2018年12月13日木曜日

日本の若者たちへ僕が伝えられること

つい先日仕事が終わって歩いていた時のことです。


交差点で女性が自転車を下りて信号待ちをしているところへ、

僕の前を歩く男性がぶつかっていくのが目に入りました。


何か不自然なぶつかり方をしている感じがして、

ぶつかられた女性もふらつきながらビックリしているようでした。


まぁ前をよく見ていなかったりすることもあるかもしれないし、

変に勘ぐって注意するのもいけないと思い、

進む方向が同じことからそのまま後ろを歩いていたんです。


そしてとあるマンションからお母さんに連れられた子供二人が出て来た時です。


お母さんが前を行く子供に気を取られていて、

後ろの子がお母さんから少し遅れて小走りで追いつこうとするその子供に向かって、

その男性は避けることなくひざを子供にぶつけて行ったのでした。


子供は寸前で人が来るのに気づいて少し避けたこともあって、

ぶつかったものの倒れることなくふらつきながらお母さんの方へ行くことが出来ました。


その瞬間僕は「それはあかんやろ!」という言葉とともに、

思わず駆け寄って彼に「子供に謝れ!」と言い寄りました。


正直今の世の中、変な輩もいるので、

とんでもない事へ発展する可能性も頭をよぎりました。


相手によっては本当に危険な場合もあるかもしれませんが、

この時僕は非常に冷静にいろんなことを見て決断していました。


周りの人の数や場所、車の通る台数、警察官が居るだろう場所までの距離、

そして何より目の前の男性の仕草と目線です。


僕の声が聞こえたと同時に足早になったその仕草はすでに

自分に非があることを認めています。


僕が相手の真横へ駆け寄って「あれはあかんやろ!」と言っても無視する

その横顔を見て僕は彼が思った以上に若かいことに驚きました。


大学生か大卒一年目の社会人ぐらいです。


この時僕は

この子に形だけの説教などしても意味は無いのはすぐに分かりました。


身なりや髪型がちゃんとしているということは、

彼が普通に生活することの意味を理解しているということで、

注意されても謝ろうともしないその頑なな態度は

本当は自分がやってはいけないと知っているルールを犯してまで、

自分の鬱憤を弱者に向けているのを分かっているのです。


でも案の定自分の非を認めようとしはしませんでした。


急に出て来るような、子供をちゃんと躾けていない親にまず言えとか、

あんなところに居るヤツが悪いとか、言い続けるのです。


その時僕はその言葉の中から、

この子はたぶんそういう事を大人から言われ続けて来たのかもしれないと思い、

彼の何が間違えてるのかをそのまま伝えました。


「あのな、全部まちがってる。

自分より弱いものを見つけて、自分の憂さを晴らすのはやめろって言ってるんだ。」


彼は少し考えてから僕にこう言いました。

「僕はずっとやられ続けているんだ!」


実際に彼が誰に何をやられ続けているのかまでは分かりませんが、

彼がそこまで自分を追い詰めてしまう程に、

誰かに理不尽なことで責め続けられていると思っているのは確かです。


もしそれが彼の被害妄想であったとしても、

それを彼に分からせてあげる愛情のある人は彼の近くには居ないのです。


親か、仕事の上司か、周りにいる誰かが、

彼の正常な判断力を奪ってしまう程の追い詰め方をしているのです。


恐らく責められている理由を彼は理解できないまま、

それを弱者に向けてしまう自分にもイラついているかもしれません。


僕の目線から彼が逃げようとしてまた足早に行こうとしましたが、

読み取れた確かな部分と自分にも過去にあった似たような現実から、

こう彼に説明しました。


「それも間違ってる。人の人生はいろいろある。

無茶苦茶だと感じることなんていくらでもある。

だからってそれに負けて自分まで無茶苦茶になったらだめだ。

何があっても真っ直ぐに成れるんだよ。それを諦めたらだめだ。」

というと、彼は少し足を止めて何かを言い返そうとして僕を見てきました。


僕はただ彼に本当の事を伝えるしか手段がなかったので、

それ以上は何も言いませんでした。


何も言い返せなかった彼には、

実際それは本当の事でしかないので、

言われなくても分かっているはずです。


でも、どうしていいのか分からなくなるほど自分を責めていたのではないかと思います。


もう僕は「絶対いけるんだよ。もっと頑張るんだよ。変な方向むいちゃだめだ。

真っ直ぐに頑張るんだよ。」と言うしかありませんでした。


彼の人生を僕がどうこう出来る訳もないので、

もう本当に彼に頑張ってもらうしかないのです。


そこで僕の行く方向と彼の方向が分かれたのでそのまま彼に手を振りました。


彼は何度かこちらを見ましたが何も言わずにそのまま進んで行きました。


この出来事が彼に響いて欲しいとは思いますが、

なんだあのおっさん、と思われていてもそれはもう仕方ありません。


前をしっかり向いて自分の人生に真っ直ぐに生きて行ってもらえたら嬉しいですが、

僕が僕以外の人の人生をあぁしろこうしろ言うのは絶対してはいけないと思うので、

彼が決めてスタートを切ってくれたらいいと思います。


例えばそれが誰か他の人から見てちょっと違うとしても、

自分で自信を持ってこういう風に生きたいんだと胸を張って言える道を

進んで行ってほしいと思うのです。


今回僕が彼に注意をしたのは、

自分のやっていることに言い訳しかない、

しかも本当に胸を張って自分のやっていることに自信を持てないこと、

これは違うと自分で分かっていることをやってしまう事、

それは間違えているということなんです。


正直言えば若さゆえ間違いかどうか分からないまま過ちをしてしまったこと、

僕は沢山あります。


でも、間違いと分かってもやることはどうしても出来ませんでした。


結局は自分が惨めになる事に耐えられなかったからです。


恐らくその部分、

自分が惨めになることにまで言い訳で逃げてしまうようになったら、

何処まででも人は堕ちていけると思います。


どんな時も自分の誇りだけは守っていって欲しいんです。


そんな綺麗ごと言ってる場合じゃない人とか、

もしかしたらこのブログを読んでるかもしれませんが、

僕が言えるとしたらそこだけかもしれません。


本当の自分を捻じ曲げてしまうように感じることは、

全力で跳ね除けて欲しいんです。


例えばそれが今の自分にとって正しいルール、に則っていたとしても、

苦しくてたまらないような場所からは全力で出てきて欲しいんです。


そこは正しいと信じ込まされているだけの処かもしれません。


自分も周りの人たちも心地よく過ごせるところというのは、

完全に嘘が無い状態で初めて手にすることが出来るんです。


幸せそうなフリしてるだけの人なんていっぱいいます。


そんな人のフリしなくていいんです。


逆にそんなに傷ついてもいないのにしんどいフリしてる人もいっぱいいます。


そんな人にこちらが傷つくことは無いんです。


自分の持っているエネルギーを間違った方向に使わないで欲しいんです。


若いっていうのは、

それだけで凄いエネルギーなんです。


自分に真っ直ぐに使えば必ず人生にいきなり道がついて来ます。


それをやめさせようとする、

やめてしまっただけの人達から全力で離れてください。


そうすれば自分で切り開いた人が集まっているところに行き着きます。


そこには真っ直ぐ自分と向かい合える人がいます。


自分に真っ直ぐ生きていることでそこに行き着いた人達だからです。


諦めたらだめです。


頑張りましょう。






2018年12月5日水曜日

ボヘミアン ラプソディー

先日夫婦で映画ボヘミアンラプソディーを見てきました。

Queenという1970年代から80年代にかけて多数のヒット曲を生み出した

伝説のバンドの伝記映画です。


まだ映画も上映中なので、

内容に触れることはここには記しませんが、

この時期にこの映画を見たことで

