2015年6月15日月曜日

正義の味方と邪悪な者たち

僕が子供のころには、

正義の味方が邪悪なものたちを

懲らしめるというストーリーが

当然のこととしてありました。


邪悪なものたちが、

善良な市民の幸せをおびやかすので、

正義の味方が頑張らなくてはなりませんでした。


邪悪なものたちが唐突に破壊しはじめると、

そこに正義の味方が現れて、

やられそうになりながらも危機を回避して相手を倒すと、

さっと飛んでいくのでした。


ただの作り話だと思っていたのですが、

意外とそうでもなく、

日々の生活の中で、

展開していたからこそ、

簡単に受け入れられるストーリーだったのです。


このよくあるストーリーが、

現実に展開していたのは、

不必要な怒りが出てしまっていた時の、

僕の心の内側での話だったのです。


それでは、

ここに出て来る登場人物の関係を

よく見てみることにしましょう。


正義の味方は、僕の正義感に置き換えられます。


善良な市民は、僕の周りにいる人々への僕の思いになります。


邪悪なものは、周りの人々と調和をしない行為をする人への僕の思いです。


以前は

真の意味での調和への理解も浅かったんですが、

簡単に、

周りのことを考えずに我を通すような行為を

調和しない行為としておきましょう。


たとえばそんな行為をおこした人に、

僕の正義感は、

「この人に分かってもらわないといけない!」となりました。


唐突であればあるほど、

「この人は分かっていないから、教えてあげなくちゃ」と思いました。


この時点ですでに、

周りの人たちを思ってのことなので、

僕の正義感は燃えたぎっています。


僕は学んできた多くの事柄から、

いかにその行為が間違っているのかを説明するのでした。


しかも怒ってです。


悪に対してちゃんと怒らなくてはならないと思っていましたから。


でもここで、

本当に学ぶべきことが何なのかを気づくことは容易ではありませんでした。


僕の場合は、

不必要な怒りと

その人が間違っていて僕が正しいという判断です。


ちゃんと理解できてませんでしたが、

以前から僕は、

悪とは、

善に対しての相対的な働きでしかない

と思っていました。


それはそうだとしても、

ただ周りの人を思って、

というところに善悪の基準を持ってしまっていました。


でも、

よく周りを見てみると、

いわゆる善良な人たちの中に、

完全に善良なだけの人などいませんでした。


もちろん僕も不完全で、

怒ってしまった相手も不完全です。


それぞれの持ち回りで学び合っているのです。


本当の意味では、

悪の働きとしての事象が

ある人の役回りで起こっただけだったのです。


その役になった本人も、

そして周りの人たちも、

僕も、

その事象から何を感じて

次の場面で調和に向けたどんな行動が出来るかが、

それぞれに与えられた学びであったのです。


それを、

正義の味方を気取って

ただ怒りを放出していただけでは

これが正しくて、これは悪でと、

物事を分離させてしまうことになっていたのでした。


誰のためにもなっていない

一番調和を阻害する行為をしていたのは、

僕の正義感なのでした。


それこそ調和のために成すべきことは、

その時その時によって、

まったく違ってきます。


場合によっては、

怒りをちゃんと表現することが必要なこともあるでしょう。


上手くいくこともあれば、

余計気まずくなってしまう場合もあるかもしれませんが、

まず調和をもたらす心を持って、

その空間をよく見てみれば、

何をすべきか、

何をすべきでないか

見えてくるのではないでしょうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