以前の僕は本当によく悩んでいました。
考え悩むことをやめるなんてことは、
絶対に出来ないと思っていました。
楽しそうなふりはできても、
心の底から楽しく生きるなんて、
もう無理かもなぁと思っていました。
明るく過ごしてるように見えても、
心の奥では
ずっと悩んで苦しんでいる事を
誰にも打ち明けられずに、
何とも言えない孤独感の中で、
一切の疑問を解決できる答えを、
ずっと探していました。
いろんな宗教経典も読めるものは、
読みあさりました。
いろんな人たちのYouTubeも見ました。
でも、
それが出来ないんだよなぁって、
いうことばかりで、
やっぱり聖なる人たちは、
ちょっと違うんだろうって思ってました。
頭の中で「なぜ今、幸せを感じてないのか?」
という問いかけが起こっている時に、
ちょっとした変化に気づきました。
その時たまたますぐ近くに居た人の表情が
寂しそうに見えたんですが、
僕の心の中で、
その見ず知らずの人に気を使ってるんです。
「こんな時代だ。大変な人もいるのに楽しく生きるなんて申し訳ない。」
ここに書いている流れの中では、
当たり前のようにに気づいていますが、
僕にとってはこの、
「申し訳ない」という言葉が
今までずっと何をするときでも、
必ず自分の考えにくっついていたことに
初めて気づいたんです。
家族に、
両親に、
友人に、
仕事仲間に、
世間に、
何かと申し訳なく思っていたんです。
そしてもう一つ気づいたのは、
その寂しそうな表情をした人を、
勝手に寂しい人と決めて見ている自分。
よく考えてみると、
そういうことを知らず知らずにやっていました。
出来事を自分勝手に受け止めて、
自分の記憶にある言葉と結び付けて、
これはこういう場面では必ずこうなる、
みたいに思い込んで見ている。
思い込んで見ているから、
思った通りになったら、
「ほら、やっぱり。」で、
思い込みはどんどん強くなって、
違った時は、
「まぁ、そんな時もある。」と
自分の勘違いに気づこうともしない。
そう感じた時、
自分が今まで普通だと思っていた事は、
もしかしたら自分が勝手に思っていただけかも、
と思い、
思うことを手放すことに、
挑戦しました。
言葉が浮かんできますが、
浮かぶ瞬間に止めます。
これは案外すぐできます。
目に入ってくる文字を読んでしまいそうになりますが、
視点をずらして聞こえる音などに意識を向けたりします。
体のどこかに力が入っていたら、
力を抜きます、
心の中も、
力んだ感じがあれば緩めます。
そのまま静かな状態を、続けるだけです。
なにも変えません。
はい。
自分を手放すことが出来ました。
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