2017年12月11日月曜日

時代が変わるということ

今年も師走に入ってだんだんとやることが増えて来ました。


今年の内に済ませておきたいことと、

来年に向けての準備と、

やはり年が変わるという節目を、

なるべく良い状況で迎えたい、

そういう思いがこの忙しさを作っているのでしょうか。


世間に目を向けてみても、

良くも悪くも賑やかに、

移り変わりの節目へ向かって物事が動いているように感じます。


そんな移り変わりを大きな時代の変化という観点で捉えてみると、

世間のワサワサした雰囲気の中からも、

自らの進むべき道が見えてくるのではないかなぁと思います。


最近は本当に物事の移り変わりが早くて、

この間まで何でも無かったような物事が、

いつの間にか普通に生活の中に取り込まれていたりして、

新しい時代がやってくるという感覚を

ワクワクしながら感じているのは、

僕だけでは無いと思います。


でも新しい時代に今までのそれと

違いを感じる人もいれば、

感じない人もいるのではないかと思います。


例えば自分の人生に置き換えて変化を見た時、

ある時点で自分の子供時代が終わったと感じていますが、

未だに子供っぽさを残した自分自身も見ることが出来ます。


でも新しくなるということは、

例えば今上げた子供っぽい自分と

それを卒業していると感じている自分が、

新しいバランスの取り方で共存していくような、

そんな感覚で捉えられるのではないかと思います。


実際僕自身が今そのように変化をしていっていると感じていて、

少なくとも今までの自分に一区切りつけられる、

新しい時代が来ていると言えます。


でもこういう変化が僕だけではなくて、

別の多くの人からも感じるので、

世界という規模で変わって行くのも時間の問題ではないでしょうか。


変化自体を自ら求めていたというのがあったとしても、

ある時は受け入れ難い状況の中から、

ある時は何事も無く、

変化することが決まっているかのようにタイミング良く切り替わって、

またその変化の訪れるペースが上がっていることもからも、

この時期に変わって行くことが

個人を超えた特別な意味を持っているように感じています。


時代が変わるというと、

どうしても良くなってほしい部分の方向で考えてしまいますが、

良い部分も悪い部分も合わせて両極を理解していくことで、

それら全体を統合していく中に変化が生まれて来ます。


なので浮足だった状態で未来へぼんやりと期待しているだけでは、

両極が渦巻く大きな力に

翻弄されてしまいます。


本当に目指したい未来のためには、

今自分は何をすればそこへ向かっていくのか、

という視点を持つことで足元をしっかりさせることが出来ます。


まずはザックりとした未来へのビジョンを作ったら、

そこへ向けて一つづつ出来ることを積み重ねていく事が大切だと思います。


自分のビジョンに直接関係無いような事や、

あまり先のことに囚われないようにしながら、

今目の前にあることに集中するようにしていても、

それでも飛び込んでくる何かしらのニュースは、

未来へ向けて時代が大きく変わっていく流れを
感じさせてくれるでしょう。


多くの人がそのように感じることが、

三次元的に形としてそのように現れてくるだけなのかもしれません。


未来というものは不確定要素の固まりなので、

だからこそどんな未来にしたいか、

という思いを持つことから

作られていくようになるのです。


そして本当にそれを実現する手段は、

どんな未来を通っていくとしてもその状況に対応して

自分のやりたいことをキッチリやっていく強さを持つことです。


まさにその行為が新しい時代を作っていきます。


そして今僕自身が

時代が変わって行ってると肌で感じるのは、

そのように自分の進むべき道を自ら歩んでいく人達が

様々なシチュエーションの中に現れて来ているのが見えるからです。


ある時代が終わるといっても、

新しい時代は確実に以前の時代を越えて来るので、

丸っきり変わらないように見える側面もあるでしょう。


でも目には見えない部分は、

確実に変わっています。


今まで目に触れ難かった物事が人の目に触れるようになって、

そこから感じることをまた多くの人とシェア出来るようになって、

今まで一辺倒だった価値観がどんどん多様化しています。


そこからまた共通の部分が見えて来ると、

その輪は瞬く間に広がります。


その変化して行く方向と、

そこから感じることと、

それらを一歩退いて見る視点を意識できれば、

多くの人との関係性が新しく出来上がっていくようになります。


そこには普遍性のある言葉を越えた何かがあって、

例えば「愛」というものであっても、

自分にとってそれが何なのかということが

だんだんと明確になっていくでしょう。


例えばルールやマナーなどといったものも、

現時点でも必要があって

言葉に託されているだけのことです。


まず尊い人と人があって、

全く違う世界観を持つものとして、

上手くお互いを尊重するための

道具として存在しているだけです。


そしてその道具を上手く使って、

お互いを最大限尊重するようにしてみると、

言葉を越えたものが必ず見えて来るようになります。


それはもう既にある尊い存在としての、

自分に気づくだけなんですが、

それが最初からすぐに見えない現代の状況は、

その見えないものの扱い方を

間違えたくないという思いから来ているように感じます。


誰もが自分自身を尊い存在として扱って欲しいと感じています。


それと同じく周りへとその扱いを広げていく時に、

勘違いなどから相手も自分も傷ついた時代を経て、

閉ざしてしまった部分があるのです。


少なくとも僕自身は

そういった時代を経て、

新しい感覚を持って、

改めて心を開いて生きたいと、

もう気持ちを切り替えることにしました。


この時期に出会ういろんな人との関わりや、

自分の経験から感じたことが

もう閉ざすのは違うんだと、

ぐいぐい自分を押し出してくれているように感じています。


開いていく流れに乗りはじめている今は、

視野も広くなってきていて、

以前はこういう時はこういう風にするのが良いと信じていたことも、

その場その場に対応して、

新しいやり方方を考えるゆとりが

自分の中に生まれて来ています。


本当にこれから何でも新しく作り上げていく事で、

時代が出来ていくという感覚です。


待っていても何も起こりません。


僕は僕の未来を僕の手で

作り上げていく、

ただそれだけの事を普通にやっていこうと思うようになった、

そういう時代が始まっています。



2017年11月23日木曜日

「見守る」という意識の使い方

僕は今月に入ってから、

「見守る」という意識の使い方を意識していて、

その事によって何がどう変化するのか、

という事を見ていました。


まず「見守る」ことについて意識し始めた

自分の変化から話していきましょう。


例えば、相手にどうしても伝えたいことがある時、

いろいろと言い方を変えて、

その相手に伝えるという努力をすることってあると思います。


これこれはこうする方がいい、

これこれはこうしない方がいい、

なぜなら結果がこういう風になるからです。


というようには簡単に伝えられない場面の方が、

多いという事はないでしょうか。


何度言っても伝わらないと感じたり、


伝えた事が自分の趣旨とは違うように受け取られていて、

まぁいいかって思ったり、


結果がそうなると言っていたことが、

そのようになっているにもかかわらず、

それさえも気付かずにまだ繰り返している、


という状況があまりにも多くて、

その度に自分の伝え方について深く考察しては、


コミュニケーションというものが

何を本質として起こってくるのか、

にたどり着いたり、


この世における優しさの限界を知ったり、


人の持つ二面性の両極から中庸を学んだりして、


とても個人的には本当に有り難い学びを頂いたと思うのですが、

このままではいつまで経っても超えられない相手との壁がある

ということを思ったんです。


伝わらない事自体にフォーカスしないようにしたりもしました。


あくまでも大切な事を淡々と丁寧に、

表現していく。


その過程で見えて来るものは、

自分の至らない所として受け止めて、

更なる成長に向けて努力を重ねていく。


そうやって魂は磨かれて行く事に、

間違いはありません。


本当の意味で、

上に掲げたことを実地でやることで、

人としての魂はとても素晴らしい輝きを放っていきます。


まずその成長へ向けて踏み切ったからこそ、

次の展開へと来れたことには間違いないのですが、

上に掲げたことは、

全て自分の内側だけで終了していってしまいます。


伝わったか伝わらなかったか、

伝わらなかった時の自分の至らなかった点は何だったか、

その時に感じた自分の気持ちに嘘が無いように、

思いを残している事は無いか、

ずっと自分に問い続けている、

そんな日常の一面も続いている気がしていて、

僕自身の中でも次の展開がなければ、

相手の居る世界が自分にとってキツイだけになってしまう、

と感じはじめていました。


でも、またある時、

ガックリしてしまうのです。


なんで分からない人がいるんだろう。。。


大きなお世話かもしれないけれど、

その人が求めているものは、

僕の経験を通して知っているものから

知ることが出来るはずなのに。。。


僕はそんなに他の人に

期待をしてしまっているんだろうか。。。


僕の中では、

他の人の歩んでいるペースを尊重していると思っていて、

自由であることを尊重していると思っているんです。


でも、その人が求めているものが、

すぐそこにあるのに見えていないのを教えてあげたい

と思ってしまっていました。


それが自由を尊重することとは逆の事だと

気がつく時が来ました。


ある日のこと、

見えないところにも相手がいる、ということで

どうしても優先した方がいいことが有る時に

そこから先に進めていく方がお互いのためになるならばしたほうがいい

という話しをしたそのすぐ後に、

