2016年12月30日金曜日

輪廻転生という宇宙

ここに記す宇宙は、

僕の経験に基づいて出来上がった、

全くもって私的なものです。


読んで下さる皆さんの宇宙を創造する上での

参考資料としてもらえれば幸いです。


僕には生まれた時の記憶があって、

「またここから始まりかよ~!」と、

思っているを覚えています。


その前が何だったのかは、

はっきりしないんですが、

目を開けたらとにかく眩しくて、

手足が思い通りに上手く動かないのを、

「しょうがない。。。」と

自分に言い聞かせた時の景色がハッキリ残っています。


輪廻転生という言葉を知るのは、

もっと後になるのですが、

その仕組みを理解出来るように

さらに経験を積んでいくための時間が必要でした。


僕の身体は一つの生命集合体で、

数えきれない程の「命」がそれぞれに

目的を持ってそれぞれの「命」を全うするために、

僕の身体へと集まって来た結果です。


無数の菌が僕の腸内にも、

皮膚にも血液中にも居て、

彼らに必要なものを、

僕が適切に摂っていくことが、

僕の身体と心を維持していく上で

とても重要なことになっています。


菌ならば生命活動と言っても、

理解しやすいと思いますが、

皮膚なんかも新しく生まれて死んでいきます。


そう見ていくと

僕の身体は一つの小宇宙です。


生まれては死んでいく「命」が

それぞれの役割りをきっちりと担ってくれて、

そのお蔭で僕は僕の成長していく過程を

味わうことが出来ています。


このような関係性は、

僕にとって地球、

地球にとって宇宙、

宇宙にとって神さま、

神さまにとってさらにその上の神さま、

という具合に視点を変えると

「命」を司る主体が変わってきます。


「命」はそれぞれに学びたいことや目的が違うのですが、

共同体を形成するのは大体同じような感覚感性を持って、

一緒に協働できるものたちが集まることで、

一つのエネルギーとなって結合します。


この世に出てくる時に、

自分という意識を身体に纏って

それを使って自分の目的達成を目指します。


目的自体を変えることも自由ですし、

どうやっていっても構いません。


生まれるということ自体が

大きなエネルギー変化の結果なので、

それ自体を目的として現れてくる「命」もあるでしょう。


この地上は自分の成したいことを成す

最高のステージとして存在しているので、

みんなが思い思いの学びを経験します。


喜びも悲しみも

それを通して「命」自体の力に触れるまで、

気の済むまで学んでいきます。


この「命」は、

思いが結実したものなので、

その思いがある以上

結んでいくエネルギーを生み出し続けます。


思いが意識を創り

物質を創っていきます。


無くなるのは変化する物質が

物理法則上そうなるだけで、

思いがあれば物質が生み出されていきます。


思いが消えなければ、

繰り返し生み出され続けます。


「命」もその繰り返しを

ずっと続けるのです。


その時、

生まれる「命」が必ずしも大きな目的を持つ必要もないので、

生きている間に自由であることの洗礼を受ける場合もあります。


それが迷いとよばれるものです。


どこへ向かったらいいのかが

分からなくなってしまったとしても、

思いが消えなければ延々と繰り返し続けます。


今の時代は

人が人の生きやすいようにしか、

地上を創っていかないこともあって、

とにかく人としてしか生まれてこられない「命」も

多くあるように感じます。


もっと海の優しさを感じたかったり、

土のパワーを感じられる「命」の在り方もあるのですが、

人として学ばざるを得ない時代なのでしょう。


この経験を通して

どこへ向かっていくのか

それぞれが魂の奥深くに刻み込んでいる

そんな時代に生きています。


なんの意味も見出さずにいても、

生きていたいという思いだけで、

何度も何度も生きては死んでを繰り返していきます。


僕は今ここに結ばれた

「命」の有り難さに気が付くことが出来たので、

その「命」を育むことを

最大限の目的にしています。


それが僕の思いにもなっています。


僕にとっては、

僕の「命」を育んでくれるもの全てが

「命」として存在しているので、

この星も、

そこに生えてくる木も草も

虫も魚も動物も

風も雲も石も水も

それらから生み出される机や食器なんかも

一緒に生きている共同体です。


そういうところで見れば

ちょっとムカつくオッサンなんかもそうです。


僕に学びを与えては消えていくのです。


食べ物もそうです。


僕が選んでいるようですが、

細胞単位で共に生きていくことを選択してくれた

彼らの思いも一緒に

この身体と心を創ってくれています。


あるものは皮膚になって、

あるものは骨になって

生まれ変わっては死んでいきます。


そうしているうちに

僕に受け止められない思いを抱く「命」を

食べることが出来なくなりました。


それが素晴らしいとか

そういうことではありません。


彼らの思いを昇華させられるほどに、

素晴らしい思いを持って生きる人達も大勢います。


でも、

僕に受け止められない思いは

僕の「命」に与える影響を考えたとき、

僕には必要のないものとして

感じるようになったのです。


僕が「命」に思いを馳せる日も

いつか十分になしえたと感じるようになったら、

その時全てをこの宇宙にお返し出来るように

この「命」を丁寧に綺麗に使って生きていこうと思っています。


それまで、

共に生きてくれる「命」達に

最大限丁寧に接していこうと思っています。


そしてもっと多くの「命」が

思う存分に輝き続けられるような

そんな地上にいる自分を見てみたいと思っています。


そのためにはまだまだ学ばなくてはならないことが沢山あります。


何度でもチャレンジしたいと思います。



2016年12月20日火曜日

バーチャルリアリティ

今この地上に展開している世界が

バーチャルリアリティだとしたら、

皆さんはどうしますか?


