神様が現れて下さったのは、
8歳の夏の夜のことでした。
それ以前の僕はどこか冷めていて、
誰にも自分の本心を打ち明けることのない子供でした。
もちろん冗談を言ったりもするのですが、
自分をごまかすためだったりして、
自ら楽しいと思う時間を過ごせなかったのです。
ただその年に引っ越して、
学校が変わったのを機に
自分を変えたいという思いが湧いてきました。
そんな夏の日のことです。
夜は扇風機のタイマーをかけて寝ていたのですが、
タイマーが切れてもなかなか寝付けなかった僕の枕元に、
誰かが近づいて来たのでした。
部屋の電気が点けられたのを何となく感じながら、
母親が扇風機を持っていくのだと思って、
まぶたを閉じた状態のまま寝ていたのです。
ところが枕元に立ったまま何もしないうえに、
まぶた越しに感じる眩しい光に、
早く電気を消してくれないと眠れないじゃないか!
と思って目を開けたら、
知らない人の足が見えました。
細いんですが、
すねの辺りの筋肉がしっかりとしていました。
「えっ!誰!」と思って上の方に目線を送るうちに
その人に悪い感じがしないことに気がつきました。
膝の下あたりまで垂れた白い布をまとったその人の
顔を確かめようとして見てみるのですが、
あまりにも眩しい光に
腰よりも上が見えません。
その光のとても優しい暖かさが
本当に心地よくて、
目を閉じて大きく息を吸い込んで、
また目を開けると、
電気の消えた、
扇風機も置かれたままの部屋で
タオルケットをかけて寝ていた自分がいたのでした。
それまでにも青い竜が
部屋を飛び回っていたりするのを
恐い思いで見る経験があった僕は、
とにかくお化けやその類いのものが
嫌で仕方がありませんでした。
でもその人には、
なにも恐怖心を抱かなかったのです。
その人が誰なのか?という思いが、
今の僕へと導いてくれる
きっかけとなっていることは間違いありません。
二十歳代に自分の一つの夢であった
プロミュージシャンになることが決まったとき、
ものすごく当たると言われている手相鑑定を
受ける機会がありました。
その時言われたのはたった一言、
「大丈夫ですから。」
とだけ言われたのでした。
「えっ!何がですか?」と聞いても、
「大丈夫ですから。」としか答えてくれませんでした。
それが意味することも、
今は分かるのですが
その時は何だか嫌な気になってしまったのでした。
その後僕は一つの成功というものを求めて生きていくのですが、
心のどこかで何か別のものを求めていることに気づいたのでした。
三十歳代に入って一旦仕事をやめて、
旅に出たときのことです。
南インドの海辺の丘で
少し疲れて座っていた浜に生えたヤシの木が
心地よく揺れる風が吹いたのです。
手のひらに付いた乾いた砂が
ハラハラと風に吹かれて落ちていくと、
そのまま自分の手も腕も砂となって、
風に飛ばされていくような感覚を覚えたのです。
そうするうちに、
足もお腹も胸も頭も砂となって
飛ばされてしまいました。
視覚には自分の体としてあるのですが、
感覚はどこかもうすでに自分のものでは無くなっていて、
動く意識がそれらを見ているだけのような感じの中、
暖かい風が吹いていました。
その時
自分の見ている景色の中、
太陽も、
青い空も
白い雲も
風も
海も
ヤシの葉も
この身体も
全部違うスピードで動いているけれど、
同じ暖かさの中にいることに気づいたのです。
その暖かさは、
僕が子供のとき見た
眩しい光の暖かさと
同じでした。
そのときから、
どんどんナチュラルな生き方を模索していくようになります。
ほんとうに自分の身の丈にあった
自分らしい生き方を心掛けて過ごすようになっていきました。
そんな中で妻に出会い、
週末はサーフィンを楽しむ
ベジタリアンな生活になっていました。
あの人が僕の枕元に立って
じっと僕を見ていただけだったのは、
今も変わりません。
あの暖かさを
今でもすぐに感じることができます。
でも僕に何かをさせようとしたり、
何かの助言をくれたりはしません。
僕の求めてしまうような奇跡を
起こしたりはしません。
僕が思うように生きて
思うように学んで、
思うように成長して
精一杯自分を楽しんでいるのを
ずっと見守ってくれているのです。
本当に自分に納得のいくように
やらせてくれているのです。
自分の生き方を
自分で決めていいのです。
他の誰かに決めてもらって
生きるなんてもったいないです。
どこかで聞いたことのある
幸せな生き方なんてしなくていいのです。
自分に合った幸せを
自由に作り出しているとき、
本当に嬉しそうに見て下さっているのが分かります。
いつも見守ってくださって
ありがとうございます。
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