これ程の暑さはやはり身体には相当きつく感じますね。
何かしようと思ってもこの暑さでは、
なかなか身体が動いてくれません。
それでもやりたいことや、やるべき事は、
いつもと変わらず次から次へとやって来ます。
これほど暑いと身体が動きにくい分、
いろんな思いが頭を駆け巡ります。
今の自分の状態を如実に物語ります。
僕は自分というものを赤裸々に観るようになって
内側に湧き起こって来るものを受け止め慣れていますが、
これからの世の中の流れは
それぞれの人が持つ両極を本人がどのように受け止めていくのか、
という時代に入っていくことになります。
今この時期いろんな物事のネガティブな側面が
噴き出しているのが分かるでしょうか。
今まで何となくごまかせていたようなものが、
もうそれでは持たなくなって来ているのです。
どんどん正直に成らざるを得ない状況になって来ています。
これは通るべき重要な過程で、
自分の認めたくない部分をしっかり見てはっきり受け止めて、
自分という人間の肉体的、精神的なもの含めて自分を理解して
そこから実質的な可能性に目を向ける段階にいるのです。
いつまで続くのだろう?って思うとしたら、
その状態はいつまでも続いてしまいます。
どんな自分が嫌でどんな自分で居ると心地良いのか、
どの程度の努力でその心地良さを維持できるのか、
その努力はこれからずっと出来るのか、
これぐらいの問いに対して、
「分かりました。出来ます。」と
力まずに自分に答えられるようにするには
自分というものを丁寧に検証していくしか解決策はありません。
この世界をどの様に感じて過ごすのか、
自分が幸せであるかどうかは、
本当にそれだけでしかないのです。
そのことを誰か他の人が代わりにやってくれることは無いのです。
自分がどう感じているかを
他の人の意見に合わせて変えられるのなら、
最初から本当のところ、
そうは感じていなかったという嘘をついていたことになるのです。
自分をシンプルに捉えられれば、
何をどう感じているかなんて、
当たり前すぎて
何を今さらそんな事をしなければならないのか
という気になるでしょう。
世界の出来事に対して、
またそれらに対している自分の行動に対して、
どこか曖昧なまま慣習化してしまって、
はっきり自信を持たずに過ごしている自分を変えるには、
ただはっきり答えること、
それだけが出来ればいいのです。
僕はある時、
僕を取り巻くネガティブな物事に押しつぶされそうになりながらも、
どこかで世界と繋がっていたいと思っている自分に気づいて、
「もういい!関係ない!」と
一度全部を切り離して今の自分との関係を考え直してみたのでした。
世の中にある、
僕が幸せを感じる出来事は、
数える程しかありませんが、
僕を憂鬱にする出来事は五万とあります。
僕は以前、
それらの事柄を一つづつ解決していかなければ
本当の幸せは来ないと思っていました。
例えば、
罪の無い命がどこかで
無惨にも失われていく現実がこの世界にはあります。
この文章を見て、
いい気持ちになる人はいません。
そこで、頭の中でいろいろと巡り始めます。
どんな人でも、
人は何処までも、
心地好くあろうとしますし、
心地悪さを避けようとします。
どちらも常に同時進行で変化し続ける
物事の側面でしかないにも関わらずそうするのです。
なので上に上げたような事柄に対して、
何かしら行動をとっています。
簡単なものとしては、
完全に良い方法など分からない、
だから詳しくは見ないようにする。
これは多くの人が日常的にとっている行動パターンです。
この行動自体には意味は無く、
自分の中に生まれた心地悪さに対して
明確に答えてはいません。
なので置き去りにされたままの心地悪さは、
命の大切さを考えさせられる事に出会った時、
様々な反応として現れてきます。
様々な反応として現れてきます。
自分に出来ることを探す人もいれば、
自分との世界に境界線を引く人もいます。
静かに見守る人もいれば、
もう居ても立っても居られなくなる人もいます。
どういう違いが出てきたとしても、
その元となっている事は、
自分の中に生まれた心地悪さに
どうやって対処しているか、
ということには変わりありません。
