この広い世界の中、
僕のいるここ、
僕の意識が届く空間を
担当することになってます。
平和に調和を保つお役目です。
僕には、
やっと使えるようになった程度ですが、
身体と
感覚と
考える力と
言葉と
心が
与えられています。
それらを健やかに保つためにも
さらにいろいろ与えてもらっています。
社会性を学ぶことができる仕事や
空間と一つになれる趣味や
それらと共にある人たち、
うつろい変わる景色や、
そこに吹く風の音や
鳥たちのさえずりなど、
必要に応じて与えてもらうのです。
その空間の全てに心を開くことが大切で、
人だけでなく、その空間にある全ての調和を感じて
その場に溶け込んでいく感覚を目指します。
自分の成長に合った新しい立ち位置を用意されますが、
上手くできなくても、
できる限り真摯に丁寧に取り組むことで
新たな調和を生み出すことができます。
では何をするかというと、
その場でリラックスして過ごすのです。
その上で気を付けたい点が幾つかありますので
それを見ていきましょう。
まずは意識的に調和を取ろうとしなくていい、
ということです。
良く間違えてしまいますが、
基本的に調和は何もしなければ自然に生まれるので、
そこで調和を取らなければならないという考えが出てきたら、
それは自我のしわざです。
新しい空間などで緊張してしまったりして、
そこに生まれつつある調和を感じられなくなった時に
調和をとるにはこうしないとだめだ、
と決めて行動してしまったりすると、
自分が調和を乱していることに
気が付きません。
そういう時はリラックスしてみましょう。
自分の立ち位置で
その空間を心地良くできるのは
一番リラックスした自分でいることです。
次に気を付けたいのは、
調和していないものを探さない
ということです。
新しい調和は常に生まれているのですが、
すべてがいっせいに整うことはありません。
いろんなものごとがそれぞれのペースで
調和に向けて動いています。
一見不調和に見える動きも
調和に欠かせない重要な何かである場合があります。
その中にいて不安で辛抱できずに、
調和していないものを探してしまうことがあります。
自分の不安を他のせいにして
自分を見失ってしまうことにもなりかねないので
気をつけたいところです。
そんな時はリラックスしてみましょう。
自分の中の緊張が何から来ているのかが分かれば
それまでの自分の思い込みを
手放す良い機会になるかもしれません。
最後に、
形にこだわらないということも気を付けたいところです。
調和はそれ自体ずっと不安定な中にあるのですが、
常にバランスをとり合っているバラバラの流れが、
もっと大きな流れと一つになることがあります。
それは良くも悪くも想像と違うものになりますし、
それですでに調和しているということに気付かないこともあります。
自分が思い描いている通りにしか受け入れられないとしたら、
その空間には居心地の悪さしかありません。
そこでこだわりを手放せるか、
その空間から離れていくかの選択も自由ですが、
こだわりは
どこまでいっても自分だけのものなのを考えると、
どこにいても不調和をもたらしてしまいます。
今、手放して大きな流れに任せることで
全てが調和し始めます。
これらの注意点をクリアーするのに、毎回100点満点である必要などありません。
例えば100回チャレンジして1回でもできれば
素晴らしいことです。
それが2回になったらもっと素晴らしいことです。
気が付いたらリラックスして、
空間に心を解放することから始めるといいでしょう。
調和に向けて心を静かに落ち着けたその時、
周りに敵はいません。
確かにこの広い世界の中に
破壊するお役目の人たちがいます。
その人たちと、
平和に調和を保つ役目の人たちは
持ち場が違います。
なので一緒の空間で過ごすことはありません。
一人一人の側面としての怒りの感情が
少しオーバーに表現されてしまうことがあるかもしれませんが、
一つの空間で共有できる目的がある場面においては、
決して敵などではありません。
共有する目的へ向けた一つの
調和の働きを一緒に学んでいるのです。
僕もいろいろと学ばせてもらった中で、
破壊よりも調和のお役目を、
と思い立ちました。
僕が学んだのは
本質的に破壊できるものなど無いということです。
それに気づくまで破壊のお役目の人はお役目を続けます。
学びを放棄してしまった人や、
自分のお役目を忘れてしまった人などに
気付いてもらうために欠かせないお役目なのです。
同じく様々な人に気付いてもらうためのお役目ですが、
僕はひたすら調和を目指します。
ただひたすらにその場その空間に心開いて、
リラックスしていろんなものごとに向き合います。
上手くできないときがあっても、
何かに心引きずられても、
深呼吸して、
もう一度そこから始めます。
そこに平和に調和が保てる始まりがあるからです。
自分の中に感じる不調和を、