何処かの映画で見たような話しを

連想してしまうかもしれませんね。


でも実はこの世界というのは僕ら自身の捉え方一つで、

空想や妄想と言った仮想現実を過ごしてしまう

というお話しです。


ここ最近の世界の至るところで起きている事柄に

今後の混乱を危惧される方も多いと思います。


人道的に許されるべきでは無いようなこと、

今後の生活を不安に陥れるようなこと、

そういったニュースが飛び交って、

多くの人々がそれに呼応して

いろんな意見を様々なメディアを通じて

発信しています。


ニュースから感じることや、

そこに見えてくる人としてのあり方や、

正しいこととは何なのか

その報道自体が真実か嘘かも含めて、

いろんな言葉が飛び交います。


全くの嘘であればいいものの、

起きてしまっている現実があるのは否めません。


なんとなく楽しいことにのめり込もうとしても、

メディアに繋がればどこからともなくまた嫌なニュースが流れてきます。


そういうニュースは常にどこかに流れていて、

それらが自分の未来への不安にならないように、

僕らは何かしら対処しなければならなくなっています。


よくある陰謀論の話しを知るようになると、

例えば起きている事実の裏側を見ていけば

確かに繋がってくる部分が沢山あって、

人道支援としての謳い文句で行われていることの多くが

そこに莫大なお金が動く戦略の一つであるのは、

ごく当たり前のことだったりします。


そういった綺麗に飾られた言葉の裏側で、

実際の利害関係がこの社会を動かしているのは、

当然と言えば当然のことで

政治や経済、環境、民族、全ての問題の根本が

その利害調整を誰がどんな目的でしているか

にたどり着くのです。


そしてその利害関係に関わる人達すべてが、

それぞれに思う正しさに従って行動しているので、

一般に言われるような正しさに沿わないことも、

嘘も方便で行われてしまっているのです。


そんな複雑な部分までも、

調べればいくらでも知ることが出来るようになって、

この世界が向かおうとしている未来に

本当に明るい兆しが見えなくなりそうな、

この混沌とした今、

多くの人が真実を求めて

世界へ向けて働きかける時代になって来ています。


多くの人が世界平和を望んで、

自分に出来ることの中から

情報を共有するようになってきました。


間違いを正していくのに、

一つづつ知ることから初めて、

過去を学び直し、

現在に生かすことの出来ることは何かを

お互いにすり合わせながら検証していると言えると思います。


そうしながら本当に大切なこととは何なのかを

一人一人が見つけ出す作業が行われていると思うのです。


ここで僕は少し気を付けたい事があります。


僕を含めた人間が、

今ここで過去の清算をするべき時代に、


今が変化の途中で激しく見えるところもあって

不安を抱えた状態での検証が多くなってしまっています。


もちろん今まで目を背けてきた結果なので

真正面から捉え直さなければならなりません。


美化したり茶化したりせずに

まずありのまま受け入れる必要があります。


人によっては受け入れられずに

捻じ曲がってしまう人も現れています。


そういった人たちが作り出す

捻じ曲がった世界を現実と見間違えないようにしなくてはなりません。


過去にしてしまった過ちから

自分の答えを見つけることが出来たとしたら、

二度と繰り返すことはありません。


過ちを繰り返してしまう人達の理屈は

もっともそうな言葉で飾られていて、

その言葉の世界に正解があるかのような錯覚を与えてきます。


その言葉達はその人の頭の中だけでしか繋がらないので、

他の人にとってはどこまでも堂々巡りをさせられるだけに終わります。


そのことについて頭でグルグルとしてしまうのです。


その間に広がる妄想が 

今、目の前にある現実から

意識を引き離してしまいます。


そのときそこはある種のバーチャルリアリティだと思うのです。


言葉面がいかに綺麗であっても

自分が出来るか出来ないかは関係ない世界です。


正しいかもしれないことを

言葉で言えればいいだけで、

行動を伴うことはありません。


そんな時、

僕は真実の在り処を見つけるには

自分で行動するしかないと考えたのです。


現実世界にしっかりと足をつけて

行動することが解決に向かう唯一の手段でした。


言葉はその行動に裏打ちされて初めて真実となりました。


行動していく中で、

学んできた言葉の意味を知ることも出来ます。


自分の足で歩き、

自分の手で触れて、

初めて言葉に意味が宿ったのです。


それが嘘になりようがありません。


ものすごくシンプルな世界です。


自分の触れたことの無いものは分からないし、

分からないことを表現することはできません。


表現する必要もありません。


自分の目の前に現れる課題に

100%全身全霊で取り組むことでしか

自分の答えを見つけられないのに、

それ以上のことをする必要は無いんです。


それぞれにそれぞれの課題が生まれてきます。


それぞれがそれぞれにちゃんと向き合うことで、

この世界は完全にハッピーになります。


今はその過程にあります。


まだ逃げ続けている人が沢山います。


それぞれの課題はそれぞれの人のものなので、

誰かが代わりに片づけることなどできません。


自分の課題に気が付いて向かい合い

全身全霊で取り組んだ人から先に

本当に自由になっていくでしょう。


未熟でも幼稚でも自分と向き合うことに

優劣は付けられません。


誰か他の人と競い合うことでしか勝てないような

そんな弱さに同情することはありません。


堂々と自分の課題に取り組めばいいのです。


本当のリアルな人生はそこから始まります。


自分の課題に取り組み続けることが

生きていることそのものなのは当然なのですから。


誰かに評価されることでもありません。


でももうそこでやっている人達は、

お互いをリスペクトすることができます。


分かり合うというのは、

そこに行けば勝手に分かり合えるのですから、

分かり合おうとしてお互いを罵り合うのでは

意味がないのです。


もうじきに嘘をつくのもばかばかしい時代がやって来ます。


自分に与えられた命を

どうするのがいいと思いますか。


答えは自分にしか分からないようになっていいるんです。


自分の中にあるんです。


2016年11月15日火曜日

命を育むこと

ここ最近、世界のワチャワチャした感じが

一層強さを増してきています。


世界の至る所でいざこざが起きていて、

それぞれに信条を掲げて

自由とは何か、

公平とはどういうことか、

平和とはどんな状態のことなのか、

今まで人間が築いてきた理想を達成しようと、

多くの人が現実に行動に移している、

それをリアルタイムで見ることが出来る

凄い時代なんだなぁと思います。


多くの人がそれぞれに議論を展開していて

今までにないスピードで情報の共有が出来て、

様々な観点で物事を検証出来て、

それでも不確実な未来を

どう素晴らしいものにしていったらいいのか、

手探りで進むしかない現在に、

恐れや苛立ちが立ちはだかって、

それを打開するべく行動に移しているのではないでしょうか。


僕は皆さんの発してくれる情報で

ピンと来たものにアクセスして、

何か警戒を要するものがあれば、

すぐ動けるようにしています。


いろんな情報に触れるたびに

皆さん良く調べられてるなぁなんて、

本当に感心している次第です。


僕の生活リズムでは

今以上に調べたり勉強していったりするのは無理なので、

背伸びをせず今の僕の目線で見て

このめまぐるしい変化に飲み込まれずに

如何に僕自身にとって最適な判断をしていくか、

そこに揺らぎが無ければ、

この世界の変化からとても多くのことを学ぶことが出来ると思っています。


今の僕の知識と経験から得たもので、

一番確実な基準としている言葉は、

「命を育むこと」です。


もしも自分が何かを選択しなければならない時、

どちらがより命を育むのかという基準で

考えるようにしています。


そうやって考え始めると、

僕はとにかく心が落ち着いていって、

難しく考えなくてもいいんじゃないかなぁとなるのでした。


もしも命を育む要素がないのであれば、

自分としては完全にアウト。


命が育まれる方向へ向いていない話しはアウト。


こっちの命は育むけど

あっちの命を育まないのであればアウト。


命を育む事から優先的に、

そのための思考、

そのための話し、

そのための行動、

それ以外は別に何でもいいしどうでもいい。


という具合に

頭の中はいたってシンプルになってしまうのでした。


そういうところまでシンプルになっていくと、

壮大な理想や

人間の持つ悲しい性や宿命みたいな話しは、

別に何でもいいしどうでもよくって、

今目の前にいる命を

僕が大切に扱えているかどうかが

一番の命題となるのでした。


僕が粗末に扱っていい命など

どこにもありません。


どんなに小さくても

どんなに弱々しくても

どんな形をしていても、

生きたエネルギーとしてあるものが、

僕と一緒に育っていけるように、

僕は自分の全エネルギーを注げばいいのです。


上手にできるかどうかは分かりません。


相手も生きている以上、

自分と違う考えがあるでしょうから、

何か自分の行為が気に食わないかもしれません。


そうならないように

押し付けないように

流れる空気のように

相手に心を配ろうと思っています。


人にも

動物にも

植物にも

もっと意識を拡大して

水や石、

風や星も、

道具や意識の中にいる者たちも、

僕自身の命を育んでくれる相手として、

僕と共にこの世界に存在している全てに

丁寧に接すること、


まぁまだまだですけど、

そこをちゃんとまず自分が出来れていれば

何も相手を責めたりする必要は無くなります。


相手に求めてやってもらえないことより、

自分が分かっているのに出来ないことの方が、

辛いと感じるからです。


命を育むことって

そんなに難しいことなのかなと

感じていた時期もありました。


でもそれは、

何だかんだと理由を勝手に付けて、

雑な行動をしていただけだったのでした。


命は非常に脆くて弱いものです。


だから丁寧に扱わなくてはなりません。


丁寧にさえ扱えばとても強く輝き始めます。


僕はまず自分の命を丁寧に扱うように心がけました。


そうする中で、

他の命も自分と何の違いも無いことに気が付いていったのでした。


ただその命の営みも自然の流れの中で

いつか自然と一つになっていく時が来ます。


それまでの間どれだけ丁寧に扱えるかだけで

いいのではないでしょうか。


それさえ出来れば実は

人間て幸せなんじゃないかなぁと

思っています。




2016年11月4日金曜日

自信の無い人へ

何があっても自分を信じて

一歩づつ着実に進んでいく、

そういう自信に満ちあふれた生き方が出来れば、

もう何も心配する必要は無くなりますよね。


どこで何が起ころうとも、

誰が何と言おうとも、

心の底から沸き上がって来る思いに、

純粋に従って行くことに躊躇すること無く、

連なっていく結果に執着もしない。


さらに新しい変化に向けて、

自ら進んでいく、


そういう自信を深めて行くことが

人として生きる最大の目標と

言ってもいいのではないかと

僕は思っています。


そのために、

価値ある仕事を出来るよう努力したり、

ライフワークとなるような趣味を持ったり、

様々な本を読んだり、

映画を見たり、

お金を貯めることなんかも、

そういう側面で見ることが出来ると思います。


そんな小難しい見方をしなくて

いいかもしれません。


でも、

自信に溢れた自分で居られないならば、

何をしていてもどこかで物足りなさや不安を感じていて、

どこか投げやりな時間を過ごしていて、

実のところ面白いと感じるところもなく、

物事をただこなすだけの日々、


数多くの嫌なことをどうやって忘れていくかの習慣を身につけ、

夢中になれるものを人生でもっとも大切な事のように思い、

それ以外の事は蔑んで見てしまうようになって、

理解出来ない世界が増えて、

孤立していく自分と似たような境遇の人達を仲間と思って同調しあい、

否定されないことが唯一自分を認める手掛かりになってしまうでしょう。


そのような状態になってしまうと、

ひたすら自己矛盾と抗うか、

ひたすら自分と食い違うことと抗うか、

ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていくか、

結局のところ自信のある人を羨ましく真似するだけで、

自分を信じることからは遠く離れてしまいます。


僕はずっと幼い頃に親に反抗する形で心が独立する機会を経て、

家族という社会をなるべく乱さないで

自分で考えて自分らしい存在の仕方を模索していました。


小学校の高学年の頃には、

サルトルやヤスパースやキルケゴールなどの哲学を読み、

人と違うことが自分のアイデンティティとして必要だと強く思っていました。


自信があったんですが、

最初のスタートがひねくれた所から出ているもんですから、

小さな矛盾が出てき始めたとき、

素直になることが出来ずに、


ひたすら自己矛盾と抗い、

ひたすら自分と食い違うことと抗い、

ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていって、

自信のある人を羨ましく真似してみることでごまかして、

自分を信じることからは遠く離れてしまったのでした。


常にどこかで淋しさを感じていて、

優しさに触れると心が大きく揺さぶられて

自分の余裕の無さをどうしたら克服できるのか、

その答えを求めてさらに自分の内側を探り、

外の世界にヒントを求めて彷徨っていたのでした。


自信のある状態とは何なんだろう?


それを探して

ありとあらゆることにチャレンジした感のある僕が

今その答えを求める人に伝えられる言葉は、


自信など探してもどこにも無い、

ということです。


僕自身が彷徨ってしまった一番の原因は、

探してしまったことでした。


このことに気づくのに大変な道のりを

歩くことになりました。


でもそのお蔭でいろんなことを確かめて

自信を持って今ここに居ることが出来ます。


自分を信じるために必要なことは、

今の自分をちゃんと見ることだけです。


自信をつけてから物事に向かおうとした途端、

恐くなってしまいます。


今の自分に出来ることを一つづつやっていく、

その行動することだけが答えとなって現れていきます。


そこに自信があったかどうかは、

後で考えてみても良く分からないことなのです。


頭の中で考えてしまった途端に

今という時間から離れて出来もしないことについて考えたり、

出来なかった時の言い訳なんかを考えてしまいます。


どれだけ小さなことでも

一つづつやっていくこと、

それだけが結果に結びついていきます。


このことはどれ程ものごとに熟達していったとしても

変わらない事実です。


丁寧に一つづつやらない限り、

結果というものは現れようがないんですから。


例えばやってみて、

本当にこれでいいのだろうかみたいな、

疑問が湧いてきたとします。


一旦休んで、

素直になって見てみましょう。


自分が思い描く目的へ向かって、

自分が出来る一番最初のことが、

それならば間違いありません。


自分に合ったやり方がそう選択させた理由です。


この時他の人のことを考えてしまうことがありますが、

他の人は他の人、


自分に出来ることがそれなら、

それで間違いありません。


もしも他に今出来ることがあった場合、

一番最初に簡単に出来るものから取り組んでみましょう。


自信というものは

自分を信じるのであって、

自分以外の何かを信じるのではありません。


今出来ることとは、

今までに似たような事があったとしても全く別の、

完全に初体験になります。


上手くいくことが当たり前ではありません。


初めてやるのに失敗はつき物です。


大失敗でも構いません。


その時のことを忘れずに

覚えておきましょう。


次に役に立ちます。


行動に移せないまま、

どうしても考えてしまう人は、

まずそういう自分に言い訳をしないことです。


言い訳をすることに慣れてしまっているだけなので、

自分を見れないのではありません。


結局のところそれでは結果に結びつかないことを

別の角度から見て自分から切り離そうとしてしまうんです。


自信をつけたい自分を隠して、

自分以外の何か所為にしてしまいたいんです。


コツコツ行くしかないとなると、

何年かかるか分かりません。


でも自信を持つことなく、

一生を終えていくか、

今ここで自分の道を行くかは

本当に紙一重ですが、

人生の意味がまるっきり変わるのは、

分かると思います。


自分の道を歩き始めた人は、

自信があるとか無いとか、

そんな事どうだってよくなります。


その道しか無いからです。


一年二年して他の人も己の道を一生懸命に歩いていることに、

感動さえ覚えるでしょう。


そのような生き方をする人が、

誰か他人を非難することができるでしょうか?


お互いに助け合うことの本当の意味に触れられるのは

その道を進んでいる人達だからこそのことです。


誰かが先に行っていたり、

誰かが遅れていたりすることなど、

実は全くありません。


みんな横並びで、

一つの初めての瞬間を

一緒に経験しています。


その今の自分を

ありのままに見ているかどうかだけなんです。


一人一人が受け取る結果もまちまちですが、

そこがまたスタート地点になります。


ゴールも自分が決めた場所になるので、

そこまで行くことになります。


自分の力で歩いていると意識できている人は、

自分のペースで進むことが出来るので

自信があるように見えるのです。


どこへどういうふうに行きたいのか、

もう一度自分に正直になって見ましょう。


今の自分を見て

正直に何が出来るでしょう。


それが唯一の答えです。



2016年11月1日火曜日

断食を終えて

昨日までの四日間、

味噌汁断食をしていました。


僕は今までも何度かプチ断食をした事があって、

その時はだいたい水と塩だけで過ごしていました。


ガンを克服した方のブログに、

具無しのお味噌汁を定期的に摂って、

後はお茶や、スムージーだけの食事で、

血液を綺麗にしてガンを治していく

サナトリウムがあるということで、

なんかピンと来たのでした。


自分の体内環境を整えるのには、

断食がとても良いのは知っていましたが、

塩と水だけの断食は、

始めるタイミングやその前後のことまで

考えなくてはなりませんが、

プチ断食をしたことのある僕には、

お味噌汁を摂っていいなら、

4日間ぐらいはいけそうだ、

そういう感覚でした。


今回は身体のリセット、

血液を綺麗にしたいなぁとの思いで始めました。



で、ちょうど新月へ向かっていくし、

明けてちょうど11月1日ってなんだかいいなぁ

と思って始めました。


体内に何も入れないと、

腸は休んで

体内にあるものだけで活動しようとして、

普段あまり巡りの無いところが

活性化していくのでしょう。


初日の夜には、

お腹のあたりを中心に全身に発疹が出来ました。


反応が出て来るのがとても早かったのは、

今回の断食の前に知人の方が

自然農法で育てたマコモを分けて下さって、

それを食べていたからというのもありました。


マコモは縄文時代から食されていたイネ科の植物で

食物繊維を多く含んでいて、

毒素の体外排出を促します。


ちょうどそういった食材を頂いてタイミングの良いこと、、

この断食がちょうどよいサイクルで巡ってきたんだとすぐに気づきました。


初日の空腹感は、

お腹が空いたらお味噌汁を飲めばいいという

安心感もあってほとんど気になりませんでした。


それよりも身体が軽くなって

それに共なって身体感覚が鋭くなっていくのが楽しくて、

このまま行けばどうなって行くんだろうという

ワクワクした状態で床に就いたのでした。


二日目、出ていた発疹も少し落ち着いて

空腹感が心地好くさえ感じられるようになっていました。


五感はとてもピシッとして、

匂いや音の変化をいつも以上に感じてました。


無駄な思考が減って、

感覚が優れて来るので、

そこから安心感が生まれて来るのが分かりました。


その時に、

野生動物達はこの感覚を維持しているんじゃないかな、

なんて思ったりしました。


その時感じていた空腹感は

飢えではありませんでした。


不安は無くて、

移り変わるものに気を取られすぎることも無く、

でも変化に対してはきっちり反応しているんです。


朝昼晩にはお味噌汁を飲んで、

その間は番茶で喉を潤していました。


デトックスするなら、

とことん行くつもりだったので、

完全自然農法の大豆と米から出来た味噌と、

お水は奈良三輪山のお水、

番茶も奈良で古代からの製法を守って作られたもの、

それらがこの身体を綺麗にしてくれないはずは無い

という思いで居ました。


かなり食事に気を使って

添加物の入ったものや肉食もやめていましたが、

腸が休むことって、

ずっと食事をしている限り無いのでしょう。


腰のあたりに変化を感じました。


僕は腰痛持ちで

腰椎の3番がよくずれるのですが

そのずれが出なくなります。


先のガンを克服された方は、

内臓が張れて背骨を圧迫して、

ぎっくり腰になったということでした。


僕も何かしら内臓の不調があって、

腰痛になっていたのかもしれません。


三日目になると、

さすがに空腹感は少し意識されるようになって来ました。


でも朝、

お味噌汁の一口をゆっくりと

胃の中へ落としていくと

味噌の香りがフワッと広がって、

その日一日をまた新しい変化と共に過ごせる

幸せな感覚に包まれました。


何口か頂いたら番茶を飲みますが、

それがまた口の中に甘く広がります。


ひとくちひとくちが、

本当に感動でした。


この日も仕事を無事終えての夜、

3日目となるとやはり空腹感が強くなっていて、

一口目のお味噌汁をゴクンと勢いよく飲み込んでしまいました。


あ、やってしまったかな?

と思ってそれからまたゆっくりと味わうように

食していきましたが、


その後五回トイレへ行くことになりました。


具無しのお味噌汁と言えども、

空腹時に一気に食すと

お腹を壊します。


お茶とは反応が違うんです。


そのことが食事を丁寧に食べなければならない意味として

自分の中にしっかり刻まれました。


四日目に入ると、

まだ行けるなぁという感覚もありながら、

一つの到達点として決めていたゴールが見えた安堵感もあって、

とても心地よい朝を迎えました。


空腹感はあっても、

それで苦しむようなことは無くて、

それが逆に心地よく感じるのでした。


一杯のお味噌汁を5分以上かけて

ゆっくりお腹へ落してゆきます。


本当に有り難いことです。


食事って本当に大切なことだなぁって

心の底から思ったのでした。


その日の夜、

お味噌仕立てで、

自然栽培の七分づきのお米を

おじやにして食べました。


お米を口に入れて、

噛んでいる間、

身体がこれを受け付けてくれなかったらどうしよう?