僕の中に大きな変化をもたらしたことについて書き記しておきたいと思います。


僕にとって映画とは、その中でテーマとされていることや、

登場人物の人間性、心の動きなどが、その後の自分に大きな影響を与えて、

人生をとても彩り豊かにしてもらえる重要なツールです。


今までも映画を通じていろんなことを教わってきました。


でも今回見たボヘミアン ラプソディーは、

現時点で最高の映画になったことは間違いありません。


Queenというバンドはもちろん知っていましたが、

僕が音楽を聴き始めたころにはすでにめっちゃ売れている有名な人たちという印象で、

それよりも新進気鋭な若い人たちの音楽に興味を持っていたこともあって、

この映画を見るまでよく知りませんでした。


それでも曲は聴いたことがあって、

主人公のフレディー マーキュリーのイメージもなんとなく思い描くことが出来る、

そんな感じでこの映画を見に行ってみたのでした。


僕自身バンドを組んで曲を作ることの楽しさや大変さを経験したことがあるので、

映画で描かれている役者さんの仕草や表情が自分をどんどん引き込んでいきました。


その合間合間に見えて来るフレディー マーキュリーの抱える葛藤や不安が、

多かれ少なかれどんな人でも持つかもしれない人生の一場面と重なっていくように、

物語りが進んで行くのに合わせて有名な曲がそれぞれのワンシーンを

力強く心の奥に刻み込んでいくように流れていきました。


そして見終わったあと、

何日たってもQueenの音楽に感動している自分がいます。


もう生で彼らの演奏を見ることは出来ませんが、

時代を超えて僕の心にこのような感動を残してくれたことにとても感謝しています。


映画ということでもちろん話しが大げさに盛られていることもあるかもしれませんが、

彼らの作った歌が作られてくる実際の人生はもっと複雑で

簡単に描き切れるようなものではないと思います。


でもヴォーカルのフレディー マーキュリーが

今の自分よりも若い年齢で旅立ったその事実を思うだけでも、

彼の歌に込められたメッセージはとても強く響いて来ます。


人生は自分という一つの形をどんな条件下であっても生ききることで、

輝くことを思い出させてくれました。


それはそれは勇気のいることです。


自分自身でさえどうしていいのか分からない程の、

人が本来持っている感情や欲望から来るエネルギーを

音楽という形に変えながら真っ直ぐに生きた人から生まれた音楽は、

僕ならどうするのか?という問いを真正面から突き付けて来ました。


これほど年齢的に大人になった今、

一つの音楽がこんなにも心を震わせてくれるとは思ってもみませんでした。


例えば音楽でなくても、

自分が今接しているものに自分が100パーセント向き合っていくこと、

そうしていくことが自分の人生の一瞬一瞬を創っていくことに他なりません。


過ぎていくことに気を取られている時間はありません。


本当の自分は今どう思い何を感じているでしょう。


いつの間にかただ何となく過ぎていくだけの人生に

慣れてしまっているような気がします。


だからといって血眼になって何かを貪るような

無駄なエネルギーの使い方をしなくてもいい程には、

大人に成ってきたと思っています。


今ここからの人生、

まだまだ始まったばかりです。


この時にこの映画に出会えて

本当に良かったと思います。




2018年11月24日土曜日

伊勢神宮について

今回神宮へ正式参拝をさせて頂いて、

ずっと疑問に感じていた事で、

やっと腑に落ちた部分を、

記しておきたいと思います。


今まで何度も訪れたことのある、

この伊勢神宮というところが、

やはり他のお社と違ってとても立派だったり、

来るたびに何故か毎回気持ちがスッキリとすることであったり、

歴史のミステリーの中から少しずつ浮かび上がって来る不思議が

どんどん自分のルーツと深く関わっているのが分かっていくことだったり、

伊勢神宮には「何か」があるのは間違いなかったのですが、

それが何なのか、

自分にとって何なのか、

時間の感覚がぶっ飛んでしまう程の歴史を持つお社に圧倒されて

ずっと理解出来ていませんでした。


実は僕は5年ほど前にホツマツタヱに出会うまで、

日本の神様という存在を身近に感じる事がなかったのです。


自分の心と向き合う上では、

ずっと仏教的な方法を用いていました。


様々な仏教国へ行ったりしましたが、

日本に帰って来ると仏の道を行っていても、

何処かしこに日本の神様の影響を見て取ることが出来ます。


そしてそれらはつねに何処か曖昧で複雑で

何かすっとんきょな話しではぐらかされるような事だらけでした。


でも、敏感な人ならば分かると思うんですが、

神様の居る、

いわゆる聖域に足を踏み入れれば分かる、あの不思議は、

誰が何と言おうと自分の身に本当に現実に起こるのです。


ある時、自分のルーツがそちらの世界、

日本の神様達のところにあるかも知れないと思い調べ始めると、

目に見えない何かが僕を導いているかのように、

僕が本当に望んでいる、

「何か」に近づいて行く人生を歩んで行くように転がり始めました。


思春期の頃からバンドをやっていて、

自由奔放に生きる事しか興味のなかった僕に、

礼儀と作法を教えてくれるように、

ブッダが好きだった僕にはお寺に通う日々が訪れます。


三年程そこで礼儀、もそうですが

目にする事象が全て自分に由来することや、

自分の中に聖なるものを見つけていく作法を教わりました。


それから徐々に自分の求める「何か」とのズレから通わなくなって、

自分で探して見つける道へと進んで行きます。


三輪式鳥居というものを知っていろいろ調べていくと

日本書紀に出て来る大物主の子孫の方から三輪という名が出てくることを知りますが、

それまでどちらかというとちゃらんぽらんに生きてきた自分には、

まぁ沢山いる三輪さんの内の一人であって関係はないだろうと思っていました。


父親が家を飛び出していることから、

自分の父方の親戚関係の方を知らない上に親戚の話をしたことがありません。


で僕自身がまたその家から飛び出しているので、

もう知る由もないはずでしたが、

自分で調べているうちに

曾祖父にあたる方が大神神社を分詞されるほどの方だったことが分かります。


こんなにちゃらんぽらんな自分には辿るべきルーツが重すぎるような気がして、

逆に苦しくなってしまうのでした。


でも本当の事が知りたくてさらに調べていく中で

ホツマツタヱに出会います。


今でも基本的には偽書扱いされているようですが、

あの書に描かれている大物主、その子孫が辿る道のりが

僕の中にあった不安を初めて解きほぐしました。


それまでいわゆる出雲系の神々たちが辿っていた影のかかったような道のりは、

別の目線で見れば全く影などかかっていないどころか、

全ての神々が同じようにこの国のために苦心されていたことに感動したのでした。


それから僕の基準をホツマツタヱに置いて神社を巡るようになると、

それぞれの神社に祀られている方々の御関係が

いつ頃に一緒にその地に於いて活躍されていたのか、

またはその地で御隠れになられたのかが分かるようになっていきました。


それぞれの地に於いて活躍のされ方が違っていたりして、

一緒に祀られている方も、そのお社に漂う雰囲気も全く違っていて、

でもそれに合わせて、

ホツマツタヱの中に出て来る生きいきとしたお姿を感じるようになっていきました。


例えば僕の今の氏神様はアメノホヒ様ですが、

アマテル様の第一子で、オオナムチ様に国譲りの件で出雲に行きますが

オオナムチ様の人柄に惚れ込んで出雲にお住まいになる方です。


地図を見れば出雲と伊勢の真ん中にお社を構えていて、

時を超えてオオナムチ様とアマテル様の中を今でも取り持っておられます。


そしてそこは六甲山への入口にあたり、

幼少期に育てていただいたセオリツ姫様の御隠れになられた場所を

ずっと守り続けている場所でもあります。


これは偶然でしょうか?