何か他のもののせいにするのはやめました。
自分から見た敵はもういなくなりました。
心落ち着かせて、
ここに心を開いていくだけです。
2015年6月26日金曜日
2015年6月22日月曜日
孤独というオバケと自分の本質
日々いろんなものごとに囲まれて過ごしているのに、
ふとした時に感じる孤独はこの世界を生きるうえで
とても厄介な感覚だと思います。
どうすることも出来ずに、
一人で思い巡らすしかない時は、
たとえ家族や友人が近くにいても、
その寂しさの中にいる自分をすくい上げるのは
容易ではありません。
自分の寂しさがどんな程度であっても、
それに付随してくる孤独感は、
進むべき道を暗くして見えにくくしてしまいます。
どんな場合であっても、
孤独とは
自分が意識することで起こるのですが、
その孤独の中で、
自分が何をしてそうなっているのかを
落ち着いて受け入れるなら、
まさに今、孤独から解放される時です。
それでは、詳しく見ていきましょう。
まず、孤独は、
分離することで起こっています。
自分と自分でないもの、
自分のものとそうでないもの、
自分の好きなものとそうでないもの、
自分と関係あるものとそうでないもの、
そういった分離の範囲がどの程度であっても、
全て自分の都合で分けています。
寂しさを感じるのは、
分離することで起きているので、
分離したものとの距離感のように感じてとる行動では
その寂しさを完全に埋めることはできません。
僕と誰かが近づいたり離れたりすることで、
孤独感が減ったり増えたりするわけではありません。
手を握っていても、
孤独を感じる時は感じてしまいます。
目には見えない関係性を
どう意識しているかということであって、
三次元的な距離は関係ありません。
次に、目に見えない関係性も
分けて捉えていることで、
分離を起こしています。
自分と、
家族、友人、仲間、知人、見たことのある人、知らない人、
などなど、実際にそうだから、と言いたいところですが、
平たくいうと、自分とそれ以外のもの、
として捉えてしまっています。
その関係性を自分から見て
明るく見れる時は、愛になっていて、
暗く見てしまう時は、孤独になっているのです。
そして、その明るい暗いも、
気分で分けているだけで、
暗い時があるからこそ明るい時が
嬉しく感じるということを忘れてしまっています。
明るいことで見えるものもあれば、
暗いことで見えてくるものもあって、
どちらも大切で、
それぞれが影響しあって、
大きな流れを作っていきます。
その大きな流れに
自分の心を解放できない理由を探している状態が
孤独です。
その理由に気づくために、
明るさや暗さがあるのですが、
たとえそれに気づこうが気づくまいが、
大きな流れはずっとあって、
その中の小さなこだわりを自分と思っているだけなので、
そのこだわりを取ってしまえば、
一緒に孤独も無くなります。
小さな小さなこだわりにくっついているだけの孤独が、
なぜこれほど深く感じることになるのでしょうか。
それは、自分の本質とは何なのかを
自分一人でしか見ることができないからです。
自分の本質を言葉で言い表すことはできないので、
自分の感覚で確かめるしかないのです。
それは、
表面的な調和や不調和ではびくともしません。
表面的な全てのものごとが、
自分の本質のほんの一部分として
現れて変化して消えていきますが、
それ自体が生まれたり無くなったり、
増えたり減ったり、綺麗になったり汚れたりすることはありません。
例えば、
海で波が浜に打ち寄せ、
白波を立てて引いていったあと、
次の波に消えていったとしても、
海はずっと海のままであるのと同じです。
自分の本質に気づくと、
自然にあることを自然のなるままにすることができるので
大きな流れと調和していることが分かります。
そこに孤独なものなどありません。
分離したものなど無いので、
良いも悪いもありません。
孤独な不調和は、
満たされた調和の一部分としての自分を
見るためにある一つの作用なのです。
自分という不完全なものを通して、
完全なものの一部に触れるのです。
そこに孤独がどうしても必要になるのです。
一度でも完全なものに触れれば、
孤独という作用は役目を終えて、
消えていきます。
あとは流れに身を任せるだけです。
ふとした時に感じる孤独はこの世界を生きるうえで
とても厄介な感覚だと思います。
どうすることも出来ずに、
一人で思い巡らすしかない時は、
たとえ家族や友人が近くにいても、
その寂しさの中にいる自分をすくい上げるのは
容易ではありません。
自分の寂しさがどんな程度であっても、
それに付随してくる孤独感は、
進むべき道を暗くして見えにくくしてしまいます。
どんな場合であっても、
孤独とは
自分が意識することで起こるのですが、
その孤独の中で、
自分が何をしてそうなっているのかを
落ち着いて受け入れるなら、
まさに今、孤独から解放される時です。