だからといってそんなに雑になる必要が無いはずのことを、

全く気にならないまま雑にしてしまう人がいました。


その時僕は

それにはそれに相手というものが存在していて、

それが雑になってしまったら、

またそれによってそのお互いのために良くないんですけど、

と言おうと思ったのですが、


その人は、

さっき話した事柄を

一生懸命に頑張っているのでした。


その時、

見えないというのは、

こういう事なんだと理解できたのです。


いろんな理由があると思います。


いろんな側面からこの事象を考察することができます。


僕の中にもいろんな思いが湧いて来ます。


でも全部を一旦横へ置いて見守ることにしてみたんです。


そうすると全く新しいものの見え方がしてきました。


どんな瞬間も、

自分の人生に一生懸命ではない人など居ないんです。


人それぞれの感じ方の中で一生懸命考えて行動して

その中からまた感じたことで次の行先を一生懸命選んでいきます。


その経験から何を選択していくのかを、

他の人が決めることは出来ません。


どうしても自分とは違う選択をする人とは一緒に居ることはできないのですが、

その場を離れるかどうかを決められるのはその違いが分かっている人だけです。


その違いが分からない人は、

その違いを経験をするためにその場にいる必要がある

ということも言えるでしょうし、

分かるまでその選択をし続ける場が必要とも言えるのです。


分かって初めて、

場を離れるか留まるかを選択する自由が生まれてくるのです。


その選択の自由を手に入れている人と、

その選択の自由まで辿り着こうとしている人では、

もちろん見える景色は全く違います。


僕には選択する自由がありました。


この時初めて僕は見守るということをしてみようという気持ちになったのでした。


何があっても、

先に、こうなるからこうしましょうとか、

言うことはありません。


全部なるようになるまま、

手だし口出しはしません。


無視するのではありません。


見えていない部分で気が付いていないところは、

そっと自分がやらせていただきます。


完全に甘やかしてしまうのではありません。


必要な時は、

「これ、こうしましょう。」と

提案するようにしました。


理由を聞かれたときに、

初めて詳しく教えるようにします。


人はそんなにすぐに変わることはありませんでしたが、

自分の中で分かったことがあります。


僕は今までずっと周りからこういう風に見守ってもらっていたんだということです。


親や友人や御先祖さまや地球や神々様や、

本当に多くの方々が陰で見守って下さっていたんだなぁという事が分かりました。


そうすると他の人のことを見守るだけでなく、

自分自身の未熟なところも

自分で見守っていく視点を持つようになりました。


だめだなぁとか

まだまだだなぁとか思うのではなく、

少しづつでも変化をしていることを、

一つ大きな視点で見守って、

良い変化に「よし!」と太鼓判を押していくのです。


見張るのではないので、

疲れてしまうことはありません。


このことが一番大きな変化として

自分に起こっているように感じます。


さらに肩の力が抜けて、

優しくあった自分の本来の姿を思い出します。


そうすると自分を見守ってくれていた

大きな存在たちへの信頼をも強くなり始めました。


決して彼らは僕に注文を付けたりしてきません。


完全な信頼を置いて僕を見守ってくれているのです。


僕も周りの全てに何を注文つける必要があるのでしょうか。


周りの誰にも、

ましてや自分自身にも何かを要求するようなことをしなくてもいいのです。


いろんな経験を一生懸命に感じた通りに精一杯やりきれば

それ以上のことは起こらないし必要ないのです。


そしてそれは僕から周りの世界への絶対的な信頼が

思い出された瞬間でもありました。


今までずっと愛の中で自由に泳ぐことを許されていたのです。


僕がそれをそのままこの世界へ向けて同じように届けていけばいいのです。


これまでの自分自身が経てきたことで

今ここに居るという事は間違いありません。


この「見守る」という意識の持ち方で、

僕は相手のいるこの世界への扉を大きく開け放つことが出来たのです。


全てが自分を受け入れてくれていたように、

僕もそうするだけでよかったのです。



2017年10月8日日曜日

夫婦という関係

今月、妻が誕生日を迎えて、

その時に本当に心からお祝いしようと思った事で、

僕自身が大きく気づくことが出来たことについて、

記しておきたいと思います。


その日へ向かう何日間かは、

今まで以上に妻に喜んで欲しいと思って、

ごちゃごちゃした感じではなくて、

シンプルな幸せを味わえるようにするには何がいいだろうと、

頭を捻って過ごしていました。


この秋に二人でバリ島へ旅に出てから、

二人の関係はとてもいい感じになっていて、

今まで以上に「その日」を最高の日にしたいと思っていました。


僕ら夫婦は今まで、

仲良くやってはいても、

ある時期毎にぶつかり合うことがしばしばで、

そんな時はお互いに

有り得ないようなネガティブを

存分に放出する一大イベントとなってしまっていました。


もちろんそうする事で、

お互い内側を見つめて

それぞれの成長に結び付く事象であったことには違いありません。


でも心のどこかで、

「え~っ!まだそう来る?」

という思いをお互い持っていたのは確かです。


例えば何があっても怒りに振り回されないようにする事が

僕の人生の課題であったとしても、

「それは僕にはして欲しくない!」という事を

一番大切にしたい関係性の中に見てしまうと、

どうしても一言付け加えたくなってしまっていたのです。


その思い自体を

相手に「理解させよう」と思った瞬間に

自分のわがままに変わってしまうと分かっているのに、

そこへ怒りのエネルギーも手伝って、

きついもの言いになってしまうのでした。


自分にとって不快に感じることを

ただ単純に伝えるだけの事に

とても難しい部分を含んでしまっていたのは、

僕自身の問題であると同時に、

この夫婦という関係を、

とても大切にしたいという思いから始まっていたのでした。


僕は人間関係とは、

自ら努力して作っていくものという風に思っているので、

妻との結婚も、

いろいろあるだろうけれど、

それはお互いの努力次第でどうにでもなると、

直感だけで出会って直ぐに電撃的に決めたでした。


男女が本当の意味でお互いを理解しあうということを、

家族という関係の中で行っていくということは、

ただ付き合っているだけの関係性の中で学ぶのとは、

全く別の話しだったということを、

一つ屋根の下で生活をしながら学んで行く事になりました。


僕の場合はこの経験がとても大切だったという風に思えるのに、

約5年の歳月を要しました。


早いか遅いかはまた違う話しで、

お互いが自分のままでいて

お互いの成長を相互に補完し合えるのには変わりなく、

それこそ自分の写し鏡が目の前に在るだけの事、

自分次第でどの様にでも変化するだけの話しです。


家族になるということは、

その信頼感はやっぱり他の関係性とは全く別のもので、

自然で完全に許していて、

でも他の何かと変えることが出来ない重さのあるものとして、

生活の全てに影響する繋がりを築く事です。


僕は基本的に

自分以外の人には、

全く自由にやってもらって構わないと思える人なので、

妻がどのように暮らしていようと、

自分のペースで生きていくことが出来ると思っていました。


そんな思いを持っていても面白い事に、

普段はそんなことしないにも関わらず、

僕との関係においてだけ、

妻がわがままなように見えて来ることがありました。


そういう事があった時、

僕自身の中にある乗り越えなければならない事、

例えば怒りを抱いても、

その感情に飲み込まれないようにすること、

その試練に自分で合格する為に、

僕の真我が目の前の妻を通して

妻の態度をそのように現れさせているのだと分かっていても、

どうしても怒りの顔になり

語尾に怒りを現してしまいます。


これは怒りを持つこととは別の状態であると、

今の僕は知っています。


例えば僕が経験したことで、

僕にとっての意味を知っているためにしない事があるとしても、

それが別の人にとってどうかもその人次第な上に、

その経験からその人がどういう思いを抱くかという経験の学びの最中で、

僕が経験した答えを押し付ける行為は、

その人の学びを奪う行為で、

僕のわがままにほかなりません。


その人が何を感じて、

次の段階へ進んでいくようになるかは、

その人が自由に決めていいのです。


それが家族であっても変わりありません。


それが分かっているにもかかわらず、

「それはこうしないとだめでしょ!」

みたいになってしまうことが僕の乗り越えるべきところだったのです。


不思議なもので

そこまで分かっていても、

乗り越えきれていないものは

同じような事象として何度でも現れてきます。


分かっているふりをしても

本当の自分自身をだますことは出来ないという事です。


そのような事象に無理やり感謝をしようとしても

本当の感謝は湧いて来ません。


目の前にいる人に

「このやろう~っ!」って思っていては、

そのようにしか返ってこないのは、

もう分かり切っているはずなのに。


でも、

妻自信の成長と僕自身の成長が、

リンクするかのように

僕自身が乗り越えて、

妻自信が乗り越えたことを感じた時、

僕の中には

怒りに対処しようとする必要なんかどこにも無かった

という感覚が既に自分の中にあったのでした。


そうすると不思議なもので、

相手の行いを正そうとするのではなく、

自分に起こったことのある経験談を

淡々と話すだけの自分が居ることに気づきます。


僕自身が経験したことを

僕はどう思ったか。


これはネガティブでもポジティブでも同じように、

淡々と話すことがとても大切なことなのです。


もちろん伝えるということには、

箇条書きみたいな文章よりも、

