2017年4月28日金曜日

自由と責任

よく自由と責任について、

議論されることがあります。


この社会では、

やることをきっちりやって、

初めて好きなことが出来る、

という考えの人が多いのではないでしょうか。


そうしなければ、

社会が成り立たなくなってしまう、

そんなふうに思ってしまうのかもしれません。


確かに人は一人ではとても弱くて、

沢山の助けがなければ生きてはいけません。


それで多くの人が集まって助け合うことで、

命を繋いで来た事実があります。


いろんな考え方を持った人が集まって、

より良い状況を作っていくために、

意見の違いを乗り越えていかなければならなかったのです。


それだけでも大変なことですが、

日々の暮らしの中でも、

人が集まれば様々なことが起こります。


自分には無いものを求めてしまうことから、

妬みを持ったり、

それが解消されないことから、

苛立って他の人に攻撃的なことをしてしまうのは、

どんな人でも経験する

これもまた一つの弱さなのかもしれません。


人が多く集まることで生じる争いを

何とか解消していかなければならない必要から、

規範となることを言葉に託して、

多くの人で共有出来るようにしてきたのでした。


ただその言葉も人によって捉え方が違ってしまったり、

人が自分本位に規範を利用して自分の立場を有利にしてみたり、

人の弱さに付け込んで

規範を絡めてさらに争いを起こさせたりする人まで現れるのでした。


人が自由に自分らしくある、

ただこれだけのことが

なぜこんなにも難しくなってしまうのでしょうか。


僕の中に当然としてあるかのような

自由と責任というものに

何か間違いがあるとしたら

何が間違っているのかをちゃんと突き止めなければ

僕は自分が持っている自由そのものに

潰されてしまうような

そんな気がしたのでした。


自由と責任という考え方自体がとても新しい考え方で、

未だ何百年も経っていない上に、

そもそもどういう状態の何を言い表そうとした言葉なのかを

考えた事があるでしょうか。


生まれてから今まで僕は自由だったのでしょうか。


生まれてから今まで僕は責任を果たしたことがあるのでしょうか。


今生の僕がこの肉体で経験をすることの出来た場面から、

もしくは想像も含めた過去に残された書物等の中の場面から考えて、

自由という言葉が表しているものについて、

僕の考え方を記しておこうと思います。


今僕が生きている最大の理由は

「心地いい」と感じる瞬間があるからです。


「心地いい」という感覚は自分の中に湧いてくるものなので、

まず自分の中にある物を整理していきます。


僕の人生には「心地いい」という感覚を長い間感じることが出来なくなって、

生きている意味がないかのように思ってしまった時期もありました。


「心地いい」と感じる時間は本当に短く、

というより、

感じている時間は時間感覚が無くなっていて、

気が付いたらその景色が終わりに近づいていて、

記憶の中にしか残らないその瞬間のあっけなさに、

永遠というものへの憧れを持ってしまっていた時期もありました。


辛かったり苦しかったりすることが非常に多くて、

やっと手にした心地よさはあっという間に消えてゆくこのジレンマに、

辛さや苦しさを何とかポジティブに考えられるように

意味を与えてみようとしました。


例えばそれに責任という考え方も含まれていると思います。


それらの考え方は僕を非常に大人にさせたかのようでした。


乗り越えていくという行動が

「心地いい」に向かっていく上で

必要不可欠なものだと勘違いしてしまったのです。


僕の思考は偉く立派になってしまいました。


いろいろ勉強してもっとよく考えて、

乗り越えていく道のりをちゃんとしたものにしていけば、

乗り越えた先にある物は凄いに違いないと思いました。


辛くて苦しいことを

進んで引き受けても、

得られるものはさほど変わることがありません。


たまにある感覚を大げさに捉えようとして頑張ってみるものの、

いつも感じていたのは、

「本当の心地いいはこれじゃない。」

という感覚です。


僕が何度か経験したことのある「心地いい」は、

もう得ることは無いのだろうか、

そんなふうに思い始めていました。


そんな時そもそも自分が心地いいと感じていることより、

それ以外のことに意識が向いていることに気が付きました。


例えば波乗りに行っていても、

別の何かを気にしていたりして、

感じていることに気持ちが向いていなかったのでした。


考えることをやめて、

上手にやろうとかカッコよくやろうという意識を捨てて、

目の前にある物事に集中してみるようにしました。


頭の中にはいろんな思考が湧いて来ます。


それをとにかく無視できるように、

深呼吸をして言葉が頭を廻る前に

感覚を研ぎ澄まして

ものごとに向かい合うようにします。


僕は運良く、

「心地いい」と感じるものを

いくつか持っていたのでした。


このブログもそのうちの一つです。


この感覚を思い出すことが出来た時、

僕は自由という言葉が初めて自分の中に意味を持ちました。


僕が僕の心地いいようにやること、

ただそれだけでした。


そこに責任感とか義務とか、

別の何かは一切無いんです。


本気で目の前にあることに対して、

上手にやろうとかカッコよくやろうとか、

背伸びしたり人目を気にしたりせずに、

自分の気の済むようにやってみることが出来た時、

それは仕事でも遊びでもなく、

自分自身を表す何か表現になってくるんです。


それをある一定の社会性が必要な場面でも、

同様にできるようになると、

ルールや規範、法律なんかが縛っているものはごく表面的な部分で

自分の自由を本当に縛っているのは

紛れもなく自分自身の考え方だけでしかないことが分かったんです。


この世界に生まれてくる命が

完全にゼロになって生まれてくる以上、

どういう学びを経験して、

どういう間違いを犯して、

どういう正解を導き出して、

どういう時期にそれらを手放すか、

全て本人に委ねられていて、

誰かがそれを決めてしまうことはあり得ません。


誰かが知っている答えが

その人に当てはまる確証など無いので、

教えられることなど無く、

自分で学び取って行く以外に

本当に自分が納得する手段がない以上、

例えば他の人に委ねたとしても、

それを行動に移すのは本人の自由なんです。


自分で決めたことに注意を払っていないだけで、

人が決めたように思ってしまうのです。


責任や義務と言われるものでさえ、

それを本気で果たしたくないと思えば、

いくらでも回避できます。


それらは本当の意味で言えば

果たした時、自分の中に

「心地いい」充実感が生まれてくるからこそ、

やってみてはどうですか?

と言えばよい程度のもので、

強制されているかのようになってしまったときには、

もう完全に意味は無くなってしまうのです。


目の前にあることに

完全に打ち込めないとしたら、

無理があるか、

自分に向いていないか、

そのどちらかです。


自分自身に正直になって見えてくる感覚に

素直になりましょう。


自由という言葉を超えたさきにある、

自分自身に出会えれば、

縛るものはありません。


自分で決めるということだけが

自分の自由を守り続けることになるんです。


ということは、

自分以外に人も

自分で決めないと

お互いに自由にはなれません。


そこに邪な思いがなければ、

自分の自由を侵すものは入って来ません。


自分の素直さが試される場面です。


自由であるためには、

人の自由も守れなければならないからです。


弱さを理解していなければなりません。


強くなる必要はありません。


弱さを弱さと分かっていればいいだけです。


受け入れる必要もなく、

そこにあるままにして

自分に素直になれば

景色が変わっていくままに出来るでしょう。


今世界全体で大きな学びを経験しているところです。


結果を待つのではなく、

目の前に展開する学びを自分の学びとして見てください。


気が付けば自由になっているはずです。


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