それでは、詳しく見ていきましょう。
まず、孤独は、
分離することで起こっています。
自分と自分でないもの、
自分のものとそうでないもの、
自分の好きなものとそうでないもの、
自分と関係あるものとそうでないもの、
そういった分離の範囲がどの程度であっても、
全て自分の都合で分けています。
寂しさを感じるのは、
分離することで起きているので、
分離したものとの距離感のように感じてとる行動では
その寂しさを完全に埋めることはできません。
僕と誰かが近づいたり離れたりすることで、
孤独感が減ったり増えたりするわけではありません。
手を握っていても、
孤独を感じる時は感じてしまいます。
目には見えない関係性を
どう意識しているかということであって、
三次元的な距離は関係ありません。
次に、目に見えない関係性も
分けて捉えていることで、
分離を起こしています。
自分と、
家族、友人、仲間、知人、見たことのある人、知らない人、
などなど、実際にそうだから、と言いたいところですが、
平たくいうと、自分とそれ以外のもの、
として捉えてしまっています。
その関係性を自分から見て
明るく見れる時は、愛になっていて、
暗く見てしまう時は、孤独になっているのです。
そして、その明るい暗いも、
気分で分けているだけで、
暗い時があるからこそ明るい時が
嬉しく感じるということを忘れてしまっています。
明るいことで見えるものもあれば、
暗いことで見えてくるものもあって、
どちらも大切で、
それぞれが影響しあって、
大きな流れを作っていきます。
その大きな流れに
自分の心を解放できない理由を探している状態が
孤独です。
その理由に気づくために、
明るさや暗さがあるのですが、
たとえそれに気づこうが気づくまいが、
大きな流れはずっとあって、
その中の小さなこだわりを自分と思っているだけなので、
そのこだわりを取ってしまえば、
一緒に孤独も無くなります。
小さな小さなこだわりにくっついているだけの孤独が、
なぜこれほど深く感じることになるのでしょうか。
それは、自分の本質とは何なのかを
自分一人でしか見ることができないからです。
自分の本質を言葉で言い表すことはできないので、
自分の感覚で確かめるしかないのです。
それは、
表面的な調和や不調和ではびくともしません。
表面的な全てのものごとが、
自分の本質のほんの一部分として
現れて変化して消えていきますが、
それ自体が生まれたり無くなったり、
増えたり減ったり、綺麗になったり汚れたりすることはありません。
例えば、
海で波が浜に打ち寄せ、
白波を立てて引いていったあと、
次の波に消えていったとしても、
海はずっと海のままであるのと同じです。
自分の本質に気づくと、
自然にあることを自然のなるままにすることができるので
大きな流れと調和していることが分かります。
そこに孤独なものなどありません。
分離したものなど無いので、
良いも悪いもありません。
孤独な不調和は、
満たされた調和の一部分としての自分を
見るためにある一つの作用なのです。
自分という不完全なものを通して、
完全なものの一部に触れるのです。
そこに孤独がどうしても必要になるのです。
一度でも完全なものに触れれば、
孤独という作用は役目を終えて、
消えていきます。
あとは流れに身を任せるだけです。
2015年6月15日月曜日
正義の味方と邪悪な者たち
僕が子供のころには、
正義の味方が邪悪なものたちを
懲らしめるというストーリーが
当然のこととしてありました。
邪悪なものたちが、
善良な市民の幸せをおびやかすので、
正義の味方が頑張らなくてはなりませんでした。
邪悪なものたちが唐突に破壊しはじめると、
そこに正義の味方が現れて、
やられそうになりながらも危機を回避して相手を倒すと、
さっと飛んでいくのでした。
ただの作り話だと思っていたのですが、
意外とそうでもなく、
日々の生活の中で、
展開していたからこそ、
簡単に受け入れられるストーリーだったのです。
このよくあるストーリーが、
現実に展開していたのは、
不必要な怒りが出てしまっていた時の、
僕の心の内側での話だったのです。
それでは、
ここに出て来る登場人物の関係を
よく見てみることにしましょう。
正義の味方は、僕の正義感に置き換えられます。
善良な市民は、僕の周りにいる人々への僕の思いになります。
邪悪なものは、周りの人々と調和をしない行為をする人への僕の思いです。
以前は
真の意味での調和への理解も浅かったんですが、
簡単に、
周りのことを考えずに我を通すような行為を
調和しない行為としておきましょう。
たとえばそんな行為をおこした人に、
僕の正義感は、
「この人に分かってもらわないといけない!」となりました。
唐突であればあるほど、
「この人は分かっていないから、教えてあげなくちゃ」と思いました。
この時点ですでに、
周りの人たちを思ってのことなので、