聞いていて疲れないような言葉を選んでいく作業は

重要なポイントであるのは間違いありません。


まだやっとそこへ辿り着いたばかりで、

これからその技術を磨いていこうというところです。


でもそんなスタート地点に立てたところで、

妻が誕生日を迎えたのです。


それはそれはお祝いをしないわけにはいきません。


妻の誕生をお祝いしながら、

僕自身も

この世界へ生まれて来たことへの、

奇跡中の奇跡を

どれ程味わう事ができるだろう、と

改めて思う一日を過ごすことが出来たんです。


夫婦という関係が、

こんなにも素敵なものだと

正直ここまでは思っていませんでした。


こういう一日一日を積み重ねていけば、

これからもっと幸せになっていくという事に間違いありません。


本当に大切に

そして丁寧に生きて行こうと思います。


そして妻への感謝も忘れずにいたいと思います。


ありがとうねぇ。



2017年9月15日金曜日

神様の住む島 バリ島

先週僕はバリ島へサーフトリップへ行って来ました。


今回で5度目、

約10年ぶりのバリ島になりました。


以前と比べると空港が新しく綺麗になって、

何も無かった場所に新しい建物が増えていて、

これからも発展して行きそうな場所がいくつもあり、

懐かしさと共に時の移り変わりが

少し切ない気持ちにさせるような、

そんな夕日が沈む時間に到着したのでした。


僕がバリ島へ何度も来る理由は、

やはりここに立つ波で、

日本ではなかなか出会う事の無い凄い波で

波乗り出来る確率が格段に高いということがあります。


もちろんサーフィンをしない人達も心地好く過ごせる、

南の島独特の緩やかな時間が流れる、

美しい海に囲まれた島です。


信じられないような色の魚や、海亀、

ジュゴンなどがすぐそこで泳いでいるので、

ダイビングをしに来る人も多いようです。


海から離れても、

山間部には綺麗な棚田を見ることが出来て、

その柔らかい雰囲気の中に

オーガニックな店舗の立ち並ぶ町もあって、

いろんな人が集まる素敵な島です。


島で暮らす人々はとても人懐っこくて、

屈託の無い笑顔で話しかけて来る人がとても多く、

言葉の違いがあるとしても、

こちらから心を開いていけば、

出会う人は真っすぐに自分と向き合ってくれることに気がつくでしょう。


人としてとても素直な人が多く、

気を張らずに過ごすことが出来るのも、

この島の魅力の一つではないでしょうか。


僕が初めて訪れた時には、

日本で何故か肩に力が入ってしまう自分を

見直すことが出来るその不思議な雰囲気のある島に、

すぐに虜になってしまったのでした。


特にサーファーである僕は、

サーフィンを通して海で頂ける深い気づきと、

海から上がっても島全体の雰囲気から頂ける安らぎに、

来る度に自分のおおらかさを取り戻しては、

生きることとは何なのかをはっきり意識できるようになる

特別な場所になっていったのでした。


前回行った時に乗った

人生最大の波に出会ったサーフポイントの

真正面に建つホテルから見える海の写真を

たまたま妻が見ていたことからそこに行くことに決めて、

今回のこの時期に自分にとって特別な場所へ行くことがどれ程の意味を持つのか、

考えないようにするのがとても大変な日々を送るのでした。


そこはウルワツという地域にある

インポッシブルスと呼ばれるポイントで

世界中のサーファーがその波を乗りに来る程、

美しい波の立つ場所です。


僕は前回来た時に約9feetの波、

大体自分の身長の3倍ぐらいの波に乗ることが出来たのですが、

その波を乗り終えた瞬間にはっきり見えたことがあったのです。


この波に乗るということは、

この地球が出来てから何万年もかけて溶岩が沈みこみ

また何万年もかけて海水による浸食でその場所に波のエネルギーが集まるような地形ができて、

南極のあたりで発生した巨大な低気圧で荒れた海から

何千キロも離れた赤道に近いこの島まで届く地球の大きな営みのエネルギーが

僕を軽々と持ち上げて運んでいくということなのだという

途轍もないヴィジョンとなって自分の中に落とされたのでした。


その時から僕にとって

波に乗るということはとても神聖な行為で、

僕の中にある神聖な自分自身と

それを司るもっともっと大きな神聖なエネルギーとが繋がるとても重要な

それでいてとても楽しい御神事として

またライフワークとしてするようになったのです。


その聖地にまた行けるのだと思うと、

興奮を抑える方が不自然なのでした。


今回僕が着くタイミングで大きなうねりが届き始めて、

前回程ではなかったにしても、

最大で7feetぐらいはあったと思います。


海に入る前に海に一礼して

このポイントにいる人々がみんな怪我が無く楽しめるように祈ってから、

沖に向かって漕いでいきます。


ポイントを陸から見るよりも実際に海面で見ると波は途轍もなく大きく見えます。


自分の身長より大きくなる波は、

横へもずっと水の壁を作っていて、

高さが2メートル以上、

横に50メートル以上の水の壁が、

水平線の向こうからどんどん近づいてきて、

海底がグッと浅くなる地点で、

一気に崩れ始めます。


一本乗れるまでは、

口から心臓が飛び出て来そうなぐらいの恐怖に

押し潰されそうになります。


その日の波の崩れるポイントを見極めて

タイミングとポジションがちょうど良くなるように

自分のいる位置を確認して

次のタイミングを待ちます。


外洋を渡って来る大きなうねりが

その日は10分に一度づつ3本のセットでやってくることがわかると、

その3本目に合わせて波の崩れ出すギリギリの場所に自分が来るように漕いで

どの方向に人が居るのかを見てから、

波が崩れる前に板がすべり始めるその瞬間に

上体を反らして一気に立ち上がります。


ずっと遠くからやってきた波のエネルギーが海底にぶつかって

水を上に押し上げようとする力に、

板のエッジを立てて水面を強く蹴ると、

板は波の一番上の高さまで一気に駆け上がります。


今度はそこでエッジを抜いて、

体重を板の前方に乗せていくと波の斜面を一気に降りて行きます。


そうやって波のスピードに合わせながら、

波のエネルギーの上で感じたのは、


その瞬間は全部見て覚えているし、

いろんな音も聞こえているんですけど、


何も僕というものを区切っているものが無くなっていて

ただエネルギーと波長が合っている状態になっていて、

肉体的な気持ちよさとか、

精神的な気持ちよさとか、

そんなことはどうでもよくて、

見ること聞こえること以外は全部消えてしまって、

何も残らない自然の美しさだけの世界が見えるようになっていたんです。


乗り終えて見回してみても、

そこにはもうさっきの波は無くて、

僕が乗った形跡は一つも無くて、

恐怖に緊張していた自分は何だったのか

良く思い出せないぐらい嬉しさで満たされていて、

心の底から「よっしゃ~!」って叫んでたりしたんです。


怖さは完全に消えて、

波が来るのが綺麗なだけだったり、

他の人が乗っていったのを見て楽しく思ったり、

ちょうど自分のところに来た波にまた乗せてもらったり、

ただそこに展開する物事がとても幸せなことなのが分かって、

僕がその意識を持っている張本人なのだということだけ、になったのです。


その日に海から上がる時、

足の裏を擦って少し切ってしまったので、

今回の旅では海に入ったのは一日だけになってしまったのですが、

そこを無理して入らない自分自身に余裕が出来ていたのも、

それからの旅をパートナーである妻との楽しい時間として取れたのも、

あの場所にあるものに僕というものを溶け込まさせてもらえた時間があったからでした。


僕にとって幸せとは、

その瞬間にそれそのものに溶け込んでいる僕自身の意識が感じているもの、

そういうことなのだと腑に落ちたのでした。


今回の旅での食事は

ちょっと晴れの日に相応しくしようという思いもあって、

完全ビーガンから少し緩くして

フィッシュベジタリアンぐらいの感じで

妻とレストランを回りましたが

どこもベジタリアンメニュー、ビーガンメニューが出ていて選びやすかったです。


今回のサーフィンでの気づきの後は、

僕自身がサーフィンと言うライフワークを通して

一生学んで行くことにもう何の迷いもないことが確認できたこともあって、

とても豊かな時間を過ごせました。


いろんな人と出会い、その人たちが通り過ぎていきました。


中にはネガティブな感じになってしまいそうな場面もありましたが、

なんというか、

もうそういう事でさえも流れの中で起る一つの通過点でしかないのだから、

別に引きずられて一緒にネガティブになる必要もないんじゃないかなと、

後で見れば何も残らない波のようなものだと思うようになっていたんです。


とても大きな意味のあった今回の旅は、

またあのウルワツ、インポッシブルスで気づかせてもらったのでした。


ウルワツの岬は断崖絶壁になっていて、

古い寺院が建っているんです。


そこには海の精霊が祀られているんですが、

僕が毎回あの海でシンプルに整えられていくのを見守ってくださっていて、

またいつでも来なさいって言ってくださっているような気がしてなりません。


あの波にチャレンジするには

肉体的にも精神的にもちゃんと整えておかないと行けない所だと思います。


これからもまだまだ僕のチャレンジは続きます。


海の精霊様これからもよろしくお願いします。



2017年8月21日月曜日

植物達から学ぶこと

僕は最近youtubeで、

『この地球に山や森は存在しない』


という動画を見つけて、

何か気になってこのシリーズを一通り見てみました。


ちょっと長い映像ですので、

めちゃくちゃ簡潔に説明させていただきますと、

この地上にある山はもともと

とてつもなく大きな木だったものが化石化したもので

今の地球はそれらが森を形成していたところから

全て切り倒された後の残骸の上での話し、

というものです。


とてつもない話ですが、

いろいろと検証していきながら真実はどうなんでしょう、

という形で話しが進んでいきますので、

気になった方は見てみてはいかがでしょうか。


