2016年6月14日火曜日

最悪の事態に備える?

僕は最近、

この世界が試されているように感じています。


民主主義っていうものが、

本当に人間の生活を良くしていくのでしょうか?


資本主義っていうものが、

僕らの生活を豊かにしていくのでしょうか?


技術革新が

多くの人々の病魔を無くしていくのでしょうか?


政治家が変われば、問題は起こらなくなる?


経済が上手く循環すれば、争いごとが減る?


最先端技術が、僕らの幸せを牽引していく?


僕の答えは「NO」です。


必要な視点を自己の内に持てないままでは、

今の文明がどれだけ発展しても

幸せで満たされることはありません。


今後もっともっと価値観が多様化していけば、

多数決という考え方は通用しなくなります。


多数決が自由を縛っていくことに気がつくでしょう。


全てをお金に換算させて

それをコントロールすることで成り立って来た経済システムは、

今後一定の地域内で格差が広がっていけば、

命懸けで不満を顕す人々も更に増えるでしょう。


自分にとって要らないものに

命懸けになるような人々を生み出す経済システムから

自由になる生き方をする人が増えてきています。


技術革新がもたらす便利さは、

不便であったが故に必要だった

ものごとの関係性を一変させてしまいます。


楽に出来ることに慣れていくことは、

価値観を変えていくことを加速させます。


技術的な革新がもたらす変化は、

人間がそれを担う以上、

間違いが何処かにあったとしたら、

気づくまで転がり続けるということです。


目の前のごく一部だけを変えようとしてバランスを崩せば、

それは自然の摂理に則って反動が起こり、

人間の技術を上回る事態に発展するでしょう。


例えば、原発事故は、

そのようなものだと考えています。


事故の起こる前に危険と言われていた基準は

今は全く関係無くなってしまいました。


それまで言われていたことは、

解釈の仕方を変えて全く新しい基準に変わりました。


確かに放射性物質が出てしまった以上、

10万年は事故以前で言うところの汚染物質と

向き合って行くことになります。


事故をそのまま放って置く訳にもいかないので、

とにかく出来ることから片付けていくより仕方ありません。


そこに頑張る美しさを見ようとしても

現実はそれだけではありません。


今の日本の中には、

放射性物質を気にしない人も多いので、

全国にばらまくことになってしまいました。


気にする自由があってもいいと思ってる僕は

自分の気の済むように食べ物を選択します。


以前から在る農薬や食品添加物なんかも

気にするようになった僕は、

誰かの言っていた常識は完全に捨てて

自分で考えて選択するようになりました。


にっちもさっちも行かなくなってるのに、

まだ無理矢理発展させようとしている社会システムから

与えられる価値観の中で生きていくしかないと思っていましたが、


少なくとも自由であると謳われた国に住んでいるのですから、

みんなと一緒の価値観から離れて

それらを利用するスタンスでいくことにしました。


自分と社会問題の距離感がハッキリしてきます。


例えば憲法の問題にしても、

誰が作ってようと中身が良いんだったら、

変えなくてもいいんだろうなぁとか思います。


時代に合わせてって言っても

時代が変わっても普遍的に良い事のために

人間が頑張るのがいつの時代も必要なんじゃないでしょうか。


それでも変えるのならば

変えたい人の都合が普遍的な良さを超えて

法の下に顕現されるのでしょう。


また社会福祉のためにお金がかかるようなことも、

病気とかそのものを作り出す原因と思われるものを

無くしていこうとする社会にはならないわけです。


食べ物や飲み物を企業努力として

安定した供給を安価で提供するには

いろんな化学物質が必要なんだそうですが、

そもそも要らないものだったりするので僕は買わなくなったのです。


すべてのサービスは市場社会にあって

それをお金に換算しなければならないので、

まず会社の利益確保を第一にしなければ

サービスも無くなってしまうという矛盾は置いといて、

あくまでも人々の幸せのためにいろんなものを混ぜ込んでいくようです。


また例えば、東京大阪間を今よりもっと速く移動するために

何兆円もかけていろんなところに穴を掘るようですが、