僕の正義感は燃えたぎっています。
僕は学んできた多くの事柄から、
いかにその行為が間違っているのかを説明するのでした。
しかも怒ってです。
悪に対してちゃんと怒らなくてはならないと思っていましたから。
でもここで、
本当に学ぶべきことが何なのかを気づくことは容易ではありませんでした。
僕の場合は、
不必要な怒りと
その人が間違っていて僕が正しいという判断です。
ちゃんと理解できてませんでしたが、
以前から僕は、
悪とは、
善に対しての相対的な働きでしかない
と思っていました。
それはそうだとしても、
ただ周りの人を思って、
というところに善悪の基準を持ってしまっていました。
でも、
よく周りを見てみると、
いわゆる善良な人たちの中に、
完全に善良なだけの人などいませんでした。
もちろん僕も不完全で、
怒ってしまった相手も不完全です。
それぞれの持ち回りで学び合っているのです。
本当の意味では、
悪の働きとしての事象が
ある人の役回りで起こっただけだったのです。
その役になった本人も、
そして周りの人たちも、
僕も、
その事象から何を感じて
次の場面で調和に向けたどんな行動が出来るかが、
それぞれに与えられた学びであったのです。
それを、
正義の味方を気取って
ただ怒りを放出していただけでは
これが正しくて、これは悪でと、
物事を分離させてしまうことになっていたのでした。
誰のためにもなっていない
一番調和を阻害する行為をしていたのは、
僕の正義感なのでした。
それこそ調和のために成すべきことは、
その時その時によって、
まったく違ってきます。
場合によっては、
怒りをちゃんと表現することが必要なこともあるでしょう。
上手くいくこともあれば、
余計気まずくなってしまう場合もあるかもしれませんが、
まず調和をもたらす心を持って、
その空間をよく見てみれば、
何をすべきか、
何をすべきでないか
見えてくるのではないでしょうか。
正義の味方が邪悪なものたちを
懲らしめるというストーリーが
当然のこととしてありました。
邪悪なものたちが、
善良な市民の幸せをおびやかすので、
正義の味方が頑張らなくてはなりませんでした。
邪悪なものたちが唐突に破壊しはじめると、
そこに正義の味方が現れて、
やられそうになりながらも危機を回避して相手を倒すと、
さっと飛んでいくのでした。
ただの作り話だと思っていたのですが、
意外とそうでもなく、
日々の生活の中で、
展開していたからこそ、
簡単に受け入れられるストーリーだったのです。
このよくあるストーリーが、
現実に展開していたのは、
不必要な怒りが出てしまっていた時の、
僕の心の内側での話だったのです。
それでは、
ここに出て来る登場人物の関係を
よく見てみることにしましょう。
正義の味方は、僕の正義感に置き換えられます。
善良な市民は、僕の周りにいる人々への僕の思いになります。
邪悪なものは、周りの人々と調和をしない行為をする人への僕の思いです。
以前は
真の意味での調和への理解も浅かったんですが、
簡単に、
周りのことを考えずに我を通すような行為を
調和しない行為としておきましょう。
たとえばそんな行為をおこした人に、
僕の正義感は、
「この人に分かってもらわないといけない!」となりました。
唐突であればあるほど、
「この人は分かっていないから、教えてあげなくちゃ」と思いました。
この時点ですでに、
周りの人たちを思ってのことなので、
僕の正義感は燃えたぎっています。
僕は学んできた多くの事柄から、
いかにその行為が間違っているのかを説明するのでした。
しかも怒ってです。
悪に対してちゃんと怒らなくてはならないと思っていましたから。
でもここで、
本当に学ぶべきことが何なのかを気づくことは容易ではありませんでした。
僕の場合は、
不必要な怒りと
その人が間違っていて僕が正しいという判断です。
ちゃんと理解できてませんでしたが、
以前から僕は、
悪とは、
善に対しての相対的な働きでしかない
と思っていました。
それはそうだとしても、
ただ周りの人を思って、
というところに善悪の基準を持ってしまっていました。
でも、
よく周りを見てみると、
いわゆる善良な人たちの中に、
完全に善良なだけの人などいませんでした。
もちろん僕も不完全で、
怒ってしまった相手も不完全です。
それぞれの持ち回りで学び合っているのです。
本当の意味では、
悪の働きとしての事象が
ある人の役回りで起こっただけだったのです。
その役になった本人も、
そして周りの人たちも、
僕も、
その事象から何を感じて
次の場面で調和に向けたどんな行動が出来るかが、
それぞれに与えられた学びであったのです。
それを、
正義の味方を気取って
ただ怒りを放出していただけでは
これが正しくて、これは悪でと、
物事を分離させてしまうことになっていたのでした。
誰のためにもなっていない
一番調和を阻害する行為をしていたのは、
僕の正義感なのでした。