さてこの話しの真偽はともかく、

この中で語られている植物が持つ能力に

ピンとくるものがあったので、

とても面白く見ることが出来ました。


例えばこういったとんでもない話しも、

そこから何かを感じて今の自分に活かしていく事が出来れば、

それはもう立派な真実なのではないかと思います。


この動画から感じた事と

僕個人が今まで教わった事を

自分の中で繋ぎ合わせてみると、

これから先の未来に何か明るいものが見える気がしたので

記しておきたいと思います。


僕は十年ほど前の時期になりますが、

人生を完全にナチュラルにしようと思い立って、

ある木彫作家さんのアシスタントとして働き始めます。


週に3日ほどのアシスタントになるため、

別の日には木の勉強になるからとのことで、

植木屋さんでのアルバイトも紹介してもらいました。


また、ログハウスビルダーの方や木こりさんのお知り合いも居て、

様々な観点から木の話しを聞く機会に恵まれたのです。


その頃に聞いた話しはどれもおとぎ話のようでしたが、

実際に生活の一部として植物と関わっていると、

木々のあり方が命としてとてもナチュラルなのだと思うようになりました。


例えば彼らは個としての命もありますが、

集団で植生を形成しているそれら全体で一つの命としても生きています。


例えば森の中で全体に及ぶ危機が起きた場合に、

その森全体で移動しようとしたりするのです。


もちろん人が動くようなスピードではありませんが、

根を全体で同じ方向へ伸ばして、

そこからヒコバエとよばれる枝を上に出しながら

森全体を移動させていくのです。


情報の伝達能力はとても速くて、

根をはった地中のネットワークと、

ホルモン物質を含んだ香りなどで

意思疎通しあっています。


彼らの時間軸はとても長くて、

暖かい季節の昼間に活動的ですが、

寒い時期には完全に眠ったように過ごし、

百年単位で性格が丸く変わってゆきます。


それぞれの樹種が持つ酵素の働きに応じて

その周りにいる菌の構成も違ってきますが、

それらはまた別の種どうしでも情報を共有できるネットワークを構成していて

それらが全体で一つのコンピューターのように機能しているのです。


そして木の中には何千年も生きている者たちがいます。


彼ら植物はこの地球上でもっとも古くからいる命を繋いで来ている大先輩です。


そのことを考えた時、

彼らは全て本当の事を知っているんじゃないかなと、思いました。


最近の異常気象と呼ばれるものの原因や、

地上に起こる災害の回避の仕方や、

どれぐらいの期間で気候変動が起きて、

次にどうなっていくのかなど、

とてつもない情報量を彼らのネットワークは

保存しているんじゃないかと思ったんです。


何億年もの間、

地球の変化を経験した話しを

親が子に聞かせ子が孫に聞かせて、

今もまだ続いている命の繫がりです。


人の想像できる時間軸を超えた命の在り方をしています。


彼らは体を失ってもすぐに息絶えることはありません。


折れた枝を一定条件下に置いてあげれば、

そこから根を出し新しい体を作り上げていきます。


種は百年以上たってからでも根を出すこともあるほどです。


何が起こってもそれを受け入れることの出来る強さをもっているからこそ

基本的に動くことはありません。


彼らが知っていることとは

何なのでしょう。


これは僕の個人的な感覚なので好きに感じてもらえればいいと思いますが、

彼らが知っていることと言うのは

命そのものの在り方なのではないかな、

とそんなふうに思ったのです。


命というものが

何処から来て、

何処へ向かっているのか。


もし全てを網羅できる情報を持つ者が、

この地上に希望も何も持てないのだとしたら、

きっと自分の子孫を残したりはしないでしょう。


少なくとも彼らの能力を持ってすれば

乗り越えられないことなど無いのは確かです。


というか僕には全く気にもしてないようにしか感じません。


おそらく僕ら人間が思い煩うような出来事は、

自然な命の営みから見れば

なぜそんなことで悩むのか、

ということなのではないでしょうか。


彼らは光をエネルギー源としています。


光エネルギーを一番吸収したければ、

緑ではなく黒の葉っぱにしても良かったのですが、


光エネルギーの一番真ん中で吸収率の低い緑を選択しているのは、

光を分かち合うためだとも言われています。


自分の身体の一部を他の生き物に食物として提供しても、

気にする素振りもありません。


切れた端から育っていったりします。


切れたのを感じているとは思います。


でなければ自らを大事にすることをしなくなってしまうからです。


自らの命のエネルギーを最大限に使って、

真っ直ぐに天を目指しますが、

分け合えるところは、

バンバン差し出してくれます。


僕はこの生き方が

一番自然なのではないかなと思います。


もっと目に見えないところで

言葉にならない部分など

本当にたくさんあると思います。


彼らは本当にスピリチュアルな生命体です。


とてつもないインスピレーションを

授けてくれることもあります。


彼らの叡智はこの地球とも一体で、

とても深い愛情に満ちています。


その言葉をどうやって感じ取ればいいでしょうか。


やはりそれには人間本位な感覚を捨てて、

彼らの立場になれるかどうか、

その思いやるという心の使い方が出来て初めて

分かってくることだと思います。


木を本気で抱きしめてみてください。


温かくて血液が流れているような音が聞こえます。


彼らの優しさを上手に使わせてもらえば、

何も怖がる必要などないということを

感じることが出来ると思います。



2017年7月28日金曜日

精神的な自立

夏も本番を迎えて暑さが厳しくなってきました。


これ程の暑さはやはり身体には相当きつく感じますね。


何かしようと思ってもこの暑さでは、

なかなか身体が動いてくれません。


それでもやりたいことや、やるべき事は、

いつもと変わらず次から次へとやって来ます。


これほど暑いと身体が動きにくい分、

いろんな思いが頭を駆け巡ります。


頭の中に浮かんで来るものは、

今の自分の状態を如実に物語ります。


僕は自分というものを赤裸々に観るようになって

内側に湧き起こって来るものを受け止め慣れていますが、

これからの世の中の流れは

それぞれの人が持つ両極を本人がどのように受け止めていくのか、

という時代に入っていくことになります。


今この時期いろんな物事のネガティブな側面が

噴き出しているのが分かるでしょうか。


今まで何となくごまかせていたようなものが、

もうそれでは持たなくなって来ているのです。


どんどん正直に成らざるを得ない状況になって来ています。


これは通るべき重要な過程で、

自分の認めたくない部分をしっかり見てはっきり受け止めて、

自分という人間の肉体的、精神的なもの含めて自分を理解して

そこから実質的な可能性に目を向ける段階にいるのです。


いつまで続くのだろう?って思うとしたら、

その状態はいつまでも続いてしまいます。


どんな自分が嫌でどんな自分で居ると心地良いのか、

どの程度の努力でその心地良さを維持できるのか、

その努力はこれからずっと出来るのか、

これぐらいの問いに対して、

「分かりました。出来ます。」と

力まずに自分に答えられるようにするには

自分というものを丁寧に検証していくしか解決策はありません。


この世界をどの様に感じて過ごすのか、

自分が幸せであるかどうかは、

本当にそれだけでしかないのです。


そのことを誰か他の人が代わりにやってくれることは無いのです。


自分がどう感じているかを

他の人の意見に合わせて変えられるのなら、

最初から本当のところ、

そうは感じていなかったという嘘をついていたことになるのです。


自分をシンプルに捉えられれば、

何をどう感じているかなんて、

当たり前すぎて

何を今さらそんな事をしなければならないのか

という気になるでしょう。


世界の出来事に対して、

またそれらに対している自分の行動に対して、

どこか曖昧なまま慣習化してしまって、

はっきり自信を持たずに過ごしている自分を変えるには、

ただはっきり答えること、

それだけが出来ればいいのです。


僕はある時、

僕を取り巻くネガティブな物事に押しつぶされそうになりながらも、

どこかで世界と繋がっていたいと思っている自分に気づいて、

「もういい!関係ない!」と

一度全部を切り離して今の自分との関係を考え直してみたのでした。


世の中にある、

僕が幸せを感じる出来事は、

数える程しかありませんが、

僕を憂鬱にする出来事は五万とあります。


僕は以前、

それらの事柄を一つづつ解決していかなければ

本当の幸せは来ないと思っていました。


例えば、

罪の無い命がどこかで

無惨にも失われていく現実がこの世界にはあります。


この文章を見て、

いい気持ちになる人はいません。


そこで、頭の中でいろいろと巡り始めます。


どんな人でも、

人は何処までも、

心地好くあろうとしますし、

心地悪さを避けようとします。


どちらも常に同時進行で変化し続ける

物事の側面でしかないにも関わらずそうするのです。


なので上に上げたような事柄に対して、

何かしら行動をとっています。


簡単なものとしては、

完全に良い方法など分からない、

だから詳しくは見ないようにする。


これは多くの人が日常的にとっている行動パターンです。


この行動自体には意味は無く、

自分の中に生まれた心地悪さに対して

明確に答えてはいません。


なので置き去りにされたままの心地悪さは、

命の大切さを考えさせられる事に出会った時、

様々な反応として現れてきます。


自分に出来ることを探す人もいれば、

自分との世界に境界線を引く人もいます。


静かに見守る人もいれば、

もう居ても立っても居られなくなる人もいます。


どういう違いが出てきたとしても、

その元となっている事は、

自分の中に生まれた心地悪さに

どうやって対処しているか、

ということには変わりありません。