ちょっとだけ不安がよぎりましたが、


噛んでいくうちに唾液に溶けて、

甘味を出しながら喉の奥へと、

自然に落ちていってくれました。


「うまい!」


「めちゃくちゃうまい!」


僕は本当にその時、

「これだけでいいや。」って

思ったんです。


もちろん僕自身が比較的体力のある

健康な身体を持っているとしても、

具無しのお味噌汁だけで

4日間も普通に肉体をしっかり使って仕事をしても、

フラフラしなかったんです。


一般的に考える栄養とカロリーが

必要なのでは無いと僕の感覚が理解しました。


無理して食べる必要がないことを

僕の身体が覚えたのでした。


確かに食べることはとても大切で

それによって命が維持されていて、

人生の多くの幸せの部分となることには違いないのですが、


それが全てではないことを体験出来ました。


そして何よりも、

身体が軽くなって

僕の持っている五感で感じることの

楽しさが蘇りました。


食事はその一部として、

楽しめればいいんだなぁと、

思ったんです。


それ以上の意味を与える必要は

もう無くなりました。


ヨガの行者が

最後に不食という段階に行くと聞きましたが、

何となく分かりました。


現代はあまりにもいろんな意味が与えられすぎていて、

本当に大切なことが何なのかが、

見えにくい時代になってしまっています。


シンプルにひとつひとつを見ていくために、

いろんなやり方があると思います。


断食もいろんなやり方があって、

僕は今回こんなやり方で

食と健康というものを見つめることが出来ました。


もちろん自分の体調や性格に合うやり方でないと、

身体を壊してしまうこともあるので

気をつけないといけません。


ただ、

食べない健康法というものも

あるんだということは

知っておいて損は無いと思います。



2016年10月18日火曜日

筋が通っていること

僕は自分の判断基準として、

筋が通っているかどうかに

とても重きを置いています。


一般的に言われる善悪なんかよりも、

筋が通っていることの方を

優先するようにしています。


物心着いた頃に、

この世の中のなんだか納得できない部分に反抗していた自分が

どうしても筋を通せなかった経験があってから、

その悔しさがこの自分を作り上げています。


でもこの基準は物事を判断する上で

とても理にかなっていることを

今でも学ぶことが出来ます。


一般的に言われる善悪は、

その時代や場所によって

全く変わってしまうことがあります。


社会というものは、

一人一人の個人が学び合うところの

総合的な観点が反映される意識体なので、


みんなであっちへ行ったり

こっちへ行ったりしながら社会全体として学んでいます。


個人が全体と同化する事はないので、

個人の成長とは全く別の時間の流れで、

様々な問題に直面しては、

社会全体が意識するようになった段階で、

ゆっくりと舵を切るように

変化していきます。


そんな変化の中で、

歴史も科学も文化的なことも、

十年もすれば言われていたことが、

全く変わってしまうなんてざらにあることです。


そんな一つ一つの刹那的な解釈に

のめり込んでしまっていると、

その時の考え方と違う新しい物事に

揺さぶられて苦しむだけです。


そんなときに

筋が通っているかどうかから見てみると、

大きく揺さぶられることはありません。


筋を通すと言うと、

無理矢理に通してしまうように

思えるかも知れませんが、

筋を通し続けるとなると、

無理矢理通した事は、

どんどん無理が祟って来ます。


どこかで完全な嘘になってきます。


嘘にまでなってしまったら、

筋どころか善悪もなにも、

全ての基準はすっ飛んでしまいます。


現代の価値観の中では、

自分に筋を通すということが

とても難しいのは確かで、

通さなくても生きていくことが出来てしまうので、

すぐに流されてしまいそうになります。


ただ、

いろんな経験に学ぶ中で

理にかなっている物事は、

全てにおいて

筋が通っているということが分かります。


筋が通っているように思えても、

どこか疑わしいような物事は、

だいたいその時代や地域的な解釈の

範疇を超えることはありません。


筋が通っていることは、

表立って良く言われてなくても、

必ずどこかに良い結果として何かを残します。


現代は商業的な価値が優先されてしまうので、

そういったものに隠れてしまう

普遍的な何かであるかもしれないのです。


普遍的な物事に

寄り添って生きていれば

何となくある不安は消え、

その時代その地域の価値観に振り回されずに、

自分のありのままでいることに自信を持つことができます。


自分を開いて、

変化を自ら取り込んで行く

柔軟さを持っておくことは、

生きていく楽しさが

その分増える事になります。


その時、

筋が通っていることを

基準としていれば、

変化に振り回されることなく、

変化を楽しむことが出来ます。


変化に振り回されることは、

これからの時代において、

かなりの危険を伴いそうです。


昨日正しかったことが、

今日悪いことになってしまうかもしれません。


そんな状況で

自分を見失ってしまえば、

迷いの中から抜け出すのは、

至難の業です。


普段は気にしない程度の迷いであっても、

ちょっとしたことからパニックを引き起こしていく

原因になってしまいます。


どんな状況でも、

冷静さを欠いた行動は

命の危険に繋がります。


ただ単に自分のわがままを

通してしまおうとしているのか、

それとも、

普遍的なものに繋がる道筋であるのかの違いは、

心の柔らかさに掛かっています。


始めから正しい判断を出来るわけはなく、

素直に真摯に物事から学んでいく姿勢があれば

何も問題はありません。


けれども

どれ程経験を積んだ人であっても、

我を通してしまうことがあります。


それ程に自我というフィルターは、

物事を覆い隠してしまいやすいのですが、


新しいものをどんどん吸収していて、

心が穏やかに楽しんでいるならば、

そこにわがままの入る余地はありません。


変化を変化として楽しんでいるところに、

執着も生まれては来ません。


淀みのない綺麗な流れは、

流れ続けていれば

綺麗なままなのです。


その流れがずっと続くように

自分の中にある拘りや思い込みを

どんどん流していくことが大切です。


そして筋の通っていることを、

自分の中に流してみてください。


連綿と続く何か普遍的なもの、

それがどういう言われ方であれ、

時間や場所なんかに左右されない確かな感覚が

自分の中に流れ始めます。


筋を通す生き方を、

次は誰が始ることができるでしょうか。



2016年9月29日木曜日

陰陽の流れが全てを司っていること

この世界に起きている物事は

お互いに影響しあって

さらに新しい何かを作っていきます。


それら全てを把握することはまず出来ないので、

完璧な予想を立てることは出来ません。


計画的に物事に働きかけて、

結果を導きたい方向へ向けて行くことは

ある程度出来ても、

それを完璧にするということが、

いかに難しいかは説明するまでもありません。


これはどんな事にも当てはまります。


どんな事も完全に思い通りにならないが故に、

そして一つの結果を自分の思うカタチにするために、

努力というものが必要になってきます。


何度も繰り返していく中で少しの変化を覚えておいて、

もう少しこうしてみようとかあぁしてみようとか試していきながら

自分の求めるカタチに近づけていきます。


例えばある結果を出すのに期限が決まっていたりすると、

その繰り返す頻度も頻繁に必要です。


また逆に期限など無い場合は、

気長に構えて少しづつ試していったりするでしょう。


さて、

これはどんなことと照らし合わせていけるのでしょう。


スポーツのこと、

仕事のこと、

試験のこと、

なりたい自分のこと、

対人的なこと、

健康のこと、

思い描く夢のこと、

性格のこと、

経済的なこと、

世界情勢のこと、

そのどれに対しても、

自分が働きかけて進めていきたい何かがある時、

この努力をしないわけにはいきません。


この時その努力の道のりが

楽しさとウキウキする感覚で満たされるようにすれば

人生大成功!!!

みたいな話しを僕は片手落ちだと思っています。


もちろん楽しくウキウキすることはとても重要な要素で、

自然とそう感じることに対して敏感でいることは

自分の向かう道を確かめるのに必要です。


でもそれだけでは見えてこない部分があって、

そこを意識できるようになることこそが、

あるがままを受け入れるということになっていくと感じるからです。


物事が新しく進んでいく時、

その中心にいる自分は、

どうなっているのでしょうか。


結果の部分だけに執着してしまうと、

望む結果を得られないかもしれないという

不安を持つことになりますし、

その過程で見えてくるはずのものも見えない上に、

楽しむ余裕も無くなってしまうでしょう。


やり方や方法論ばかり気にしていても、

望むカタチには程遠いまま、

いつまで経っても納得できずじまいです。


物事が進んでいくということは、

新しい変化を起こしてさらに次へと、

向かわせてくれる動機となっていきます。


嬉しかったが故に、

楽しかったが故に、

気持ちよかったが故に、


苦しかったが故に、

辛かったが故に、

嫌だったが故に、

その時々に抱く感情と共に

次へと進んでいくことになるのです。


苦しさや辛さ、

悲しさや切なさや淋しさも、

ある時ある人にとって最大のエネルギ-源となって

その世界の中心に存在します。


それを排除して考えることを

僕はお勧めしないのです。


物事が動いてそれが及ぼす影響というものが、

必ず一方向だけということもあり得ません。


同じ経験から感じることも一つではないのです。


ある人、

ある時、

感じ方は様々です。


それらは全て自分を動機付ける要素として

自分の中心に湧き起ってきます。


一歩づつ進んで望んだカタチを目指していく時、

その中で心が変化していく自分を見つめて、

自分を理解して信じられるようになっていくためにも、

感じられることを拒まないことが必要です。


大きく進んでいくという見方とともに、

同時に幾つもの感情へ

自分を開いていくという見方が必要だと思います。


どんな感情に出会ったとしても

そこからさらに進んでいく自分を思い描けるでしょうか。


自分を、この世界を信じることが出来たなら、

何を恐れる必要があるでしょう。


そしてそれは誰かにやってもらうことでしょうか。


全ての感情を感じられるのは

紛れもなくそこにいる自分です。


他の誰かが感じるのではありません。


感じる事は一つのエネルギーとして、

自分の向かうべきところに向かうように仕向けてくれます。


その作用には嘘がありません。


そしてその作用によって

全てが動いているのです。


自分も、

自分の感情も、

この世界も、

この作用の流れの一部にすぎません。


その流れを作り出しているのが、

また戻って僕たち自身です。


心を開いてその状況を見るには、

何かを拒絶していては出来ないことなのです。


拒絶することを無くした瞬間に、

ただこの大きな流れが

一部であるはずの自分自身と

何の境目もないことがわかります。


その時、

自分を信じることも、

世界を信じることも、

中心には自分がいて、

その自分が全ての陰陽の根本として

ここにいることが分かります。


良いことも悪いことも、

どちらも大切にしたうえで、


さて、

自分の望みのカタチをもう一度

目指して進んでいきましょう。





2016年9月22日木曜日

自我の放棄と感情というエネルギーの関係

日々いろんな物事が身の回りで起こります。


楽しいことばかりだといいなぁと思ってみても、

そんなわけはありません。


だからと言っていつも気を張って

辛い目に合わないようにしているのでは

疲れてしまいます。


いかに辛いこと苦しいことから、

自分を遠ざけようとしても、

残念ながら世界のどこへ行っても

それらが無い場所はありません。


それらが無くならないのであれば、

直接対決で何とかしたい!

そう思ったその瞬間から

また疲れていってしまう道を選んでいます。


その繰り返しから離れて

ただ自分に起こっている感情の変化が

何なのかに目を向け始めると、

自分の全てを受け入れる準備が整って来ます。


悲しみや怒りを簡単に解放すること、

例えば愚痴にしたり、

誰かに相談することもそうですが、


その段階では、

自分の中で涌き上がって来るエネルギーを

理解出来ないまま手放している状態です。


目の前にある出来事を、

自分の経験や知識に照らし合わせて

解釈しようとしても出来ないこと、

それが悲しみや怒りとして

自分の中に表れているのを、

そのまま表現している状態です。


大人しくしていたとしても

喧しくなっていたとしても

それ自体には大した差はなくて、

周りに振りまいているエネルギーは

刺々しいものです。


いかに多くの人生経験をしていても、

その時に涌き上がって来る

自分の持っているエネルギーの変化を理解出来なければ、

ずっと同じようなことで怒ったり悲しんだりしてしまいます。


自我を放棄して自分を解放するということは、、

明るくホワッとするようなイメージを持つかも知れません。


でもそれはとても偏ったイメージで

常にどこかで発生する苦しいことや辛いことが

無くならない原因を探すはめになってしまいます。


そしてそれらを責めるか、

それらから逃れるか、

結局繰り返してしまうだけで、

そのループから逃れられる術はありません。


沢山の経験を積む上で、

自分の中で起こるエネルギーの変化を、

よく見て理解出来るようになることが、

自分を知るということです。


自分を知って

その感情の起伏を

別の視点で捉えられるようになれば、

感情を揺さぶって来る事象に振り回されることは無くなります。


そしてその感情エネルギーを別の方向へ向けて、

クリエイティブなことに使うことが出来るようになってくると、、

辛い、苦しい、という感覚ではなくなってきます。


この経験を何度も繰り返す中で、

心の静寂がどんどん深まっていくのです。


自分らしさを持って、

決して完璧を求めず、

別の何かに変換することを学んでいけば、

その感情エネルギーは心の成長に必要だったのだと気が付くでしょう。


自我という拘りを捨てて

自分を解放するということは、

持っている全てのエネルギーを解放して

それによって自らが成長していく行為です。


抑えたり、

堪えたり、

見ないようにしたり、

変な解釈を加えてみたりしても

自由な感覚には辿り着きません。


簡単に出来ることもあれば、



絶対に無理と感じることもあります。


自分の中にあるものを受け入れるのに、

それがなかなか出来なくて、

何度も経験する必要があることもあります。


しかも人によっても違うので、

自分の中で抱えこんんでしまうしか無いこともあります。


それはとても辛くて苦しいことです。


そんなとき、

この世界にある全てが

不完全なままずっと変化し続けていて、

それは今成長していっている自分と

何も違いが無いことに目を向けてみて下さい。


どれだけ経験を積んでいても、

どれだけ恵まれた環境にいても、

いつの時代も、

完全である必要はないのです。


不完全であるからこそ、

幸せを感じられるし、

伸びることが出来るのです。


自分を開くタイミングは

人それぞれ違いますが、

変わることを恐れなければ

もうすぐにでも始まります。


2016年9月20日火曜日

天地(アワ)の歌

ホツマツタヱにはアワの歌として

次のように詠まれている歌があります。


アカハナマ イキヒニミウク

フヌムエケ ヘネメオコホノ

モトロソヨ ヲテレセヱツル

スユンチリ シヰタラサヤワ


イザナギ、イザナミが民達の言葉の乱れを整えようと

詠んだと記されています。


日本語の元となる48音全てを配して、

しかも順序も一定のリズム感を持ったこの歌には、

どのような想いが込められているのでしょう。


縄文時代と言われる頃に使われていた

大和言葉の元となる言葉達は、

現代の僕らには少し解釈しにくくなってしまっています。


ホツマツタヱについては、

いろんな方が深く調べて公表して下さるようになってきています。


アワの歌にも触れる機会があるかもしれません。


ミカサフミというこれもヲシテ文字で書かれた文書にも、

アワの歌の解説を記した部分がありますが、

その部分も歌として詠まれているので、

現代日本語では掴みにくいところです。


僕自身は、

長歌であるところに様々な意味を込められた

その奥深さをそのまま味わうのが、

本当の意味では良いと思いますが、

入口として、

興味を持っていただけるように、

アワ歌に込めた二神の想いを

僕が感じたまま訳したいと思います。


~~~ 天地(アワ)の歌 ~~~

開け放ったままでいること。

それは生きた霊魂に身を受けてこの地に降りた

人としてするべきもっとも大切なこと。

上手くいかないことも多々ありますが、

それでも上を目指して自分を伸ばしていけば、

天に還ることもできるのです。

太陽が照れば素直に伸び行く

青々とした樹木のように、

真っすぐに生きていきましょう。

それには身体を大切に健康に保つこと。

そうすればこの地上はとても爽やかに素晴らしいものとして、

広がっていることでしょう。