魂の繫がりとは、

こう言うことなのだと分かっていらっしゃるからこそ辻褄があうことは、

エネルギーが物質と相互関係にあることが分かる方には当然のことと感じると思います。


そのアメノホヒ様が氏神様として率いて下さる今回の神宮参拝です。


大物主の子孫として恥かしくないように出来るでしょうか。


まず大神神社へご挨拶です。


爺様に会いに行くような感覚です。


今回アマテル様へご挨拶に行かせて頂くこと

大物主様からお話しを通していただいて、

神宮へ伺う準備を整えていただきます。


そうすると今度は春日大社に行きたいという気持ちが湧いて来ます。


呼んでいただいているようです。


春日大社にいらっしゃるアマノコヤネ様は左、

大物主様は右にてアメに仕えていたというご関係で、

アマテル様罷った後アマテル様に代わって人々にアメナルミチを教えられていた方です。


僕から見ると親戚のお兄さんといった感じの少し遠いご縁です。


御無礼の無いようにご挨拶に行きました。


その時には僕自身が人に対して不機嫌になることをやめると心に誓って

ひと月ほど経っていたこともあって呼んでいただいたのを感じていました。


アメナルミチをお教えされていた方がお持ちのエネルギーに触れさせていただけるのに、

ちょっとのことですぐ不機嫌になってしまうようでは、

大切なエネルギーを無駄にしてしまいかねません。


ただお詣りしてしばらくは、

頂いたものが自分の御先祖さまの系統とは別のエネルギーでもあったので、

少し不安定な心の動きを感じました。


その一週間後に伊勢神宮へお参りです。


何時にも増して内宮に向かう道で感じるエネルギーが強く感じます。


身体全体に向けて前からもの凄い風圧をうけているような感じです。


御垣内に入るとそれはいっぺんに止んで、

とても静かになりました。


そこで感じたのは、

歴史に残された意味を超えて、

現実的に生きている人々の営みの中に、


このクニを治めるために自ら選んで魂を結んでこの地上へ降りてこられた方が、

この地でやるべきこと全てをこのクニの民へ教えていかれた形跡として

そこに残されていました。


どういう事かというと、

もしもこの星の全てのインフラが機能しない状態になったとしても、

伊勢神宮に伝わる事柄、祭事をやれば、

多くの人間がこの地で生活していくことが出来る技術を、

何千年も昔のやり方でやり続けている

一番本当の人間の基本の生活方法を、

もの凄く厳かにもの凄く丁寧に実際に何千年もやりつづけているということです。


米、酒、塩、衣服、道具、建物、

衣食住の全てを教えてくれたのです。


それらは完璧に太陽の運行に基づいていて、

宇宙の営みを完全に理解したうえで成された技術です。


そんなことがこのクニを造るころの技術として

そこで展開されていたのです。


さらには毎日欠かすことなく

このクニの人達の安寧をそのエネルギーを残した偉大なる存在に対して

千年以上祈り続ける人たちの歩みがそこにあったことです。


僕の目の鱗が落ちたというよりも、

僕の知りたかった「何か」は

僕の頭で理解できるような小さなものではなかったのでした。


僕はその瞬間から、

全ての礼節と感謝とをこの宇宙の流れにぴったり合わせるということが、

生活するということなんだと思うようになったのでした。


伊勢神宮や皇室に対していろんなことが言われる今の世です。


確かに一般庶民からすると

かなり大げさで莫大な費用の掛かる営みに感じるかもしれません。


でもそこにあるのは実は一番基本の人の営みだったのです。


年間を通して営んでいくことを

ただ続けていくことの大切さを守り続けているのでした。


それを最初に司ってくれた方があの地にお鎮まりになっているんです。


やっぱりこのクニにいるならば、

一年に一度はご挨拶へ伺っていきたいなぁと、

強く思うようになったのでした。





2018年11月22日木曜日

伊勢神宮正式参拝を終えて

この度、伊勢神宮正式参拝をさせていただきました。


日頃お世話になっている氏神様のお社のお計らいで、

総勢40名で外宮と内宮にお参りさせていただきました。


この日取りはだいぶ前から決まっていたので、

その日へ向けて自分の中でいろいろと整えようと、

お菓子を食べないようにしていたりしていました。


もともとVeganなので肉食は普段からしていないこともあって、

整えるといっても、仕事帰りに小腹がすいて芋けんぴを買って食べるのを

我慢するぐらいではあったのですが。。。。。


前のブログでも書いた、不機嫌にならないように自分の心の波を静めることも

正式参拝へ向けて整える一環であったところもあります。


今住んでいる所の氏神様はアメノホヒ様、

アマテル様の第一子の方にお導きいただけるとあって、

御無礼の無いようにしたいと強く思っていました。


僕の御先祖さまにあたる大物主様にも、

行ってまいりますとご挨拶をかねて大神神社へ参拝して、

お山に登らせて頂いたのも約一か月ほど前になります。


その日から徐々にではありますが、

自分の中で処理しきれていなかった思いが心の中に浮かび上がってくるのを、

静かに祓うように日々を過ごしていました。


そして先週、

大物主様が右の臣であるのに対して左の臣であった春日様のお社へ詣でさせて頂きました。


大神神社でも大きなエネルギーを頂いていたところに、

春日大社でも頭が真っ白になるようなエネルギーを頂きました。


その翌日から自分自身を扱いきれない感覚に陥ってしまいます。


普通に過ごす、

ように見せかけることは幾らでもできたのですが、

全てが空しく感じてしまって何にも情熱が湧きません。


でもどこかでこの事象が

エネルギー的にゼロポイントを通過しているところなのだろうと感じていました。


全てをこのまま終えてしまいたい衝動が究極のところでやってきましたが、

僕自身が身を委ねている流れに逆らえるわけもありませんでした。


正式参拝を迎える前々日には、

内側から湧き上ってくる温かい感覚が徐々に緊張感へと変わって来るのが分かりました。


氏神様のお社の崇敬者の方々は、

皆さん何度も正式参拝をされていることもあって、

その方々に続いていくことが何より、アメノホヒ様のお導きなのだと思い、

外宮では周りの方々に続いていくような感覚でお詣りさせていただきました。


トヨケ様は優しく包み込んで下さるような雰囲気で、

そのような自分でも温かく見守って下さっていたように感じます。


外宮では運よく神宮の権禰宜の方が

遷宮のことや、その歴史などについて話してくださいました。


その中で自分が強く感じたのは、

自分で学んで自分の内側に答えを見つけていくことの大切さでした。


もちろん残されている資料などから、

きっちりと確定していることなどもあります。


でもさらにその形が良しとされるに至った理由までは、

誰も教えてくれないのだということが分かりました。


でも、その後に御神楽を奉納させて頂いた時です。


御神楽での舞の一つ一つの動きの中に

音と合わさることで意味が見つけられるようになっている、

その絶妙な隠し方があることに気づきました。


今例えばあの動きが何を意味していてとか、

そういうことを上手に説明することはできません。


あの空間に居て、あの音に包まれて、

しかもその意味を知ろうとする心構えをもって、

心を静かにした状態にあって初めて、

舞が自分の中に意味を見つけさせてくれるメッセージとして機能します。


今回の僕には、

所作や作法といったものが向けられている心の向きを

もっと大きなものへ向けていくことで整うものが多くあることに気づかせて頂きました。


ただ御神楽の最中、

お祓いから祝詞奏上、そして御神楽を合わせて30分程の間、

ずっと正座していたこともあってすぐに動けませんでした。


そして待ちに待った内宮正式参拝です。


その時にはもう頭がくらくらする程のエネルギー状態でしたが、

自分の心の向きをどこへ向ければいいかがハッキリと分かっていたこともあって、

変なところに気が紛らわされることはありませんでした。


御垣内に入ってから自分の行くべき場所はここというように、

さっと身体が動きます。


二礼二拍手一礼を済ませると、

自分の中にあるもの、それをもっと磨いていくことだけが

これからの自分に必要な事と再認識させていたのだと深く感じたのでした。


帰りのバスの中では、

遷宮の度に新たにする御神宝が神宮のお社に1576点もあることを知り、

国宝級の技術が今なお受け継がれている最中だということも知ることが出来ました。


僕自身が何かを受け継いでいるとしたなら、

その中に流れている「人の営み」を大切にする心なのかなぁと感じた次第です。





2018年10月10日水曜日

不機嫌にならないで過ごす

先週、妻の誕生日を機に

「何があっても不機嫌にならない」ということを約束して、

それ以来、といってもまだ一週間過ぎたかどうかというところですが、

未だ自分が不機嫌にならずに過ごせている自分が

不機嫌にならない恩恵を一番受けていると分かってきました。


もともとそんなに不機嫌になったりすることもありませんでしたが、

自分にとって嫌なことをされていた場合には、

そのことが本当に相手に伝わって欲しいと思っていたこともあって、

しっかり不機嫌な自分になってしまっていました。


今思うと嫌な事は嫌と伝えることと、

不機嫌になってそのまま過ごすことは全く別のことだったなぁと思っています。


以前は不機嫌になることが

自分がどれだけ嫌かを相手に伝える手段のように思っていたところがありましたが、

今思うととても子供じみていたようにも思います。


それにもったいない時間の使い方をしていたように思います。


例えば嫌なことがあって、

他の人が心を切り替えるのにどのようにしているのか、

想像を膨らませることは出来ても、

実際に自分が心を切り替えるのに必要な「何か」は

意思の強さなのか、

単純に時間が要るのか、

それともあまり深く考えないで済む脳みそを持つことなのか、

よく分からないまま不機嫌な時間を

自分でも嫌だなぁと思いながら過ごしていました。


よく「自分も怒りたくないんだけど、一言云わせてもらうぞ!」

と不機嫌になる人を見ていて、

怒りたくないんだったら怒らなければいいのに、って思えるのですが、

自分のこととなると話しは別になってしまうところがありました。


やっぱり自分自身の場合はそういう場面を迎える時も、

どういう風に心が感じてその流れになっているかを覚えているので、

どうしても受け流すことが出来ずにいる自分を

正当化するだけの証拠を持っているかのように思ってしまいます。


でもこの機会に一切不機嫌になることをやめようと思って

実際にやり始めてみると面白いことが分かるようになってきました。


一人一人の人間がその時その時に感じる事柄は本当に千差万別で

似ている部分が多少あったとしてもその深さやその人にとっての意味あいは、

到底考えが及ぶはずもありません。


全員が全員、自分の人生しか経験できない中で、

育ってきた環境が全く違う人達と

どれほど感覚が共通するのかを確かめる術はありません。


会話をして理解し合える部分がどれだけあるのか、

実はお互いに全く違うことを頭の中で繋ぎ合わせている可能性も否定できません。


それでもこの世界が大勢の人の共有できる空間として機能しているということが

一つの魔法のように思えてくるのでした。


どれだけシリアスになって相手に伝えようとしても、

その内容がどれだけ自分にとって大切な問題だったとしても、

相手がどれ程シリアスかも分からず、

相手にとってどれだけ必要かも分からず、

しかも全神経を集中させてもどれだけ伝わったかも分からないのに、

不機嫌になっている時間があるとしたら、

その時間をもっと別のエネルギーを注いだ方が有意義なんじゃないかと

思うようになったのです。


伝える、ということそのものも

楽しんでしまえばいいじゃないか!