その自分のやり方を

その時その場に合ったやり方で、

瞬時に決断して行動している人は、

どんな事に遭遇しても、

その場で自分の中に生まれた感情に対して答えるので、

ネガティブな感情に引きずられ続ける事はありません。


ネガティブなものもポジティブなものも、

そのエネルギーを上手に使いさえすれば、

進んでいく道は明るく自信に溢れてきます。


自分の進むべき道を自分で決めて行くことは、

それ自体が豊かで自由で楽しいことなのです。


今の憂鬱なニュースが多い世界の中でも

自立した自分でいるために、

僕は「距離感」を大事にしています。


僕を中心にして、

手の届く範囲から順番に大切なものが、

その時その時で変化します。


物理的にも、

精神的にも、

僕と近く感じるものから優先します。


僕から離れて行こうとするものや、

距離が縮まらないもの、

何処にあるのか分からないものには、

僕から何かをしようとは思いません。


僕に近づいて来るものでも、

僕の目線の高さ、

これは物理的にも精神的にも同じ範囲に無いものは、

僕と関係ないものとします。


先に上げた文章の、

どこかで失われていく命、

ということに対して

僕は基本的にどうする必要も無いと感じます。


何処にいるのか分からない不特定多数の存在が

あまりにも遠すぎて、

その命が求めているものが、

僕には分からないからです。


想像を広げれば生きたいのだろうと感じることは出来ます。


でも本気で生きたいと僕に訴えて来る命は、

もっと範囲を狭くしてもたくさん現れて来ます。


命を助けるということを

本当に経験したことのある人は少ないと思いますが、

こちらも命懸けでいかなければなりません。


これはどんな命にでもほぼ当てはまる事だと思いますが、

甘いものではありません。


生きているだけで十分という言葉が

真理として自分の中で息づくには

純粋にそれを求めていないと、

この世界にあるものは全て

命を削ぐものでしか無いのです。


その削ぎ落していく命の代わりに、

この世界で何を見たいのか、

それが今すぐに具体的では無いとしても、

求める気持ちが無い命には

この世の現実はただただ過酷なだけになっていくのです。


それらをごまかす術はいくらでもありますが、

最後はみな同じく「死」を迎えます。


自分の代わりはいません。


それも踏まえて生きるということを

全面的に受け入れるということが、

自分一人で出来なければ、

本当に自分の道を歩き始めることはないのです。


どれ程まで自分に真剣にならなければならいでしょう。


家族、親、友達、知り合い、お世話になった人、

全て距離感の違いはあれど、

僕が自分に幸せを感じるかどうか、

僕の代わりに感じてくれる人は居ないのです。


誰かのために出来ることを考えるより先に、

先ず自分がどうしたら幸せになれるのか、

真剣に考えて行動してみてください。


誰かが提示する幸せは全部違います。


いくら他の人のことを学んでも辿り着きはしません。


行動に移った段階で、

少しづつ開いてくる世界があります。


他の人の意見は参考にしても、

自分の内なる声だけに正直で居てください。


必ずあるタイミングで、

自分の内なる声の強さが自分の弱さを打ち破っていきます。


誰でもない自分の誕生がその時起こります。


もう大丈夫です。


自分一人がこの世界とどう関わっていくかは

自分次第になるのです。





2017年7月20日木曜日

八百万の神様

僕は子供の頃から身の回りにある物に人格のようなものを当てて

それと会話をしながら使うということを普通にしていて、

物によって男性的だったり女性的だったり、

使う前に「お願いしますね!」と一声かけてから使うようにしていました。


特に最近自分の言動一つ一つを丁寧にすることを心がけるようになって、

その行為がとても重要なことだったと改めて感じるようになりました。


当たり前の事ですが

物は大切に扱えばとても長く使えます。


いつかは寿命が来るものだとしても、

扱い方によっては一生自分と共に居てくれるものもあります。


さらに丁寧に語り掛けながら扱うようになると、

それらが持つ精妙な波動がいろんなことを教えてくれるようになります。


例えばいわゆる良いものというのは、

作る段階から丁寧に扱われていて、

素材が宿している波動、

その素材が生まれてくる大地や海から

その素材が教わったことが

その物の中にデータのように込められていて、

丁寧に扱われることで、

そのデータとしてある波動を壊さずに、

物として形を変えて、

僕の元まで届いてくれます。


そしてその物の正しい使い方や

その行為を通してこの地球との共生の仕方などを

学ばせてくれる道具となってくれるのです。


全ての物はこの宇宙の営みから出来てきて、

いろんな出来事を経て、

今この時にこの形として僕の元へやって来ました。


それらが持っている波動を読み取るには、

それに共鳴できる波動を持っていなければなりません。


もし自分が荒々しい波動でそれらに接すれば、

すぐにそれらはそのように共鳴して

荒い波動によって精妙な部分はかき消されて、

雑な荒い波動を持つ物として僕の空間に存在するようになります。


そうなれば長持ちもしないでしょうし、

その様な形でしか僕の手伝いをしなくなってしまいます。


その物がこの地上に生まれてくるときに宿してきた叡智は、

丁寧に扱われていればいるほど、

濃密なそれでいて精妙な波動を持っていて、

その物と居ると

とてつもない安心感を得ることが出来ます。


僕よりも大きくて永い営みを経験している

大きな存在から分かれて来ているので、

その安心感は間違いありません。


その視点で自分の周りにある物を見回してみてください。


何一つこの宇宙の営みから離れたところで出来てきたものはありません。


でもそこに来る過程での

作る人の意識や扱う人の意識の差で、

宿している波動に大きな違いが出てきます。


この宇宙の営みが陰と陽の合わさりによって

出来上がって来ているので、

全ての物に陰と陽の性質が備わっています。


なので丁寧に精妙な氣でもって作られ扱われたものは、

僕らの生活に陽の氣をもたらしてくれます。


逆に雑に荒い氣で作られ扱われたものは、

陰の氣をもたらします。


でもそれらは今僕がどう扱うかによって

どちらにでも変化します。


それはその中に本質的に陰と陽の性質を宿しているからです。


それらを使う『僕』という視点から

もう一度全部見渡してみましょう。


僕の身体も丁寧に使いましょう。


言葉もそうです。


僕の元へやって来る食べ物や、

それを調理する道具、

食べる時に使う器や箸、

それを味わう空間としてある部屋やテーブル、

身体を包み込む服や靴、

レクレーションのためのサーフボードやそのグッズ、

音楽を聴いたり作ったりできるパソコンなんかも、

僕の元へやって来て、

今この生活を色とりどりに鮮やかに華やかに

豊かさを演出してくれています。


僕がそれらを喜んで楽しくそして丁寧に使うことを、

同じく喜んでくれています。


この感覚を知ることが出来るようになるには、

ただ消費していくだけの生活からでは無理です。


自分の生きる道をしっかり歩み始めれば、

必要な物がちゃんと分かります。


自分の元にやって来る物たちが

教えてくれるからです。


丁寧に使って役目を終えたら

その物たちに感謝を持って

丁寧に地球にお返していきます。


またある時、

何か別の形でお会いすることがあるかもしれません。


でも基本的にはすべて一期一会の出会いです。


なおさら大切に丁寧に扱いたいと、

その様に思う訳です。


この様に僕にいろんなことを教えてくれる

大切な物たちに宿っている魂を、

その昔は、

八百万の神と呼んで尊んでいました。


今もずっといらっしゃいます。


そのお声を聴くことが出来る

生き方がある

というお話しでした。





2017年7月13日木曜日

聖なる生き方

夏に入って暑さが一層増しています。


僕は今年の暑さは何だか今まで感じていた夏の暑さ以上のもの、

もっと奥の方から湧き出させられるもっと大きな力があるように感じてなりません。


先月の終わりに夏越の大祓が執り行われて、

上半期の穢れを祓ってもらってから、

僕がこれからどの方向へ向かって生きていくべきなのか、

ということについて今の自分に見えていることを

綴っておきたいと思います。


今年に入るころに僕は大きな決断をしました。


それは自分の内側に誓いを立てることであったので、

あまり表だって言葉にしてしまうと、

何だか陳腐なものになってしまうようで、

このブログにもその様なことを書くのは違うかもしれないと思って

決断をしてから自分の変化をずっと静かに観察しているだけにしていました。


でもここに来て

自分自身とまわりにいる人々や世界の変化のうち、

この決断によって導き出される違いがハッキリ見えてきたので

出来るだけ多くの人とシェア出来ることを願ってここに記す次第です。


僕は今年の春に

本宮大社奥之院にあたる玉置神社で、

『カミのイ』を継ぐことを決意させて頂きました。


僕は何年か前にホツマツタヱに出会い

アメナルミチを学ぶきっかけを頂きました。


それまでも正しい生き方とは何なのかを知りたくて、

本当にいろんなことを勉強してきました。


タイミングというものがバッチリ合うところに

ホツマツタヱが自分のところにやって来てくれたこともあって、

それまで自分が学んで来ていたことが、

一つの出来事を現わしていると気づくことが出来たのでした。


全てのものが陰と陽の交わりによって出来ていて、

それぞれ陰と陽の性質を持ち合わせていて、

その性質がまたそれぞれに引き合い離れあいながら、

生々流転してこの世界を作っている、


という視点を持たせてもらうことが出来て、

それまでの、これこれが正しくてこれこれが間違っている、という

偏った考え方を捨てることが出来たのでした。


和を尊ぶ上で

このことは非常に大切なことです。