~~~~~~  ~~~~~~ 

            
僕が初めてホツマツタヱに触れた時、

何とも言えない優しさを感じたのを覚えています。


全編を通して

陰陽の働きによって全てが生まれるという

物事の道理を示していながら、

人としての感情の揺れを軽く扱っていない、

そういった物語りに出会ったことは、

僕の人生を大きく変えるきっかけになりました。


太古の神々さま達も、

悩みながら民を率いて歩んで行った軌跡が

生き生きと詠まれているその歌から、

完璧では無いことこそが

実はとても大切なことなのではないかと、

感じるようになったのです。


これを読んで頂いた方も、

どうぞご自分の感覚で、

太古の英知を自身の言葉に置き換える事をお勧めします。


太古の昔から生きる上で必要なことは、

とてもシンプルなことだったのではないかと感じています。


ただシンプルであるが故に、

複雑な人の感情や欲などに

簡単に揺さぶられてしまうものなのかもしれません。


アワの歌はそんな人の弱さを

優しく抱いてくれる愛情にあふれているように思います。



2016年8月24日水曜日

不要な考えが作り出すもの

最近目にしたネットコンテンツに、

とある有名な科学者の方が述べた

人工知能の将来的な危険性についての話しが出ていました。


その記事とリンクして、

宇宙人がもしいたとしても、

地球人と仲良くなる見込みは無いだろうという考察を

述べている記事も読んでみました。


おおよその話しとしては、

知能の高いものが現れた場合、

地球人を愚かしく思って滅ぼしかねない、

といった内容でした。


人間が滅ぶかもしれないとの考え方を

以前の僕ならフムフムと納得しながら

読んでいたかもしれません。


でもなぜか今回は読み終わった後に

いろんな疑問が湧いて来ました。


その知能の高いもの達が、

もし人間を滅ぼしたとして、

その後に新たな脅威になる存在も、

全部滅ぼしていくのでしょうか。


人間以外にも昆虫やウイルスやバクテリア、

酸性のきつい土壌や強アルカリ性の物質など、

この地球上には生命活動にとって脅威となるものが多くあって、

今は人間が多い状態の中でこの環境バランスなので、

人間がいなくなれば別の脅威がやってくる可能性は大いにあります。


それらを全部無くしていくためには、

結局地球が無くなるまで排除し続けなければならないかもしれません。


それは大袈裟であったとしても、

常に何か敵になりうるものをずっと排除し続ける行為はキリが無く

必要なエネルギーは膨大なものになるので、

そのエネルギーを別の建設的なことに使う方が

生きていく上では効率がいいのではないかなぁ、

なんて思ったのです。


例えば命の危険について考えたとき、

どこまでもそれを遠ざけることが

安全を担保していくという考え方も

間違いではありません。


でも危険というものは、

いつ何処にでも存在していて、

それらは自分が存在する限り

無くなることはありません。


必要以上に不安になった状態では、

生命活動さえもままなりません。


でも生命はある一定の距離に危険を感知しなければ

リラックスして過ごすことが出来ます。


その状態でも五感はしっかりと働いていて、

何かの異変を感じれば

対処するように出来ています。


なので普段は必要以上に不安になることは無く

過ごすことが出来ます。


ただここで最初の話しに戻して考えてみましょう。


確かに行き過ぎた感のある科学技術もある現在の世界です。


そこから派生して、

高い知能が過ちを繰り返す人間を敵に見立ててしまうかもしれない

という思考にたどり着いたようですが、


そこの奥に見え隠れする

強いものが生き残って弱いものが死んでいくという考え方も

高い知能がわざわざ別の生命を滅ぼしてまで繁栄しようとするような考え方も、

ものごとを一方的な方向から見ている気がします。


大きくまとめてしまえば、

不安と恐れから見ています。


そのように見える側面も実際にはあるんですが、

弱肉強食では説明のつかない生命の営みは

この世界のいたるところにあります。


ライオンやトラが個体数を減らしているのに、

ネズミやハムスターは世界中にいます。


人間が増えたのは確かですが、

高い知能をもってして増えたのではありません。


実際歴史上においても高い知能が役に立ったことはありません。


自然の不確実性の中で

たまたま環境に適応した形で存在することが出来た生命体だった、

ただそれだけのことです。


しかもまだまだ発達中で

進化のさなかに居るという視点が抜けています。


最近のDNAの研究でも

先祖から受け継いだもの以外の情報、

例えば共生しているものなどから、

異種族間でのDNA情報がコピーされているということが発見されています。


そうやって違う種族も含めて環境変化を乗り切って来た生命の和の中に、

人間も居るわけです。


それを知能というか、

思考という行為でもって生き抜いてきたかのような思い上がりは、

滅んでしまっても仕方がないかもしれません。


思考というものは

一つのエネルギー波動で、

ポジティブにもネガティブにも

作用を及ぼします。


そのエネルギーが凝り固まるように働いてしまえば、

新しい変化に柔軟に対応できる自然な能力を削いでしまいます。


いくら高い知能で思考しても一方向へしか向いていない状況であれば、

その方向と違う変化に対しては非常に弱いものとなってしまうのです。


本当に高い知能を有している生命体がいるなら、

その辺を理解していただけるはずです。


分からなくてよいものを

分からないままでも

不安になる必要がないことを理解できれば

それ以上の思考や知能は

不安を作り出すだけの

不要なものなのです。


知識や知能で理解しようとするのではなく、

今自分には理解しえない何かが

ずっとあちらこちらにあることを感じられればいいのではないでしょうか。


そしてそれらは決して恐れるだけの対象でもなく、

浮かれてしまうような事象でもないのです。


分からないだけでいいのです。



2016年8月13日土曜日

コミュニケーションの本質について

僕は今まで何人の人とコミュニケーションしたでしょう。


言葉を交わした人の数で言えば、

とてつもない人数になると思います。


でも、その中で

伝えたいことがお互いに共有出来たと感じたのは、

何十回も無いかもしれない。


僕が思うこの回数を見て

皆さんはどう思うでしょうか。


例えば、物凄く感動する言葉を聞いて、

自分の中に何かを貰ったような気がして、

次の日から自分なりに行動を起こしてみようとしても、


何かの変化はとても曖昧になっていて、

目の前にある全く代わり映えのない現実に

うる覚えの言葉が全く通用しないという経験は無いでしょうか。


その言葉を聞いた時、

僕は何を受け取っていたのでしょうか。


受けとったと思っていたものは何だったのでしょうか。


この疑問を解かずにずっと過ごして行くうちに、

ほとんどのコミュニケーションは、

ただ放出されるだけの音声が

テレビから流れるだけなのと同じようになってしまっている、

現代はそういう世界になっているような気がします。


いやいや、そんなことは無い!、

話したことがちゃんと伝わっていなければ、

今の社会は成り立ってない!と思っている人が

ほとんどだと思います。


でも、実際には決められたルールに則っていれば、

外れることが無い社会の中では、

言葉の裏側にある細かな違いを読み取るより、

そのルールから外れないかどうかに気を遣って過ごすことを

優先してコミュニケーションしている人の方が多いでしょう。


そのルールを守っている状態が社会を形成することなので、

そこから外れないようにすることの方に気を遣うのが当然であるかのようです。


もちろんその社会の中で過ごす以上

そこをわざわざ破壊するような言動をしないようにするのは当然としても、


自分の中で生まれてくる本当の感情を押し殺してまで

社会を優先させるルールが全体を覆ってしまうようになっていたとしたら


そこにあるコミュニケーションには

言葉の裏側にある心をやりとりすることなどは

面倒くさいこととして追いやられてしまうのだと思います。


おそらく僕の言う言葉の真意を感じるという感覚は、

子供の頃にどこかへ置いていってしまう人が多いかもしれません。


ただこの感覚を子供じみた行為と蔑んでいる

社会のあり方に目を向けてみてください。


子供が将来のお金を生み出すための

労働力の素として扱われていくことが

心無い人を作り出しています。


全ての行いの中に自分の感情を乗せて

相手の感情を汲み取れるように心を開いて

お互いのためのコミュニケーションをしなくなると、


自分の言いたいことだけを優先する

自分の結論以外の存在を拒む人たちが社会を形成して、

見るも無残な争いごとが増えるのは当然です。


多様性を認めない方が

導き出される答えが単純で済むのですが、

その単純さを良い事と思ってしまわない方がいいでしょう。


変化に対して非常に脆くなるので、

不安に苛まれるようになるだけです。


自分と違うものを恐れるようになり、

周りの全てが敵になっていってしまうでしょう。


もう既に社会がそのように動いているとして、

矛盾だらけの状態にあって、

建前という嘘と分かっていてもそのまま続けて

いつ心の底から解放される時がやって来るのでしょう。


このブログではずっと

僕の解放の仕方をひたすら書いているのですが、

また書いていきましょう。


この世界に

自分という意識の中心になるべきものがあるのは確かです。


そこには他の誰とも違うと断言できる自分がいるのですが、

そこから見ている世界と自分を切り離して

単独に存在感を感じているのではありません。


自分とは違う他の者たちとの差によって

自分というものを意識させられています。


ある時は全く逆の感覚であったり、

ある時は本当に一緒のように感じたりするのですが、

何一つ同じものなどこの世界には存在しません。


そして得意不得意があって

それぞれのタイミングで人生の課題として取り組んでいる事も全く違います。


誰も経験したことの無い未来を切り開いていくとき、

解決したい方向性も

大切にしたい想いも千差万別なので

ヒントとなるような出来事や考え方は

あればある程手助けになります。


結局自分の目の前にある未来の扉を開けるのは自分なので、

その手助けになるかもしれない力添えを貰えるかも知れない

千載一遇の出会いの言葉を大切にしようと思えば、

自ずとコミュニケーションの質も変化していきます。


自分をごまかしてしまうようなことがあれば、

二度とめぐりあうことの無い瞬間がどれだけあるでしょう。


本当に必要な言葉が自分にとって優しいだけのものとは限りません。


地獄の底へ叩き落されるような言葉かもしれません。


でもそれを自分で扉を開けるための鍵として

自分を最大限尊重してくれる人に貰えたとしたら、

その言葉は人生を開いてくれるでしょう。


僕は今でも忘れられない言葉や瞬間を与えてもらったことがあります。


そのお陰で何とかやってきたようなところもあります。


一度でもそんな瞬間に触れることが出来たなら

人生の意味は変わります。


粗末にしていい命など無いことを

真に理解するようになります。


嘘の無いコミュニケーションをするようになるので、

心は軽くなります。


その経験を思い出すことで謙虚さを取り戻せます。


そういう経験をどうぞこの世界で

恐れずに探してみてください。


どんな時でも自分に嘘をつかないことから

始めてみてください。




2016年7月12日火曜日

これからいろんな方向にものごとが加速していく時代

参議院選挙が終わって、

多くの人がそれぞれに自分の思う未来へ向けて

様々な行動を起こしていました。


僕の目線から見えたことを記しておこうと思います。


僕の家にはテレビが無いので、

ニュース等の情報は、

全てネットから集めています。


ネットからの情報は、

本当に混沌としていて、

何が本当なのかを考え始めると、

とてつもないパワーが必要になります。


今の僕は、

人の道に外れていないことであれば、

好きに過ごせばいいぐらいに思っているので、

本当かどうかということは

それほど気にしなくなっています。


真実というもの自体が人の数だけある、

それでいいと思うので、

自分にとっての真実が、

他の人にとっての真実でなくてもいいと

考えています。


その逆も同じで

他の人の真実が僕の真実ではないということです。


いろんな策略が渦巻くこの世界は

地獄の住人達がひたすら悪さしているように見えますが、


よく考えてみると、

この世界ではお金が全てのものと交換出来るようになっているので、

そのお金をいかに集めるかの駆け引きは、

どのような場面に於いても止むことなく繰り返されます。


そのための情報だったりするので、

如何様にでもとれる状況を

ある側面から捉えたことを真実として見方を固定すると、

心の自由は無くなってしまいます。


ものごとが一瞬一瞬終わって

過ぎ去って行くスピードを無視して、

全ての繋がりを検証して、

今の結果を導いて来た原因を

一つに特定しようとするのには、

かなりの無理が生じます。


科学的な思考が

答えは一つであるかのように

導こうとしてしまいますが、

実際はとても複雑にものごとが絡み合って、

大きな流れとなっているだけなので、

良い面も悪い面も合わせて未来へ流れて行きます。


この流れに逆らおうとしても、

疲れてしまいます。


またこの流れに完全に飲み込まれてしまうと、

自分らしくいることが出来ず

苦しくなっていきます。


確かにこの世界を取り巻く状況は

決して楽観出来るものではないのですが、

その状況が生み出す気づきや新しい閃きは、

この状況だからこそ涌き上がって来ます。


一つの方向へ向けてものごとが動く時、

必ず他方向へ向けての動きも起こります。


どういう形でそれらがまた

重なり合って時代を作っていくのかは分かりませんが、


いままでのように上辺の美しさだけで、

一つの方向へみんなで一緒に向かうことは

無くなって行くのではないでしょうか。


おそらく表立ってのニュースなどでは、

ある一定の方向性をもって報道されるでしょう。


でも気づき始めた人たちは、

今さら前のように誰かの言っていることを

鵜呑みにすることなど出来ないので、

自分の意思を持って自分の道を

進んでいくことしかできません。


気付くという経験を通った人は、

それより以前の自分に戻ることは出来ません。


一度知ってしまえばそこが新しい世界です。


以前の価値観を捨ててしまわなければ、

どうやってみても苦しいままです。


誰かに相談したところで変わりません。


今までの友人も家族も

同じように存在していますが、

新しい価値観は誰かと共有できるようなものではありません。


自分に起こった内的な変化を受け入れて、

以前の自分と決別してみましょう。


「もう良いかな。」


そんなふうに思えてくれば

新しい時間が流れ始めるでしょう。


僕の場合は、

僕の目の届く範囲の社会に於いて、

僕が心地よく過ごすため、

必要なものを最小限にすれば

誰かにいろいろ整えてもらいたいという気持ちは

無くなっていくということを知りました。


その場その場で多少の違いがあっても、

最低限人へのリスペクトを怠らず、

調子に乗った行為をせず、

ただ自分に素直にいることで

そこに自分の居場所を創ることが出来るのです。


あとはその時間を楽しめばいいのです。


そしてこのことは、

誰か他の人がやってくれはしないのです。


自分自身がそのように過ごすことで、

空間がそうなっていくのです。


嘘が無ければ

空間がそのままに受け入れてくれます。


恐れや敵意などは、

表現しなくても伝わってしまうので、

隠してその場にいることはできません。


恐れや敵意などを

抱いてしまう自分をまず知りましょう。


あとはそういう自分を

ありのまま受け入れてリスタートです。


自分を知れば

周りの人々もさほど変わらないことも分かります。


無理に一つの方向へ引っ張っていく必要もないことがわかります。


知って変化するという経験は

一人一人の内側で起こります。


焦らずいきましょう。




2016年6月26日日曜日

世の中のゴタゴタから自分を解放する視点

政治の世界も経済の世界も目まぐるしく変わっていきますが、

どこをとっても問題だらけ、

知れば知るほどこの世界を覆う闇の深さに、

気持ちを引っ張られないようにしなければなりません。


選挙が近づいて、

多くの人が自分の経験から得た知識を元に

どうしていけばこの世界が良くなっていくかを、

声高々に叫んでいます。


ヨーロッパの方では、

イギリスがEU離脱との投票結果から、

更に多くの国の離脱まで囁かれ始めました。


株価の下落によって経済が崩れていけば、

今の生活はどうなっていくのかという不安は、

世界のどの場所でも同じだと思います。


国内も国外もいろんなニュースが流れていますが、

ちょっと大雑把に原因を探っていくと、

お金の問題から派生しているのかなぁと思っています。


今の新自由主義を推し進めている人は、

ある程度の収入額がある人達で、

お財布を落としたとしても、

残念がる程度でしょうが、


今の先進国といわれる国々にも、

たった一日の収入が無くなるかどうかで

その後の人生を無くしてしまう事態にまでなる人達が、

たくさんいるという事実があります。


今の経済を牽引している人達は

そういう現実がどこの国でも同じようにあることを知っていても、

お金のある立ち位置からしか見ることが出来ません。


片や収入を得る方法に上手くたどり着けない人たちの事情は様々です。


個人個人が抱えたそれぞれの事情について

現代社会は、特に日本はあまりにも冷淡で

努力したくても出来ない環境にいる人達は、

それぞれの立場を超えて協力しあって

社会変革を訴えています。


その声は今の経済を牽引している人たちには、

豊かさを得られる自由の中で十分できるはずと思っているので、

今のシステムを守ろうという行動に出るでしょう。


そういう流れになってくれば、

お互いの立場は全く敵対するようになって、

相容れないものになっていきます。


そんな中で弱者の立場を利用しようとする奴も出てきたり、

ただ努力するのも面倒で何もしようとしない奴も出てきて、

対立は複雑化していくばかりです。


今のシステムが大きな矛盾を抱えていて、

今後その矛盾を解決しようとすれば

結局対立を悪化させてしまいます。


このシステムの発展には中身がなくて、

ごく一部の人たちに富が集中するだけの

変なシステムであることを考えると、

僕個人は社会変革を訴える側の人間です。


ただ僕はもう一つ別の視点でも

この世界を見るようにしています。


世界が変わることを目的としないで見ること、

この約束ごとの多い世界から独立した視点です。


僕は何ものからも分離独立して自分で考えて決断する視点を

常に意識しています。


誰かのためではなく社会のためでもなく

理想の未来のためでもなく過去のトラウマを消し去るためでもなく、

ただ純粋に今いい感じがするかどうかだけが基準になります。


お金は必要ですが、

やたらめったらに稼ぐつもりはありません。


贅沢な生活には興味が無くなったので、

誰かを羨んだりしません。


家族となるべく一緒に居たいですが

叶わない事になるかもしれませんから、

家族だから、という執着はありません。


病気になりたくないですが、

なったらなった時でいいぐらい自己管理しています。


今まで結構いろんな経験をさせてもらえる人生を送ってきたので、

まだチャレンジできることにはどんどんしますが、

むだに命を永らえたいとは思っていません。


酒もいりませんし、

煙草もいりませんし、

贅沢な食事もいりませんし

女遊びもギャンブルも必要ありません。


喧嘩もしませんが殴りかかってきたら応戦はします。


戦争が起こっても僕が人に向けて銃を構えることはありませんし、

何があっても良い波には乗り続けるつもりです。


どこかへ連れていかれるようなことがあっても絶対に言うことを聞きませんし、

他の人の言いなりにはなりません。


自分がいいと思わないものには首を縦には振りませんし、

自分がいいと思ったものは人に勧めます。


僕は僕であるだけでいいので、

誰かための何かになる必要はありません。


お金がものいう世界にあっては

なんと使えない人でしょうか。


でも僕はこの視点から世界を見ることが

自分にとっての世界を変える入口になっています。


目の前でおかしなことがあっても、

その時におかしいと言えなければ

その場は変わりません。


手の届く範囲に自分をしっかり主張すること

それが環境を変えていきます。


素直に自分に主張が間違っていたなら

そのように返ってきますし、

理に適っていたなら、

そのように物事が動き始めます。


世界をいっぺんに良くしていく力など僕にはありませんが

僕の言っていることとやっていることに歪みがなければ

少しずつ変わっていく部分があるのではないかなぁと、

思っています。


確かにちょっと変わり者というふうには見られますが、

嘘をつかなくてもいい状況で過ごせるのは、

なんと心地のいいことでしょうか。


言うこととやることが、

まともであれば収入がなくなることはありません。


仕事がなくなるのであれば、

僕が間違っているかそこがおかしいかですが、

おかしなところでしんどい思いをするぐらいなら、

旅にでも出た方がいいと思います。


固定された考え方の中に

自分を閉じ込めてしまわないようにすることが

とても大切なのです。


ものごとの変化するスピードが今後

いっそう早くなるでしょう。


今の状況下でシステムに使われるのではなく、

あくまでもこちらが利用していく強さを持たなければなりません。


あっちこっちに振られていると疲れてしまいます。


腹を据えて自分の直観に従ってみましょう。


少しずつ自分の操縦方法が分かってくるようになります。


この世のゴタゴタの中をすいすい進むのです。

2016年6月14日火曜日

最悪の事態に備える?

僕は最近、

この世界が試されているように感じています。


民主主義っていうものが、

本当に人間の生活を良くしていくのでしょうか?


資本主義っていうものが、

僕らの生活を豊かにしていくのでしょうか?


技術革新が

多くの人々の病魔を無くしていくのでしょうか?


政治家が変われば、問題は起こらなくなる?


経済が上手く循環すれば、争いごとが減る?


最先端技術が、僕らの幸せを牽引していく?