という気持ちになったのでした。


目の前にある事柄にシリアスになりすぎてしまって、

感情がなんか嫌ぁな方向に行ってしまうのを防ぐのに、

視野を広げて見てみるということはとても有効なので良くやっているのですが、

今はさらにそれに加えて「真剣にふざける」ということを意識するようになりました。


例えばそうやって楽しんで過ごしている中でも、

ふざけた事柄の中から伝わることは伝わっていきます。


もしそこで悪ふざけが過ぎていくような人とは距離を取ればいいのです。


本当に大事な事はいつも感覚を超えたところにあります。


それが分かるかどうかは、他の人が強制するべきことではありません。


分からない人に分からせるなんて、

拷問のようなことになっていくだけでしかありません。


分かりたいと本当に思った人がそれを受け取る準備が整えば、

その人の腑に落ちていくことになります。


それまで、分かっていることがある人が提示できることは、

本当に大事な事の中にいて楽しんでいることなのではないかなぁと

思うようになったのです。


余裕があるからそうするのでもありません。


もう単純に楽しい方がいい、

その自分に素直になることを決めて過ごすことにしたのです。


やっぱり自分で決めていく  

ということなんじゃないでしょうか。




2018年9月15日土曜日

責任感を育てる

台風が大変な破壊力を見せつけたそのすぐ後に、

大きな地震がこの国を襲いました。


多くの人が大変な思いをされたことと思います。


幸いにも僕自身や周りの人々は大事に至ることなく過ごせています。


僕は食品関係の仕事をしていて、

今回のような災害があると、

どの地域でどんな被害があって、

どんな作物に被害が出ているのかという事が耳に入って来ます。


去年もこの時期に台風が通って、

冬の作物が高騰した記憶がありますが、

今年もそうなってしまうかもしれません。


ただ、現代は物流網が整っていることと、

最近の災害続きの経験から学んでいることもあって、

出来る限り多くの人の日常生活に支障がないように、

陰で支えていこうとする状況も見えて来ているので、

今年はまた違った状況になっていくかもしれません。


商品の内容を微妙に変えたり、

取り寄せる原材料の品種を変更したりして、

店頭に並ぶ段階では何事もなかったかのように

商品が並んでいるように努力しています。


もちろん被害を直接受けている地域の作物を作っている人たちなどは、

大変な状況の中を次の作付けへ向けて整えていかなければなりません。


個人で作って販売までされている場合は、

本当に大変だと思います。


ただ僕が分かる範囲では採れる作物の量に関係なく買い取る契約をしているので、

少なければその他の地域から追加で調達するということになります。


地域ごとにその辺りを取り仕切っている団体ごとに契約をしているので、

普段はその中で全体の生産量を調整して出荷してもらっているのですが、

災害等で少ない場合には新たにコストをかけて

他のルートで原材料を調達して来るということになります。


それでも店頭販売価格を上げることはありません。


店頭では多くの商品が並びます。


他のメーカーさん達も同じように工夫して

そこに並んでいる状態は想像できます。


買う人たちは少しでも家計を浮かせるように無駄な出費を抑えていこうとするものです。


そこへ「この味が好き」という思いを持って下さった人へ同じ価格で提供していくのは、

実は多くの人の努力が一品一品の商品に費やされているのでした。


この仕事をやってみて、

実際その辺の事がわかるようになったこともあって、

この仕事にも責任感をもって取り組めています。


大きな社会の小さな歯車として回されることに反発したくなっていたこともありますが、

その役割をきっちりこなせる責任感を持てる人になって、

嫌々ではなく、目の前にあることをキッチリ片づけていく前向きさが持てるようになると

新しいものの見え方が分かって来ました。


実際どんな場所で何をやっていたとしても、

自分に与えられた時間と空間の中でその役割をきっちり果たせるかどうかということに

文句を言っていては物事を前進させることは出来ません。


いろんな人がいていろんな状況が巻き起こっているこの世界では、

その場その場で自分の最高のパフォーマンスが出来るかどうかを、

何か他のせいにしていてはキリがありません。


自分が自分の世界の中心でしっかりとしていなければ、

結局何をやっても上手く行くことは無いのですから。


もしも自分が何をやるべきなのかがキッチリ分かっているとしたら、

どれだけ大変でも周りにやるべきことを伝えていかなければなりません。


まだまだ何をやっていいのか、

分からずにいる人が沢山いるからです。


彼らはやる気が無いわけではありません。


何をやればいいのか分からないのです。


人それぞれの持ち場があって役割りも違うので、

その場その場で出来ることは違いますが、

その場その場でしかできないことがあります。


そこに気が付くことができるようにすることが、

責任感を育てる一番の近道になることが分かって来ました。


あぁしろ!こうしろ!というのではなくて、

今、自分には何ができるかというところに注意を持って行くことが、

人が繋がって出来上がっている社会に対して、

責任を持てる人になって行く入口になるのではないかと思います。


そこにある現実をしっかり真正面から受け止めて、

出来ることをきっちりやっていく、

この世界を生きていくって、

実はこれしかやり方は無いんです。


それをそうするだけなんですよね。



2018年8月27日月曜日

日の出ずる国の民の一人として

僕はこの国に生まれて良かったと思う事を、

幸運にも幾度となく経験することが出来た方ではないかと思います。


小学校が三回変わっている僕は、

イジメにもあったことがあるものの、

三度目の学校では運良く周りと上手く仲良く過ごすことが出来たり、

思春期からバンドを組んで音楽にのめり込むことが出来たり、

二十歳過ぎの頃には、

サーフィンを通して生きる価値を学ばせてもらえる先輩方に恵まれたり、

三十歳を過ぎて大自然と共生する生き方を実践されている方々に

いろいろと教えて頂く機会に恵まれたり、

四十歳を過ぎてこんな生き方をしている自分を理解してくれる妻に出会えたり、

もちろん細かいところでいろいろと悩んで、

死を考えたこともありますが、

何時もそこを打ち破ることが出来る巡り会わせを頂いて、

この今日という一日を生きることが出来ています。


今まで自分に正直に生きることしかしてこなかった僕は、

完全にお金を使いきって、

借金して生きていたこともあります。


その頃、多少卑屈な自分と向き合いつつも、

そんなことも気にせず面白がって一緒に過ごしてくれる人々が居てくれました。


こう言って話しを進めていくと、

自分自身を肯定しまくっているだけのように捉えられてしまうかもしれませんが、

今思い出しても未だに悔しくなる出来事や、申し訳なくて言葉に出来ない出来事も、

目茶苦茶たくさんあります。


ただそれらがあったことで今の自分になったという意味で、

否定も肯定もせずに自分の過去として受け入れられるようになりました。


そういう自分を見てみた時に、

恐らく他の多くの人も同じように

自分の過去にいろんな感情が沸き起こって来るのではないかと想像出来ます。


絶対人には言えない、言いたくない出来事を一人で抱えていたとしても、

今ここに居て明日へ向かって精一杯生きているということは、

皆同じなのではないかと思うのです。


それらを忘れてしまおうとしても、僕は無理だと思ったので、

そういう自分がそれらによって得た反動が自分を突き動かしている事実を受け止めて、

これから少しでも学んだことを活かして生きていく、というふうに決めたのでした。