自分の中に偏った正しさが無くなると、

内側に「準備が整いました。」と言う感覚が訪れました。


そうするとまたまたタイミング良く

玉置神社の近くを通るルートで波乗りへ行くようなことになり、

『カミのイ』を継ぐことを心に誓う旨の説明を

運転しながら妻に必死で話したりしている自分に気が付くのでした。


人生でそれ程緊張することもないくらいに

緊張しながら玉置神社本殿の前で、

国之常立の命様に向かって

いきなり口をついて出てきた言葉は、

『カミのイ』謹んでお受けいたします。

というものでした。


それまでも僕は惟神の道を地で生きて行こうと思っていたので、

なるべく穢れを自分から遠ざけることにはしていたのですが、

その様な言葉を口にした以上中途半端なことはできません。


最初の何日かは緊張もしていましたが、

アメナルミチを実践すればいいのです。


これこれは正しくてこれこれは間違っているという

そんなちっぽけなことではありません。


陰と陽を見極めて

自らの意識を陽の位置に置いて

その氣で空間を満たしていく

ということを実践していくのです。


自分を穢してしまうようなもの、言葉、行いを

その時その時の判断で遠ざけるようにします。


変に神経質になってしまうのも良くありません。


それだけで氣が陰に偏ってしまうからです。


自分の内側に大切な『カミのイ』を持つものとして、

雑なことは出来ません。


誰か特定の人のためだけにしかならないような事に

手を貸すようなことは決してしません。


僕という人間が居なくなってさらに先の世にとっても

必要であると感じることを優先します。


その土地土地にあるルールを優先します。


でも自分が本気で納得できないことはしません。


そしていくら考えても答えの出ないことに執着することはありません。


なので今やることとして目の前にあることを

その時にやってしまいます。


それは必ずこの地球上でやることなので

この地球に対してリスペクトを持って出来ることをします。


何より実践出来ないならば、

頭で考えるだけのようなことはしません。


どれだけ人として素晴らしいと思われるような事であっても

今の僕に出来ないことならば出来ない事実についてまったく気にしません。


その出来ないことについて、

誰かの手を借りればできるとしても自分で出来ないならしません。


今ちゃんと出来なくてもしたいと思うことに努力を惜しみません。


どんな時でも完全である必要はありません。


言い訳しません。


常に自分のこととして実践します。



いろいろ書き綴りました。


これやってみると、

すっきりします。


誰もが出来ることではないかもしれません。


でも、やってみると意外と簡単で

自分に筋が通ってくるので、

もの凄く自信に繋がります。


見えなかったものがハッキリと見えるようになって、

それらの行為自体は何ら凄いことでは無いことが分かります。


それよりもいろんな言われ方をしている

聖なる生き方が命に繋がっているのが分かるのがたまりません。


いろんな人がそれぞれのやり方で

聖なる生き方をしています。


その人たちがやっていることで共通しているのは、

ごまかしが無いという部分です。


自分の命に対して正直になっている人、

そこまで生ききっている時、

その人のバイブレーションはもうカミの領域にあります。


その時僕らは本当に触れているんです。


生きるっていうのは、

本当に素晴らしいことなんです。


それが見えにくくなってしまう程、

いろんなごまかしがこの世界に溢れかえってしまいました。


それを取り去って行くために、

僕は僕のやり方で僕の命を磨いていくことにしたんです。


だってこの命は、

もともとカミからお預かりしたものですから。


それを最大限輝かすかどうか、

僕にしかできないことなんですから。



2017年6月22日木曜日

真実の取り扱い説明書

今年も夏至が過ぎて、

暑さはこれからが本番になって来ます。


面白いもので、

太陽が地表を照らす時間は、

これから減っていくにもかかわらず、

秋分を迎える頃まで、

暑さが和らぐことはありません。


熱源である太陽エネルギーと

それを受け取った地上のもの達との関係によって

これらの暑さは作り出されるからです。


夏至に至るまでに、

地上のもの達へ取り込まれた目に見えないエネルギーは、

実りになって行くまで、

どんどん放出されながら

この北半球の地上で働き続けます。


そしてその実りが次の実りを創る準備が出来るまで、

休息の時を過ごします。


このようにこの世界では、

目に見えるものと目に見えないものの関係によって、

新しい瞬間を作り出していることを考えると、


自分の望む未来に向かっていくためには、

今ここにある物と

そこに働いている目に見えないものをどう捉えるかが、

とても大切なのが分かります。


例えば1+1=2になるにも、

そうなる条件が必要なのです。


林檎を一つ、二つと数えるだけなら、

ただの算数で済みますが、

実際の生活においてはいろんな条件が重なり合う中で物事が進んで行きます。


時間によっても物事は同じままではなく、

絶えず変化して行きます。


一つの林檎も時が経てば、

一つの林檎でなくなるということが起きるのです。


そんな現実世界に於いて

1+1=2になるのは奇跡と呼べることなのです。


でもそれこそ実は奇跡でも何でもなくて

ごく当たり前のことが当たり前に起こっているだけだったりします。


当たり前のようで、でも複雑に見えるこの現実世界を

縦横無尽に自由に羽ばたいていくには、

ほんの少し解釈を変えて

ここにある物事とここに働く力の関係を理解して、

現実の流れを整えていくことが重要になります。


良く、現実は人によって違う、

と言われることがあります。


目の前のことは一つでも、

人によってそこから感じることが変わって来れば、

その後の行動が違って来て、

違った結果が現れて来ることを

そのように言い表した言葉です。


人の持つ多くの感情は、

ほぼ同じ条件で物事に反応するため、

多くの人が共通の経験則として捉えていて、

それこそ真実だと思っている人が多いと思います。


悲しい思い、辛い思い、痛い思いなどは、

出来るだけしたくないと思っている人は多いと思います。


でもその感情を抱いた後の反応は様々です。


いつまでも自分の殻に閉じこもってしまう人、

とにかく発散しようとする人、

自分と同じ状況にいる人とシェアしようとする人、

細かく分析して内的変化を思考で捉えようとする人、

もっといろいろあるでしょう。


楽しさや嬉しさなどの感情へも実は様々です。

いつまでもそれに浸っていたい人、

とにかく行動に全部出てしまう人、

嬉しくてシェアして回る人、

浮足立って大雑把な行動に出てしまう人、

まだまだいろいろあるでしょう。


こういった感情に対する反応は、

だいたい同じ方向性を持っているとしても、

周りの環境などによっても微妙に変化して、

同じ人でもその時その時によって

出方が変わってきます。


その微妙な差で、

その後の変化に大きく違いが出て来るという場面に

出くわすことがあるかもしれません。


そんなつもりじゃなかったのに、

周りの人との調和が乱れてしまったりしたことは無いでしょうか。


自分の見ている現実が、

周りの人と違うということを現わしている状態です。


今ここにある物事と

それによって反応した感情と

その感情エネルギーが自分に働きかける力と

それを表に出すために得てきた経験からなる表現力とが、

合わさってまた一つの現実を創っていっているのです。


それを人と人との触れ合いの中で表そうとした時、

あまりにも突拍子の無い状態では、

次へ繋がっていくことが無くなってしまうので、


大体同じような行動をとるようにすることで

共通の感情変化として理解し合い、

ほぼ「常識的」な真実として感じるようになっていました。


多くの人はそれをそのまま真実だと思うようになってしまったのです。


人が普通に生活する上では、

人と人とのコミュニケーションがほとんどなので、

そのような「常識的」な形ばかりに気が行って、

真実が見えにくくなってしまっていますが、

そんな人と人との関係性においてでさえ、

様々な力が働いてここに在って言葉を交わしているのです。


その様々な力は

その場所でそうやって言葉を交わすことで、

自分が何処へ向かって行きたいのかを、

自分に問いかけるように働きかけます。


気が付いている人は、

自分の話す言葉によって、

さらに自分の向かうべき場所を確かめます。


そこに様々な力が働いていることを知っているからです。


目に見えている物事とそこに働く力が、

自分をどこへ運んでいこうとしているのかを知っていて、

自分がそこへ行くことを拒むことなく受け入れていて、

さらにその力を利用して未来を創っていっているのです。


そこに働く力の源を知っていて、

それによって反応している自分を生み出した源を知っていて、

さらにそれらが合わさって導き出す未来も同じ根源から来るものでしかないなら、

今ここに感じていることはもう

永遠でしかありません。


ここまで理解できてしまえば、

今起っている物事も

その物事に働いている力も、

誰かの我がままでそうなっているものなど無いということが分かります。


例えば辛い思いをしている時も、

そうなるべくしてそうなっていて、

その感覚をちゃんと理解しなければ、

次へ進めないと分かって、

自分が選んでそうしているということを、

周りに起こる出来事がサポートしてくれている状態、

まさにこのことを真実ということが出来ます。


その時、

その自分をどこへ導きたいか

自分で選択する自由があります。


その自由は完全な自由です。


その自由に触れた時

初めて手にする力があります。


それが目には見えない部分の自分なのです。


それまで様々な形で自分に働きかけてくれていた力は、

そこではとても静かになります。


そしてその自分に問いかけてみましょう。


次はどこへ行きたい?


