このブログを書き始めた頃と比べると本当に雲泥の差があるのですが、
ただ、その当時に見ていたことが足掛かりになって、
さらに深い洞察を得られるようになったと感じます。
最初の頃に言葉として記されていることを今読み返してみると、
なんとかして伝えようとする実況中継のようで、
自分の進んできた道のりをこのような形でも残せているのは、
とても幸運なことなのだと思います。
僕はこの先自分に何が起こるとしても、
僕の魂を成長させるために、
全ての経験を喜んで受け入れる準備が整いました。
と言っても何も大きな出来事など無く、
ひたすらに毎日をコツコツと積み重ねていくだけだったりしても構いません。
と言っても何も大きな出来事など無く、
ひたすらに毎日をコツコツと積み重ねていくだけだったりしても構いません。
全ての経験はそのようにして積み重ねていくことに変わり無いからです。
準備が整ったと言えるようになったのは、
自分の弱さとは何だったのかを見ることが出来たからです。
僕は子供の頃に、
自分の力で生きなければいけないと思ったことがあって、
利用できるものは利用していく強かさを
しっかり自分の中に持っていました。
出来る限り人とは違うオリジナリティを持つことも意識していました。
その方が人の嘘を見破り易いからでした。
個性的でも優しくありたいと思う気持ちはとても強くて、
どうしても譲れない部分に触れない限りにおいては、
相手のペースに合わせることに全く嫌な気持ちはありませんでした。
大人になるにしたがって一人でも生きていける強さは
強固になっていくんだろうと勝手に思い込んでいた僕は、
いろんな経験を積んでいく度に自分の中に弱さを発見していくのでした。
昔のような無鉄砲なことが出来なくなっていくのは当然かもしれません。
いろんなことを知っていくようになって、
勢いだけが後押ししてくれていた自分では無くなっていきます。
自分がどれほど多くの支えによって生きていられるかを理解するようになって、
自分の都合だけで物事を判断するわがままは出せなくなっていきます。
もちろんそうしていくことで得られる繋がりが
大切なものとして増えていくこともあって、
人として丸みを帯びていく良さを実感していくようになりました。
そんな生活の中にあって、
苦しさや悲しさや淋しさや辛さを出来るだけ味わいたくないと
思うようになるのは当然のことでした。
そして上手く生きる技術をつけていくようになると、
それらのマイナス感情を出来るだけ自分から遠ざけるようなことを
良いこととして自分の日常に埋め込んでいくようになっていました。
心のどこかでその追いやられていたマイナス感情達は
素直に受け入れられることを望んでいたのかもしれません。
僕の中に「何かが違うんだけどなぁ。」
という違和感として存在していました。
僕自身はそういったネガティブなものであっても、
そういうエネルギーとして作用するのだから、
もちろん有って当然だし無いと人として信用できない、ぐらいに思っていました。
なので弱さが見え隠れする部分を、
仕方の無いことだし寧ろそれこそ次へ向かう大きな原動力になるのだから、
と擁護するような気持ちになっていました。
それが優しさの一部であるかのような気になっていたのでした。
でもそういう気持ちは長続きしません。
常に我慢している部分は存在しているからです。
自分では誤魔化しているつもりなどまったくありませんから、
心の中にあるイライラの原因が自分にあるなんて思いもしません。
ましてや自分は周りのために
もっと厳しさと優しさのバランスを上手に取れるようになっていくんだ、
ぐらいに思うようになっています。
自分の持てる優しさで自分の弱さを覆い尽くせるようになれば、
人として大きく成長できるんじゃないか、ぐらいに思うようになっていました。
でも、
その優しさでは何も変えられないことに気づきます。
何かを変える必要がある訳ではないんですが、
結局苦しさや悲しさや淋しさや辛さは
同じようにやって来て心に影を落としていくのです。
この時、
ネガティブな物事に対して出てくる気持ちや考え方、行動までもが
全部ひっくるめて自分の弱さなんだと気づいたのです。
ネガティブな物事をいくら遠ざけてみたところで、
この世から完全になくなることが無いのならば、
この目の前に展開するネガティブな物事自体に対しての自分の視点を改めないと
結局やってくる苦しさや悲しさや淋しさや辛さに
そのたびごとにやられていてはもう先に進めない、
本気でそう思ったのでした。
その時自分のやり方を改めてみました。
ネガティブな物事を遠ざけることなくそのまま見るようにしよう。
それによって起こって来る感情の起伏に飲み込まれないように
自分の感じていることを覚えておこう。
起きている出来事が自分にとって
どんな意味を持っているかという視点を見つけ出そう。
この三つの手順を踏んでみると、
今自分に出来ることと
その場面に対する効果、
その効果がもたらす結果が持つ意味が
よく見えるようになったのです。
簡単に言うと
大したことが無い、
というのが分かりました。
これだけもの凄いエネルギーを注ぎ込んでも、
ほとんど何も変わらないのです。
それが分かった時、
とても清々しい気持ちになりました。
そして人の弱さが転じて何かになるのではないこともはっきり分かりました。
そして弱さにかまってあげるのも優しさではないと分かりました。
そういった所に境界線がある訳もないことが分かると、
自分の中心にしっかり根を下ろしていた弱さは
自分の強さと対等に扱われることになりました。
自分が行動を起こす際の動機の選択肢として
強さと弱さのどちらから選ぶかが問われるようになったのです。
もちろん弱さから選ばれませんが、
そこがハッキリとしたことで、
自分の行動の理由は強いものから選ばれるようにになったのです。
もちろん自分の外側に対しても、
強さからの選択によって働きかけるようになりました。
物事がどうなっていくにせよ、
その結果を何かの所為にしなくてもいいのです。