そしてこの想いは自分の歴史を振り返るのと同じように、

この国の、人の歴史を、同じように振り返ってみたときに、

新たな未来へ向けて自分の足元を照らす一筋の光をもたらすように思いました。


ここ最近の日本というと、

正しき道を指し示すべき立場の人が率先して私腹を肥やすために嘘をついたり、

弱い人たちがさらに自分より弱い立場の人を叩いていたり、

対立を煽られてすぐ隣の人に対して敵対心を持ったり、

自分の心の不安を何か他のせいにして

自分から出て来るネガティブなものを平気でぶちまけてみたり、

例え以前からそういった闇の部分があったとしても、

またそれらに対してもう少し大らかな優しさで諭そうとしていた雰囲気も消えて、

過激に噴出して、またそれらに対して大きく反発が起きて来ているのが目につきます。


僕が思うにこれらは日本という国が辿って来た歴史の歪みが、

その歪み自身の反発によって不自然さを振り払っているように思えてなりません。


僕自身が僕の歴史を一回り大きな視点で捉えることで、

ニュートラルな自分を取り戻して

未来を明るく見つめることが出来るようになったように、

この日本も過去を乗り越えて

新しく日の出ずる国として立ち直ろうとしているところなのではないかと思っています。


そのために僕が僕自身に出来ること、

常に自分の胸に聞いて正しいと感じることのみ行っていくことが、

大切だと思うのです。


誰か他の人が言っていることやどこかで聞いたことは

一旦横へ置いて自分はどう思っているのかに、正直になることが大切です。


その時感情的にニュートラルになれていて、

嘘の無い状態であればその想いは本物だと確信していいでしょう。


それが本当の誇りだと思います。


僕はこの国に生まれた一人として、

誇りを取り戻したいと思っています。


僕は誰かが幸せになるために他の誰かが犠牲になるような社会のあり方を

これから少しでも改善していくことを積み重ねていこうと思います。


これまでの辛かった過去は、

それを教えてくれたのだと思っています。



2018年8月11日土曜日

決まり事と自分の間にあるもの

法律や条例、ルールやマナーなど、僕らの周りには多くの決まりごとがあります。


そういった決まり事は、僕らが集団生活を送る上で

揉め事が起こらないようにするためにはとても大事なことだと思います。


ここ最近周りを見回してみると、

なぜかそういった決まり事が上手く機能していないように感じることが増えています。


当たり前のように守る気がない人が居たり、

そういった人が居ることで、決まり事を守ることだけに重きを置きすぎて

その奥にある人と人との関係性を上手く築くことができない人が居たりして、

多くの人が世知辛い想いをしている場面を目にする機会が増えています。


例えばそういった時代の流れの中で新しい感覚が芽生えて来る時なのだとしても、

なにか基準になるものを持てていれば、通り過ぎていくそれらの事象に出会っても、

自分の人生にプラスに出来る事があるのではないでしょうか。


まず決まり事は、出来上がった背景というものが必ずあります。


多くの場合、争いごとを少なくすることが目的ではないでしょうか。


多くの命が生きている世の中、

なるべく公平、公正に皆が生きられるようにするということが、

決まり事を作ってきた人の歴史ではないかと思うのです。


ただ時代が進むにつれ、多くの文化が合わさって、

ある時代からは考えられなかったような変化が起きる時

それまでの決まり事では追いつかないように思う人が多くなるのではないでしょうか。


そんな中で決まり事さえ守る気がない人が現われたり、

決まり事に縛られて心に余裕がない人が現われてくるのだと思います。


例えば決まり事を守る気がない人というのは、

その地域や場所に於いて、自らを危険にさらしていることもあるので、

どこかでそこに気づかなければ命さえ落としかねません。


とても小さなことだったとしてもそれは蓄積されて本人に危険として現れて来ます。


決まりを守ることで安全を手に入れやすくすることを学ぶために

命を賭けるようなことになる前に理解できれば御の字です。


またその逆で、そのような危険を避けたいがために、

決まりを守ることにがんじがらめになってしまっている人も多く居ます。


今の日本にはこのタイプの人が非常に多いように感じます。


このような人は心に余裕が無くて、

本当には迫ってもいない危険にパニックになってしまいます。


そして心に余裕が無いことから、

周りが良く見えていない状態になっていることが多く、

逆に危険にさらされてしまっていることに気づいていない事が多くあります。


決まりさえ守っていれば安心してしまうような状態です。


少しの変化を捉えることが出来ず、冷静な判断をすることができません。


常に物事は絶えず変化をしていて、そこには多くのサインが現われています。


急に現れて消えていくものなどは一つも無く、

危険がこちらへ向かってくる方向が何処からなのかを見定めることが出来れば、

そこを避けるだけで危険は無くなります。


それでも100%避けられない可能性があるために決まり事がある、

というぐらいに捉えておくのが良いのではないでしょうか。


そうでなければどんどん決まり事を作ってはそれに縛られて、

人としてのおおらかさを持つことは出来なくなってしまうでしょう。


決まり事というものが、

命を守るということは決してありません。


決まり事を守っていくなかで、

危険を遠ざけることが出来るようになっていきます。


ただ、決まり事を守れないことが危険を呼び込むのではなく、

お互いを想い合う心が欠けて危険に繋がるのだということを理解しなくてはなりません。


僕は正直言うと、

このお互いを想い合う心があれば、決まり事などなくてもいいのに、

と思っていて、

何かと争いごとになる場面にあっても、

そんなに片方を正当化する必要など無いのになぁ、と思うことがとても多くあります。


安全か否か、または損か得か、を血眼になって争い合う人たちが

得ていると思っているものから、何を得て何を失っているのか、

当の本人たちは近すぎてよく見えていないなんてことがあるように思えてなりません。


本当に良いことというのは、

どちらか一方だけに作用するものではなくて、あらゆる方向に良さが伝播していきます。


そしてそういうものは、どこかから得られるものではなくて、

内側から湧き出てくるものなので、

誰かが損をしたり得をしたりするものではありません。


それは確かに安全である所に於いて得られるものではありますが、

安全がそれらを作り出すのではなくて、

それらを作り出すことが安全を生み出していくことを知る必要があります。


決まり事とはその補完的要素に過ぎません。


まだまだ時代が動き始めたばかりで、

もう少し決まり事のお世話になる必要があるかもしれませんが、

基本僕には必要ありません。


それよりも僕は想い合う心を研ぎ澄ますことの訓練中です。


まだ凹むことが多いですが、僕を縛るもののお世話にならない生き方を目指しています。


いつの日かそんな世界が広がることを、夢見て。




2018年7月22日日曜日

この時代に思い描く明るい未来のこと

西日本大水害の被害にまだまだ多くの人が遭われている最中、

その後は猛烈な暑さが連日続いていて、

どうぞこれ以上の苦難が続きませんように、と祈るばかりです。


この日本という土地柄、地震や台風、水害や寒波、熱波など、

今の気候変動、地殻変動、陰謀論的なものまで含めて考えると、

どこにいてもオチオチ寝ていられない状況が取り巻いています。


どこに居ても気の抜けないような世界では夢見ることもままなりません。


落ち着いてこれから先の人生をどう生きていくかを、

災害に見舞われながらどう描いていけばいいでしょうか。


ついこの間も、大阪北部を震源とした地震があり、