その自分のやり方を
その時その場に合ったやり方で、
瞬時に決断して行動している人は、
どんな事に遭遇しても、
その場で自分の中に生まれた感情に対して答えるので、
ネガティブな感情に引きずられ続ける事はありません。
ネガティブなものもポジティブなものも、
そのエネルギーを上手に使いさえすれば、
進んでいく道は明るく自信に溢れてきます。
自分の進むべき道を自分で決めて行くことは、
それ自体が豊かで自由で楽しいことなのです。
自分の進むべき道を自分で決めて行くことは、
それ自体が豊かで自由で楽しいことなのです。
今の憂鬱なニュースが多い世界の中でも
自立した自分でいるために、
自立した自分でいるために、
僕は「距離感」を大事にしています。
僕を中心にして、
手の届く範囲から順番に大切なものが、
その時その時で変化します。
物理的にも、
精神的にも、
僕と近く感じるものから優先します。
僕から離れて行こうとするものや、
距離が縮まらないもの、
何処にあるのか分からないものには、
僕から何かをしようとは思いません。
僕に近づいて来るものでも、
僕の目線の高さ、
これは物理的にも精神的にも同じ範囲に無いものは、
僕と関係ないものとします。
先に上げた文章の、
どこかで失われていく命、
ということに対して
僕は基本的にどうする必要も無いと感じます。
何処にいるのか分からない不特定多数の存在が
あまりにも遠すぎて、
その命が求めているものが、
僕には分からないからです。
想像を広げれば生きたいのだろうと感じることは出来ます。
でも本気で生きたいと僕に訴えて来る命は、
もっと範囲を狭くしてもたくさん現れて来ます。
でも本気で生きたいと僕に訴えて来る命は、
もっと範囲を狭くしてもたくさん現れて来ます。
命を助けるということを
本当に経験したことのある人は少ないと思いますが、
こちらも命懸けでいかなければなりません。
これはどんな命にでもほぼ当てはまる事だと思いますが、
甘いものではありません。
生きているだけで十分という言葉が
真理として自分の中で息づくには
純粋にそれを求めていないと、
この世界にあるものは全て
命を削ぐものでしか無いのです。
その削ぎ落していく命の代わりに、
この世界で何を見たいのか、
それが今すぐに具体的では無いとしても、
求める気持ちが無い命には
この世の現実はただただ過酷なだけになっていくのです。
それらをごまかす術はいくらでもありますが、
最後はみな同じく「死」を迎えます。
自分の代わりはいません。
それも踏まえて生きるということを
全面的に受け入れるということが、
自分一人で出来なければ、
本当に自分の道を歩き始めることはないのです。
どれ程まで自分に真剣にならなければならいでしょう。
家族、親、友達、知り合い、お世話になった人、この世界で何を見たいのか、
それが今すぐに具体的では無いとしても、
求める気持ちが無い命には
この世の現実はただただ過酷なだけになっていくのです。
それらをごまかす術はいくらでもありますが、
最後はみな同じく「死」を迎えます。
自分の代わりはいません。
それも踏まえて生きるということを
全面的に受け入れるということが、
自分一人で出来なければ、
本当に自分の道を歩き始めることはないのです。
どれ程まで自分に真剣にならなければならいでしょう。
全て距離感の違いはあれど、
僕が自分に幸せを感じるかどうか、
僕の代わりに感じてくれる人は居ないのです。
誰かのために出来ることを考えるより先に、
先ず自分がどうしたら幸せになれるのか、
真剣に考えて行動してみてください。
誰かが提示する幸せは全部違います。
いくら他の人のことを学んでも辿り着きはしません。
行動に移った段階で、
少しづつ開いてくる世界があります。
他の人の意見は参考にしても、
自分の内なる声だけに正直で居てください。
必ずあるタイミングで、
自分の内なる声の強さが自分の弱さを打ち破っていきます。
誰でもない自分の誕生がその時起こります。
もう大丈夫です。
自分一人がこの世界とどう関わっていくかは
自分次第になるのです。
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