僕の答えは「NO」です。


必要な視点を自己の内に持てないままでは、

今の文明がどれだけ発展しても

幸せで満たされることはありません。


今後もっともっと価値観が多様化していけば、

多数決という考え方は通用しなくなります。


多数決が自由を縛っていくことに気がつくでしょう。


全てをお金に換算させて

それをコントロールすることで成り立って来た経済システムは、

今後一定の地域内で格差が広がっていけば、

命懸けで不満を顕す人々も更に増えるでしょう。


自分にとって要らないものに

命懸けになるような人々を生み出す経済システムから

自由になる生き方をする人が増えてきています。


技術革新がもたらす便利さは、

不便であったが故に必要だった

ものごとの関係性を一変させてしまいます。


楽に出来ることに慣れていくことは、

価値観を変えていくことを加速させます。


技術的な革新がもたらす変化は、

人間がそれを担う以上、

間違いが何処かにあったとしたら、

気づくまで転がり続けるということです。


目の前のごく一部だけを変えようとしてバランスを崩せば、

それは自然の摂理に則って反動が起こり、

人間の技術を上回る事態に発展するでしょう。


例えば、原発事故は、

そのようなものだと考えています。


事故の起こる前に危険と言われていた基準は

今は全く関係無くなってしまいました。


それまで言われていたことは、

解釈の仕方を変えて全く新しい基準に変わりました。


確かに放射性物質が出てしまった以上、

10万年は事故以前で言うところの汚染物質と

向き合って行くことになります。


事故をそのまま放って置く訳にもいかないので、

とにかく出来ることから片付けていくより仕方ありません。


そこに頑張る美しさを見ようとしても

現実はそれだけではありません。


今の日本の中には、

放射性物質を気にしない人も多いので、

全国にばらまくことになってしまいました。


気にする自由があってもいいと思ってる僕は

自分の気の済むように食べ物を選択します。


以前から在る農薬や食品添加物なんかも

気にするようになった僕は、

誰かの言っていた常識は完全に捨てて

自分で考えて選択するようになりました。


にっちもさっちも行かなくなってるのに、

まだ無理矢理発展させようとしている社会システムから

与えられる価値観の中で生きていくしかないと思っていましたが、


少なくとも自由であると謳われた国に住んでいるのですから、

みんなと一緒の価値観から離れて

それらを利用するスタンスでいくことにしました。


自分と社会問題の距離感がハッキリしてきます。


例えば憲法の問題にしても、

誰が作ってようと中身が良いんだったら、

変えなくてもいいんだろうなぁとか思います。


時代に合わせてって言っても

時代が変わっても普遍的に良い事のために

人間が頑張るのがいつの時代も必要なんじゃないでしょうか。


それでも変えるのならば

変えたい人の都合が普遍的な良さを超えて

法の下に顕現されるのでしょう。


また社会福祉のためにお金がかかるようなことも、

病気とかそのものを作り出す原因と思われるものを

無くしていこうとする社会にはならないわけです。


食べ物や飲み物を企業努力として

安定した供給を安価で提供するには

いろんな化学物質が必要なんだそうですが、

そもそも要らないものだったりするので僕は買わなくなったのです。


すべてのサービスは市場社会にあって

それをお金に換算しなければならないので、

まず会社の利益確保を第一にしなければ

サービスも無くなってしまうという矛盾は置いといて、

あくまでも人々の幸せのためにいろんなものを混ぜ込んでいくようです。


また例えば、東京大阪間を今よりもっと速く移動するために

何兆円もかけていろんなところに穴を掘るようですが、

産業を創出していくうえでも

もう少し国内の状況を見て順序を決めないと、

より良い社会ののためという部分もお金になっていくので、

取って付けたような倫理観に基づく社会が出来上がるでしょう。


でも子供の頃の夢を実現するのも自由なので

その選択自体は悪い事ではありません。


ただ自然環境に負荷がかかるということは、

必ずそれ相応の環境汚染として人間に返ってきます。


こういった問題が在ることを気にしないまま

人間は生きていくことができる、

その「最悪の事態に備える」必要があると思うようになったのです。


何も気にしなければ何もなかったかのように

変わっていくものごとの全てに裏表があって

表向きはとても素晴らしいことでも、

その裏側にはそれなりのことが山積みだったりします。


多くの人はできるだけ静かに

自分の幸せを楽しんで生きようとしているだけだと思います。


それを面と向かってあぁしろこうしろ言われるのは嫌なはずです。


でもみんながやっていることに何の疑問も持たないでいると

知らないうちにやらされているということに気が付かないというのが

今の世の中の「最悪」なところです。


社会全体で一つの大きな夢を見て

それを実現しようとする今までの日本の在り方では

もう人が人らしく生きていくことができないでしょう。


知らないうちに限界を超えたところで、

生きていかなければならない、

そんな「最悪の事態に備える」には

どうしたらいいのでしょうか。


答えは主体的に生きるということです。


このことに関してメリットこそあれ、

デメリットになることはありません。


僕は今、自分の決めたルールに従って生きています。


憲法や法律や社会規範は、

目安にさせてもらっていますが、

それ以上のものではないと思っています。


僕の目の届く空間に居る人と一緒に居て

心地よく過ごすことが第一条件で、

そこで何をすべきかその時その時考えます。


僕はそこで人種や宗教や思想や性別などで

仲間かそうでないかを分けません。


友達という区別もありません。


不愉快な行為に対しては

喧嘩になったとしても

自分の不愉快になった行為を糾弾します。


もしも自分の思う心地よく過ごすための行為が

相手に不快感を与えてしまう時は素直に謝ります。


ただその行為が自分にとっては今後も必要だと感じる場合は

その場から去るか、その旨相手に伝えて対策を考えます。


理屈はまず関係ありません。


相手をリスペクトしていこうという

お互いの人間性の成長過程で、

気が合わない、ということもあり得るからです。


その都度その空間に居て

一番心地よく過すために相手をリスペクトしていくことは、

社会と自我の境界線を穏やかなものにしてくれます。


パッとすぐ上手くいくこともあれば

時間がかかることもあります。


一番よくやることは何かと言えば、

まず呼吸を整えることです。


気持ちいい呼吸をすることに集中します。


それ以外はあまり必要ないかもしれません。


時間を埋めるための会話や機嫌取りのようなことは意味がありません。


気持ちいい時間が流れ出せば

お互いに興味を持つことから

会話は流れていきます。


相手をリスペクトするという

最低限の心構えさえ出来ていれば、

必要ないことはしない方がいい場合がほとんどだと思います。


相手に何も求めませんし、

何かを求められるのも違います。


嫌なことは自分の命がかかってもしません。


そんなことをして生きていても

生きるのが辛くなるのが分かるからです。


それでなければ命がけで嫌なことをしないという選択をします。


相手がいる社会という場所にあっては

全てが自分の思う通りにはいきません。


でもその相手が

自分とは違う部分があって

それをどう経験して今に生かしているかを

自分の言葉で語ることのできる人とは

一緒にいて楽しい時間になります。


今この世界における

「最悪の事態に備える」中で

何を学んで今の自分に生かすことができるかを

試されているんだと思います。


「最悪」な世界を楽しむには

主体的に生きることです。


やり方なんて気にする必要ありません。


やっていく中で決まっていくんです。



2016年5月26日木曜日

より良い変化のために、、、

今朝、いつもの通りに紫陽花が咲きはじめていました。


もう5月も終わりに近づいたのに気がついて、

ずっと変わらない巡りと、

その中で少しずつ変わっていく自分を感じました。


先週僕は、本当に久しぶりに風邪をひきました。


自分の内側の変化に敏感に対応するようになっていた僕は、

体調を崩す前に、初期の症状に合わせた食べ物を摂ることで、

熱が出たり、頭痛になったりするのを抑えて、

自分の体調をコントロールすることを

生活の一部としていました。


実際、もう風邪をひくことなんか無いかも、

ぐらい気をつけていたので、

鼻孔の奥に痛みを感じて、

頭がど~んと痛くなり始めた時、

いろんな妄想が頭の中を駆け巡りました。


普通に生活しているだけで、

身体は無数の病原体、化学物質やら放射性物質やらに

晒されています。


身体を作る食べ物をコントロールして、

自分の排出力を最大限活かすようにしておけば、

身体が必要としないものは出てってくれるので、


それを上回る非常に深刻な環境になっていて、

知らない内に自分の身体にとてつもないことが

起こってしまったのでは!と

少し不安がよぎりました。


風呂に入っていたとき、

痰が絡んだのをぺっと出すと、

ちっちゃな血の塊が入っていたのです。


時代も時代ですから、

いろんなことを考えてしまいましたが、

そうこうしているうちに熱が上がって来るのが分かりました。


思考能力が落ちて来て、

身体を楽に保とうとすることばかり考え始めて、

その時必要無い事など考える余裕が無くなってきました。


その状況でも何処か冷静さもあって、

この身体の苦痛から来るネガティブな思考が

現実を着色してしまわないように、

あくまでも起こっていることと、

自分が考えていることを

分けて捉えるようにしていました。


身体が感じるしんどさが、

横になっていても変わらないことと、

苦痛からくる思考のしんどさによって、

じっとしている方が辛いことを考えて、

仕事に行くことを選択しました。


体温計を見てしまうと、

しんどさに気持ちが負けてしまうので、

寝れる時間は寝るようにしました。


身体がしんどい中で見えた日常は、

僕自身がどのようにありたいのかを、

よく見るいい機会になりました。


人が僕に対してしてくれることや、

僕がしたことへの反応などが、

また新しい角度から見えてきました。


自分がしたい以上のことは、

当たり前ですが、しんどくて出来ないんですよね。


この当たり前のことを

改めて感じる機会って、

日常の中ではなかなか無いんですよね。


熱が出てから3日が経って、

これ以上続くようなら

別の対処をし始めないとなぁ、と思った夜から、

汗が出始めました。


治るなぁ、となんとなく感じたあと、

自分の思考が以前より軽くなっているのを感じました。


その時に理解できたのは、

体内の菌類の状態が変わるうえで、

この熱が必要だったということです。


例えば、腸内の菌類が精神状態に

とても深く関係していることから、

このポジティブな変化は、

熱を出す前の体内環境から

大きく変わったことを意味しています。


それに共なって腰回りが柔らかくなりました。


腰椎2番が感情と関係していることを考えると、

この時期に一気にバランスが変わったことが

風邪という事象として現れたのがわかります。


それを身体の視点で捉えてみると、

生きることへの不安などを

ポジティブに変化させようとして、

菌類を含めた体内環境を大きく変えるために、

発熱を伴うウイルスを必要な分だけ

身体が繁殖させたと見ることが出来ます。


今は少し喉に痒さが残る程度にまで回復していますが、

妻に移ってしまいました。


僕と比較すると

喉から肺へかけての症状が出ています。


肺は悲しみや憂いと関係しているので、

この時期にそういった感情の捉え方が、

大きく変わっていくのかもしれませんね。


でも、移してゴメン。。。

キツい、ですよね。


どうかより良い変化が訪れますように。

2016年5月9日月曜日

原発事故の起きた国

チェルノブイリの事故から30年、

福島の事故から5年が過ぎました。


今まだ多くの人がこれらの事故の影響で

大変な生活を強いられている現実がそこにあります。


未だ不確実な部分の多い科学的知見は

偏った思い込みを補強するのには役立つのですが、

それ以上のことは教えてくれません。


チェルノブイリの事故が起きたとき、

多くの大人が口にした放射能の恐ろしさを

福島の事故に至って

全く逆のことを言い出す人たちを見て、

この国で生きるということを

改めて考え直すことになりました。


何となく楽しかったそれまでの

与えてもらっていた価値観は

全てお金に換算することができて

それはそれでいいのですが、


ちゃんと循環することなく、

余りにも理不尽な命の扱われ方をしている人たちを

さらに厳しい状況へと追いやっていくシステムの中で

人生のために必要な価値のように思わされているのでした。


幸せになろうとするということが

そのシステムの構築のために

一役買ってしまうジレンマをどのように解釈してみても、


そのシステムが格差と対立を生みだし

それによって粗末に扱われる命があることを考えると、

このシステムは間違っていると言わざるを得ません。


経済を優先して立て直すことで

この国が本当に豊かになると言っている人たちが

以前言っていたことと

全く逆のことを口にしても何も気にならない程に

この国の多くの人が「嘘」というものに

麻痺してきているのかもしれません。


状況の変化に対応するために

以前言っていたことと逆の立場をとる必要があるならば、

それをそのまま言うことで理解が深まりますが、


明らかに真逆のことを

以前からそう言っていたかのように言ったり、

ひたすら隠そうとする行為は

ただの嘘でしかありません。


嘘をついてまでやる行為とは

自分にだけ都合の良い行為を

隠そうとする心の現れです。


どんな解釈をしていても現実は進行していて

目の前で繰り広げられる大人たちの対応を見たとき、

この日本に於いて

かなりシビアな事故が起こっているのは

間違いありません。


この現実が人々の行動に変化をもたらし始めていて、

いろんな物事、いい大人が嘘をつくことなんかを

噴出させているように思います。


嘘をついてまで固執しているものを

守ろうとしてしまうのでしょう。


システムに固執する人もあれば、

信条や理念に固執する人、

欲に素直になる人もいれば、

神秘的方向へ向かう人もいます。


それぞれの人にとって、

何が正解で何が誤りということではありませんが、


今、この日本では

本当に大切なものは何か、

そうでないものは何なのかを

見極められる時期に来ていると思います。


チェルノブイリの事故の後、

ベラルーシとウクライナでは、

とても興味深い変化が起きました。


ベラルーシは共産主義的な独裁政権が生まれます。


情報は統制されて

何が起きているのかが見えにくい状況に置かれます。


病気になる人が増え、

30年たった今、

健康に生まれてくる赤ん坊のほうが少ないという実状です。


ウクライナでは西側に解放的な政策から、

比較的情報量が多く

食べ物の危険性などを共有できたこともあって、

ベラルーシ程の健康被害は起らなかったようです。


しかし事故の後、

社会主義の崩壊とともにナショナリズムが強まり、

意見の食い違う人たちの間で内戦となり、

ファシズムを公言する政党が勢力を伸ばすなど、

自由の意味を少しはき違えた人達によって

結局失われていく命は少なくないという状況になっています。


一方のベラルーシでは、

ビシッと独裁が効いているので、

ヨーロッパで唯一死刑制度があり、

街は静かで美しくゴミも落ちてない状況のようです。


これらの国は事故後、

その処理のためにそれぞれのやり方で

国というシステムを維持してきたのです。


そしてそこに暮らす人々はそれぞれの環境の中に

命をつないでいます。


僕のいる日本という国も

今現在進行形で変化しています。


これからまだまだ複雑なものごとが

湧き上ってくるはずです。


綺麗ごとを並べ立てても

命には代えられないという時が来るまで、

本当に大切なものは

理屈ではないということが分かるまで

いろいろと現れてくるでしょう。


僕が震災を経験したとき、

助け合う人たちには権利や義務や資格などは

全く関係ありませんでした。


確かに最低な輩もいて、

むちゃくちゃなことしてる場面もありましたが、


どこかの偉いと謳われた方々が居なくても、

その地その地で何とかしていっていました。


外から見てる人たちが

もっとあぁしたほうがいいこうしたほうがいい言いますが、

それは大体的外れなことが多かったです。


今回の九州で学ばれた方も多いのではないでしょうか。


冷静になって周りをよく見極めて、

助け合って命を繋いでいく、

それができれば大丈夫なのです。


日本ではすでにそういう綺麗ごとではない

真の助け合いが出来るということが、

もうすでにいたる所で見受けられます。


心配を煽っていろんなことに

お金を使わせるだけのシステムでは

真に豊かになれることは無くて、


そのようなシステムを維持することよりも

大切にするべき優先順位に気づいてしまえば

複雑なものごとの噴出は無くなるでしょう。


それらを必要だと思い込んでしまって、

屁理屈を並べ立てられているので、

複雑に見えるのです。


あれば便利なものは

本当に必要でしょうか?


備えあれば患いなしと言っても、

どれだけ備えれば気が済むのでしょうか?


