがあふれてくればそのまま進み、

謙虚にものごとを受け止めて、

お陰様に感謝を持って

まことを持って全てに向かい合えば、


その瞬間に手にしている感覚が

紛れも無く僕が誓いを立てた

宇宙全てからの答えということになるのです。


何とシンプルなことでしょうか。


今まで僕がずっと欲しかったものは

このシンプルな答えだったのです。


これまで様々な

幸せにしてくれそうな『何か』を欲しがってしまっていたのですが、

それらはことごとく自分ではない『何か』でしかありませんでした。


決断して行動して感じる自分自身に

ありのままの世界が展開されるのですから、

目いっぱい自分の愛をこの宇宙に

放っていくことにしたのです。


損とか得とか

別にどうでもいいと思います。


シンプルな方が

心地いい、

ただその思いに

正直になることができたのです。






2015年10月14日水曜日

直感で選択していくこと

いろいろなものごとが

オープンになっていくこの時代にあって、

何かが導いてくれるところに

幸せが待っているという物語が幻想でしかないことも

オープンになってきているように感じます。


僕はこのブログで、

今に対して素直でいることだけで十分で

それ以外のことに気を取られないで過ごせるよう

リラックスすることをお勧めしていますが、


自分の選択に自信が持てなかった時期ももちろんあって、

素直でいることの大切さを本当に理解できるようになったと感じています。


さまざまな生き方がある中で、

自分以外の人生を経験できない以上、

どんなことを誰から教わっていたとしても

瞬間瞬間は自分が決断して行動している事実はみな同じです。


時代によっても、

場所によっても、

正しいとされることは変わってしまうものですが、


自分の内側で感じること、

心地よいかよくないかは、

誰が何と言っても一番確かなことであるのは

間違いありません。


ただそこへ至るのにも、

あるがままとわがままの区別を知るための

学びの時期がありました。


自分が心地よいと感じていないのに、

その空間に我慢して居つづけることは、

苦痛以外の何物でもありません。


自分のいる空間が全体として心地よくなければ

自分だけが心地よいというのはあり得ません。


どんな場所にいたとしても、

自分の力みを無くして肩の力を抜いた時、

ふっと自分の中に浮かんでくる思いや言葉、

それを心地よく感じているのかどうか、

その感覚を養う時期が必要だったのです。


素直であればあるほど、

浮かんでくるものは、

自分にとって紛れも無い事実となります。


いくら考えて自分に言い聞かせようとしても、

長続きはしません。


浮かんでくるものに従い始めた瞬間から

ものごとがどんどんそれに合わせて変わっていきます。


そのスピード感は自分の直観に従うことの

素晴らしさを味わうことでしょう。


それとはまったく逆で、

嫌で嫌で仕方ないはずなのに、

そこに居る自分を落ち着いて見ることができることもあります。


そこでは本当の自分はまだ何かを学んでいる最中なのかもしれません。


ある時期が来た時、

経験して良かったと深く感じることになるでしょう。


そのどちらにしても、

自分で選択しているところの理由がはっきりしないほど

直観に従っていると言っていいと思います。


理由があるということは、

その理由のせいで選んでいると

自分に言い訳をしているということです。


直観は、

自分の素直さが空間と一つになっているところに現れてくる

一番簡単で確かに感じられる神秘です。


そこに言い訳なんかが入って来る余地はありません。


損得も無ければ、

美学なんかも後付けでしかありません。


その選択の仕方を続けていけば、

心に恐れはどんどん無くなって、

無垢な気持ちで、

結果にとらわれず

歓んで一瞬一瞬を送るようになっていきます。


何か別の幸せのようなものを

手に入れようとするのではなく、


自分が今ここで

一つ一つの行動を歓んで起こしていると

実感しながら生きていることよりほかに

どんな幸せがあるというのでしょう。


不安を隠すため

何かに没頭する必要はありません。


後悔をしないため

今以上の備えも必要ありません。


自分にとって

一番確かな直観に素直になる

シンプルな生き方をしていれば

必要なものは必ず

必要な時必要な分手元にあります。


楽に生きるとは

こういうことなのかなぁと思います。



2015年10月2日金曜日

この星にやさしい暮らしをしはじめて

少しづつ秋の色も深まっていく日々ですが、

この季節は本当に大地の実りが美味しいですね。


僕は妻の協力もあって、

菜食を4年ほど前から続けさせてもらっています。


もともと脂っこい食事でお腹をこわしやすかった上に、

何となくお肉を食べるのが

重く感じるようになっていたこともあって、

それならば!というところから始まりました。


どんどん菜食化が進んでいくと

動物性のものを食べ物として

意識しなくなってくるのでした。


だんだんと自分が食べたいものが何なのか

はっきりとしてくるのを感じました。


それまではお腹をこわしても

食べなければならないと感じて食べていたのですが、

美味しいと感じるものを口にするようになっていきます。


そうして食品そのものが

どのように作られているのかといったことや

添加物や残留農薬のことなども

知っていくようになります。


そういったことを気にされない方も多くいらっしゃいますが、

僕の場合は味覚にこだわった結果、

無添加であったり、

無農薬で自然農法のものや、

天然発酵のものを

選択するようになりました。


そしてそれが結果的に

この星にやさしいことだったりするのを

理解していくのでした。


そこからさらに家庭での食事が

一層楽しく感じてくると、

一緒に料理をしたり、

後かたずけを一緒にするようになりました。


料理に手間がかかる分、

それを楽しくするには

行動あるのみです。


そこから調理器具も

大事に使えば一生使えるものを揃え始めました。


いろいろと探せば手ごろなお値段で

本当に良いものが見つかります。


本当に良い道具が

物を大切にすることを教えてくれます。


そういう学びの中で、

自分の手にするものを吟味して選ぶようになりました。


必要なものを吟味していく中では

必要なタイミングでしか手に入らないものが分かるので、

必要のないものを欲しがる自分もいなくなってきました。


結果的に満たされている生活が

送れているのですが、

最初は自分の体が感じることに

素直に耳を傾けたことから始まりました。


素直になると

見えてくるものがとても多くあります。


この星はとても豊かです。


足りないものなどありません。


そう思っている人に

そのように映っているのです。


必要なものだけで生活するということが

質素な生活に見えるかもしれませんが、

本当に豊かな生活は心で感じるものです。


この星で暮らすということは

この星に対して愛情をもって生活すること

それがとても大切なのを教わりました。


そうすれば本当に健康で幸せな日々を

送らせてもらえる大きな愛情で包んでくれます。


この星も生きています。


どうぞ感じてみてください。


2015年9月22日火曜日

生きることを楽しむために必要なもの

ここ最近の僕は、

実際に起きている凄まじい現実の中にあって

楽しむということが自分をいかに

本当の自分へ導いてくれているかをご紹介できるように

いろいろと検証していた次第です。


この頃感じていたのは

大人になっていくにしたがって

楽しむということから

遠ざかってしまう人達の多さです。


楽しむために先ずするべきことが

とても多くあると思っているので

それがふとした瞬間の言動に現れてきます。


時間やお金、

道具や雰囲気や仲間も

そろっていなくては楽しめないように

なってしまっているようです。


やらなくてはならないことに追われて

思うように楽しむことを満喫できないことさえ

大人であるがゆえの辛さのように

感じている人もいらっしゃるかもしれません。


楽しむこととは、

そんなにも難しいことなのでしょうか?


難しくなってしまう理由について

考えてみましょう。


まず、楽しいと感じる感覚を

思考で捉えてしまうようになっていることはないでしょうか。


どうしたら楽しめるか、

という考えが浮かんでくる場合、

感覚を思考で捉えようとしています。


感覚は内から湧いてくるものです。


思考よりももっとシンプルなものなので、

複雑に考えても分かりません。


今、楽しいと感じていない理由を

すぐ見つけられるでしょうか?