それから間もないこの時期に今回のような水害が西日本を襲って来たことで、

僕自身は深い意識の部分が目覚め始めたような気がします。


僕の言う目覚めるとは、

超人的な何かが起こるような話ではなくて、

視野が広がるということに近いでしょうか。


これまでずっと平和で豊かで便利な世界を求めて、

ものすごい勢いで発展してきた社会の中にいて、

実は良く見えていなかったことがとても多くありました。


しかしここ最近になって、

僕が暮らしている世界というものは、

長い時間をかけても、

目に見えて変化する部分と、

目に見えて全く変わっていかない部分と、

目には見えないけれど変化する部分と、

目には見えずに全く変わらない部分が、

あるということがだんだんと分かって来ました。


例えば変化してほしいことがあるとして、

それが一人では実現が難しいと感じる時でも、

始めるということは、まず自分から、

ということに変わりありません。


そして、どんな始めかたでも、

その思いに周りが理解を示しやすい時代になってきました。


もちろんまだまだ定説からしか認めたがらない雰囲気ももちろんあります。


でも、全体的に抑鬱されて逃げ場の無い雰囲気を、

人は避けてこうとするように、

オープンになっていく流れはいつの時も必然としてあります。


この流れの在り方は変わらないとしても、

自分がどんな時代や環境の中に居るかで、

自分の行動に対する自分の評価も、

大きく変わって見えるものです。


周りにある、自分を押さえ付けていた雰囲気は、

その本人が一回り大きな視点で見渡すことができるようになって初めて変えられます。


行動する主体は自分なんだということを強く意識して、

自分以外のものやことがらは、

自分がそれをどう捉えているか、

という側面が推移しているものとして見ていくと


自分がこういう風になったらいいなぁと思うことがある時、

変化してほしい対象を含む世界の主体が自分である以上、

まず自分が変わることが全ての始まりになります。


自分の描く未来の形に向けて、

自分で動き始めたら、

何が変わって、

何が変わらないのか、

自分というものが本当に良く分かるようになってきます。


そしてそういう人生を歩きはじめたら、

周りで何が起ころうと、

歩き続けることを選択するようになります。


自分の目的が、

時間がかかってもその結果を受け取ること、

と分かって来るのです。


大きな時間と大きな次元での話しをすると、

今生で達成出来なくても構わないかもしれません。


でも、いつも100%の力を出しきった上で天に任せている、

と自分に言えなければ自分の夢を具現化するなど、

ましてや自分以外のものを変化させられる訳もないので、

僕は基本的に今できることは今やってしまうようにしています。


それでも体は一つしかなくて、

疲れたら動かなくなってしまうものなので、

焦らずに今できることを精一杯やっていくということになります。


それでも思った通りになかなかならずに、

丁寧に組み立てた手順を手放さなくてはならない時などは、

やはり寂しい気持ちにもなります。


そういったことがあるのは、

この世界ではごく普通にあることなので

引きずることなくそれによって新しい流れに繋がるいいきっかけ

と捉えた方がいいと思っています。


そうやって行くうちに、

自分の中に確固たる「自分」がいるようになってきました。


その経験に裏打ちされた自信は、

新しい変化をどんどん楽しんで行くようになっています。


もちろんその中には、

「ん?」ってこともありますが、

自分がその時必要ないと感じるものは、

そのまま受け取らずに置いておく。


そうすれば必要な人に渡るか、

元の場所に戻るからです。


自分がそのようにして、

自分の限りを尽くしながら前に進んでいると、

全てのハプニングを、

自分の力に変えていくようになります。


いつも変化して行くことを前向きに捉えているので、

どのような状況がやって来ても、

それは次へ向かうためのステップになって来るのです。


自分から見えるこの世界を作っているのは、

自分です。


その意味がやっと本当に分かって来たということでしょうか。


何に文句を言っても始まりません。


今ここがスタート地点ということです。



2018年6月25日月曜日

人に優しく

僕らは多くの関わり合いの中で生きています。


出会う人や物事によって刺激を受けて感動したり、

拒否反応から学んで自分の行動を制御できるようになったりしながら、

この世界では他の存在を通して人生を経験していきます。


経験から何を学ぶかは人それぞれの生き方があるので、

順番も違えばまたその意味の深さも場面場面で違います。


自分らしく生きることにどんどん開かれていく今の時代では、

今までの価値観の捉え直しが必要になることも多いと思います。


世界の在り方が変わっていく今、

「優しさ」を真っすぐに表現することは、

誰にとっても重要なことだと思うので、

ここに僕の捉え方を記しておきたいと思います。


どんな人も相手の居る世界の一員として生きていて、

相手や自分の扱い方を間違えることはとても生きづらい環境を作ってしまいます。


基本的には人が生まれて持つ「優しさ」は、

みんな同じように備わっていると思っています。


ただいろんな環境下で、

自己本位に成っていってしまったり、

自分らしく振る舞うことを恐れてしまうようになったりして、

「優しさ」をどう表現するのがいいのか迷いが生じるのだと思います。


もちろん人が持つネガティブな側面も、

「優しさ」を複雑な場所へ追いやってしまうものとして見ておく必要があります。


優しくある必要などないと考えて、

自分の思うままにしか行動しないと決めている人であっても、

ふとした瞬間に自分の在り方に疑問を感じては

それを打ち消すことにエネルギーを注がなくてはならないでしょう。


「優しさ」とはいつの時にあっても、

最大のテーマとして取り組んでいくべきものだと僕は思っています。


そうやって積極的に「優しく」あろうとするところに、

自分が取り組むべき課題が見えたり、

人の素敵なところが見えたりしてくるので、

如何に難しくてもこのテーマをないがしろにすることは出来ません。


ただとても奥が深いことでもあって、

やみくもに優しくなろうとしてバランスを崩してしまったこともありました。


やはりそこはバランスの上での話しであることを理解しなければなりません。


自分と相手、もしくは自分自身にでも、

想いをよせることでバランスを保てる感覚は、

大切にしますという意思表示を丁寧にしなければなりません。


言葉をかけるにしろ、

手をそえるにしろ、

自分の奥から流れるエネルギーの使い方という側面で見ると、

丁寧に扱うことでしか「優しさ」として現れてこないのです。


例えば自然に溢れ出て来るように見える人もいますが、

その人の経験してきた道のりや心に感じていることなどを

いくら推し測ったところで自分がそのように出来るとは限らない以上、

丁寧に、と自分に意識するだけのその面倒な作業を怠った瞬間から、

怠った形でしか現れて来ないものなのです。


ただここで注意するべきなのは、

対象に対して丁寧にエネルギーを注いでいく中で、

そのエネルギーの対象がこちらへの丁寧さを欠いていると感じるなら、

「優しさ」を厳しさとして表すことも必要になります。


もちろんこの時に自分側からの丁寧さを意識できているならば、

それに呼応する形で返って来る丁寧さに対応するだけでいいと言えます。


求めるのではなくこちら側からの意識の使い方として見ていれば、

「優しさ」は常に発動している状態でエネルギーは流れているので、

時にそれが厳しかったとしてもそういう「優しさ」として出ていくからです。


ただこの時に必ず意識が「自分の世界」ではなくて、