産業を創出していくうえでも

もう少し国内の状況を見て順序を決めないと、

より良い社会ののためという部分もお金になっていくので、

取って付けたような倫理観に基づく社会が出来上がるでしょう。


でも子供の頃の夢を実現するのも自由なので

その選択自体は悪い事ではありません。


ただ自然環境に負荷がかかるということは、

必ずそれ相応の環境汚染として人間に返ってきます。


こういった問題が在ることを気にしないまま

人間は生きていくことができる、

その「最悪の事態に備える」必要があると思うようになったのです。


何も気にしなければ何もなかったかのように

変わっていくものごとの全てに裏表があって

表向きはとても素晴らしいことでも、

その裏側にはそれなりのことが山積みだったりします。


多くの人はできるだけ静かに

自分の幸せを楽しんで生きようとしているだけだと思います。


それを面と向かってあぁしろこうしろ言われるのは嫌なはずです。


でもみんながやっていることに何の疑問も持たないでいると

知らないうちにやらされているということに気が付かないというのが

今の世の中の「最悪」なところです。


社会全体で一つの大きな夢を見て

それを実現しようとする今までの日本の在り方では

もう人が人らしく生きていくことができないでしょう。


知らないうちに限界を超えたところで、

生きていかなければならない、

そんな「最悪の事態に備える」には

どうしたらいいのでしょうか。


答えは主体的に生きるということです。


このことに関してメリットこそあれ、

デメリットになることはありません。


僕は今、自分の決めたルールに従って生きています。


憲法や法律や社会規範は、

目安にさせてもらっていますが、

それ以上のものではないと思っています。


僕の目の届く空間に居る人と一緒に居て

心地よく過ごすことが第一条件で、

そこで何をすべきかその時その時考えます。


僕はそこで人種や宗教や思想や性別などで

仲間かそうでないかを分けません。


友達という区別もありません。


不愉快な行為に対しては

喧嘩になったとしても

自分の不愉快になった行為を糾弾します。


もしも自分の思う心地よく過ごすための行為が

相手に不快感を与えてしまう時は素直に謝ります。


ただその行為が自分にとっては今後も必要だと感じる場合は

その場から去るか、その旨相手に伝えて対策を考えます。


理屈はまず関係ありません。


相手をリスペクトしていこうという

お互いの人間性の成長過程で、

気が合わない、ということもあり得るからです。


その都度その空間に居て

一番心地よく過すために相手をリスペクトしていくことは、

社会と自我の境界線を穏やかなものにしてくれます。


パッとすぐ上手くいくこともあれば

時間がかかることもあります。


一番よくやることは何かと言えば、

まず呼吸を整えることです。


気持ちいい呼吸をすることに集中します。


それ以外はあまり必要ないかもしれません。


時間を埋めるための会話や機嫌取りのようなことは意味がありません。


気持ちいい時間が流れ出せば

お互いに興味を持つことから

会話は流れていきます。


相手をリスペクトするという

最低限の心構えさえ出来ていれば、

必要ないことはしない方がいい場合がほとんどだと思います。


相手に何も求めませんし、

何かを求められるのも違います。


嫌なことは自分の命がかかってもしません。


そんなことをして生きていても

生きるのが辛くなるのが分かるからです。


それでなければ命がけで嫌なことをしないという選択をします。


相手がいる社会という場所にあっては

全てが自分の思う通りにはいきません。


でもその相手が

自分とは違う部分があって

それをどう経験して今に生かしているかを

自分の言葉で語ることのできる人とは

一緒にいて楽しい時間になります。


今この世界における

「最悪の事態に備える」中で

何を学んで今の自分に生かすことができるかを

試されているんだと思います。


「最悪」な世界を楽しむには

主体的に生きることです。


やり方なんて気にする必要ありません。


やっていく中で決まっていくんです。



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