ここで一つ注意しておくべきことがあります。


感覚とは、

全くもって自分の内側にあるものなので、

自分が何をどう感じるかということは、

完全に私事です。


それを、この瞬間を楽しいと感じていない原因を

自分ではない、他のせいにしてしまっているところがあれば

それをやめてみましょう。


感じる物事を他のせいにしなくてすむのは、

それだけでも気持ちがとても楽になります。


自分のままにしていることを、

何か他のせいにできることなどないのです。


その上で、

何かが足りないと感じているとしたら、

そこは間違いだと気付いてください。


楽しむということは、

今ここにあることをいかに楽しむかという

現在形の行為の中でしか感じられません。


ないものを手に入れたその先に

楽しいと感じるのではありません。


今足りないものは

今ここにないということなので、

ない状況を楽しむ以外ないのです。


ないと感じるもの自体が、

そもそも楽しむことと何の関係もないのです。


なくてもいいものを求めていると

楽しむというシンプルなことを

見失ってしまいます。


見失ったまま、

ただの興奮状態を生む刺激を

楽しむことと勘違いしてしまいます。


そこからは

もっともっと、となっていくだけです。


それでは最終的に飽きてしまうか、

破滅的な道をたどってしまうでしょう。


そのような興奮状態と

楽しむ感覚の違いまで理解しているのであれば、

その空間に完全に自分をゆだねてみて下さい。


ゆだねきれない小さな自分を

見つけてあげられるでしょうか。


その小さな自分のままで

周りを見回してみましょう。


恐れることはありません。


この世界はそんなに大差はなくて、

不完全なものがそのまま存在できる

完全性を持っています。


不思議です。


あり得ないと思われるようなものもあるし、

当たり前にあると思っているものは

何一つ同じもののない唯一無二の存在だったりします。


分かっていたように思っていた

目の前で本当に起こっているものごとを

僕らは何一つ完全に理解できていないのです。


楽しむことができなくなるのは、

この分からないでいる自分を恐れてしまうことから始まっています。


分からないまま

次の瞬間を迎え入れてみましょう。


思うようになることはありませんが、

なるようになるままにゆだねてみてください。


自分が思う以上になっていきます。


そこが楽しいのです。


どういう形であれ迎え入れる準備が整うと、

楽しむことが基準になってきます。


一度も経験したことのない新しい瞬間に出会うのです。


それもただ思い出すだけのようにやってきます。


本当に不思議な世界に

そのままゆだねるということが

一番楽しむコツだったのです。





2015年9月6日日曜日

知りたい気持ちが導いてくるもの

これまで僕は

さまざまなことに疑問を抱いては、

その答えを探していろいろと経験してきました。


僕の思考は少し厄介で

納得できないことを

受け入れてくれませんでした。


納得のいく答えが見つかるまで

取りあえず置いておいた疑問で

頭の中は破裂しそうになっていました。


調べれば調べるほど、

いろんな答えに巡り合います。


そこからさらに疑問が増えて

にっちもさっちもいかなくなってくると、

結局そこにある言葉遣いの好き嫌いで

気に入った言葉を選んで

分かったような気になってしまっていたことが

ほんとに多くありました。


そのような、

分かった気になっていることは

自分の本当の知恵にはならないので、

生きていくための強さには

なってくれません。


そのような知識をどれだけ詰め込んだとしても

今、僕がここで幸せを感じるための

手助けにはならないのでした。


逆に自分の経験を通して感じた

内側から湧いてきた感覚は

力強く自分の自信になっているのです。


最近僕はこの内側で感じる感覚を

分かる、ということとして捉えるようになりました。


この内側から来る

分かる、という感覚は

すでに分かっていた自分を

思い出すような感覚で訪れます。


この感覚をもって日々の生活を送るようになると

新しく知りたいと思うことは格段に減りました。


自分が出会うこと一つ一つが

自分にとって何なのかその場で分かるのです。


そしてその場で分からないことが

今自分に必要のないことなのが分かるので

それ以上求めなくて済むのです。


例えば誰かが

どんなに素敵な言葉で語りかけてくれたとしても

それがまだ自分の経験でないうちは分からないのですが、


しかし、それが分かる時には

新しい知識が外からやって来たのではなく

すでに知っていることと照合できたときなのです。


自分の外側にあるものを見ている状態では

それを知りたいという気持ちは収まりませんが、


内側に湧いてきた気持ちは

一度の経験でずっと唯一無二の宝物となっています。


これは何を表しているのでしょうか?