ここにいてこの感情を味わっているのは、
自分で好んでしているのです、と
全部に言えるようになったのです。
以前もそう思ってはいたものの、
まだまだ頭で理解しただけのような部分があったのが、
完全に腑に落ちて来たのでした。
僕の意識は僕の宇宙の中心にあります。
この宇宙が変わっていくのは、
これからが本番ということです。
準備が整ったと言えるようになったのは、
自分の弱さとは何だったのかを見ることが出来たからです。
僕は子供の頃に、
自分の力で生きなければいけないと思ったことがあって、
利用できるものは利用していく強かさを
しっかり自分の中に持っていました。
出来る限り人とは違うオリジナリティを持つことも意識していました。
その方が人の嘘を見破り易いからでした。
個性的でも優しくありたいと思う気持ちはとても強くて、
どうしても譲れない部分に触れない限りにおいては、
相手のペースに合わせることに全く嫌な気持ちはありませんでした。
大人になるにしたがって一人でも生きていける強さは
強固になっていくんだろうと勝手に思い込んでいた僕は、
いろんな経験を積んでいく度に自分の中に弱さを発見していくのでした。
昔のような無鉄砲なことが出来なくなっていくのは当然かもしれません。
いろんなことを知っていくようになって、
勢いだけが後押ししてくれていた自分では無くなっていきます。
自分がどれほど多くの支えによって生きていられるかを理解するようになって、
自分の都合だけで物事を判断するわがままは出せなくなっていきます。
もちろんそうしていくことで得られる繋がりが
大切なものとして増えていくこともあって、
人として丸みを帯びていく良さを実感していくようになりました。
そんな生活の中にあって、
苦しさや悲しさや淋しさや辛さを出来るだけ味わいたくないと
思うようになるのは当然のことでした。
そして上手く生きる技術をつけていくようになると、
それらのマイナス感情を出来るだけ自分から遠ざけるようなことを
良いこととして自分の日常に埋め込んでいくようになっていました。
心のどこかでその追いやられていたマイナス感情達は
素直に受け入れられることを望んでいたのかもしれません。
僕の中に「何かが違うんだけどなぁ。」
という違和感として存在していました。
僕自身はそういったネガティブなものであっても、
そういうエネルギーとして作用するのだから、
もちろん有って当然だし無いと人として信用できない、ぐらいに思っていました。
なので弱さが見え隠れする部分を、
仕方の無いことだし寧ろそれこそ次へ向かう大きな原動力になるのだから、
と擁護するような気持ちになっていました。
それが優しさの一部であるかのような気になっていたのでした。
でもそういう気持ちは長続きしません。
常に我慢している部分は存在しているからです。
自分では誤魔化しているつもりなどまったくありませんから、
心の中にあるイライラの原因が自分にあるなんて思いもしません。
ましてや自分は周りのために
もっと厳しさと優しさのバランスを上手に取れるようになっていくんだ、
ぐらいに思うようになっています。
自分の持てる優しさで自分の弱さを覆い尽くせるようになれば、
人として大きく成長できるんじゃないか、ぐらいに思うようになっていました。
でも、
その優しさでは何も変えられないことに気づきます。
何かを変える必要がある訳ではないんですが、
結局苦しさや悲しさや淋しさや辛さは
同じようにやって来て心に影を落としていくのです。
この時、
ネガティブな物事に対して出てくる気持ちや考え方、行動までもが
全部ひっくるめて自分の弱さなんだと気づいたのです。
ネガティブな物事をいくら遠ざけてみたところで、
この世から完全になくなることが無いのならば、
この目の前に展開するネガティブな物事自体に対しての自分の視点を改めないと
結局やってくる苦しさや悲しさや淋しさや辛さに
そのたびごとにやられていてはもう先に進めない、
本気でそう思ったのでした。
その時自分のやり方を改めてみました。
ネガティブな物事を遠ざけることなくそのまま見るようにしよう。
それによって起こって来る感情の起伏に飲み込まれないように
自分の感じていることを覚えておこう。
起きている出来事が自分にとって
どんな意味を持っているかという視点を見つけ出そう。
この三つの手順を踏んでみると、
今自分に出来ることと
その場面に対する効果、
その効果がもたらす結果が持つ意味が
よく見えるようになったのです。
簡単に言うと
大したことが無い、
というのが分かりました。
これだけもの凄いエネルギーを注ぎ込んでも、
ほとんど何も変わらないのです。
それが分かった時、
とても清々しい気持ちになりました。
そして人の弱さが転じて何かになるのではないこともはっきり分かりました。
そして弱さにかまってあげるのも優しさではないと分かりました。
そういった所に境界線がある訳もないことが分かると、
自分の中心にしっかり根を下ろしていた弱さは
自分の強さと対等に扱われることになりました。
自分が行動を起こす際の動機の選択肢として
強さと弱さのどちらから選ぶかが問われるようになったのです。
もちろん弱さから選ばれませんが、
そこがハッキリとしたことで、
自分の行動の理由は強いものから選ばれるようにになったのです。
もちろん自分の外側に対しても、
強さからの選択によって働きかけるようになりました。
物事がどうなっていくにせよ、
その結果を何かの所為にしなくてもいいのです。
ここにいてこの感情を味わっているのは、
自分で好んでしているのです、と
全部に言えるようになったのです。
以前もそう思ってはいたものの、
まだまだ頭で理解しただけのような部分があったのが、
完全に腑に落ちて来たのでした。
僕の意識は僕の宇宙の中心にあります。
この宇宙が変わっていくのは、
これからが本番ということです。
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