痛ましいできごとが起きていると
ニュースが伝えています。
この星の中でのできごとです。
悲しむ人達の声が届けられ、
勇気づけようとする人達が
それに答えています。
今僕にできることは、
とても限られています。
僕の手の届く範囲で、
世界が平和であるために
僕自身を平和に保つことです。
この星には、
とても多くの命がいて、
人間だけ見ても、
多種多様な価値感を持っています。
僕の分かる範囲での話しですが、
その中に絶対的なものはありません。
人によって、
時と場合によって変化する、
実体の無いものごとが
この世界を作っているので、
絶対的だと思われるものも
相対性の中でしか存在できません。
例えば、
僕の知っている神様は、
絶対ではありません。
僕の内側で感じることのできるその神様は、
絶対あぁしろ!絶対こうしろ!と、
まず僕に言うことはありません。
僕の主体性を最大限に認めてくれる
とても大きな存在です。
そして、
そういうことを「感じる」ことが
僕の内側でしか起こらないということは、
僕の外側に神様を感じることはできません。
ということは、
僕がいなくなったら、
僕の神様ももう居ません。
どこかに居るとしても、
僕が居なくなって、
確かめる人がいなくなる以上、
考えることもできなくなるのです。
このような感じで、
僕には、
絶対的なものはありません。
絶対に間違っていることも、
絶対に正しいことも、
僕の中にはありません。
時の流れの中で、
起こる必然に対して、
僕という一人の人間は
為す統べもなく
そのまま受け入れるだけです。
そこには悲壮感などなくて、
むしろ受け入れたことで
為すべきことも一緒に
無くなっていきました。
ただ、
この受け入れるということができなくて、
絶対的な何かを作り上げてしまうという
ジレンマに陥ってしまっていたこともありました。
絶対にお金が無いとダメだと思っていると、
何をするにもお金が基準となっているのに、
お金では買えない豊かさを求めて
経済的に混乱してしまいます。
本当に自分に必要のない物まで、
必死で手に入れようとしてしまいます。
絶対的な健康を欲しがってみても、
無茶をすれば体に負担は掛かるもの、
本当に体を大切にすることを学べるのは
弱い体をいたわる思いからしかありません。
絶対にガンになりたくないと思いながら
ガンになるような食事をして、
その体に高額な保険をかけて、
ガンと闘うというのも
少し変な感じがします。
絶対的な正義が
ちょっと意見の違う相手に
暴力的になっている様子をよく見てみれば、
「あぁ~あ、、、」となるのですが、
絶対に自分が正しいと思っているがゆえに
自分の悪いところよりも、
相手の悪いところを探してしまうといったことが起こります。
絶対に死にたくないと思ってみても、
この世で死んでない人が
一人も居ないのですから、
自分だけ都合よくできる訳もありません。
絶対にあぁいう死に方はしたくないとか思うとしても、
そんなことより素敵な生き方を考えたほうがいいのだと
本気で思うようになりました。
この世界を見まわしてみると
絶対的な価値観に囚われている人が
混乱を招いているように感じます。
僕は、
僕の手の届く範囲で直観を働かせて、
僕自身を平安に保つ努力をするだけです。
その空間には、
最大限の愛情を持って、
自分をごまかすことなく、
誰とも違う僕でそこにいます。
誰とも違う僕が
絶対的な価値観を持つことはありません。
僕にとっていいものが
誰かにとっていいとは限らないからです。
タイミングが合えば良くても
ずれると役立たないかもしれないからです。
ただ、
自分の持っている絶対だと思っているものを、
捨ててしまっても大したことは無いということと、
捨ててしまったほうが
絶対だと思っているフィルターが無い分、
ものごとがクリアーに見えてくるということ、
この混沌としているかのような世界が
ちゃんとした流れの中
着実に進んでいるところに、
今僕は生きているということに
変わりはありません。
このタイミングで
大きく変わっていくのが
必然なのですから
素直になることです。
素直になれない分だけ
いろんな思いを経験する、
その経験も必然なのです。
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