自分が考えていた、
自分に付随するものごとは、
それらを考えている時にしか存在していなかったということがわかり
真剣に何かに没頭している時、
考えている自分について考えたりしません。
考えるよりも、
純粋に身体が動いていることが、
でも多くの人が
嫌なことや不安について考えたくないために、
普段の生活の中で
実際に考えないということもやっているのに、
また時が来ると、
考えるという行為を始めるんです。
考えるという行為自体は、
決して悪いことではないのですが、
考えることから始まって、
を繰り返す内に考えだけの世界になって、
それが不安や、恐れを作り出す一番の要因です。
不安や、恐れは、
将来必ずやって来るはずの無いもの、
実態の無いものを
もしあるとしても、
その時に的確に判断対処出来ればいいだけで、
今、不安になる必要はありません。
その時に備えて‼
と思いたいかもしれませんが、
その時素直で純粋であれば、
さっと判断して行動できるものです。
大事なのは将来について考えることよりも、
今、素直に純粋になってしまうことで
将来に対処できてしまうということです。
過去への囚われにも同じことが言えます。
あれほどの思いまでして乗り越えて来たという考えが、
自分を形作ってしまいますが
いくら力説したところで、
今の自分を物語るものではありません。
どんな経験をしていようが、
今ここにいる自分がそのままあるだけなので、
過去はまったく関係無いと言っても
大げさではありません。
あれだけのことをしたから今がある‼
そう思いたくなりますが、
逆に今があるから、
そう思えるのです。
過去をどう評価するかよりも、
全てを味わうことの出来る
今を純粋に生きることに価値を見出すことで
過去の真の意味がわかります。
ここまで上げてきた例でも、
自我は
自分が自分について
考えている中だけにしか存在していないんです。
なので考えないということで、
居なくなります。
そう考えないように、
別のことを考えるのとは違います。
考えるのをやめるんです。
その時にいろんな音が周りでしているはずです。
それを聞いてみましょう。
暖かさや寒さを肌で感じているはずです。
それを感じてみましょう。
呼吸をしている空気が鼻やのどを通っているはずです。
そこに自分がいる証拠です。
何も言葉に置き換えてしまう必要はありません。
だから何だとかありません。
何かしないと暇だなぁと感じるかもしれません。
それがありのままの自分です。
そうするうちに考えはじめます。
そんなはずは無い‼
でも、
言葉に置き換えない時間を経験している間は、
本当に何も感じていないのでしょうか。
それまで頭の中で
言葉でいろいろと考えを巡らせることに
慣れすぎているせいで
自分の内側で過ごすことのできる静けさを
忘れてしまっています。
その静けさに慣れてくると、
徐々にその内側と外側と思っていた境界線は、
またそう考えていただけということに気づきます。
その時、
一つの大きな大きな生きた感覚に
くっついていただけの自分の小ささには
笑ってしまうでしょう。
自我の正体は、
もうそこにはありません。
さっきと何も変わらずに、
ありのままの自分になっていました。
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