本当の意味では、見ることができませんでした。
では、何を見ていたのでしょうか。
簡単に言うと、
見たいものを見たいようにしか
見ることができなかったのです。
それを当然としていたのですが、
ありのままに見る方が気持ちが楽なことに気づいたのです。
楽なので次の行動へ素直に移ることができます。
それだけでもかなり違いますが、
見たくないものを見ないようにすることからも解放されるのです。
それは大変な作業で
常に自分の視界にそういうものごとが入らないようにしなくてはな
実際には
リラックスして過ぎていくままにすれば
それで済むことなので、
見ないようにする努力は簡単に無くせます。
僕の言う見るという行為は、
意識を向けたところを見ているということなので、
指先が触れる感じや、
足の裏に触れている地面なども、
イメージとして目に映すことが出来ます。
さらに昨日のことや、明日のことも、イメージ出来るんです。
そしてそれを今見ている風景に被せて見たりすることが出来ます。
え~っと、あれ何だったっけ、
としている時見ているイメージです。
意識していませんが、
意識がイメージの方を向いている状態です。
何気なく見ていたほとんどの場面で、
なのでちゃんと見ようとするには、
ちゃんと見なきゃ‼
みたいに思わなければならかったんです。
意識をそこに向ける必要があったんです。
でも最近は、
わざわざ何かを意識するのはやめて、
意識を拡げておくようにしています。
何処かに集中して意識するよりも楽に過ごせて、
しかも、今まで気づかなかった音や、空間の広さや、暖かさや、
ダイナミックな世界にいる楽し
慣れてくれば、意識を拡げたままで、
意識があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしない分、
では、
それは見るということが、完全ではないからです。
ある一方から見えるものには、
その裏側があります。
その裏側に隠れる部分もあります。
いくら頑張っても、
見えないものの方が多いのです。
その見えない部分に何かをイメージしてしまうことが当たり前にな
そこから恐れたり、怒ったり、不安になったり、
今見えない部分はそのままに見れば、
空間の広さが心を自由にするので、リラックスしてきます。
見えない部分に不必要なエネルギーを使わずに済みます。
リラックスして自分の意識が拡がっていくままにするように、
ありままを見ている自分は、今ここにいます。
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