どれだけ備えても無くならない心配事を作りだし、

それに偽物の解決法を提示して、

お金を得ている今の日本のシステムを、

政治で解決しようとする振りをする人達に

この国を良くすることは出来ません。


金融経済システムを維持することが

幸せに向かって行く一番必要なことと

そのように信じている人達には、

多くの老人介護問題の現実や、

多くの子供達が虐待にあっている現実を、

そのシステムの矛盾として見ることが

できないのでしょう。


莫大な消費を支える

莫大なエネルギーによって、

贅沢を見させられたこの国の人たちが、

もう一度この国土の有り難さに

気づいて生きて行くのは、

いつになるのでしょうか。





2016年4月20日水曜日

ヤマタノオロチと速佐須良姫

ヤマタノオロチの話しは、

日本神話の中でもとても有名です。


スサノヲノミコトが頭が八つ、尾が八つの大蛇をやっつけて、

尾から草薙の剣を取り、櫛稲田姫と結ばれるというお話しです。


ホツマツタヱにもこのヤマタノオロチの話しがありますが、

記紀に見るような怪物伝説とは違って、

恨みや妬みが激しくなって拗けてしまった人のことをオロチと呼んでいて、


あくまで人間の心が

恐ろしいものへと変化した状態として描かれているのです。


今回はこのホツマツタヱに描かれている

オロチと化してしまった姫君の物語が

今の時代に何を語りかけているのかを、

考えてみたいと思います。


この話の中で重要な神々は、

大祓の祝詞に登場する

祓戸四柱の神です。


全国の神社で6月30日と12月31に執り行われる

大祓の儀式で読み上げられる祝詞に登場する、


瀬織津姫、

速開津姫、

気吹戸主、

速佐須良姫、

この祓戸四柱の神ですが、


ホツマツタヱの物語の中でどの様に

人の心に宿る「魔」を祓っていったのかを見ると、

普段の生活の中で気を付けたい事柄が見えてくると思います。


時はアマテルが君として世を治めていたころ、

太陽と月になぞらえて

東西南北にそれぞれスケ、内侍、下侍と合わせて

12人の局が仕えることになりました。


瀬織津姫ホノコは南の局の内侍、

速開津姫アキコは西の局のスケ

速佐須良姫ハヤコは北の局の内侍でした。


速佐須良姫の姉であるモチコ姫はアマテル第一子の

アメノホヒをお生みになります。


速佐須良姫は後の宗像三神である

タケコ(奥津島姫)タキコ(江島姫)タナコ(市杵島姫)を

お生みになります。


速開津姫は第五子のアマツヒコネを

お生みになります。


瀬織津姫は第八子にあたるオシホミミを

お生みになりました。


瀬織津姫は

アマテルがその心に持つ雅に心打たれ

自ら檀上より降りて迎えられ、

オシホミミを皇太子とされた時点で

内宮となったのでした。


世継ぎがとても大切であったこの時代、

内宮に上がった瀬織津姫に対して、

第一子を生んだ北の局のモチコ姫と

その妹である速佐須良姫ハヤコは

次第に妬みをあらわにしていきます。


そういう心もちがスサノヲの荒れた心と響きあいます。


スサノヲはイザナミの生理中に孕んだ子であったことから

汚穢、隈を生まれながらに背負ってしまう運命にありました。


自らの蛮行によって母イザナミを死に追いやってしまった

苦しみからも解き放たれることなく

スサノヲの行いは荒れていくばかりです。


思い通りにならなかった縁談のことなどもあったスサノヲは

北の局に夜な夜な出入りするようになっていました。


スサノヲとのことを瀬織津姫に注意された速佐須良姫は

ある時スサノヲに「男ならば天下をとれ」という一言を言ってしまいます。


そのことも瀬織津姫に知れてしまったモチコ姫と速佐須良姫は

宮中から一旦下がるように諭されます。


モチコ姫と速佐須良姫は妬みが次第に怒りを帯びて、

下がっていた宇佐宮から流離って根の国へと辿り着きます。


一人になったスサノヲはさらに怒り、

瀬織津姫の妹、ハナコ姫が亡くなりかけるほどの事件を起こして

死罪を言い渡されるのですが、

瀬織津姫の温情により流離いの刑に減刑され、

根の国へと流れつきます。


一方根の国ではアマテルに背く不穏な出来事が起こっていました。


概要は次のようになります。


イザナギの弟でモチコ姫と速佐須良姫の父であるクラキネが

マスヒトとして治めていたときに、

その臣であったシラヒトの推薦でコクミの妹のサシミ女を妻としました。


サシミ女はクラコ姫を生み、喜んだクラキネは

コクミを隣国サホコの国の副マスヒトに任命します。


そのクラコ姫をシラヒトが妻としますが、

あろうことか母のサシミ女とも関係を持つようになります。


そしてクラキネが亡くなるときに

シラヒトを根の国のマスヒトに指名し、

後にマスヒトとなったシラヒトは

サシミ女、クラコ姫とのいざこざを隠すため

二人ともコクミのもとへ追いやります。


そしてコクミはサシミ女、クラコ姫を犯し

我が物としてしまうという非道が行われたのでした。


そのような者たちに国が治められるはずもなく、

一旦は捕えられて死刑を言い渡されていたのですが、


サホコ国の新しいマスヒト、アメオシヒが

モチコ姫の進言で寡婦のクラコ姫を妻に迎え入れ、

その祝いの恩赦によって減刑されたシラヒト、コクミを

また役職につかせて、

オロチと化したモチコ姫、速佐須良姫の下で

アマテルカミに背くオロチ集団を

形成していってしまうのでした。


また別のオロチの一味をアマテルが捕えた時に

瀬織津姫が鏡を持ち、

速開津姫が剣を持って取り調べたところ、

「根のマスヒトが功績を立てたら国の守にしてやるぞ」

「これはスサノヲの言葉だぞ」と言うのです。


そしてそのオロチ達の反乱の根本原因になった

根の国のオロチ、モチコ姫、速佐須良姫達を

討つように任命されたのが気吹戸主でした。


気吹戸主が向かう道中で

蓑、笠、剣を投げ出して、

泣きながら土下座をして

自分の愚かさからの過ちを懺悔するスサノヲに出会います。


その二人が軍勢を率いてオロチと化した速佐須良姫たちを討つのです。


祓戸の神たちの物語は宮中に渦巻いた人の恨みや妬みを祓ったことと、

スサノヲが生まれながらに背負ってしまった穢れを祓ったことの

二つの側面が描かれているようです。


そしてホツマツタヱの読み方にもよるのですが、

速佐須良姫がお生みになった三人の姫たちは

スサノヲの子だったのではないでしょうか。


一度は結ばれ、愛し合った相手が

自分を討ちにやって来たのを見たとき、

速佐須良姫は自分の辿った運命の意味を

悟られたのではないかと思います。


その余りにも悲しい性を生き抜いて、

愛する人に討たれ、

神上がられた後も、

祓戸の神として人々から崇敬される速佐須良姫が、


オロチになるのも

カミになるのも

紙一重なのだと教えて下さっているように思います。


スサノヲは自らの過ちに気づいたことで

自らの穢れを断ち切ることになりました。


それはとても辛いことです。


速佐須良姫は自らの穢れに飲み込まれてしまったことで、

自らの命を落としてその穢れを祓う生き方を選択してしまったのでした。


妬みや恨みに飲み込まれてしまった人間が、

本当に恐ろしいことをしてしまうのは、

今の世の中を見てもまさにその通りです。


自分の「魔」に飲み込まれてしまうと

そのように物事が流れていくまで止めることはできなくなってしまうのです。


速佐須良姫の物語はその悲しみを伝えていると思います。

めくりあわせの かみひとえ

わたすことのは むすふはな

めのかなしきを うつしたす

ちるはなひらと あめのおと


2016年3月31日木曜日

食を正すことの大切さについて

今の日本はとても手軽に、

お腹がすいたらすぐに

食べ物や飲み物を手にすることができます。


そしてそれらは、

いつどんなところで買っても、

同じ味になるように

様々な添加物が使用されています。


そしてさらに、

プラスチックの綺麗な入れ物に入っていて、

毎回丁寧にビニール袋に入れてくれるのです。


僕は今、

工業的に加工される食品や添加物の近代的な便利さを

見直す時期に来ているのではないかと考えています。


これは少しまえの映像ですが、

アホウドリの親が雛にプラスチックゴミを与えてしまうという映像です。



この映像を見たとき、

僕はただのゴミ問題というだけではなくて、

何か人間に動物たちが身をもって教えていることが

あるような気がしました。


この映像を見始めたころ

僕は徐々に菜食へと変えていくのですが、

まだまだ正しい食事というものが何なのかを

理解していなかったこともあって、

ただ悲しい気持ちになってそれ以上

この映像に対して何かを語ることはできませんでした。


それから添加物のことや、

精製という工程を経ることの弊害や、

農薬のことや有機と言われる肥料のこと、

そして食物自体の種のことなんかも

知るようになっていくのでした。


現代人の約2人に一人がガンになる時代なんて広告が

普通に目に入ってくるようになって、


これだけ栄養学的にいろんなことが分かってきているのに、

どうして健康が遠くにいってしまうのか考えてみる必要があると

そんなふうに思うのは僕だけではないはずです。


そんな折にホツマツタヱの食に関する陰陽の考え方に出会い、

桜沢如一さんの陰陽を大切にする食養に出会い、

若杉ばあちゃんの食の在り方に出会い、

他にもガンを克服された方の記事にある旬の無添加食などから、

自分なりに学んだことを基本にして、

自然農法の玄米菜食を始めたのです。


無添加で旬のものを食べるVEGAN生活を送るようになって、

自分の身体を自分で管理できる感覚を手にすると、

アホウドリが教えてくれていたことの意味が分かるようになってきました。


そして今僕は、

プラスチックトレイに乗っかったものを、

プラスチックの容器に入った飲み物を

手に取ることがほとんど無くなりました。


この現代において完全に無くすのは、

かなり無理があると思いますし、

自分なりにここまでゴミを減らす食が出来ていれば、

こういった人も増えてきているみたいですし、

未来は変わっていくと思います。


そして今僕のしている食生活が

努力のようなことでは無いこと、

とても美味しく豊かに送れていることを

お伝えしたいと思います。


便利さだけを追及してしまうと

見えなくなってしまうものが本当に多くあります。


食を正すことで

本当に多くのものごとが

整っていくと確信しています。



2016年3月15日火曜日

世界平和は家庭から

家庭が平和であったら

何ごとにおいても幸せで、

その安心感は何ものにも

変えることはできません。


このことを言えるようになったのも

実はここ最近のことで、

去年まではあくまで理想として

この言葉を捉えていたのでした。


分かってはいるけど、

どうしてもちょっと気になるところがあって、


それを言うと喧嘩になるのも分かるので、

言わないようにしたり、

やんわりと遠まわしに言って伝わってなかったり、


だんだん溜まってきて

ほんの些細なことで言い争いになってしまったりして、


平和というものは

いとも簡単に崩れてしまうものなんだと、

変に納得してしまうのでした。


でも僕はこの

世界平和は家庭からという言葉を

ちゃんと実践できれば

本当に世界平和の第一歩になるのは間違いないと思い、

ずっと挑戦していたのです。


まず相手は自分を映す鏡なんだという

その意味をよく理解することに努めました。


これは自分のことでなく

他の人の話しを聞いていたりすると良く分かるのですが、


自分がやられたら嫌だな~と思うことを、

意外と気づかずに自分が相手にやっていて、

それを指摘されると

「そんなことする人は信じられない!」って思ってしまう、

そんなことする人だったりする自分を

相手に投影して見ているということなんですね。


だんだんそれが分かってくると、

相手がいや~なことをしてきているとき、

これはもしかすると自分がこんなことを人にしてるって?

と思うようになってきます。


そしてあるとき、

自分の行為がまんまその通りだったりするのに気が付くのです。


そのときの自分にごまかしの効かない状態に観念して、

自分が変わっていくのでした。


そこに行きつくまでには、

やっぱり凄い言い争いになったりして、


それでも一緒にいてくれたことに

本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