知識として表されるものより

もっと深淵なものを僕らはすでに持っているのです。


知識でそれを表すことはできません。


僕らが超越して存在することができないために

与えられた内なる感覚としてしかありえないのです。


でも、

確実に一人一人に

内なる感覚としてあるのです。


しかもそれが感覚として機能するのは

今という瞬間の中だけです。


過去の記憶の中ではありません。


未来の仮説の中でもありません。


経験している感覚に

注意を向けて見て下さい。


一か月でどれほど分かることがあるでしょうか。


一週間で

一日でどれほど

自分がここで生きていることを

感じられるでしょうか。


過去や未来は

生きて感じる幸せとは関係ありません。


ここから離れて行こうとする意識を

今ここにいることに落ち着けてみましょう。


ちょっとしたことなどは

一旦置いて

ゆっくり深呼吸してみてください。


分かるでしょうか。


これが幸せということです。

2015年9月3日木曜日

意識が向かうところに現れてくるもの

僕のいるこの世界は

たった一つの今の中にしか

存在することはありません。


現実も

真実も

虚構も

空想も


昨日見た夢も

思い描く明日も


愛する人といる温かさも

小憎たらしいやつに苛まれる辛さも


理想に近づく歓びも

逆境に耐えるだけの苦しさも


全て今感じる経験として起こっています。


それぞれの人が

自分の思う幸せを目指している中で、

今その人の意識の向いているところが

その人にとってのこの世界の見え方になります。


その見え方を

他の誰かが経験することは無くて

その経験を通して

その人に合った和する技術を養いながら、

本当の自分に気付いていきます。


本当の自分、

ありのままの自分はずっと

今ここにいるということを

とても遠回りに思える道のりで

一つづつ確かめています。


でも一つづつ確かめていくことが

最も近道だということが分かれば

もうその道は苦ではありません。


気を付けたいのは

技術的なことに

重点を置きすぎないことです。


技術を養うこと自体を目的としてしまうと、

本当の自分に気づくことが難しくなってしまいます。


意識が『目的』に向いてしまうからです。


技術的な優劣を気にしてしまったり、

上手にできなかった過去や

上達するはずの未来へ

意識が向いてしまいます。


そこに

本当の自分は現れてきません。


それよりも

今いるここ、ここが全ての起点となることに

意識を向けることです。


なぜなら

今ここにしか自分はいないからです。


意識が向いている部分から見ているものに

感情が反応して世界の見え方が変わっていくのですから、


その中心である自分のいる、

今ここ、に意識を向けて見ることで


変化を感じるよりも中心にあるものが

本当の自分であることが分かります。


針の孔を通すような感覚で

中心を探していた頃もあったのですが、


全ての力を抜いて

今ここ、に意識を落ち着けることで

分かるようになりました。


僕は今

ここに生きています。



2015年8月18日火曜日

答えなど無いという自由を生きることについて

この世界は僕らに

常にメッセージを投げかけています。


メッセージはとても多面的で

自由に解釈することができます。


どのように捉えたとしても

その全てがその時の正解で、

間違いなどではありません。


その時感じたことによって、

新たにエネルギーが動き出して、

次の経験へ誘います。


ある時点で

一つの経験がカギになって

それまでの経験を

一つの道のりとして繋がっていることを

確信できる場面に遭遇できたりします。


でも、それも一つの経験として過ぎて行って、

またさらに深い学びの経験へと

歩みを進めます。


ただ毎日が

学びに対して純粋な歓びと共にあるかというと

それだけでもありません。


この、それだけではないところが、

道のりとしてとても大切な部分なので、


どんな感情が

どんなタイミングで

何に対して反応しているのかを

よく見ておくことにしています。


腑に落ちない感覚を

安易な言葉で自分に言い聞かせることは

自分が成長できたと心から歓べる経験に対して、

とても遠回りになってしまうからです。


以前の自分は

早く腑に落ちる答えが見つかって欲しいと思うようなことがあったとき、

『信じる』という行為にエネルギーを使っていました。


『信じる』

それ自体が悪いことではなくて

あくまでそれも一つの経験として起こるのですが、


同時に

『疑う』ということも必ずセットになってしまうのです。


心が上向きにいる時には

『信じる』エネルギーとして作用しますが、


下を向いてしまっている時は

『疑う』自分を見たくないと感じるところから始まってしまいます。


それらは常に作用反作用として働いているので、

いつまでたっても自分の深い部分にメッセージが届いていきません。


そのうちに受け取ったメッセージに

自分なりの解釈なども付け加えてしまって、

さらに『信じる』べきものと『疑う』べきものとに

ものごとを分けてしまうようになります。


それでは

愛が発してくれているメッセージを

ちゃんと受け取れてないことになってしまいます。


『信じる』ことと

『疑う』ことをこえて

何となく気になるメッセージが

自分の腑に落ちる経験として

すぐその場で訪れないということは、


分からない状態で感じる感覚が

その場面で自分に必要な経験なのです。


何かしらのメッセージを鵜呑みにすることよりも

自分の心が何を感じているのかをよく見ることで、


自分がその空間に対して素直でいることができて、

真の和合へ働きかけることができるのです。


今まで幾度となく言われ続けてきたメッセージも

本当に腑に落ちる場と空間に

必要な形で存在していないならば、

何の意味もなさないのです。


それよりも

自分の奥深くにある真の愛に対して

素直に過ごすことのほうが

どれほど世界に貢献できるでしょうか。


今を精一杯素直に生きることが

何にもまして尊いことなのです。


その中で

この世界は最高最善のメッセージを

僕らに投げかけているのです。

2015年8月10日月曜日

弱さを克服するために経験すること

誰もが同じように弱さを持っていて、

その弱さとどう向き合うか、

という経験は

僕らにとって

とても大切なことだと思います。


辛くて苦しい思いを

なるべくしたくないと思うことは

ごく当然のことなのですが、


その経験を

ちゃんと受け止めることで

本当の強さになっていきます。


いろんな個性があるので、

何を辛くて苦しいと感じるかは、

それぞれの人によって変わりますが、


そう感じる状況にいる自分を

何とかしたいと思うのは

共通の部分なので、

そこを切り口に記していこうと思います。


辛くて苦しい思いを

何か他の別のものに変えるような

魔法のようなものは

この世界のどこにもありません。


苦い経験を何とか明るく捉えられるように

別の角度から視点を変えて見ることを

僕はあまりお勧めしません。


辛くて苦しくても、

その感情を経験して成長することが

その人にとってとても大切であるということと、


その経験に寄り添うような優しさを持つことで

心が強くなっていくということがあるからです。


苦しい状況になってしまった時、

自分以外の誰かや環境のせいにしてしまう弱さは

この世界に『敵』を作り出してしまいます。


その『敵』を先ず何とかしようとしてしまいます。


一時的に何とかできても、

また似たような経験がやってきます。


それら『敵』のせいでこんな経験をするはめになるのでしょうか?


そうではありません。


自分の外側にあるものに

責任を押し付けても

それらのせいではなく、

自分の内側の反映で登場してくるものなので、

分かるまで経験することになります。


では何を分かればいいのでしょうか?


その苦しい時、どんな感情の中にあっても、

自分の感じていることを本当に自分は分かっているでしょうか?


自分は何かを感じたくないと思っているのでしょうか?