その自分が新しい景色を描き始めたら

また周りには様々な力が働き始めます。


見えたヴィジョンが実るまで、

この地上で働き続けます。


真実というのは

目に映るものと、

目には映らないものが

お互いに協力し合うことで

新しい未来を描き出す力のことなのです。



2017年5月25日木曜日

人の弱さと、優しさの境界線

今年に入ってからの自分への気づきの深さは、

このブログを書き始めた頃と比べると本当に雲泥の差があるのですが、

ただ、その当時に見ていたことが足掛かりになって、

さらに深い洞察を得られるようになったと感じます。


最初の頃に言葉として記されていることを今読み返してみると、

なんとかして伝えようとする実況中継のようで、

自分の進んできた道のりをこのような形でも残せているのは、

とても幸運なことなのだと思います。


僕はこの先自分に何が起こるとしても、

僕の魂を成長させるために、

全ての経験を喜んで受け入れる準備が整いました。


と言っても何も大きな出来事など無く、

ひたすらに毎日をコツコツと積み重ねていくだけだったりしても構いません。


全ての経験はそのようにして積み重ねていくことに変わり無いからです。


準備が整ったと言えるようになったのは、

自分の弱さとは何だったのかを見ることが出来たからです。


僕は子供の頃に、

自分の力で生きなければいけないと思ったことがあって、

利用できるものは利用していく強かさを

しっかり自分の中に持っていました。


出来る限り人とは違うオリジナリティを持つことも意識していました。


その方が人の嘘を見破り易いからでした。


個性的でも優しくありたいと思う気持ちはとても強くて、

どうしても譲れない部分に触れない限りにおいては、

相手のペースに合わせることに全く嫌な気持ちはありませんでした。


大人になるにしたがって一人でも生きていける強さは

強固になっていくんだろうと勝手に思い込んでいた僕は、

いろんな経験を積んでいく度に自分の中に弱さを発見していくのでした。


昔のような無鉄砲なことが出来なくなっていくのは当然かもしれません。


いろんなことを知っていくようになって、

勢いだけが後押ししてくれていた自分では無くなっていきます。


自分がどれほど多くの支えによって生きていられるかを理解するようになって、

自分の都合だけで物事を判断するわがままは出せなくなっていきます。


もちろんそうしていくことで得られる繋がりが

大切なものとして増えていくこともあって、

人として丸みを帯びていく良さを実感していくようになりました。


そんな生活の中にあって、

苦しさや悲しさや淋しさや辛さを出来るだけ味わいたくないと

思うようになるのは当然のことでした。


そして上手く生きる技術をつけていくようになると、

それらのマイナス感情を出来るだけ自分から遠ざけるようなことを

良いこととして自分の日常に埋め込んでいくようになっていました。


心のどこかでその追いやられていたマイナス感情達は

素直に受け入れられることを望んでいたのかもしれません。


僕の中に「何かが違うんだけどなぁ。」

という違和感として存在していました。


僕自身はそういったネガティブなものであっても、

そういうエネルギーとして作用するのだから、

もちろん有って当然だし無いと人として信用できない、ぐらいに思っていました。


なので弱さが見え隠れする部分を、

仕方の無いことだし寧ろそれこそ次へ向かう大きな原動力になるのだから、

と擁護するような気持ちになっていました。


それが優しさの一部であるかのような気になっていたのでした。


でもそういう気持ちは長続きしません。


常に我慢している部分は存在しているからです。


自分では誤魔化しているつもりなどまったくありませんから、

心の中にあるイライラの原因が自分にあるなんて思いもしません。


ましてや自分は周りのために

もっと厳しさと優しさのバランスを上手に取れるようになっていくんだ、

ぐらいに思うようになっています。


自分の持てる優しさで自分の弱さを覆い尽くせるようになれば、

人として大きく成長できるんじゃないか、ぐらいに思うようになっていました。


でも、

その優しさでは何も変えられないことに気づきます。


何かを変える必要がある訳ではないんですが、

結局苦しさや悲しさや淋しさや辛さは

同じようにやって来て心に影を落としていくのです。


この時、

ネガティブな物事に対して出てくる気持ちや考え方、行動までもが

全部ひっくるめて自分の弱さなんだと気づいたのです。


ネガティブな物事をいくら遠ざけてみたところで、

この世から完全になくなることが無いのならば、

この目の前に展開するネガティブな物事自体に対しての自分の視点を改めないと

結局やってくる苦しさや悲しさや淋しさや辛さに

そのたびごとにやられていてはもう先に進めない、

本気でそう思ったのでした。


その時自分のやり方を改めてみました。


ネガティブな物事を遠ざけることなくそのまま見るようにしよう。


それによって起こって来る感情の起伏に飲み込まれないように

自分の感じていることを覚えておこう。


起きている出来事が自分にとって

どんな意味を持っているかという視点を見つけ出そう。


この三つの手順を踏んでみると、

今自分に出来ることと

その場面に対する効果、

その効果がもたらす結果が持つ意味が

よく見えるようになったのです。


簡単に言うと

大したことが無い、

というのが分かりました。


これだけもの凄いエネルギーを注ぎ込んでも、

ほとんど何も変わらないのです。


それが分かった時、

とても清々しい気持ちになりました。


そして人の弱さが転じて何かになるのではないこともはっきり分かりました。


そして弱さにかまってあげるのも優しさではないと分かりました。


そういった所に境界線がある訳もないことが分かると、

自分の中心にしっかり根を下ろしていた弱さは

自分の強さと対等に扱われることになりました。


自分が行動を起こす際の動機の選択肢として

強さと弱さのどちらから選ぶかが問われるようになったのです。


もちろん弱さから選ばれませんが、

そこがハッキリとしたことで、

自分の行動の理由は強いものから選ばれるようにになったのです。


もちろん自分の外側に対しても、

強さからの選択によって働きかけるようになりました。


物事がどうなっていくにせよ、

その結果を何かの所為にしなくてもいいのです。


ここにいてこの感情を味わっているのは、

自分で好んでしているのです、と

全部に言えるようになったのです。


以前もそう思ってはいたものの、

まだまだ頭で理解しただけのような部分があったのが、

完全に腑に落ちて来たのでした。


僕の意識は僕の宇宙の中心にあります。


この宇宙が変わっていくのは、

これからが本番ということです。




2017年4月28日金曜日

自由と責任

よく自由と責任について、

議論されることがあります。


この社会では、

やることをきっちりやって、

初めて好きなことが出来る、

という考えの人が多いのではないでしょうか。


そうしなければ、

社会が成り立たなくなってしまう、

そんなふうに思ってしまうのかもしれません。


確かに人は一人ではとても弱くて、

沢山の助けがなければ生きてはいけません。


それで多くの人が集まって助け合うことで、

命を繋いで来た事実があります。


いろんな考え方を持った人が集まって、

より良い状況を作っていくために、

意見の違いを乗り越えていかなければならなかったのです。


それだけでも大変なことですが、

日々の暮らしの中でも、

人が集まれば様々なことが起こります。


自分には無いものを求めてしまうことから、

妬みを持ったり、

それが解消されないことから、

苛立って他の人に攻撃的なことをしてしまうのは、

どんな人でも経験する

これもまた一つの弱さなのかもしれません。


人が多く集まることで生じる争いを

何とか解消していかなければならない必要から、

規範となることを言葉に託して、

多くの人で共有出来るようにしてきたのでした。


ただその言葉も人によって捉え方が違ってしまったり、

人が自分本位に規範を利用して自分の立場を有利にしてみたり、

人の弱さに付け込んで

規範を絡めてさらに争いを起こさせたりする人まで現れるのでした。


人が自由に自分らしくある、

ただこれだけのことが

なぜこんなにも難しくなってしまうのでしょうか。


僕の中に当然としてあるかのような

自由と責任というものに

何か間違いがあるとしたら

何が間違っているのかをちゃんと突き止めなければ

僕は自分が持っている自由そのものに

潰されてしまうような

そんな気がしたのでした。


自由と責任という考え方自体がとても新しい考え方で、

未だ何百年も経っていない上に、

そもそもどういう状態の何を言い表そうとした言葉なのかを

考えた事があるでしょうか。


生まれてから今まで僕は自由だったのでしょうか。


生まれてから今まで僕は責任を果たしたことがあるのでしょうか。


今生の僕がこの肉体で経験をすることの出来た場面から、

もしくは想像も含めた過去に残された書物等の中の場面から考えて、

自由という言葉が表しているものについて、

僕の考え方を記しておこうと思います。


今僕が生きている最大の理由は

「心地いい」と感じる瞬間があるからです。


「心地いい」という感覚は自分の中に湧いてくるものなので、

まず自分の中にある物を整理していきます。


僕の人生には「心地いい」という感覚を長い間感じることが出来なくなって、

生きている意味がないかのように思ってしまった時期もありました。


「心地いい」と感じる時間は本当に短く、

というより、

感じている時間は時間感覚が無くなっていて、

気が付いたらその景色が終わりに近づいていて、

記憶の中にしか残らないその瞬間のあっけなさに、

永遠というものへの憧れを持ってしまっていた時期もありました。


辛かったり苦しかったりすることが非常に多くて、

やっと手にした心地よさはあっという間に消えてゆくこのジレンマに、

辛さや苦しさを何とかポジティブに考えられるように

意味を与えてみようとしました。


例えばそれに責任という考え方も含まれていると思います。


それらの考え方は僕を非常に大人にさせたかのようでした。


乗り越えていくという行動が

「心地いい」に向かっていく上で

必要不可欠なものだと勘違いしてしまったのです。


僕の思考は偉く立派になってしまいました。


いろいろ勉強してもっとよく考えて、

乗り越えていく道のりをちゃんとしたものにしていけば、

乗り越えた先にある物は凄いに違いないと思いました。


辛くて苦しいことを

進んで引き受けても、

得られるものはさほど変わることがありません。


たまにある感覚を大げさに捉えようとして頑張ってみるものの、

いつも感じていたのは、

「本当の心地いいはこれじゃない。」

という感覚です。


僕が何度か経験したことのある「心地いい」は、

もう得ることは無いのだろうか、

そんなふうに思い始めていました。


そんな時そもそも自分が心地いいと感じていることより、

それ以外のことに意識が向いていることに気が付きました。


例えば波乗りに行っていても、

別の何かを気にしていたりして、

感じていることに気持ちが向いていなかったのでした。


考えることをやめて、

上手にやろうとかカッコよくやろうという意識を捨てて、

目の前にある物事に集中してみるようにしました。


頭の中にはいろんな思考が湧いて来ます。


それをとにかく無視できるように、

深呼吸をして言葉が頭を廻る前に

感覚を研ぎ澄まして

ものごとに向かい合うようにします。


僕は運良く、

「心地いい」と感じるものを

いくつか持っていたのでした。


このブログもそのうちの一つです。


この感覚を思い出すことが出来た時、

僕は自由という言葉が初めて自分の中に意味を持ちました。


僕が僕の心地いいようにやること、

ただそれだけでした。


そこに責任感とか義務とか、

別の何かは一切無いんです。


本気で目の前にあることに対して、

上手にやろうとかカッコよくやろうとか、

背伸びしたり人目を気にしたりせずに、

自分の気の済むようにやってみることが出来た時、

それは仕事でも遊びでもなく、

自分自身を表す何か表現になってくるんです。


それをある一定の社会性が必要な場面でも、

同様にできるようになると、

ルールや規範、法律なんかが縛っているものはごく表面的な部分で

自分の自由を本当に縛っているのは

紛れもなく自分自身の考え方だけでしかないことが分かったんです。


この世界に生まれてくる命が

完全にゼロになって生まれてくる以上、

どういう学びを経験して、

どういう間違いを犯して、

どういう正解を導き出して、

どういう時期にそれらを手放すか、

全て本人に委ねられていて、

誰かがそれを決めてしまうことはあり得ません。


誰かが知っている答えが

その人に当てはまる確証など無いので、

教えられることなど無く、

自分で学び取って行く以外に

本当に自分が納得する手段がない以上、

例えば他の人に委ねたとしても、

それを行動に移すのは本人の自由なんです。


自分で決めたことに注意を払っていないだけで、

人が決めたように思ってしまうのです。


責任や義務と言われるものでさえ、

それを本気で果たしたくないと思えば、

いくらでも回避できます。


それらは本当の意味で言えば

果たした時、自分の中に

「心地いい」充実感が生まれてくるからこそ、

やってみてはどうですか?