それこそ調和のために成すべきことは、
その時その時によって、
まったく違ってきます。
場合によっては、
怒りをちゃんと表現することが必要なこともあるでしょう。
上手くいくこともあれば、
余計気まずくなってしまう場合もあるかもしれませんが、
まず調和をもたらす心を持って、
その空間をよく見てみれば、
何をすべきか、
何をすべきでないか
見えてくるのではないでしょうか。
2015年6月11日木曜日
探しても見つからないこと
メガネを額の上にかけたまま、
メガネ、メガネ、と、
探している冗談を
目にしたことがあると思います。
僕が以前そうだったように、
感覚的に分からない状態というのは、
だいたいそうやって探している様子になっているのでした。
幸せになりたいと思って、
そうなる自分を思い描いて、
神様にお願いして、
なるべく近い将来そうなれるように、
今から出来ることを始めてみる。
ごく当たり前のように
そうしていました。
でもこの方法では、
幸せになっていく過程を楽しめても、
肝心な満たされている感覚をつかむことが出来ません。
思い描いている将来のほうが、
今より幸せ、としているので、
いつまでたっても未来の話です。
今から始める何かが、
楽しく時間を過ごせるならまだしも、
きついことならば、
それを頑張る日々は
未来のことしか見えなくなっていきます。
今という瞬間がどれだけ幸せで満たされていたとしても、
それを全部未来へ注ぎ込むことが尊いと思ってしまうのです。
今ここにある完全な幸せは、
見えなくなってしまいます。
その状態からでは
今この瞬間ほど尊いものは無いということが、
自分の思い描いている未来との比較になるので、
真の意味で分かることはないと思います。
今ここにいるという感覚に寄り添ったまま、
完全に探すのを止めたとき、
少しずつ見えてくるのです。
自分の外側で感じるわけもなく、
内側だけでもないと、
少しずつ確信していくのです。
今この瞬間、
全てが満たされているという感覚を
自分が体験しているのです。
誰かにお願いして、
やってもらうわけにはいきません。
僕が探すことを止めたときは、
幸せな将来など無い
ということを落とし込むのに
少し勇気がいったのを覚えています。
探しているあいだは、
嫌な感じがしていても、
今それを受け入れなくて済むような気がしていたんです。
今この瞬間に何があっても、
受け入れられるのだろうか?
それが最後の恐れでした。
今あることを受け入れはじめると
自分が全てに解放されていきます。
今もまだまだ解放中で、
どんどん開いていってます。
途中、え?こんなことにも?
みたいな場面もありますが、
もう開き始めると
どんどん新しくなるので、
気になりません。
これからも
ずっと受け入れては
手放しつづけていこうと思います。
メガネ、メガネ、と、
探している冗談を
目にしたことがあると思います。
僕が以前そうだったように、
感覚的に分からない状態というのは、
だいたいそうやって探している様子になっているのでした。
幸せになりたいと思って、
そうなる自分を思い描いて、
神様にお願いして、
なるべく近い将来そうなれるように、
今から出来ることを始めてみる。
ごく当たり前のように
そうしていました。
でもこの方法では、
幸せになっていく過程を楽しめても、
肝心な満たされている感覚をつかむことが出来ません。
思い描いている将来のほうが、
今より幸せ、としているので、
いつまでたっても未来の話です。
今から始める何かが、
楽しく時間を過ごせるならまだしも、
きついことならば、
それを頑張る日々は
未来のことしか見えなくなっていきます。
今という瞬間がどれだけ幸せで満たされていたとしても、
それを全部未来へ注ぎ込むことが尊いと思ってしまうのです。
今ここにある完全な幸せは、
見えなくなってしまいます。
その状態からでは
今この瞬間ほど尊いものは無いということが、
自分の思い描いている未来との比較になるので、
真の意味で分かることはないと思います。
今ここにいるという感覚に寄り添ったまま、
完全に探すのを止めたとき、
少しずつ見えてくるのです。
自分の外側で感じるわけもなく、
内側だけでもないと、
少しずつ確信していくのです。
今この瞬間、
全てが満たされているという感覚を
自分が体験しているのです。
誰かにお願いして、
やってもらうわけにはいきません。
僕が探すことを止めたときは、
幸せな将来など無い
ということを落とし込むのに
少し勇気がいったのを覚えています。
探しているあいだは、
嫌な感じがしていても、
今それを受け入れなくて済むような気がしていたんです。
今この瞬間に何があっても、
受け入れられるのだろうか?
それが最後の恐れでした。
今あることを受け入れはじめると
自分が全てに解放されていきます。
今もまだまだ解放中で、
どんどん開いていってます。
途中、え?こんなことにも?