似たような経験を繰り返すうちに

徐々に落ち着いて自分を見ることができるようになります。


自分にはどうすることもできない弱さがあるのです。


思考や論理、

力や勢い、

どんなもので隠そうとしても

その弱さを持っているのが

紛れもなく自分自身だということを

受け入れてみましょう。


他の誰かは関係ありません。


まず誰かに分かって欲しいと思ってしまう弱さを

自分が優しく包んであげられるでしょうか。


例えば今できないとしても、

必ずできます。


まずは今すぐに何とかしたいと思う弱さを

抱きしめてあげてください。


素直になれない時もありますし、

あきらめたくなる時もあります。


そんな時でも、

この地上に立つ自分を見てあげて下さい。


他の誰かは関係ありません。


その経験が自分自身を

強くするのです。


弱さを少しずつ

強さに変えていくのです。


愛が本当に強いものだということが

だんだんと分かっていきます。


気付いていなかったとしても、

愛そのものである自分を

確認していっているのです。


一つ一つの経験が

とても大切なことなのです。

2015年7月31日金曜日

してはならないこと、しなくてはならないこと

社会生活を営むうえで、

ルールやマナーを守っていくことは

とても大切なことです。


こんなことを言いながら、

以前はかなり調子にのった

やんちゃな頃もあったので、

あまり偉そうなことは言えませんが、


そういった経験から学んだことで

自分の気付きに確証を持てたことを

少しお話しさせていただこうと思います。


今回タイトルとしている、

してはならないこと、と

しなくてはてはならないこと、は、

この世界には存在しません。


少し荒っぽい表現に感じるかもしれませんが、

このことをちゃんと理解できなければ、

本当の自由を生きることはできません。


実際には

したくないことと、

したいことがあるだけです。


でも、いろんな場面において、

定められた規律を守るように

促される文章を目にします。


言われなければ守れない人間は

ダメな生き物なのでしょうか。


いやいやそんなことはありません。


してはならないこと、

しなくてはならないこと、

として心に作用する力によって

内側にいろんな感情が現れてくるのですが、


それを素直に経験していくことが

魂の成長にとって

とても大切なことなのです。


それでは、

してはならないこと、と

思ってしまう状態のことを見てみましょう。


してはならないこととして

心に作用するものは

必ず自分の中にある執着を

見つけることができます。


素直に過ごしている中で

したくないことに

わざわざ興味を抱きません。


強制的に自分に禁じてしまう

その心の内側にあるものを

見ることができるのも、

優しく包み込むことができるのも、

自分だけです。


誰かが強制しているわけではないのです。


自分の魂が執着から

自由になりたいと感じているのです。


そのことを意識できれば、

力が抜くことができます。


だんだんと気にしなくなってきます。


それでは、もう一つの

しなくてはならないこと、と

思ってしまう状態を見てみましょう。


今していることを

したいことと思っている中では、

素直に歓びを経験していくのですが、

しなくてはならないことと思っている中では

いろんな感情を味わうことになります。


そこでいくら考え方を変えようとしたところで、

魂が望んで経験している感情を

素直に受け入れるまでは

その感情を味わい続けます。


そこで大切なことは

そこで経験している感情を

無理に否定したり、

無理やり肯定するための考えを持たないほうが、

魂の成長につながりやすいということです。


そしてどんな状況であっても、

その経験を魂が自ら選んでしているので、

環境や他の誰かが

強制しているわけではないということです。


素直に受け入れるまで続いてしまいますので、

環境を変えても何も変わりません。


自分が経験していることから、

逃げ出す必要がないことを理解しましょう。


自分が今その感情を経験することが

とても尊いことなのを受け入れた瞬間、

ほっとするような安心に包まれるはずです。


自分の感情の

振れ幅の範囲の中で

この世界の出来事は

展開しています。


それを外側に開いたときに

和を尊ぶことで

誰かに強制したりされたりすることのない、

真の自由を生きることができます。


そのために、

魂はすすんで経験していきます。


近道などありません。


ただ、

どんなことでも

一つ一つの経験が

かけがえのないものだということ、

それを意識することが大切だと思います。





2015年7月27日月曜日

言葉が指し示すものとその力について

日々の生活の中で

言葉に触れないで過ごすことはありません。


そのあまりにも当然にある言葉とは

一体何なのでしょうか。


空気や水などとは別で、

人が使うものとして存在していて、

時間や空間によって変わっていったりします。


そうかと思えば、

常にどこかにあって、

ものすごい影響力を持っていて、

普遍的な何かに触れることができるもの、

それが言葉です。


この文章も言葉によって

綴られていて、

伝えていくことによって

さらに深まっていく何かについて

僕ではない他の誰かが

感じ取ることのできる

目には見えない心の流れを

描くことに力を注いでいます。


音声であったり

文字であったりする言葉は

おそらく僕らが理解できる以上の

年月を経ていて、

僕らが辞書で引く意味よりも

その言葉が指し示している何かに

意識を向けることで

本来の力を発揮します。


それは例えば

言語の違う国の人と

お互いを理解しあえたりするのは

言葉の先にある何か別のものを

お互いが指し示しあうことでできることです。


もちろんそこには

言葉以外のジェスチャーなども含まれてきますが、

言葉で指し示そうとすることが

大きな要素であるのは間違いありません。


「ありがとう」という言葉も今の時代では

案外いろんなところで使える言葉になっています。


例えばその言葉を使うときに

かたちだけ口にしても

それなりに伝わりますが、


内側から湧いてくる気持ちを

言葉にしてそうなった

「ありがとう」は

意味とかそういったレベルを超えたものが

相手に伝わります。


言葉をそのように扱うとき、

その言葉が指し示すものは、

生きたエネルギーそのものになります。


生きたエネルギーであれば、

人によって表現が変わるのも当然で、

場合によっては真逆の言葉で示されたりします。


表面的な意味にとらわれずに

その奥に感じるものに意識を向けることで

腑に落ちる言葉として作用するからです。


古くから残る言葉が

力強く感じられるのは

言葉が伝えていることが

意味よりももっと

感覚的なものを描いているからです。


以前は分からなかった言葉が

その指し示しているエネルギーを

自分の中に感じ取ることができると

スッと腑に落ちるように入ってきます。


全ての人が

全ての感受性を持っています。


素直になればなるほど、

感受性は豊かに働いてくれます。


自分というフィルターを

どれだけ通さずに

言葉に接しているでしょうか。


僕もまだまだ

これからです。


2015年7月23日木曜日

循環するエネルギーと「死」について

全ての命は、

生きたエネルギーが

形をまとって現れて、

変化しては消えて、

さらに大きなエネルギーの波に

溶け込んでいきます。


それぞれのエネルギーは

お互いに影響しあって、

必要な状態を作り出しながら

大きな流れを作っています。


見かけの上では

得るものと得られるものに

分かれているように見えますが、

それぞれのエネルギーに必要な経験をするために

必要な形と必然のタイミングでの

役割を果たしあいます。


それぞれのエネルギーが作用しあって、

プラスとマイナス、

上昇と下降

左まわりと右まわり、

膨張と収縮、

そういった新しいエネルギーの波を起こして

経験を引き寄せています。


経験による意味を考えてしまいがちですが

一つの経験がもたらすエネルギーの波は

全方向に波打って影響していくことから見ると


後から考える意味に執着するより

経験そのものの尊さを味わうことで

自分の内側に見えてくるものの深さが変わってきます。


言葉にすると同じ経験であったとしても、

その経験は常に新しくて

今まで誰もしたことのないものなのですが、


確実に言えることは、


自分というものが

この世界を構成している

かけがえのない存在だということを

最もシンプルな形で気付いていけるように、

経験しているということです。


その経験から愛にふれれば、

愛に満ちたエネルギーの波が起こって、

歓びが溢れ

さらに深い愛のエネルギーにふれる経験をしていく

流れに乗ります。


逆に、

その経験の捉え方を

愛から分離していくように感じてしまうと、

流れが滞る重たいエネルギーになっていきます。


循環するエネルギーの中では

なかなか流れていかない状態になっていくと

自分の経験を認識する力だけでは

なかなか新しい気付きを

得にくくなってしまいます。


凝り固まるという状態です。


僕はこの状態を

「死」と捉えるようになりました。


それとは違って、

肉体的な生と死は

一つのセットになっていて、

愛を深く知っていくうえで

必要な経験としてみんなに起こります。


でも、花が咲いたら

必ず散ります。


散るがゆえに、

美しさが永遠になります。


形あるものが

消えていくのは寂しいですが、

だからこそ尊いのがわかります。


その奥に見えない美しさがあるのです。


その美しさは、

ずっと流れていて

僕らのまわりの世界を形作っています。


循環するエネルギーです。


「死」はそれらの中には

存在しません。


「死」は

その世界から分離させてしまう

人の思考の中に存在しているのです。


何かに執着してしまって、

流れなくなってしまったエネルギーには

肉体や時間や空間などは

意味をなしません。


そのように現れて、

そのように経験していきます。


でも、

一番大きな愛からみれば、

それも一つの大きな波です。


その経験から

生きたエネルギーの波に乗れるかどうかは、

自分の心次第です。


どんな状況であっても、

素直になることで

凝り固まった自分を

手放すことができれば、

エネルギーは流れ始めます。


少しづつでも、

手放していければ

必ず軽くなっていきます。


ゆっくりでもいいと思います。


愛はずっとずっと

僕らのまわりで

そのままであり続けています。


2015年7月13日月曜日

自分を整えることでしか見えてこないこと

今ここ、この世界が愛に満ち溢れているという言葉は

今までもたくさんの人たちに何度となく言われています。


でも、そんな風には思えないという人は多いと思います。


愛の中でなぜ争いが絶えず、

不安や恐れを味わうことになるのでしょうか。


この世界には、

神様も仏様もいないのでしょうか。


何を指針とすれば、愛に溢れている世界を

実感できるのでしょうか。


自分で確実に分かる部分から、

確かめていくしかありません。


それでは見ていきましょう。


この世界で誰でも分かる一番確かなことは

今何を感じているかです。


自分は今、

心地よいか、

なんか嫌な感じか。


このシンプルな感覚に

ごまかしがなく

素直さをもって接するなら、

その感覚を使って自分を整えることができます。


日々いろんな場面で出会う人や、

言葉、ものごとに接する中で

何かずっと気にしてしまって、

心地よく感じられない時に、


それをすぐ他人や環境、

自分の外側にあるものの責任にせずに、


落ち着いて

自分の中にある

そう感じるに至った考え方や

ものの見方をよく見ることができれば

自分の未熟さを発見することができます。


その未熟さが

心を緊張させていたので

心地よくない感覚を味わっているのです。


その心の緊張に

気づいたらひと息ついてほぐす

気付いたらひと息ついてほぐす

を繰り返しているうちに

自分の中にあった未熟さは

形をかえて

受け入れられるようになっているはずです。


自分の未熟さに気づいた時に

それをすぐに何とかする必要はありません。


認めて受け入れる以上のことをしても

それは未熟さに対して執着してしまうことになりかねません。


完全でなくていいのです。


心にある緊張をほぐすことができれば

さっきまであった未熟さを

包んでくれる大らかさが

自分の中にできてきます。


自分がまだまだだと分かるようになるだけで、

謙虚になれますし

その後の自分の行動に

必ずよい変化があらわれます。


また、整えていくなかで

何か心が温かくなるようなものに接していても、

自分の内側には逆のもの、

反発であったり、

自虐的な感覚が生まれてしまうこともあります。


そんな時も、

落ち着いてひと息ついて

未熟さからくる緊張をほぐしましょう。


素直さを取り戻せるまで

繰り返しリラックスすることを

心がけましょう。


なぜ?とか

どうして?