そして相手が鏡という部分と

相反するようなことがらとして難しいのが、


やっぱりやられると嫌なことを、

どの様にして相手に分かってもらうかということです。


自分を投影して相手を見ているのではないことが

ハッキリ分かるまでは必ず言い争いになっていましたが、

自分がその部分をクリアーしていたら、

怒りの感情ではなくて

もっと優しく相手の行為を見るようになってるので、


その行為をすることが、

その人自身と僕の関係性にとって良くないのを

伝えることができます。


お互いに一人一人の人間なので、

感性に違いがあって当然ですので、

どちらかが我慢をして過ごすことの無いように、

自分の嫌なことを素直に伝えることは

とても大切なことです。


ただそこに怒りや拗けが絡んでいないことを

自分でよく見つめなければ

せっかく相手を思っての行為も

全て裏返しになってしまうので気をつけたいところです。


その感じをお互いに理解しあえると、

お互いの存在はお互いの成長に欠かせないパートナーとなります。


でも僕はここからが

本当に相手を思えるかどうかの始まりだと感じました。


言葉に伴った行いができるかどうかの

段階に入ったのです。


僕は一緒にいるときは

なるべく一緒に家のことをするようにしています。


料理や洗い物、

洗濯ものを干したり、

掃除機をかけたり、

その時々で一緒にできることを

するようにしています。


自分一人でしかできないことや

お互いのそれぞれの時間は一人ですが、

一緒にできることや分担できることは

一緒にやったほうが楽しいです。


それが家族なんだと感じています。


僕も妻もビーガンで、

サーフィンをやっています。


同じ価値観を共有していると思って一緒になったものの

細かい部分の違いを本当に分かり合えないのが

とてもつらく感じていました。


どちらも人生を楽しもうと

お互いに協力し合おうと思って過ごしているのに、

すれ違いが起こってしまうのを、

5年越しで本当の家族として過ごすことができるようになりました。


かなり早いと思います。


そしてこのすれ違いを

乗り越えられただけでも

凄いことだと思います。


僕は僕以外の人で

ここまで信じることのできる人が存在することに驚いています。


僕が他の人を

このような感覚で見たことがなかったからです。


この宇宙で一人でもこのような人が

目の前に現れてくれただけでも

本当に有り難いことだと感じています。


そしてそれを感じさせてもらえるまで、

いろんな場面を共に経験してくれたことに感謝しています。


あとはこの気持ちを

どのようにして言葉や行いで

相手に伝え続けることができるかだと思っています。


そこはストレートに努力しようと思います。




2016年3月8日火曜日

覚悟について

今ここで真っすぐ進むか、

右か左か、

立ち止まるか少し戻ってみるか、

一様に考えて行動するのですが、

覚悟というものがあるのと無いのとでは

その後の人生が変わってくることについて

記していきたいと思います。


覚悟というと

よし!今からやるぞ!

みたいに感じていると思いますが、

そのような覚悟は疲れてしまって、

長続きしません。


覚悟とは

悟りを覚えている状態で、

自分がどの選択をしたのかを

覚えておくことです。


たったそれだけのことなんですが、

これをしながら生きていくとなると、

もう面倒なことと感じてしまいます。


そこに大きな変化の鍵があるわけです。


覚えていたとしても、

うる覚えのことが多いのは

決断するにあたって自分が決め手としたものが

何であったのかを覚えていないからです。


この世に生を受けている

全ての命が見えない未来へ向けて

歩いていくわけですが、

より良い未来を創造していくには、

今この瞬間に自分が何をするかにかかっています。


ただ何となく選択していくことが

ただ何となくよく分からない未来へ繋がっていくのは、

当然のことなのです。


自分が思い描く未来へ近づくには、

今何を選択するのがいいか、

それをハッキリすればするほど、

その道が繋がっていくわけです。


未来というもの自体が

様々な影響下で決定されてくのは仕方のないことですが、

自分の選択がハッキリした状態で

進んできた時間の積み重ねを

ある時振り返ると、


確実にここまで来た自分の足取りが

間違っていないことを確信できるようになります。


例えば僕はビーガンなので、

皮革製品は使用しなくなり、

服を購入する際にも、

メーカーのリサイクルポリエステルの使用率や

そのメーカーの環境的な姿勢を

考慮して選ぶようになっています。


僕が生きているうちに

もっと人と自然が調和した状態になることを望んでいますが、

今の僕にとって時間は関係ありません。


今僕はそのようにして

自分の身の周りにあるものたちを、

地球環境に配慮した選択で

全て整えています。


その連続がこの先も変わることはなく、

方向修正が必要ならば受け入れて

一歩づつ自分の思い描く未来へ向けて歩き始めていて

いつか到達する道の上にいるのです。


そのことが自分ではっきり分かると

例えば若かった頃の多くの過ちも、

この道を選んだ一つの理由として

光を当てることができます。


わざわざここに上げることはしませんが、

お天道様にもう秘密はありません。


ただ何となく決めていた一つ一つのことを、

これはこれ、これはこれ、と決断していく心地よさは、

必ず良い結果をもたらします。


その一つ一つの決断の連続が

覚悟だと感じています。


それでこんな映像作品を作りました。




















さすらうみちに ふくかせの

かかるくもさき はれわたす

さらすあやまち をにかえし

ここにかくこの きわまれり


覚悟をきめて

自分の人生を

自分のものとして生きたいと思います。



2016年3月2日水曜日

自分のことを決められない人たち

最近僕の身の回りの方たちと話していて、

ある傾向に気がついたので、

書き記しておこうと思います。


僕はこのブログを始めたころに、

ホツマツタヱを読んで

日本の古式床しい生活を現代生活の中で

実践できることからしようと考えて、

物をなるべく持たず、

捨てず集めず必要なものを選択して、

その選択もできる限りこの星に優しいこと、

この星の恵みに感謝のできる物を選んで、

ものごとの陰陽両面を意識して

行動するようになりました。


最初は自分を使って実験するぐらいの

気持ちから始めてみたところ、

それまでに自分に蓄積していた知識、


例えば、

禅の宇宙観、精進料理のこと、

ヨガの気の流れのこと、

マクロビオティックのことから、

若杉ばぁちゃんの言っていること、

ネイティブアメリカンの自然哲学や、

他にもキリがないほど、

つじつまが合ってきて、


自分の内側がみるみるうちに整って、

恐れは無くなり

迷わなくなって決断が早くなり、

失敗からも素直に学んでいくようになって、

というふうに変わって来たのです。


やはりそうなると気になる人も現れて、

特に食べ物に関しては、

分かりやすく実践しやすいことなので、

玄米菜食を始められる方も出てきました。


そしてその人たちにも少しずつ

変化が起きています。


僕は玄米に関して

完全無農薬の自然農法のものを食べれば、

必ず良い変化が現れると確信してます。


心も身体も軽くなります。


ただ、

そういう話に興味を持ってはいるものの、

現代的な食を含めた生活をやめられないと

言う方たちも居て、


そういう方たちはだいたい、

タバコをやめられないことや、

お酒の量を考えてることや、

お腹を壊すけど脂っこい味付けを好むことに、

ちゃんと納得できていない思いを、

僕に話しに来られるのです。


そこで、

本当にやめたいのなら

やめられるという話しをすると、

やめたくない思いについて

話しはじめるのです。


ここで良く勘違いをされる人がいるのですが、

タバコやお酒や肉食にしても、

身体への負担がかかっているというだけで、

やってはいけないことではありません。


それが無ければ

生きていられないかのような

依存になってしまっている心が

健全ではないのです。


もしもここでその依存を断ち切れない理由が、

タバコやお酒やお肉の方に原因があるなら、

それらは本当に悪い物でしかないので、

法律でちゃんと規制しなくちゃならない

ことになります。


そういうふうに依存状態にあることを

丁寧に説明すると、

その次にだいたい返ってくるのは、

お医者さんや、家族、会社での付き合い、

テレビなどがこんなことやあんなことを

言っていたし、みんなそういうふうにして、

みたいな話しが展開していきます。


ここで僕と違うなぁと感じるのは、

僕は自分が良いと感じるかどうか、

そこが全ての始まりなので、

誰かが僕に言っていることが、

良くないと感じた場合は、

周りがどうであっても

僕の判断でその行為をしません。


良いかどうかが本当の意味で分からないものは、

自分の判断でちゃんと調べることにしています。


誰かの話しを鵜呑みにしません。


たとえおしゃか様やジーザス様や

スサノヲ様や尊敬する先輩が言っていてもです。


なぜなら、

僕には感じることができて、

考えることができて、

行動することができて、

間違いから学べて、

喜んだり悲しんだりすることができる、

命を授かっているからです。


この命が持っている能力のどれもが

一人一人に備わっているのですから、

僕より凄い人もいなければ、

僕より劣っている人もいません。


もし感じることができるなら、

魂の宿る全てのもの

動物や植物、

石や水、風や太陽や星、

宇宙人も神様も

みんな自分で感じて決断するのですから、

僕より凄いものもなければ、

劣るものなどないのです。


誰かが僕より凄いのであれば、

同じように僕もあなたも彼も彼女も凄いのです。


ただ、

自分が素直に感じる心に

ちゃんと正直でいないと、

すぐに分からなくなってきます。


自分を少しでもごまかしてしまうと、

自分が感じる自分の微細なバイブレーションを

見逃してしまいます。


僕を構成する全ての細胞から

吸い込む空気や内に宿る魂も

全部自然の一部なので、

素直であればあるほど、

自然な状態になっていこうとします。


独断的な人間だけの社会を超えた

大きな自然の動きに合わさっていきます。


決断して行動するのは、

自然の変化にタイミングを合わせること

それだけで十分なのです。


何かのためだとか、

そういった理由から考えても

分からなくなるだけです。


シンプルになれれば、

そういった理由が必要なのでなく、

なるようになる仕組みを

言葉は説明しているだけなのが分かります。


自分で考えて行動して、

学んで次へ向かう。


このシンプルなことが自分の判断で

出来ない人が増えているのを感じます。


自分が何をするにも一番最初になる

自分が今どう感じているのかの前に

周りのことに気を使ってしまっている人が

とても多いのは気になっています。


綺麗ごとを言っていても始まらない

そんな時代に入って来ています。


どこを見ても

余裕など無い人たちが多くなってきています。


でも、

シンプルな生活をすると、

これまでの過剰な豊かさを求める生き方では

続かなくなっていく現実と、

欲しがる心が目の前にある豊かさを

隠しているだけということが

分かってきます。


自分の力で生きていないとしたら、

誰かに自分の決断を委ねているとしたら、

そこには不満も出てきます。


自分で決めて引き受けるということが、

全てを良くしていく始めになっていきます。



2016年2月24日水曜日

バランス感覚

ポジティブにものごとを見るのと、

ネガティブにものごとを見るのでは、

同じ事象も全く変わってきます。


なんだかんだ言っても、

ポジティブな方がいいよなぁぐらいに

感じている人は多いと思います。


ネガティブな発想が

更にネガティブなことを引き起こす、

負の連鎖を避けたくて

ポジティブでいることを

心掛けている人も多いと思います。


今この世界を見渡したとき、

みんなが幸せを目指して

できるだけポジティブに生活しているのは

間違いないのですが、

どうも上手く行ってないところがあります。


何故なんでしょう?