と言えばよい程度のもので、

強制されているかのようになってしまったときには、

もう完全に意味は無くなってしまうのです。


目の前にあることに

完全に打ち込めないとしたら、

無理があるか、

自分に向いていないか、

そのどちらかです。


自分自身に正直になって見えてくる感覚に

素直になりましょう。


自由という言葉を超えたさきにある、

自分自身に出会えれば、

縛るものはありません。


自分で決めるということだけが

自分の自由を守り続けることになるんです。


ということは、

自分以外に人も

自分で決めないと

お互いに自由にはなれません。


そこに邪な思いがなければ、

自分の自由を侵すものは入って来ません。


自分の素直さが試される場面です。


自由であるためには、

人の自由も守れなければならないからです。


弱さを理解していなければなりません。


強くなる必要はありません。


弱さを弱さと分かっていればいいだけです。


受け入れる必要もなく、

そこにあるままにして

自分に素直になれば

景色が変わっていくままに出来るでしょう。


今世界全体で大きな学びを経験しているところです。


結果を待つのではなく、

目の前に展開する学びを自分の学びとして見てください。


気が付けば自由になっているはずです。


2017年4月8日土曜日

呼吸を整える

本当に春らしい暖かさが訪れて、

桜が一気に咲きはじめました。


今年は少し遅かったように思いますが、

地球のサイクルは順調に次の季節を届けてくれています。


僕自身にも新しい変化が訪れていることを感じながら

季節の移り変わりを楽しんでいます。


今年に入ってからは、

何事も丁寧にするということを

念頭に置いているのですが、

物事に取り組むその瞬間に

なるべく呼吸に意識を向けるようにしています。


家を出て歩きはじめたその瞬間にも、

電車が動きはじめたその瞬間にも、

仕事場に着いたその瞬間にも、

自分がまず最初に仕事に手をかける瞬間にも、

思わぬことが起こって

やるべき事の順序が変わってしまったその瞬間にも、

帰り道を急ぐ人たちが

いろんな方向へせかせかと通り過ぎるその瞬間にも、

ゆっくりと自分の時間を取ろうとするその瞬間にも、

僕はまず呼吸を意識するようにしたのです。


鼻を通る空気が頭の中を通って、

お腹を膨らませて、

身体の一番下にぶつかるように感じたら、

力を抜いて空気が出て行くままにします。


肩をすうっと落として、

もう一度空気を吸い込んでいきます。


出来るだけ時間をかけて吸い込み、

時間をかけて吐き出します。


最初は気がつくたびに、

呼吸に意識を向けて整えるようにしていました。


慣れて来ると歩きながらとか、

簡単な作業をこなしながら、

空気が身体の中を

行ったり来たりする感覚を味わえるようになります。


呼吸すること自体が

気持ちいいと感じることが出来た時は、

その呼吸を始めた時よりも確実にリラックス出来ているので

物事をとてもいい感じに丁寧に扱うことが出来るのでした。


呼吸も一つのサイクルになっているので、

大きくて深い呼吸は大きくて緩いヴァイブレーションとなって、

空間の中に放たれていきます。


自分の一番落ち着いた状態にある時には、

波長の長いヴァイブレーションになっていて、

乱雑な波長のものにも影響を受けにくくなります。


なるべく普段から波長の荒いものを

自分に取り込まないようにしていれば、

呼吸によって自分の波長をゆっくりとしたヴァイブレーションに整えやすくなります。


その状態で物事を丁寧に扱っていくことで、

面白い感覚が分かるようになってきました。


全てのものに固有の波長があって、

それらが共鳴し合いながら空間の中でハーモニーを奏でているのです。


綺麗に整った空間には、

綺麗に整ったハーモニーが流れています。


乱雑な場所では乱雑なハーモニー。


あまりにもひどい所では直ぐにはどうすることもできませんが、

呼吸を整えて空間を整理していけば、

徐々にその空間にあるものも整った波長に共鳴しはじめて綺麗に整ってきます。


丁寧に扱うというのは、

そのものと調和してハーモニーを奏でることなのだと分かったのです。


道具は何でも丁寧に扱うことで自分の一部のようになっていってくれます。


自分の身体もそうですし、

人間関係なんかもそうです。


呼吸を整えることからいろんなものが自分のまわりで共鳴して

自分にとってよいものとしてある状態になってくるのが

とても楽しくてたまりません。


そこから逆に乱雑なものも

ただそのような波長なだけのものと見ることができるようになって、

そういったものに自分の波長を乱されにくくなってきました。


例えば感情の波が自分の中で強く波打ったとしても、

呼吸によって緩やかなものにしていくことも可能です。


呼吸を整えることが上手になればなるほど、

見えてくるものが深みを増していくように感じます。


深く大きく呼吸してみてください。


自分を整えるのは、

呼吸を整えることが一番最初なんだと思います。





2017年3月6日月曜日

新しい世界を創って行くこと

徐々に春の陽気が感じられるように

なってきました。


この3月になる一か月間、

自分の中での変化がとても大きくて、

言葉にまとめることができませんでした。


今まで気づいていた事が、

自分にとってとても普通な状態になっていて、

身の回りで起きて来る変化は、

ただ物事が動いているのを見ているだけのような感じで、

「やっぱりかぁ。」と納得する以上のことは起こらないまま

自分の捉え方が変化していくのを感じていました。


でも、そのことはとてつもない素晴らしさを意味していて、

何とか言葉に現したいと思いながら過ごしているうち、

春がそこまで来ていました。


僕自身の成長も

自然のサイクルの一部であることを再確認するような感じで、

暖かくなって来ると、

それまでに撒いていた思いの種が芽吹いて来るのを、

実感するのでした。


このあいだ波乗りに行った日に、

自分の中に、

「これから何が起こるか分からない世に在って、

本当にしたいことって、何だろう?」

っていう疑問が湧いて来ました。


ちょうどその日は波が良くて、

完全に波と一体化するかのように上手に乗れた一本がありました。


その時、僕は、

「これがあればあとは要らないんだなぁ。」とつくづく実感しました。


僕はとても幸運なことに、

自分のしたいことをすでにやっていて、

それ以上のことを求めなくてもいい状態にいたんです。


例えばこのまま終わりが来るとしても、

感謝をして迎えることが出来る自分がいます。


もし、また良い波に巡りあえるとしたら、

喜んで遊ばせてもらいます。


そうやって一期一会を楽しみながら、

自分の歩めるペースで、

日々さらに大きな自分に出会えるように、

成長できればそんな幸せなことはありません。


僕という意識がこの肉体を丁寧に使わせてもらって、

最後の最後、地球にお返しするまで、

本当に幸せな瞬間を繋ぎ合わせて生きていくことは、

僕から周りの空間を伝わって

柔らかいヴァイブレーションを広げていくことになります。


そうすることが新しい世界を創って行くことになるんです。


そういう幸せな人を見て次の世代の人がそこを目指してきます。


今までの嘘っぽい幸せな映像などには無い、

リアルな楽しさだけが、

すぐそこにある手本となるのです。


お金や名声や他の人への自慢のための

楽しそうな、幸せそうなフリでは、

もう通用しなくなってきています。


誰か他の人のために幸せになったりする必要もなくて、

自分が本気で楽しめることを軸に生きることでしか、

出てこない笑顔が周りを変えていきます。


楽しむことに誰かの解説や批評は必要ありません。


自分に合った場所で、

自分に出来ることで、

自分を解放してあげて下さい。


それを残す必要は無くて、

時間とともにその楽しさは記憶の中に

消えていくのが本来のあり方です。


誰かに示す必要はないんです。


本気で楽しんでいる時、

自分の中心には自分しかいません。


でも、誰とでも笑顔で会話できますし、

他の人も楽しんでいると嬉しくなります。


これは何を意味しているんでしょうか。


理屈ではない平和の創り方です。


僕はこれから新しい世界を創って行くことにしたんです。


さて、次はどこにいい波がくるかな。


2017年1月27日金曜日

サーフレジェンドという生き方に触れて

今年の頭に宮崎へ行ってきました。


僕の大先輩にあたる方が大病を患われて、

その後退院され今リハビリ中とのことで、

どうしてもお会いして元気になって頂きたいと、

妻と二人で行くことにしたのです。


大動脈解離という病気の名前は

何となく知っている程度で、

とても不安なまま、

とにかく行ってお会いすることでしか、

この心のワサワサは収まりそうもありませんでした。


僕が実際にお会いするのは

実は2度目なんですが、

あの方ほど今の僕にとって

大切な方は居ません。


僕に波の乗り方を

教えてくれた方です。


サーフポイントを西日本各地で開拓してくださった、

レジェンドと呼ぶにふさわしい方で


以前お会いした時も、

もう還暦を超えられてなお、

僕よりも浮力の無い薄い板で波乗りを続けていて、

大会に出て優勝をねらうとか、

海外トリップでの新しいポイントの波は良かったとか、

新しく自転車にハマってて今制作中だとか、

とにかく一緒に居てこっちまで楽しくなってしまう方で、


その一度お会いした日に

僕のライディングを見て、


「右肩を左のひざに乗せるように重心とってみ!早なるから。」

と図星のアドバイスをくれたのです。


実際その日以来、

僕の波乗り人生は変わりました。


波に乗る楽しさが格段に変わりました。


僕が普段良く行くポイントも、

その方が見つけてサーフィンを始めたんです。


まだサーフィンをやる人が居ない海で、

とにかく板を持って入って行ける勇気と、

それにまつわる失敗談なんかもほんとに面白くて、

もっともっと話を聞いていたいけど、

今日っていう日はもう終わってしまうのかぁ、

そんな気持ちになって、

その時はお別れしたのでした。


そして今回元気になってもらおうとお伺いしたところ、


「あとここの骨がくっついたら波乗りしてもええって。

先生の言うこと聞くことにしてん。」


「いや、でも今回はまじであかんかもと思ったんやけどな、

みんなが自分の視界に入って来た時嬉しなってな、頑張ろうって思ったんや。」


「あ、そうそう去年行ったジャワ島にあるアチェな、あそこはホンマにええ波や。

おった四日間ずーっとダブルオーバーでな、乗れたん三本だけや、

でも、ええ波や、行ってきたらええねん。」


と、元気付けるどころか、

こちらが元気を頂くことになったのでした。


その後も地元のサーファーの方が年始の挨拶に来られて、

一緒に話しをするなかで、

サーフィンを通して、

楽しいことに純粋になれる瞬間の素晴らしさに

気づかせてもらいました。


僕自身楽しむことを念頭に

人生を送ってきたつもりだったんですが、

全然かないません。


もっと楽しい気持ちに純粋に

素直になろうと思いました。


そういう人が持っている空気が

本当に空間を明るくすることができるんです。


そしてそういう人がどこか遠くではなく、

話しかければ答えてくれる距離にいてくれることが、

本当に凄いことだと改めて感じました。


僕は西洋医学には懐疑的な考えを持っていたんですが、

緊急医療としてやはり素晴らしいんだという思いにも至りました。


まだまだ自分の中に凝り固まったものが多くあったのですが、

年明けそうそうに流れていくことになりました。


その日も、

「今年の冬はここも波きてるわ。

今日もええ波あるから行ってきたらええねん。

俺あとで、犬の散歩行くからまたそん時な。」


と言ってお別れしたのですが、

その自然体で飾り気のない言葉から、

僕の中のスイッチはオンになりました。


楽しむことに理屈なんかは関係ありません。


その手前でいろいろ考えてしまっては、

楽しむこと自体が出来なくなってしまうんです。


難しく考えることはいくらでもできます。


それがキリの無いことだと思えれば、

やめることが出来ます。


やめたあと積極的に楽しいと感じることに

自分を向けてあげましょう。


難しいことはさも難しいかのように

自分に訪れるのですが、

シンプルに対応していくことが一番スッキリしていくのです。


だとしたら難しいことを難しくする必要はありません。


自分がワクワク楽しめることに

真剣になることが全ての解決に繋がっていきます。


そのワクワクすることが健全であれば

もう何も気にすることはありません。


そのワクワクする瞬間は

誰が何と言おうと世界で一番幸せな瞬間です。


その空気感を持って世界と対峙してみてください。


難しいことは去っていくようになります。


かなわないからです。


今年からさらにこの感覚を磨いていこうと思っています。


サーフレジェンドに会えたことに感謝です。


ありがとうございます。