という問いが浮かんできても、

考えなくて大丈夫です。


そんなことよりも

大切なことに気づくチャンスだからです。


素直になれないこともありますが、

今この瞬間に素直でいることが、

この広い世界に対して

まことを貫く

ただ一つの手段です。


完全に落ち着いた状態で

素直になれた時、

そこが自分の

完全なスタート地点であるという

覚悟ができます。


その覚悟は

力んでする覚悟のような感じのものと違って、

足が地面にちゃんとついていて

落ち着きはらっているので、

その時すでに

全てを受け入れています。


何かがあるとか

何かがないとか

関係ありません。


そこにある自分が

全ての始まりです。


そこに全ての

エネルギーがあります。


神様も仏さまも

そこにいらっしゃいます。


そこは

未熟なものも

全部含むことのできる

大きな愛で満ち溢れています。


素直にそこから

自分にひらめいたことを

やっていけばいいのです。


何かのためとか

いいとか悪いとか

そんなレベルでは行動しなくていいのです。


ただひたすらに

自分を整えていこうとすることで

自分自身の愛が深まっていきます。


完全を目指しますが

完全であることが

目的ではありません。


ただ

リラックスして

素直になれるよう

自分を整えるだけです。


自分の扉を開くのは

自分にまかされた

自分の大切な役目です。


自分を整えることで

自分の扉を開くことが出来ます。



2015年7月10日金曜日

痛みを感じることについて

僕はここ最近まで、

ずっと腰痛を抱えていました。


お薬をなるべく使いたくなかった僕は、

いろんなマッサージを受けに行って、

ほぼ毎日ストレッチをして、

なるべく姿勢を整えるように心がけていました。


どんどん身体は柔らかくなっていくのですが、

ある角度に曲げたときに走る痛みは

一向に無くなりませんでした。


でも最近、

この痛みという感覚をよく見てみたところ、

心にも身体にも変化が起こりました。


では、

自分が見ていったことを記していきます。


まず、

マッサージを受けた後は痛みが和らぐことから、

筋肉の『緊張』が痛みを引き起こしていると思いました。


『緊張』している自分の身体と心はリンクしていると感じたので、

痛みを感じている心の部分を見つけてほぐすことができれば

身体の痛みも無くなると思いました。


今回は痛みに寄り添うような心持ちで

痛みを感じてみました。


そもそも痛みとは

自分だけにしか感じられないものなので、

自分にとって大切な何かであるはずです。


だいたい同じ経験から想像することで、

痛む感じを分かることはできても、

本当に痛いのは自分だけです。


近くに誰かが寄り添うことで、

痛みが和らぐような感じを

経験したことがある方もいらっしゃるかと思いますが、


それは痛みからくる不安や恐れを和らげてくれているのであって

痛みそのものは自分だけの感覚です。


今回は、

不安や恐れというものは

妄想からでき上がってくるだけ、

という部分はクリアーしていたので

痛みそのものに寄り添うことができたのです。


そして

こんな思いが湧いてきました。


誰かが変わりに感じてくれることのない

たとえ痛みのような嫌な感覚も

自分のうちに起こる大切な経験として

素直に受け入れることができるようになる

ということです。


本当に当たり前に

やっぱりできるだけ避けたいことがある

という気持ちを持っていることと、


どんな痛みであれ

その人の経験としてある痛みを

むやみに取り除くことが

必ずしも良いのではない

ということも分かりました。


あとは

この『緊張』している心を

ほぐすためにできること、

ただリラックスして受け入れるということだけです。


そう意識すると、

今までどれだけストレッチしても伸びなかった場所が

ムニョッと伸びたのです。


まだ少し朝起きたとき、

ちょっと違和感を感じるのですが、

以前のような痛みが走ることはありません。


また少し軽くなることができました。

2015年7月2日木曜日

世界と一つになるということ

この広い世界は

僕の生まれるずっとずっと前から、

とてつもなく長い時間をかけて

今ある全てを形づくってきました。


それらは完璧なバランスの上にでき上がってきました。


全てに均衡のとれた必然があることで一つづつ生まれてきます。


勝手にでき上がってからつり合いがとれていくのではありません。


常に陽と陰のバランスは完全で、

その視点から見ることで

この世界がプラスマイナス= 0 になるのです。


無限でどこまでいっても捉えることのできない神秘である所以です。


全てが生きていて

エネルギーが波うっているので、

場面場面では心地よかったりそうでなかったりします。


その時々で主に感じることと、

反対に作用している部分が常にあるのですが、

人間は完全な状態の全てを同時に見ることが出来ないので、

何かアンバランスなものの見方に偏ってしまうこともあります。


ただそんな時も、

自分の見方が有限で不完全で部分的なものであることを理解したとき、

その見えている景色を入り口にして

完全なる無限の世界に入っていくことができます。


そこには限りになる境界線はないので、

全てが完全に一つです。


自分のものなんていうちっぽけなものはありませんし

必要ありません。


全てを

拒絶することなく受け入れる

愛そのものの世界です。


ただそこは、

その入り口に誰かが立っていて

「さぁどうぞ」と手を引いてくれるわけではありません。


誰かが手を引いてくれる所は

その手を引いてくれる人の世界の入り口になるので、

そこから入っても愛そのものの世界には成り得ません。


自分からしか見ることのできない

今ここ、が入り口で、

そこから入るためには

自分で一歩を踏み出さなければならないのです。


さらに、

愛そのものの世界に

拒絶になるものを持ち込むことはできないので、

自分だけのものは

手放さなくてはなりません。


その世界に踏み込んでからも、

自分で気付いていない、

本当の意味で調和を保てる状態にないものは、

どんどん引き離されていくでしょう。


そんな中で自分の持っていた

執着に気付いて手放していくことで

愛そのものの世界は

どんどん広がっていきます。


素直になればなるほど豊かに過ごすことができるのです。


本当の意味での成長はそこからのような気がします。


この広い世界を知っていく本当の経験が始まります。

2015年6月26日金曜日

平和に調和を保つ無敵の人

この広い世界の中、

僕のいるここ、

僕の意識が届く空間を

担当することになってます。


平和に調和を保つお役目です。


僕には、

やっと使えるようになった程度ですが、

身体と

感覚と

考える力と

言葉と

心が

与えられています。


それらを健やかに保つためにも

さらにいろいろ与えてもらっています。


社会性を学ぶことができる仕事や

空間と一つになれる趣味や

それらと共にある人たち、

うつろい変わる景色や、

そこに吹く風の音や

鳥たちのさえずりなど、

必要に応じて与えてもらうのです。


その空間の全てに心を開くことが大切で、

人だけでなく、その空間にある全ての調和を感じて

その場に溶け込んでいく感覚を目指します。


自分の成長に合った新しい立ち位置を用意されますが、

上手くできなくても、

できる限り真摯に丁寧に取り組むことで

新たな調和を生み出すことができます。


では何をするかというと、

その場でリラックスして過ごすのです。


その上で気を付けたい点が幾つかありますので

それを見ていきましょう。


まずは意識的に調和を取ろうとしなくていい、

ということです。


良く間違えてしまいますが、

基本的に調和は何もしなければ自然に生まれるので、

そこで調和を取らなければならないという考えが出てきたら、

それは自我のしわざです。


新しい空間などで緊張してしまったりして、

そこに生まれつつある調和を感じられなくなった時に

調和をとるにはこうしないとだめだ、

と決めて行動してしまったりすると、

自分が調和を乱していることに

気が付きません。


そういう時はリラックスしてみましょう。


自分の立ち位置で

その空間を心地良くできるのは

一番リラックスした自分でいることです。


次に気を付けたいのは、

調和していないものを探さない

ということです。


新しい調和は常に生まれているのですが、

すべてがいっせいに整うことはありません。


いろんなものごとがそれぞれのペースで

調和に向けて動いています。


一見不調和に見える動きも

調和に欠かせない重要な何かである場合があります。


その中にいて不安で辛抱できずに、

調和していないものを探してしまうことがあります。


自分の不安を他のせいにして

自分を見失ってしまうことにもなりかねないので

気をつけたいところです。


そんな時はリラックスしてみましょう。


自分の中の緊張が何から来ているのかが分かれば

それまでの自分の思い込みを

手放す良い機会になるかもしれません。


最後に、

形にこだわらないということも気を付けたいところです。


調和はそれ自体ずっと不安定な中にあるのですが、

常にバランスをとり合っているバラバラの流れが、

もっと大きな流れと一つになることがあります。


それは良くも悪くも想像と違うものになりますし、

それですでに調和しているということに気付かないこともあります。


自分が思い描いている通りにしか受け入れられないとしたら、

その空間には居心地の悪さしかありません。


そこでこだわりを手放せるか、

その空間から離れていくかの選択も自由ですが、


こだわりは

どこまでいっても自分だけのものなのを考えると、

どこにいても不調和をもたらしてしまいます。


今、手放して大きな流れに任せることで

全てが調和し始めます。


これらの注意点をクリアーするのに、毎回100点満点である必要などありません。


例えば100回チャレンジして1回でもできれば

素晴らしいことです。


それが2回になったらもっと素晴らしいことです。


気が付いたらリラックスして、

空間に心を解放することから始めるといいでしょう。


調和に向けて心を静かに落ち着けたその時、

周りに敵はいません。


確かにこの広い世界の中に

破壊するお役目の人たちがいます。


その人たちと、

平和に調和を保つ役目の人たちは

持ち場が違います。


なので一緒の空間で過ごすことはありません。


一人一人の側面としての怒りの感情が

少しオーバーに表現されてしまうことがあるかもしれませんが、

一つの空間で共有できる目的がある場面においては、

決して敵などではありません。


共有する目的へ向けた一つの

調和の働きを一緒に学んでいるのです。


僕もいろいろと学ばせてもらった中で、

破壊よりも調和のお役目を、

と思い立ちました。


僕が学んだのは