そしてそれを何とかするために

更にポジティブな方向へと

ものごとを持って行こうと

みんな頑張るのですが、

そこは少し丁寧に見ていく必要があります。


何故かというと

ポジティブなことを別の観点から見たとき、

ネガティブな部分が必ずあります。


必ずです。


ある方向性を向くことに対して

別の方向性のことが必ず発生していることに

気付いるのといないのでは

後の導かれることが変わってきます。


ある目的に対して正の方のことが

負の方に対して大きいとき、

一見ポジティブな感じがしますが、


その小さな負を無視して進み続けると

積もり積もってその負の状態を

制御出来なくなることになります。


今の世にある問題とされていること全て、

この制御出来なくなったポジティブの裏側が

そのように現れているのです。


戦争も、

経済的な格差も、

環境破壊も、

人口の問題も、

もっと範囲を絞って、

人間関係から、

家族のこと、健康のことまで、

人間を取り巻く全ての問題は、

もともとネガティブなのではなく、

ポジティブな発想から生まれています。


安定した平和をもたらすため、

便利で豊かな生活をするため、

ずっとそうやって頑張って来た過去を

別の角度で見てみれば分かります。


絶対に正しいと思ってしまうことで

見落としてしまう小さなズレが、

この時代に入って、

見過ごすにはちょっと大きくなってしまって、

あからさまに目の前に現れています。


それを見なくて済むように、

更にポジティブを目指しているので、

ポジティブでいることがとても大変です。


そんな命懸けのポジティブに

心の余裕など無くて、

ネガティブな世界に

押し潰されないようにするのを

ごまかし続けるのはもう無理でしょう。


もうそうなると、

ポジティブが良いのではないことが

分かると思います。


もちろんネガティブも良くはありません。


良いふうに言われていることを、

丸呑みにしてしまうことは

もうやめるべきです。


安心しようとすれば

不安が付きまといます。


安定を求めれば

不安定を意識させられます。


ポジティブなものとネガティブなものは

常にセットであり続けます。


良いことをどんどん推し進めていくと

悪いことをどこかで増長させていきます。


何もしないのが良いのではありません。


そうやってものごとが

陰と陽、正と負、静と動、

常に影響しあって進んでいくことを理解すれば

真ん中がだんだんと見えてくるようになります。


そうすれば少し行きすぎたら戻すことも、

少し足りなければ足すことも、

自分の感覚として分かるようになります。


ネガティブな感覚をただ遠ざけるのではなく、

ポジティブを上手に引き出すために

ちゃんと意識して活用するのです。


行き過ぎたポジティブが生み出すネガティブを

ポジティブに埋もれさせようとせず、

ちゃんと見て理解して

行き過ぎたポジティブを慎みましょう。


そして中庸でいることを意識しましょう。


それができるようになると、

慎むことが更に大切なのが分かります。


悪いことを慎むのと同様に、

良いことも慎んで行うのです。


高いところへ行けば、

その分降りてこなければならなくなります。


しっかりと自分の足で立ちやすい

平らな地面の上でバランスを取るのが

一番楽でしっかりします。


自分の目線で周りを見れば

自分にできることが分かってきます。


それをやれば問題は片付きます。


ポジティブになることに

必死になる必要も無ければ

ネガティブを無くすために

頭をグルグル使う必要もありません。


両方を自分の目線で見て

タイミングを見て必要なエネルギーとして

使っていけばどちらも有用なものになります。


ものすごく悔しかったり悲しかったりすることで

前進するのはそういうことです。


感情に対してドライでいる必要はありません。


どちらにも傾倒しなければいいだけです。


どちらにも振り回されなければいいだけです。


そのためにも慎み深い心で

日々を過ごすことが大切になります。

2016年2月18日木曜日

健康という考え方から見えてくること

健康でいることと

幸せであることは

とても密接な関係にありますが、

健康とはどんな状態のことを

言うのでしょう。


美味しい物を食べられて、

元気で長生きできたら

それで幸せです、と


以前は思っていたのですが、

最近は感じ方が変わってきて、


今、身体と心が健やかに

自分らしくあることが健康なこと、と

思うようになりました。


どのように変わったのかを

説明していきましょう。


多くの人がある程度自分の健康を

意識して生活しているのは間違いありません。


でも、

自分の健康を

断言できる人はいなくて、


この国のほとんどの人が

ガンや脳卒中や心臓疾患にならないように、

健康診断を定期的に受けています。


実際には健康かどうかの判断を

自分と違うお医者さんにしてもらっていて、

その人の言う食生活や運動を実践することで、

何となく健康に気を使っているという人が

ほとんどではないでしょうか。


以前の僕は少なくともそうでした。


自分が健康かどうかを

自分では判断できなかったのです。


病気を恐れる思いが、

心のどこかに不安を作り出しているので、

健全な健やかさを理解することは、

ありませんでした。


玄米菜食をするようになって、

食べる行為がどれ程直接的に

身体の感覚に関係しているかを知ると、

以前の食事がいかに満足感を刺激するための

行為だったのかが分かりました。


味付けにインパクトがあって、

食べ応えがあって、

満足感を得るのが

食事の醍醐味という感じでした。


でも、しょっちゅうお腹を壊していました。


でもまた時間が来ると、

また満足感を求めて別の食べ物を

腹一杯食べたいと思ってしまうのでした。


僕が禁欲的になった訳ではなくて

身体に優しい食事によって、

欲が作り出してしまう

満足感を求めようとする仕組みを

理解することができたのです。


満足感を刺激することが

常習化していたために、

どんどん刺激を求めることを、

幸せを求めることのように

感じてしまっていたのです。


それがわかると、

心と身体の健やかさは  

医学的な健康管理の考え方と

少し別のところに起因していることを

理解できます。


栄養学的なカロリー計算などで、

身体の機能を維持する見方も、

完全に間違いではないのですが、


心も身体も含めた

全体のバランスとして考えると、


例えば、

痩せなくてはならないと言われて、

「食べたい」と思う気持ちを

抑えたりすることや、


栄養があるからと言われて、

「食べなければならない」と

強迫観念みたいに感じていたりすること、


本当は口にして嬉しくないもの、

例えば化学薬品や添加物などを

しょうがない事として摂る行為は、

心の健やかさを全く無視しているので、

必ずどこかに歪みが発生してきます。


そのままそれを気にしないでいると、

身体的、内面的な歪みが病気という形で

現れて来ます。


どこかで無理をしていれば、

それがその通りに現れて来るだけなのです。


無理をしている部分を

気付いたら素直にやめる

ということだけでいいのです。


病気になるかもしれない、

という不安に対処することを

健康管理と考えていると、

他の人の言うことが気になります。


食べた方が良いものや、

食べない方が良いもの、

してはいけないことや、

やらなければならないこと、


それら全てを自分以外の人が決めている、

そのような状態は

僕は健全な健康とは呼べないと思います。


どれ程お金を出して検査をしても、

無理をしている自分を止められなければ

健全な健やかさは無いのです。


欲を満たすための食事をして、

身体の調子を崩して、

薬で症状を押さえ込んで、

また欲を満たす食事をして、

を繰り返して、

不安を持っていても無視をして、

自分ではどうにもならない症状がでると、

お医者さんにその症状を抑える薬をもらう。


その行為が何かを治しているとは、

思わなくなりました。


そのような生活の中で感じていた

刹那的な幸福感は

自分の心と身体を健やかにはしていない、

ということを理解すると、


刺激的な美味しさを求める考え方も

ただ長く生きるための医学的な考え方も

僕には無くなりました。


自分ことに気がつかないまま、

自分以外の人が判断する健康に

従うことにストレスを持ちながら、

病気への不安をどこかで感じている生活を

止めたのです。


自分の身体に起こる変化を感じながら、

自分で自分のケアをするのが、

心も身体も最も健全な状態だと、

分かったのです。


自分を健全にする選択を

自分の手で選んでいるので、

納得して生きている実感が生まれます。


それでもなってしまう病気は

その時学ぶべきことが自分にある事でしょう。


自分に対して、

無理をせずどれだけ素直か、

今僕が思う健康とは、

そういうことだと思うようになりました。




2016年2月8日月曜日

ホツマツタヱという書から感じること

僕がこのブログに書いているような精神性を

いつから意識し始めたのかを考えてみると、


子供のころから

「人は何で生きているんだろう?」と

ずっと思っていて

よく親に質問しても上手くかわされたのを覚えています。


子供の頃はあまり深刻にはなっていませんでしたし、

楽しく遊ぶことでそんな疑問はすぐにどこかへ

飛んでしまうのでした。


でも歳を重ねていくと、

何かその答えになるものが欲しくなっていて、

十歳のころには実存主義なる哲学書を

手に取っていました。


あまり辛気臭い感じに思われるのも嫌だったので、

夜に一人で机に向かって読んでいました。


思春期から二十歳のころまで、

ずっとロックバンドを組んでいたので、

結構いろんな考え方に接する機会が

多かったと思います。


ある程度有名な文学作品も読みましたし

海外のカウンターカルチャー的なものから、

日本のアンダーグラウンドなものまで、

自分の疑問の答えになるような言葉を

ずっと探していました。


それでももっとカチッとくる言葉が欲しくて

ネイティブアメリカンのメディスンや

旧約聖書やヒンディー教のタントラ、ムスリムのコーランも

読みました。


書かれている事はどれも素晴らしいと思うのですが、

何か距離感があるように感じたのでした。


三十代になって仏典にも目を向けてみるものの、

何かまだもっとはっきりとしたものに出会うような気がして、

そのころには自分の疑問にいつまでたっても

答えが見つからないことに少し焦りのような気持ちも

持つようになっていました。


日月神示や火水伝文にふれ、

言葉の優しさがとても心地よく感じたのですが、

まだ分からないことが多くてまだ探してしまう自分を

抑えることが出来ませんでした。


そしてホツマツタヱに出合います。


オオタタネコの命が景行天皇に奉呈したとされる

日本の古代のできごとをヲシテという文字で綴った

古い書物です。


このことはホツマツタヱが正しいとか間違っているとか

そのようなことが言いたいのではありません。


ただ僕の中に安心感が生まれたのでした。


僕は三輪の姓を持つので、

もし真書であれば約二千年前の僕のご先祖様が

「末の例とならんかと」残してくださった言葉に

触れていることになります。


もしも偽書であったとしても

和の心が丁寧にしかも細かな整合性を持って

全編に表現されている一級の芸術作品に

間違いありません。


ヲシテと呼ばれる文字一つ一つにも、

細かな意味に合わせてその形が決まっていて、

美しさを感じることが出来ます。


多くの方が現代語訳して下さっているお蔭で

読み比べながら自分の中に風景を描きやすく、

初めて読んだその日に、

「これだ!」と確信したのです。


自分の中に納得のいく感覚が生まれると、

それまで答えを求めて学んできた全ての言葉たちは

出会ったその時点の自分には

少し遠く感じていただけだったことも

理解できました。


自分がそれまでいろいろ学んで来た経験を

上手くまとめられなかったことが

もっと大きな視点から

一つにまとめることができたのです。


そして実際に生活の中で実践することを

意識するようになります。


今僕が完全菜食になったのも、

ホツマツタヱに、獣の肉を食せば血が凝って身も枯れるぞ、

それは濁った水が乾きやすいのと同じことなのだぞ、

とあったのを見てからです。


腑に落ちないことができない自分に

この言葉だけでそれ以来肉食をしなくさせる

作者の優しさを感じたのです。


お蔭さまで僕の身体は

記憶にある年数風邪をひいていない

健康状態にあります。


何かが正しくて何かが間違っているような

感覚で読んでも見えてこないものがあって、


それは、

陰と陽の相互作用から全てが成り立っていて

足りなくても過ぎてもいけない、

その中を大切にするための説話によって

綴られていることによるのだと思います。



「末の例とならんかと」残してくれた言葉たちに

これからの日本の、世界の在り方のヒントが

詰まっているように感じています。


そして僕はホツマツタヱの言霊たちを

現代に蘇らせる何かお手伝いをしたいと考えました。


ずっと音と映像で何かできないかと考えていたのですが、

今回、ヲシテで詩を詠み、

それに音を合わせるという手法にしようと思いたちました。


僕の表現はホツマツタヱのエッセンスを自分流にアレンジして、

現代に新しい形として蘇らせたいとの思いもあって、

詩は7、5 7、5 7、5 7、5 の今様で表しました。


並びもグラフィックにしたとき

その文字配列が綺麗に見えるので

和歌で詩を詠むのはまだもう少し先になりそうです。


ただ現代に蘇らせるには

ヲシテを使う事が一番大切なことだと感じています。


今回は2作品をYOUTUBEにUPします。


くにとこたちへ わのちかい

たててあゆまん そのみちに

はるかふくかせ あたたかく

こころほつまに はなもさく





あめのむすひの たまのをの

みたれほとくは おのつから

あまつひつきに まつろひて

あわすこころの ゆえおしる




これを詠んでまた何かを感じていただけたら幸いです。