世界の中にいる自分と相手とをバランス良く見ていないといけません。


世界という環境の中にいてはじめて「優しさ」というものに意味があるのです。


相手がいるということは、

向こうの側からも流れてくるエネルギーがあって、

その交流があることで世界は維持されているということ、

そこを見失ってしまうとバランスをとることが出来なくなってしまいます。


常に意識してバランスをとっているつもりでも、

何かしらのきっかけで簡単にひっくり返ってしまうのも

人であるなら日常茶飯事です。


だからこそ「優しさ」を意識して過ごすことが

この世界の一員として大事なのではないかと思います。


うまく「優しさ」が出せなかったとしても、

その経験を活かして次の、そしてまた次の機会に頑張れればいいと思います。


少しずつ少しずつ変わっていくものだと思います。


そしてある時ふと自分が大きく変わっていることに気が付く時があります。


その時本気で他の人に対しても、

心から頑張れって思うようになっていますから。



2018年6月21日木曜日

地震で変わった僕の視点の置き方

つい先日大阪府北部を震源にした地震がありました。

その時僕はけっこう新しく建てられた建物の中にいて、

数メートル先で幅が50cmはある鉄筋コンクリートの柱が大きく揺れるのを見ていました。


僕は阪神淡路大震災の時にも震度5強を経験していて、

あの時揺れ続けていた部屋の中で

余りにもあっけらかんと「死」を受け入れたのを思い出しました。


自分に起こりうる苦痛の大きさに順序を付けて、

大きいものから遠ざけるように行動していたのですが、

その中で「死」は比較的避けたい事の中ではそれ程大きなものではありませんでした。


揺れが収まるまでの数秒間、

僕の思考回路はフル回転で状況を見極めていましたが、

「死」が平然と起こる可能性を拒絶しませんでした。


今回揺れが収まった時には、

「死」が自分の中で余りにも普通に感じられていたことで、

僕の「生」に対してスイッチが入ったかのような感覚になりました。

 
僕はもちろんこれからも生きていくわけですが、

今生きていることを本当に大切にするということの意味が

今までと少し変わって感じられるのでした。


僕という人間が生きている意味があるとしたら、

それは一体どういうふうに感じることが出来るでしょうか。


この世界ではいろんな出来事が同時に様々な場所で起こります。


多くの命が自分の目指すべきところへ向けて一生懸命に生きているんです。


どんな形であれそこに展開する命は

光と闇を経験しながら物語を創っていて常に両方の意味を持っています。


例えば僕が希望を抱いて生きているとして、

もしもその希望が叶わないまま命の物語が終わるとしたら、

僕は闇に包まれて消えていくのでしょうか。


希望を叶えるその先に光が差しているのではありません。


なかなか希望の状態に近づいて行かない状況であってもそれは闇の中ではありません。


どんな状況に置かれていてもそこに光は差していて、

その陰に闇の部分があります。


心を閉ざしてさえいなければ

魂が成長していく中で光を認識できる目も養われていくようになりますし、

闇の深さも理解して行くようになります。


その両方を見ることと自分の進むべき道を行くことを

別々の視点で見られるようになったのです


何処へ行くとしてもそこには光と闇が同時に存在していて、

常に影響しあって変化してくことは理解していました。


ある所では必要であったものも、

所が変わればまったく要らなくなってしまうものも多くあります。


ある時は正しいとされていることも、

時代が変われば誤りであるとされることも、

またその逆もあるのです。


そういう状況下で今この世界中で起きている出来事を

僕が個人的に好きか嫌いかという観点以外に、

真実を見ることがどうやってできるでしょうか。


例えば今このブログを読んでくれている誰かの物語を

僕はどうやっても全部を知ることは出来ません。


いろいろと話してイメージを膨らませて繋ぎ合わせてみたところで

本当の自分自身を知っているのは、自分だけしかいないのです。


例えばそれが光に包まれていると感じていても、

ずっと闇に包まれていると感じていたとしても、

それはそういう視点で自分自身が自分を見ているだけかもしれません。


時代が進めば全く変わって見えるようになるその可能性は否定できないはずです。


僕に分かることがあるとすれば、

目の前に在ることにその時感じること以外には無いのです。


光と闇の側面がコインの表裏だとしたら

それと同じように生きている命が織りなす出来事を

自分の物差しであぁでもないこうでもないと判断していた了見の狭さに

人間らしさとはこういうものだったのかと感じるようになった次第です。


いろんな出来事の中には避けたいものもあれば

是非一度は味わってみたいものなど様々で、

それらは思いもよらない形で突然にしかも当然のごとくやってきます。


僕がそれらを真っ直ぐ受け取らずに、

それらの経験を選り好みしていて何を得ることが出来るでしょうか。


僕自身が真っ直ぐに生きることを選択しているのならば、

それによって起こることも真っ直ぐに受け取ればそれによって

真っ直ぐに進んでいくことが出来る、

そのことに気が付くことが出来たのでした。




2018年4月10日火曜日

「大和」ヤマトという言葉の意味について

ここ最近、日本という国の変容が

いたる所で目に映るようになって来ました。


この変容が良くなる兆しとして見えている人もいる一方、

悪くなるばかりでどうして良いのか不安になってしまう人も多くいるかと思います。


いろんな人が様々な側面から、

この変容をどう見ているかを述べていますが、

ここでは自分自身をまとめてこれからの時代を強く生き抜くために

僕の視点で見えることを書き留めておきたいと思います。


基本的には大きな変化として見えている部分の裏には、

何も変わらない静かな正しさがずっとあって、

それを軸に振り子のように行ったり来たりするエネルギーが働いて、

物事は変化していくということを理解しておくと、

変化に翻弄されずに過ごすことが出来ると思います。


ここ最近の国内での変容は物凄く簡単にまとめると、

日本という国が封建社会から脱却している最中なのだと感じています。


歴史上では封建主義などとっくの昔に無くなっていると、

そう思っている人も多いと思います。


でも実際は日本に本当の自由と平等を過ごした人が、

今まで居たでしょうか。


僕の思うところでは恐らく縄文時代以降何かしらの権力機構が作り上げられて、

平和を維持するためにそれらは何かしら人を抑えつけながらこの国を形作って来ました。


国という概念さえも無かったころは、

自分の身近なところで豊かさを自由に享受できる世界が広がっていたのではないでしょうか。


それでも予期せず罹災することもあったかもしれません。


そんな時にもそれぞれの立場を超えて和を保って乗り越えていたコミュニティがあったと思います。


それが大きな和と書く「大和」ではないかと思います。


おそらくその頃は、そのコミュニティは血族をもとに構成されていたでしょう。


昔の血族的な統治は比較的に理解しやすいと思います。


自分の住む場所の平和をその血族の長が護る訳です。


護ってもらうにも知っている信頼の置ける人であれば、

安心感があっただろうと思います。


時代が進むにつれて人が増えて血縁も薄くなって来ると、

理想的に長として相応しいと信じる人物に託す形で統治するようになりました。


完全には知りえない人物に自分たちの平和を託すという信頼関係が必要になり、

決まり事を作ってそれに則って治めなくてはならなくなったことでしょう。


そうなってくるとその統治機構をしっかりと機能させるためにも、

細かいルールを決める必要が出来てきました。