みたいな場面もありますが、
もう開き始めると
どんどん新しくなるので、
気になりません。
これからも
ずっと受け入れては
手放しつづけていこうと思います。
2015年6月9日火曜日
ただ手放すとき
物持ちがよかった僕は
捨てずに持っていたものが
多くありました。
シンプルな生活を送ろうと思ってから、
あると便利なものは
今なくてもいいものと思って
どんどん手放しました。
でも、
思い入れのあるものが、
なかなか手放せません。
どんどんものは減っていくんですが、
心のどこかでもっとシンプルになりたいと感じていました。
どれだけ手放せば心まで軽くなれるのか考えた僕は、
持っているもの全てを手放そうと
覚悟を決めたのでした。
そうして最後は
自分を手放すことになるのです。
そこで分かったことは、
それまで必死な思いまでして手放してきたものたちは、
どれも自分のものではなかったということです。
もちろん大切に思ってましたし、
そう扱っていましたが、
ただそこにあるもの、
と、
僕、
という関係性が
それ以上になったり、
どちらかの一部になったりしたことは
ないのです。
そういった関係性の変化の無さは、
ものだけでなく、
身体や、
記憶、
時間、
空間、
イメージなどもそうで、
僕のものになることはありません。
全てのものは
いつかは必ず跡形もなく消えて無くなるので、
手放さなければなりません。
そのことに感情移入して
思いをくっつけてしまうので
執着が生まれるのです。
何かが生まれて
無くなっていくのは
とても自然なことで
とても美しいのです。
それを悲しみに捉えてしまうのは
自分のものとして捉えているからなんです。
今この宇宙にあるものたちは
本当に神秘的な力が働いて出来上がったものばかりで
誰のものでもないまま、
今ここへやってきて
使わせてもらっているという感じです。
今、僕からみると、
とてつもない神聖なものを
託して下さってるような感じで、
本当に大切に使わなきゃならないものだらけです。
僕らは本当に豊かな世界を生きているんです。
手放さなければならないのは、
それらを自分のものとしてしまう思いなんです。
結局、その思いは
手放すことになるんですから、
今手放しても同じです。
見え方がまるっきり変わりますが、
そこにあるべきものも、
そこにあるべき自分も
何も変わらずに、
あるがままに
あり続けています。
捨てずに持っていたものが
多くありました。
シンプルな生活を送ろうと思ってから、
あると便利なものは
今なくてもいいものと思って
どんどん手放しました。
でも、
思い入れのあるものが、
なかなか手放せません。
どんどんものは減っていくんですが、
心のどこかでもっとシンプルになりたいと感じていました。
どれだけ手放せば心まで軽くなれるのか考えた僕は、
持っているもの全てを手放そうと
覚悟を決めたのでした。
そうして最後は
自分を手放すことになるのです。
そこで分かったことは、
それまで必死な思いまでして手放してきたものたちは、
どれも自分のものではなかったということです。
もちろん大切に思ってましたし、
そう扱っていましたが、
ただそこにあるもの、
と、
僕、
という関係性が
それ以上になったり、
どちらかの一部になったりしたことは
ないのです。
そういった関係性の変化の無さは、
ものだけでなく、
身体や、
記憶、
時間、
空間、
イメージなどもそうで、
僕のものになることはありません。
全てのものは
いつかは必ず跡形もなく消えて無くなるので、
手放さなければなりません。
そのことに感情移入して
思いをくっつけてしまうので
執着が生まれるのです。
何かが生まれて
無くなっていくのは
とても自然なことで
とても美しいのです。
それを悲しみに捉えてしまうのは
自分のものとして捉えているからなんです。
今この宇宙にあるものたちは
本当に神秘的な力が働いて出来上がったものばかりで
誰のものでもないまま、
今ここへやってきて
使わせてもらっているという感じです。
今、僕からみると、
とてつもない神聖なものを
託して下さってるような感じで、
本当に大切に使わなきゃならないものだらけです。
僕らは本当に豊かな世界を生きているんです。
手放さなければならないのは、
それらを自分のものとしてしまう思いなんです。
結局、その思いは
手放すことになるんですから、
今手放しても同じです。
見え方がまるっきり変わりますが、
そこにあるべきものも、
そこにあるべき自分も
何も変わらずに、
あるがままに
あり続けています。
2015年6月7日日曜日
嘘の無い世界
僕には、嘘をついてしまった記憶が幾つもあります。
じゃれ合う気持ちでふざけたものから、
その場をごまかして
自分の非を認められなかったものまでたくさんあります。
でも、成長するにつれて自分に対しては、
嘘が通用しないことを学ぶことができました。
それを学んでからもしばらくは、
自分に対して正直に過ごすことと
わがままを混同してしまっていた こともあって、
心安らぐ時間はなかなか得られませんでした。