本質的に破壊できるものなど無いということです。


それに気づくまで破壊のお役目の人はお役目を続けます。


学びを放棄してしまった人や、

自分のお役目を忘れてしまった人などに

気付いてもらうために欠かせないお役目なのです。


同じく様々な人に気付いてもらうためのお役目ですが、

僕はひたすら調和を目指します。


ただひたすらにその場その空間に心開いて、

リラックスしていろんなものごとに向き合います。


上手くできないときがあっても、

何かに心引きずられても、

深呼吸して、

もう一度そこから始めます。


そこに平和に調和が保てる始まりがあるからです。


自分の中に感じる不調和を、

何か他のもののせいにするのはやめました。


自分から見た敵はもういなくなりました。


心落ち着かせて、

ここに心を開いていくだけです。



2015年6月22日月曜日

孤独というオバケと自分の本質

日々いろんなものごとに囲まれて過ごしているのに、

ふとした時に感じる孤独はこの世界を生きるうえで

とても厄介な感覚だと思います。


どうすることも出来ずに、

一人で思い巡らすしかない時は、

たとえ家族や友人が近くにいても、

その寂しさの中にいる自分をすくい上げるのは

容易ではありません。


自分の寂しさがどんな程度であっても、

それに付随してくる孤独感は、

進むべき道を暗くして見えにくくしてしまいます。


どんな場合であっても、

孤独とは

自分が意識することで起こるのですが、


その孤独の中で、

自分が何をしてそうなっているのかを

落ち着いて受け入れるなら、

まさに今、孤独から解放される時です。


それでは、詳しく見ていきましょう。


まず、孤独は、

分離することで起こっています。


自分と自分でないもの、


自分のものとそうでないもの、


自分の好きなものとそうでないもの、


自分と関係あるものとそうでないもの、


そういった分離の範囲がどの程度であっても、

全て自分の都合で分けています。


寂しさを感じるのは、

分離することで起きているので、

分離したものとの距離感のように感じてとる行動では

その寂しさを完全に埋めることはできません。


僕と誰かが近づいたり離れたりすることで、

孤独感が減ったり増えたりするわけではありません。


手を握っていても、

孤独を感じる時は感じてしまいます。


目には見えない関係性を

どう意識しているかということであって、

三次元的な距離は関係ありません。


次に、目に見えない関係性も

分けて捉えていることで、

分離を起こしています。


自分と、

家族、友人、仲間、知人、見たことのある人、知らない人、

などなど、実際にそうだから、と言いたいところですが、

平たくいうと、自分とそれ以外のもの、

として捉えてしまっています。


その関係性を自分から見て

明るく見れる時は、愛になっていて、

暗く見てしまう時は、孤独になっているのです。


そして、その明るい暗いも、

気分で分けているだけで、

暗い時があるからこそ明るい時が

嬉しく感じるということを忘れてしまっています。


明るいことで見えるものもあれば、

暗いことで見えてくるものもあって、

どちらも大切で、

それぞれが影響しあって、

大きな流れを作っていきます。


その大きな流れに

自分の心を解放できない理由を探している状態が

孤独です。


その理由に気づくために、

明るさや暗さがあるのですが、

たとえそれに気づこうが気づくまいが、

大きな流れはずっとあって、

その中の小さなこだわりを自分と思っているだけなので、

そのこだわりを取ってしまえば、

一緒に孤独も無くなります。


小さな小さなこだわりにくっついているだけの孤独が、

なぜこれほど深く感じることになるのでしょうか。


それは、自分の本質とは何なのかを

自分一人でしか見ることができないからです。


自分の本質を言葉で言い表すことはできないので、

自分の感覚で確かめるしかないのです。


それは、

表面的な調和や不調和ではびくともしません。


表面的な全てのものごとが、

自分の本質のほんの一部分として

現れて変化して消えていきますが、

それ自体が生まれたり無くなったり、

増えたり減ったり、綺麗になったり汚れたりすることはありません。


例えば、

海で波が浜に打ち寄せ、

白波を立てて引いていったあと、

次の波に消えていったとしても、

海はずっと海のままであるのと同じです。


自分の本質に気づくと、

自然にあることを自然のなるままにすることができるので

大きな流れと調和していることが分かります。


そこに孤独なものなどありません。


分離したものなど無いので、

良いも悪いもありません。


孤独な不調和は、

満たされた調和の一部分としての自分を

見るためにある一つの作用なのです。


自分という不完全なものを通して、

完全なものの一部に触れるのです。


そこに孤独がどうしても必要になるのです。


一度でも完全なものに触れれば、

孤独という作用は役目を終えて、

消えていきます。


あとは流れに身を任せるだけです。



2015年6月15日月曜日

正義の味方と邪悪な者たち

僕が子供のころには、

正義の味方が邪悪なものたちを

懲らしめるというストーリーが

当然のこととしてありました。


邪悪なものたちが、

善良な市民の幸せをおびやかすので、

正義の味方が頑張らなくてはなりませんでした。


邪悪なものたちが唐突に破壊しはじめると、

そこに正義の味方が現れて、

やられそうになりながらも危機を回避して相手を倒すと、

さっと飛んでいくのでした。


ただの作り話だと思っていたのですが、

意外とそうでもなく、

日々の生活の中で、

展開していたからこそ、

簡単に受け入れられるストーリーだったのです。


このよくあるストーリーが、

現実に展開していたのは、

不必要な怒りが出てしまっていた時の、

僕の心の内側での話だったのです。


それでは、

ここに出て来る登場人物の関係を

よく見てみることにしましょう。


正義の味方は、僕の正義感に置き換えられます。


善良な市民は、僕の周りにいる人々への僕の思いになります。


邪悪なものは、周りの人々と調和をしない行為をする人への僕の思いです。


以前は

真の意味での調和への理解も浅かったんですが、

簡単に、

周りのことを考えずに我を通すような行為を

調和しない行為としておきましょう。


たとえばそんな行為をおこした人に、

僕の正義感は、

「この人に分かってもらわないといけない!」となりました。


唐突であればあるほど、

「この人は分かっていないから、教えてあげなくちゃ」と思いました。


この時点ですでに、

周りの人たちを思ってのことなので、

僕の正義感は燃えたぎっています。


僕は学んできた多くの事柄から、

いかにその行為が間違っているのかを説明するのでした。


しかも怒ってです。


悪に対してちゃんと怒らなくてはならないと思っていましたから。


でもここで、

本当に学ぶべきことが何なのかを気づくことは容易ではありませんでした。


僕の場合は、

不必要な怒りと

その人が間違っていて僕が正しいという判断です。


ちゃんと理解できてませんでしたが、

以前から僕は、

悪とは、

善に対しての相対的な働きでしかない

と思っていました。


それはそうだとしても、

ただ周りの人を思って、

というところに善悪の基準を持ってしまっていました。


でも、

よく周りを見てみると、

いわゆる善良な人たちの中に、

完全に善良なだけの人などいませんでした。


もちろん僕も不完全で、

怒ってしまった相手も不完全です。


それぞれの持ち回りで学び合っているのです。


本当の意味では、

悪の働きとしての事象が

ある人の役回りで起こっただけだったのです。


その役になった本人も、

そして周りの人たちも、

僕も、

その事象から何を感じて

次の場面で調和に向けたどんな行動が出来るかが、

それぞれに与えられた学びであったのです。


それを、

正義の味方を気取って

ただ怒りを放出していただけでは

これが正しくて、これは悪でと、

物事を分離させてしまうことになっていたのでした。


誰のためにもなっていない

一番調和を阻害する行為をしていたのは、

僕の正義感なのでした。


それこそ調和のために成すべきことは、

その時その時によって、

まったく違ってきます。


場合によっては、

怒りをちゃんと表現することが必要なこともあるでしょう。


上手くいくこともあれば、

余計気まずくなってしまう場合もあるかもしれませんが、

まず調和をもたらす心を持って、

その空間をよく見てみれば、

何をすべきか、

何をすべきでないか

見えてくるのではないでしょうか。


2015年6月11日木曜日

探しても見つからないこと

メガネを額の上にかけたまま、

メガネ、メガネ、と、

探している冗談を

目にしたことがあると思います。


僕が以前そうだったように、

感覚的に分からない状態というのは、

だいたいそうやって探している様子になっているのでした。


幸せになりたいと思って、

そうなる自分を思い描いて、

神様にお願いして、

なるべく近い将来そうなれるように、

今から出来ることを始めてみる。


ごく当たり前のように

そうしていました。


でもこの方法では、

幸せになっていく過程を楽しめても、

肝心な満たされている感覚をつかむことが出来ません。


思い描いている将来のほうが、

今より幸せ、としているので、

いつまでたっても未来の話です。


今から始める何かが、

楽しく時間を過ごせるならまだしも、

きついことならば、

それを頑張る日々は

未来のことしか見えなくなっていきます。


今という瞬間がどれだけ幸せで満たされていたとしても、

それを全部未来へ注ぎ込むことが尊いと思ってしまうのです。


今ここにある完全な幸せは、

見えなくなってしまいます。


その状態からでは

今この瞬間ほど尊いものは無いということが、

自分の思い描いている未来との比較になるので、

真の意味で分かることはないと思います。


今ここにいるという感覚に寄り添ったまま、

完全に探すのを止めたとき、

少しずつ見えてくるのです。


自分の外側で感じるわけもなく、

内側だけでもないと、

少しずつ確信していくのです。


今この瞬間、

全てが満たされているという感覚を

自分が体験しているのです。


誰かにお願いして、

やってもらうわけにはいきません。


僕が探すことを止めたときは、

幸せな将来など無い

ということを落とし込むのに

少し勇気がいったのを覚えています。


探しているあいだは、

嫌な感じがしていても、

今それを受け入れなくて済むような気がしていたんです。


今この瞬間に何があっても、

受け入れられるのだろうか?


それが最後の恐れでした。


今あることを受け入れはじめると

自分が全てに解放されていきます。


今もまだまだ解放中で、

どんどん開いていってます。


途中、え?こんなことにも?

