2015年6月22日月曜日

孤独というオバケと自分の本質

日々いろんなものごとに囲まれて過ごしているのに、

ふとした時に感じる孤独はこの世界を生きるうえで

とても厄介な感覚だと思います。


どうすることも出来ずに、

一人で思い巡らすしかない時は、

たとえ家族や友人が近くにいても、

その寂しさの中にいる自分をすくい上げるのは

容易ではありません。


自分の寂しさがどんな程度であっても、

それに付随してくる孤独感は、

進むべき道を暗くして見えにくくしてしまいます。


どんな場合であっても、

孤独とは

自分が意識することで起こるのですが、


その孤独の中で、

自分が何をしてそうなっているのかを

落ち着いて受け入れるなら、

まさに今、孤独から解放される時です。


それでは、詳しく見ていきましょう。


まず、孤独は、

分離することで起こっています。


自分と自分でないもの、


自分のものとそうでないもの、


自分の好きなものとそうでないもの、


自分と関係あるものとそうでないもの、


そういった分離の範囲がどの程度であっても、

全て自分の都合で分けています。


寂しさを感じるのは、

分離することで起きているので、

分離したものとの距離感のように感じてとる行動では

その寂しさを完全に埋めることはできません。


僕と誰かが近づいたり離れたりすることで、

孤独感が減ったり増えたりするわけではありません。


手を握っていても、

孤独を感じる時は感じてしまいます。


目には見えない関係性を

どう意識しているかということであって、

三次元的な距離は関係ありません。


次に、目に見えない関係性も

分けて捉えていることで、

分離を起こしています。


自分と、

家族、友人、仲間、知人、見たことのある人、知らない人、

などなど、実際にそうだから、と言いたいところですが、

平たくいうと、自分とそれ以外のもの、

として捉えてしまっています。


その関係性を自分から見て

明るく見れる時は、愛になっていて、

暗く見てしまう時は、孤独になっているのです。


そして、その明るい暗いも、

気分で分けているだけで、

暗い時があるからこそ明るい時が

嬉しく感じるということを忘れてしまっています。


明るいことで見えるものもあれば、

暗いことで見えてくるものもあって、

どちらも大切で、

それぞれが影響しあって、

大きな流れを作っていきます。


その大きな流れに

自分の心を解放できない理由を探している状態が

孤独です。


その理由に気づくために、

明るさや暗さがあるのですが、

たとえそれに気づこうが気づくまいが、

大きな流れはずっとあって、

その中の小さなこだわりを自分と思っているだけなので、

そのこだわりを取ってしまえば、

一緒に孤独も無くなります。


小さな小さなこだわりにくっついているだけの孤独が、

なぜこれほど深く感じることになるのでしょうか。


それは、自分の本質とは何なのかを

自分一人でしか見ることができないからです。


自分の本質を言葉で言い表すことはできないので、

自分の感覚で確かめるしかないのです。


それは、

表面的な調和や不調和ではびくともしません。


表面的な全てのものごとが、

自分の本質のほんの一部分として

現れて変化して消えていきますが、

それ自体が生まれたり無くなったり、

増えたり減ったり、綺麗になったり汚れたりすることはありません。


例えば、

海で波が浜に打ち寄せ、

白波を立てて引いていったあと、

次の波に消えていったとしても、

海はずっと海のままであるのと同じです。


自分の本質に気づくと、

自然にあることを自然のなるままにすることができるので

大きな流れと調和していることが分かります。


そこに孤独なものなどありません。


分離したものなど無いので、

良いも悪いもありません。


孤独な不調和は、

満たされた調和の一部分としての自分を

見るためにある一つの作用なのです。


自分という不完全なものを通して、

完全なものの一部に触れるのです。


そこに孤独がどうしても必要になるのです。


一度でも完全なものに触れれば、

孤独という作用は役目を終えて、

消えていきます。


あとは流れに身を任せるだけです。



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