わがままでは、 自分が過ごしている空間との
調和が取れなくなるからです。
ただ、調和を取ろうとするあまり、
自分を抑えて、
周りの環境に迎合するのも、
嘘であると感じています。
それも心は安らぎません。
空間と調和の取れた
安らいだ気持ちでいることを経験しているので、
そう感じていない自分には嘘になってしまうのです。
わがままではダメで、
周りに合わそうとすれば、
ぎこちない感覚になる。
兎角この世は難しい、
ということになってしまいます。
そんな時は素直になって見てみましょう。
僕が自分を手放してみて感じたことの一つに、
今の自分から見える世界には嘘が無いという明確な感覚があります。
嘘というものを、
ついてしまっている人にとって、
その場面ではその選択しかできません。
その場面でその人が、
嘘ではない選択肢を選ぶことは、
無いんです。
意識していても、していなくても、
心には大きな力がかかっていて、
それに気づかなくては
ごまかそうとする心を、 素直には変えられないんです。
ごまかしていることに気づいていないことさえあり ます。
嘘というものは、
その場面で、その空間にあるものごとを
あるがままを見ずに、
自分の思い込みや、恐れや、不安、妄想などを、
意識しているかいないか関係なく、
事実ではないことを見たまま表現してしまうことなのです。
その空間にそぐわない不自然な出来事になってしまうのです。
その不自然さがあるので、心は安らぎません。
僕等にある感覚というものは、
そもそもセンサーとして身体に備わっているので、
その空間に何かしら不自然なものごとがある時は
居心地の悪さを感 じるのです。
その居心地の悪さから、
何かしら対処したくなりますが、
リラックスしてそのまま放っておくのが一番です。
不自然なものは、
何もしなければ
自然に無くなっていきます。
本当のことでなければ、
無くなっていくのです。
素直に見れば、
それはすぐ分かります。
この世界にある何が嘘で、
何が本当かに気を使うよりも、
今ここで心落ち着けて素直になることで、
嘘の無い世界を見ることが出来ます。
こんなことを言いつつも、
何か間違えた時、
恥ずかしくて、
ごまかしてしまいそうになることがまだまだあります。
もっともっと素直になれるということですね。
じゃれ合う気持ちでふざけたものから、
自分の非を認められなかったものまでたくさんあります。
でも、成長するにつれて自分に対しては、
それを学んでからもしばらくは、
自分に対して正直に過ごすことと
わがままを混同してしまっていた
心安らぐ時間はなかなか得られませんでした。
わがままでは、
調和が取れなくなるからです。
ただ、調和を取ろうとするあまり、
自分を抑えて、
嘘であると感じています。
それも心は安らぎません。
空間と調和の取れた
安らいだ気持ちでいることを経験しているので、
わがままではダメで、
周りに合わそうとすれば、
ぎこちない感覚になる。
兎角この世は難しい、
ということになってしまいます。
そんな時は素直になって見てみましょう。
僕が自分を手放してみて感じたことの一つに、
今の自分から見える世界には嘘が無いという明確な感覚があります。
嘘というものを、
ついてしまっている人にとって、
その場面でその人が、
嘘ではない選択肢を選ぶことは、
無いんです。
意識していても、していなくても、
それに気づかなくては
ごまかそうとする心を、
ごまかしていることに気づいていないことさえあり
嘘というものは、
その場面で、その空間にあるものごとを
あるがままを見ずに、
自分の思い込みや、恐れや、不安、妄想などを、
意識しているかいないか関係なく、
その空間にそぐわない不自然な出来事になってしまうのです。
その不自然さがあるので、心は安らぎません。
僕等にある感覚というものは、
その空間に何かしら不自然なものごとがある時は
居心地の悪さを感
その居心地の悪さから、
何かしら対処したくなりますが、
リラックスしてそのまま放っておくのが一番です。
不自然なものは、
何もしなければ
自然に無くなっていきます。
本当のことでなければ、
無くなっていくのです。
素直に見れば、
それはすぐ分かります。
この世界にある何が嘘で、
何が本当かに気を使うよりも、
今ここで心落ち着けて素直になることで、
こんなことを言いつつも、
何か間違えた時、
恥ずかしくて、
もっともっと素直になれるということですね。
2015年6月2日火曜日
目に映るものをありのまま見ること
僕はずっと、何気なく見ていたごく当たり前にある景色を
本当の意味では、見ることができませんでした。
では、何を見ていたのでしょうか。
簡単に言うと、
見たいものを見たいようにしか
見ることができなかったのです。
それを当然としていたのですが、
ありのままに見る方が気持ちが楽なことに気づいたのです。
楽なので次の行動へ素直に移ることができます。
それだけでもかなり違いますが、
見たくないものを見ないようにすることからも解放されるのです。
それは大変な作業で
常に自分の視界にそういうものごとが入らないようにしなくてはな りません。