みたいな場面もありますが、

もう開き始めると

どんどん新しくなるので、

気になりません。


これからも

ずっと受け入れては

手放しつづけていこうと思います。



2015年6月9日火曜日

ただ手放すとき

物持ちがよかった僕は

捨てずに持っていたものが

多くありました。


シンプルな生活を送ろうと思ってから、

あると便利なものは

今なくてもいいものと思って

どんどん手放しました。


でも、

思い入れのあるものが、

なかなか手放せません。


どんどんものは減っていくんですが、

心のどこかでもっとシンプルになりたいと感じていました。


どれだけ手放せば心まで軽くなれるのか考えた僕は、

持っているもの全てを手放そうと

覚悟を決めたのでした。


そうして最後は

自分を手放すことになるのです。


そこで分かったことは、

それまで必死な思いまでして手放してきたものたちは、

どれも自分のものではなかったということです。


もちろん大切に思ってましたし、

そう扱っていましたが、


ただそこにあるもの、

と、

僕、

という関係性が

それ以上になったり、

どちらかの一部になったりしたことは

ないのです。


そういった関係性の変化の無さは、

ものだけでなく、

身体や、

記憶、

時間、

空間、

イメージなどもそうで、

僕のものになることはありません。


全てのものは

いつかは必ず跡形もなく消えて無くなるので、

手放さなければなりません。


そのことに感情移入して

思いをくっつけてしまうので

執着が生まれるのです。


何かが生まれて

無くなっていくのは

とても自然なことで

とても美しいのです。


それを悲しみに捉えてしまうのは

自分のものとして捉えているからなんです。


今この宇宙にあるものたちは

本当に神秘的な力が働いて出来上がったものばかりで

誰のものでもないまま、

今ここへやってきて

使わせてもらっているという感じです。


今、僕からみると、

とてつもない神聖なものを

託して下さってるような感じで、

本当に大切に使わなきゃならないものだらけです。


僕らは本当に豊かな世界を生きているんです。


手放さなければならないのは、

それらを自分のものとしてしまう思いなんです。


結局、その思いは

手放すことになるんですから、

今手放しても同じです。


見え方がまるっきり変わりますが、

そこにあるべきものも、

そこにあるべき自分も

何も変わらずに、

あるがままに

あり続けています。

2015年6月7日日曜日

嘘の無い世界

僕には、嘘をついてしまった記憶が幾つもあります。


じゃれ合う気持ちでふざけたものから、

その場をごまかして

自分の非を認められなかったものまでたくさんあります。


でも、成長するにつれて自分に対しては、

嘘が通用しないことを学ぶことができました。


それを学んでからもしばらくは、

自分に対して正直に過ごすことと

わがままを混同してしまっていたこともあって、

心安らぐ時間はなかなか得られませんでした。


わがままでは、自分が過ごしている空間との

調和が取れなくなるからです。


ただ、調和を取ろうとするあまり、

自分を抑えて、

周りの環境に迎合するのも、

嘘であると感じています。

それも心は安らぎません。


空間と調和の取れた

安らいだ気持ちでいることを経験しているので、

そう感じていない自分には嘘になってしまうのです。


わがままではダメで、

周りに合わそうとすれば、

ぎこちない感覚になる。


兎角この世は難しい、

ということになってしまいます。


そんな時は素直になって見てみましょう。


僕が自分を手放してみて感じたことの一つに、

今の自分から見える世界には嘘が無いという明確な感覚があります。


嘘というものを、

ついてしまっている人にとって、

その場面ではその選択しかできません。


その場面でその人が、

嘘ではない選択肢を選ぶことは、

無いんです。


意識していても、していなくても、

心には大きな力がかかっていて、

それに気づかなくては

ごまかそうとする心を、素直には変えられないんです。


ごまかしていることに気づいていないことさえあります。


嘘というものは、

その場面で、その空間にあるものごとを

あるがままを見ずに、

自分の思い込みや、恐れや、不安、妄想などを、

意識しているかいないか関係なく、

事実ではないことを見たまま表現してしまうことなのです。


その空間にそぐわない不自然な出来事になってしまうのです。


その不自然さがあるので、心は安らぎません。


僕等にある感覚というものは、

そもそもセンサーとして身体に備わっているので、

その空間に何かしら不自然なものごとがある時は

居心地の悪さを感じるのです。


その居心地の悪さから、

何かしら対処したくなりますが、

リラックスしてそのまま放っておくのが一番です。


不自然なものは、

何もしなければ

自然に無くなっていきます。


本当のことでなければ、

無くなっていくのです。


素直に見れば、

それはすぐ分かります。


この世界にある何が嘘で、

何が本当かに気を使うよりも、

今ここで心落ち着けて素直になることで、

嘘の無い世界を見ることが出来ます。


こんなことを言いつつも、

何か間違えた時、

恥ずかしくて、

ごまかしてしまいそうになることがまだまだあります。


もっともっと素直になれるということですね。

2015年6月2日火曜日

目に映るものをありのまま見ること

僕はずっと、何気なく見ていたごく当たり前にある景色を

本当の意味では、見ることができませんでした。


では、何を見ていたのでしょうか。


簡単に言うと、

見たいものを見たいようにしか

見ることができなかったのです。


それを当然としていたのですが、

ありのままに見る方が気持ちが楽なことに気づいたのです。


楽なので次の行動へ素直に移ることができます。


それだけでもかなり違いますが、

見たくないものを見ないようにすることからも解放されるのです。


それは大変な作業で

常に自分の視界にそういうものごとが入らないようにしなくてはなりません。


実際には

リラックスして過ぎていくままにすれば

それで済むことなので、

見ないようにする努力は簡単に無くせます。


僕の言う見るという行為は、

意識を向けたところを見ているということなので、

目を閉じていても起こります。


指先が触れる感じや、

足の裏に触れている地面なども、

イメージとして目に映すことが出来ます。


さらに昨日のことや、明日のことも、イメージ出来るんです。


そしてそれを今見ている風景に被せて見たりすることが出来ます。


え~っと、あれ何だったっけ、

としている時見ているイメージです。


意識していませんが、

意識がイメージの方を向いている状態です。


何気なく見ていたほとんどの場面で、

これに近い作業をしていることに気づきました。


なのでちゃんと見ようとするには、

ちゃんと見なきゃ‼

みたいに思わなければならかったんです。


意識をそこに向ける必要があったんです。


でも最近は、

わざわざ何かを意識するのはやめて、

意識が勝手に向く時以外は、

意識を拡げておくようにしています。


何処かに集中して意識するよりも楽に過ごせて、

しかも、今まで気づかなかった音や、空間の広さや、暖かさや、

様々なものごとが同時に動いている

ダイナミックな世界にいる楽しさを味わえるようになりました。



慣れてくれば、意識を拡げたままで、いろんな作業をこなしていけるようになります。


意識があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしない分、サクサクと出来ます。


では、なぜわざわざ面倒なことに意識を向けるようになってしまっていたのでしょう。


それは見るということが、完全ではないからです。


ある一方から見えるものには、

その裏側があります。


その裏側に隠れる部分もあります。


いくら頑張っても、

見えないものの方が多いのです。


その見えない部分に何かをイメージしてしまうことが当たり前になっていたのです。


そこから恐れたり、怒ったり、不安になったり、

本当に必要の無いエネルギーを使ってしまいます。


今見えない部分はそのままに見れば、意識を拡げておくことが出来ます。


空間の広さが心を自由にするので、リラックスしてきます。


見えない部分に不必要なエネルギーを使わずに済みます。


リラックスして自分の意識が拡がっていくままにするように、

今を見てみましょう。


ありままを見ている自分は、今ここにいます。

2015年5月31日日曜日

思いどおりにならない本当の理由

僕は日々の生活の中で、

本当に多くのことを考えます。


今でこそ、

考えることと自分の本質との関係が分かるようになったことで、

ありのままでいることが出来るようになりましたが、


以前は、

心地よい時はいいんですが、

そうではない時、


考えたくないことを考えないようにするために、

意識を別のものに向け続ける努力をしていました。


考えること自体が大きなエネルギーなので、

考えたくないことを考えないようにするのは、

大変なエネルギーを消耗します。


つまらないことで不安になったり、

イライラしてしまうことも当然のことだったんです。


そうならないように心がけて、

日々を幸せに過ごそうと思っていたのに、

なぜ思うとおりにならなかったのでしょう。


僕は前までずっと、

よく考えて意思決定しそれを行動に移すことが

とてもいい事だと固く信じていました。


でも、最近分かったことは、

いくらよく考えても、

その考えるという行為は、