実際には
リラックスして過ぎていくままにすれば
それで済むことなので、
見ないようにする努力は簡単に無くせます。
僕の言う見るという行為は、
意識を向けたところを見ているということなので、
目を閉じていても起こります。
指先が触れる感じや、
足の裏に触れている地面なども、
イメージとして目に映すことが出来ます。
さらに昨日のことや、明日のことも、イメージ出来るんです。
そしてそれを今見ている風景に被せて見たりすることが出来ます。
え~っと、あれ何だったっけ、
としている時見ているイメージです。
意識していませんが、
意識がイメージの方を向いている状態です。
何気なく見ていたほとんどの場面で、
これに近い作業をしていることに気づきました。
なのでちゃんと見ようとするには、
ちゃんと見なきゃ‼
みたいに思わなければならかったんです。
意識をそこに向ける必要があったんです。
でも最近は、
わざわざ何かを意識するのはやめて、
意識が勝手に向く時以外は、
意識を拡げておくようにしています。
何処かに集中して意識するよりも楽に過ごせて、
しかも、今まで気づかなかった音や、空間の広さや、暖かさや、
様々なものごとが同時に動いている
ダイナミックな世界にいる楽し さを味わえるようになりました。
慣れてくれば、意識を拡げたままで、 いろんな作業をこなしていけるようになります。
意識があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしない分、 サクサクと出来ます。
では、 なぜわざわざ面倒なことに意識を向けるようになってしまっていた のでしょう。
それは見るということが、完全ではないからです。
ある一方から見えるものには、
その裏側があります。
その裏側に隠れる部分もあります。
いくら頑張っても、
見えないものの方が多いのです。
その見えない部分に何かをイメージしてしまうことが当たり前にな っていたのです。
そこから恐れたり、怒ったり、不安になったり、
本当に必要の無いエネルギーを使ってしまいます。
今見えない部分はそのままに見れば、 意識を拡げておくことが出来ます。
空間の広さが心を自由にするので、リラックスしてきます。
見えない部分に不必要なエネルギーを使わずに済みます。
リラックスして自分の意識が拡がっていくままにするように、
今を見てみましょう。
ありままを見ている自分は、今ここにいます。
本当の意味では、見ることができませんでした。
では、何を見ていたのでしょうか。
簡単に言うと、
見たいものを見たいようにしか
見ることができなかったのです。
それを当然としていたのですが、
ありのままに見る方が気持ちが楽なことに気づいたのです。
楽なので次の行動へ素直に移ることができます。
それだけでもかなり違いますが、
見たくないものを見ないようにすることからも解放されるのです。
それは大変な作業で
常に自分の視界にそういうものごとが入らないようにしなくてはな
実際には
リラックスして過ぎていくままにすれば
それで済むことなので、
見ないようにする努力は簡単に無くせます。
僕の言う見るという行為は、
意識を向けたところを見ているということなので、
指先が触れる感じや、
足の裏に触れている地面なども、
イメージとして目に映すことが出来ます。
さらに昨日のことや、明日のことも、イメージ出来るんです。
そしてそれを今見ている風景に被せて見たりすることが出来ます。
え~っと、あれ何だったっけ、
としている時見ているイメージです。
意識していませんが、
意識がイメージの方を向いている状態です。
何気なく見ていたほとんどの場面で、
なのでちゃんと見ようとするには、
ちゃんと見なきゃ‼
みたいに思わなければならかったんです。
意識をそこに向ける必要があったんです。
でも最近は、
わざわざ何かを意識するのはやめて、
意識を拡げておくようにしています。
何処かに集中して意識するよりも楽に過ごせて、
しかも、今まで気づかなかった音や、空間の広さや、暖かさや、
ダイナミックな世界にいる楽し
慣れてくれば、意識を拡げたままで、
意識があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしない分、
では、
それは見るということが、完全ではないからです。
ある一方から見えるものには、
その裏側があります。
その裏側に隠れる部分もあります。
いくら頑張っても、
見えないものの方が多いのです。
その見えない部分に何かをイメージしてしまうことが当たり前にな
そこから恐れたり、怒ったり、不安になったり、
今見えない部分はそのままに見れば、
空間の広さが心を自由にするので、リラックスしてきます。
見えない部分に不必要なエネルギーを使わずに済みます。
リラックスして自分の意識が拡がっていくままにするように、
ありままを見ている自分は、今ここにいます。
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