その場その場での脳の反射運動であって、

今目の前で変化していく現実とは別に独立しているということと、


考えて意思決定したかのように感じているけれど、

それは全く後付けで、

意思決定をした瞬間よりも前に身体は動いているということです。


考えていることは、

そこに考え続けるエネルギーを注ぐことで維持されているだけ、のものなのです。


あぁしようこうしようと考えても、

それは考えの中での出来事で

現実はまた別のものなんです。


ものごとに対して二次的である思考に身体が反応してしまう分、

考えて行動することが

現実に則していない結果になるのが多くなるのは

当然のことだったんです。


思ったとおりになるように考えて行動するよりも、

あまりよく考えずに行動した方が上手くいくのはそういう理由です


考えて上手くいったことがあるように感じているのは、

場面場面で無数に起こった反応のうちの

言葉で認識できている部分

考えたことを結びつけて記憶しているだけです。


身体の反応が良くなるように練習すれば上手くなるのは、

反復させることでより反射的になるからです。

そして考えたことよりも、

感じていることを記憶しているのです。


今までずっと当然と考えていたことを、

考えるエネルギーで支えるのを辞めると、

今までもずっとそうだったありのままの状態が

完全なバランスでそこにあるのが分かります。


その完璧なまま変化していく

今の瞬間に心開いてみれば、

本当に感動的な現実が

とても色鮮やかなことに気づきます。


言葉を当てはめてあれこれ考えるのを辞めて、

固く信じていたことも手放して、

そのままの自分をそこで感じる以上の幸せはありません。


それだけで幸せを感じなくなっているということは、

今あるもの以外のものの事を考えていて、

意識がそこに向いているんです。


そうやって見えなくなっている素晴らしさが今この瞬間には溢れています。


どんな状態であっても、

自然の流れに乗ってしまえばいいんです。

流れに乗っていないように思っているとしても、

実はそう思っているだけで、

ずっと一緒に自然に流れています。


どう思っていても、

この大きな宇宙の流れから

独立して存在しているものはありません


いかに小さなものごとだけを見て

あぁでもないこうでもないと考えていたのかを思うと、

本当に笑ってしまいます。


思うとおりにしようなんて小さなことに気を使う必要はありません


もうすでにこれ以上ない幸せを生きているんです。

2015年5月24日日曜日

自我の正体

自我を放棄して見てみると、

自分が考えていた、

自分に付随するものごとは、

それらを考えている時にしか存在していなかったということがわかります。


真剣に何かに没頭している時、

考えている自分について考えたりしません。


考えるよりも、

純粋に身体が動いていることが、

純粋な経験として心地良いからです。


でも多くの人が

嫌なことや不安について考えたくないために、

没頭出来る何かに時間を費やそうとしてしまいます。


普段の生活の中で

実際に考えないということもやっているのに、

また時が来ると、

考えるという行為を始めるんです。


考えるという行為自体は、

決して悪いことではないのですが、


考えることから始まって、

それにかぶせてまた考えて、

を繰り返す内に考えだけの世界になって、

それが純粋な経験を見えなくしてしまうということが起こります。


それが不安や、恐れを作り出す一番の要因です。


不安や、恐れは、

将来必ずやって来るはずの無いもの、

実態の無いものを

今、考えてしまっているだけのものです。


もしあるとしても、

その時に的確に判断対処出来ればいいだけで、

今、不安になる必要はありません。


その時に備えて‼  

と思いたいかもしれませんが、

その時素直で純粋であれば、

さっと判断して行動できるものです。


大事なのは将来について考えることよりも、

今、素直に純粋になってしまうことで

将来に対処できてしまうということです。


過去への囚われにも同じことが言えます。


あれほどの思いまでして乗り越えて来たという考えが、

自分を形作ってしまいますが

いくら力説したところで、

今の自分を物語るものではありません。


どんな経験をしていようが、

今ここにいる自分がそのままあるだけなので、

過去はまったく関係無いと言っても

大げさではありません。


あれだけのことをしたから今がある‼


そう思いたくなりますが、

逆に今があるから、

そう思えるのです。


過去をどう評価するかよりも、

全てを味わうことの出来る

今を純粋に生きることに価値を見出すことで

過去の真の意味がわかります。


ここまで上げてきた例でも、

自我は

自分が自分について

考えている中だけにしか存在していないんです。


なので考えないということで、

居なくなります。


そう考えないように、

別のことを考えるのとは違います。


考えるのをやめるんです。


その時にいろんな音が周りでしているはずです。

それを聞いてみましょう。


暖かさや寒さを肌で感じているはずです。

それを感じてみましょう。


呼吸をしている空気が鼻やのどを通っているはずです。

そこに自分がいる証拠です。


何も言葉に置き換えてしまう必要はありません。

だから何だとかありません。

何かしないと暇だなぁと感じるかもしれません。


それがありのままの自分です。


そうするうちに考えはじめます。

そんなはずは無い‼


でも、

言葉に置き換えない時間を経験している間は、

本当に何も感じていないのでしょうか。


それまで頭の中で

言葉でいろいろと考えを巡らせることに

慣れすぎているせいで

自分の内側で過ごすことのできる静けさを

忘れてしまっています。


その静けさに慣れてくると、

徐々にその内側と外側と思っていた境界線は、

またそう考えていただけということに気づきます。


その時、

一つの大きな大きな生きた感覚に

くっついていただけの自分の小ささには

笑ってしまうでしょう。


自我の正体は、

もうそこにはありません。


さっきと何も変わらずに、

ありのままの自分になっていました。

2015年5月19日火曜日

自我の放棄と真我の目覚め!?

本当の自分に出会って、

自分本来の生き方をするには、

どうしたらいいのでしょう。


僕にお伝えできるのは、

簡単に言うと、

自我を放棄することです。


もう少し違う言い方をするなら、

自我とは何なのかということに気づくことです。


なんの修行もいりません。


自我の正体が何なのかが分かれば、

手放すことが出来るんです。


手放すというよりも、

気にしなくなるという感じです。


めちゃくちゃ簡単に言わせてもらうと、

自我とは、

単なる思い込みなんです。


自分はこれこれこういう人で、

こんな性格で、

こういうことが好きでこういうことは嫌いで、

と自分に思っていること全部です。


そういった思いの類はすべて、

頭の中だけの出来事で、

自分とは何なのかを分かりやすいように

言葉で理解しようとしているだけであって、

本当の自分そのものではありません。


なぜならば、

思うということ自体が

本当の自分とは別に勝手に起きている事象だからです。


勝手にというよりは反射運動と言うほうが理解しやすいかもしれませんが、

風が吹いたら葉っぱが揺れるのと同じです。


今までずっといろんな事を思いながら

生きてきて余りにも自然にやっていることなので、

思うこと自体が自分であるかのように

思ってしまっているんです。


例えば、

自分の手を見ながら、

グーにしたり、パーにしたり、チョキにしたりを

自分で言いながらやってみれば分かります。


めちゃくちゃ早くやろうとすると、

とんでもなく間違えます。


実は自分がぼやぁ~っと思っていることに体は反応しているだけで、

自分がこうしようと思ってから動いているのではないんです。


思うという行為は、

事象が起こってからそれを理解して記憶するために

脳が自動的にやっていることなんです。


それはそれで凄いスピードでやっているので、

脳も凄いと思います。


でももっと凄いのは、

グーとかパーとかチョキのことを

何となくぼやぁ~っと思った瞬間には

もうすでにそうなっている手です。


思うより早くすでにそうであるところのもの、

それがそこにあるんです。


自分が自分のことを

思う通りに動かしてきたのではないんです。


少なくとも自分が意識して思えるレベルでは、

行動のほうが先にあります。


思うより先に

本当の自分はそこにいて動いているんです。


自分が考えたり、思ったり、感じたりするよりも前で経験しています。


その前にいる本当の自分に気づかずに、

後から思っていることを自分であるかのように見てしまっているとき、

素直さに欠けてなんだか嫌な気分になっていたように思います。


そこに自分がいるということをどう思っていても、

その場面を経験して、感じて、さらに行動して次へいくのです。


それを頭が言葉で理解しようとしていても、

全てを捉えきれることもないし、

それによって良いも悪いもありません。


今までもそうだったんです。


思うということに、

あまりにも重きを置いていたために、

純粋に経験するということができなくなっていたのでした。


考えたり思ったりすることも、

ただの自然現象の一部と思うと、

自分の純粋な経験がよみがえります。


子供の頃の感じと似ているけれど、

ちょっと違うのは、

やっぱり今の経験値があっての歓びです。


放棄といっても、

何かをなくすようなことではありません。


ありのままでいいんです。