ルールに背いたりすればそのコミュニティーを壊してしまうことになりかねません。


出来る限り多くの人にそのコミュニティーでのルールを共有してもらって

違反した者には罰が下るようになりました。


仕方の無いことだったのでしょうが、

権力というものが出来てしまいました。


人が生きる上でどうしても持ってしまう不安に対して

コミュニティーを形成することはとても大きな安心に繋がります。


団体で運命共同体として生活するようになると、

ルールはとても大事なものになります。


それ故に情報の共有が難しい時代には権力を持つ者に絶対的な力が与えられました。


そんな状況下では上に立つ者は、民を治めるに価する者、

でなければならなくなります。


そのような価値競争が戦乱を招いた時代もありました。


しかし比較的平和で安定していれば、

生き死にの問題まで発展しにくいこともあって、

コミュニティーを壊すようなことは起こりにくいはずです。


ただ特定の人物がそのコミュニティーの行く末や属する人に関することを

独断で決められる決定権がある中での話しです。


個人個人が自分で考えて行動できる自由は基本的には無いからこそ得られる、

限定的な平和だったのです。


日本という地勢的に島国である環境では、

外的要因でコミュニティーが破壊されにくかったこともあって、

大きな変化による意識改革というものは起こりにくかったのだろうと思います。


でも世界が大きく動いて江戸時代が終わりを迎えるように、

今まで見たこともないような価値観の変化が外側から押し寄せてきました。


その時それまで鎖国していたこともあって、

新しい外的要因に対する対抗意識と、

それを受け入れて自分たちも変化して行こうとする

二つの意識の流れが起こったように感じます。


明治時代と呼ばれるこの頃に、

今現在の日本の原型が出来上がったのではないかと考えています。


僕個人としては、

良くも悪くも明治時代に壊れてしまった部分というのがあって、

その時代背景をもとに作り上げられた日本というものが

今の時代までしっかりと根を下ろしている封建的な感覚、

「日本人ならば~しなければならない。」という意識として残っていると感じているのです。


圧倒的な軍事力にモノを言わせてくる欧米諸国に対して出来ることは、

とにかく挙国一致で呑み込まれないようにすることだったのではないかと思います。


それまで自由と平等について自分達から手に入れようとしたことのなかった日本の人々と、

自由と平等を長い年月をかけて自分たちで作り上げてきた新しいルールを持つ欧米の人達は、

争うことで変化を迎えることになりました。


そして戦争に負けたことで

日本人として掲げていた理念の裏側にあったいやらしさは白日の下に晒されました。


そのまま敗戦国として欧米のルールを新しく実践するに至った日本は

自由と平等という名の元に資本主義というルールの実験台となりながら、

冷戦の楯になるべく完全に破壊しきれていなかった封建社会の構造を利用されて、

一部の人々のお金儲けのための社会となってしまっていったのでした。


いろんなところで荒みきって命の尊厳も踏みにじられてしまったような事象に

目を塞ぎたくなります。


同じ人間同士がどんな理由があって

イジメや差別を繰り返し、

自分よりも立場の弱い人に強く出ては、

間違いを正すこと事を恐れて口をつぐんでしまうのでしょうか。


その中にあっても生きる意味や相手を思いやる気持ちを

持ち続けることが出来た人々もいます。


真の自由と真の平等を本当の意味で理解している人たちです。


その人たちは国という枠を超えて、

自分の言葉で多くの人に語り継いでいます。


僕の内に宿る魂はその人たちの思いに反応しはじめました。


これからもこの星の一員として人の道を歩んでいくために

昔の御先祖さまが残してくれた言葉の

散らばってしまっていた意味を拾い集めて、

この国の人として今一度考えて欲しい言葉が

「大和」ということばです。


これは戦うための道具ではありません。


余りにもいろんな時代をくぐり抜けてきたせいで、

本来の意味が完全に見えなくなってしまっていますが、

皮肉にもヤマトにあてられた当て字がそのものの意味を物語っています。


「大和」とは、

自分を含めた世界と調和している状態のことです。


一つでも嘘やごまかしがあれば成り立ちません。


例えば自分の意に反することが起きても、

それを調和に導いていけないと「大和」にはならないのです。


この時勘違いして欲しくないのは、

「大和」という状態の中に自分の意も置かれているだけであって、

自分の意に従って「大和」をどうにかしようとすることが

「大和」を乱してしまう要因になるという事です。


命が命を繋いでいく最も大切な関係であることを知っていた

昔の日本人は全ての物事に命を与えて八百万の神として大切に扱いました。


それは自分より上位に扱うべくして神と捉えていました。


それ程丁寧に扱うようにしていたのです。


例えば避けたいような物事でさえ、

触らぬ神に祟りなしというように

神として丁重に触れないようにしたのです。


調和をとるという事は

周りに起こる物事に対して

ひたすら丁寧に接することで成り立つものです。


勝手な思い込みで余り確認もせずに、

何となくの習慣から出て来る行動では調和をとることは出来ません。


今の時代散々に壊されてしまった人としての自尊心から、

ひたすら丁寧に物事に取り組んでいくことに抵抗のある人も多いかもしれません。


でももう一度思い出してください。


大きな変化の裏側にずっと流れている静かな正しさは、

「大和」の民だからこそ感じるものなのです。


その自分に嘘をつかずに居ればいいだけです。


真の自由と平等の上にしか真の調和は訪れません。


誰もそこから漏れることはないのです。


どんな物事も尊重して、

その総和からその時その時のベストを積極的に選んでいくだけです。


この世界に大きな和をもたらして生きましょう。




2018年1月13日土曜日

SURF & MUSIC

2018年も幕を開けました。


明けましておめでとうございます。


今年も皆さんにとって良い年になりますように。


さて、僕はというと

以前から何と無く続けていたこと、

波乗りと曲作りなんですが、

昨年の流れから僕に大きな変化が訪れました。


ただ単なる趣味という感覚を超えて、

ライフワークとしてこれから先取り組んでいこうと思った次第です。


今までももちろん真剣にやって来たのは確かですが、

どちらも同じように自分の求めていた、

ある感覚に到達しているのが分かったんです。


それは簡単に言うと、

自信が付いたのです。


波乗りも曲作りも僕がこの世界に対して僕を表すものとして、

全く嘘の無い自分を表す事の出来る手段になっていたんです。


今まで自信が無かったのかと言うと、

今の自分から思い直すと、

真面目に取り組んではいたものの、

何処か自分のやっていることに

満足出来ずにいた所があって、

その不満を超えようとして、

ずっとチャレンジして来たような感じで、

そのチャレンジ精神に自信があった、と言えます。


自分の求めているものが明確に分るようになって、

改めて続けて来た道のりを振り返ると、

多くの人達が支えてくれていたことにとても感謝が湧いて来ます。


今感じている僕の中に降りて来た「これだ!」という感覚は、

僕がこの世界に向き合う上でとても大切に感じる、

嘘の無い自分になること、そのものです。


今の感覚を例えると

森の中をずっと歩いていた自分が

ある開けた高台に到達して、

自分の歩んできた道のりとこれから行く先を確認できて

これからもこのまま進んでいくことを確信している、

そのような感じです。


ある程度年齢を重ねて来て、

妥協をすることも出来るようになっている自分が、

妥協をせず満足に到達するまでのやり方を

身につけることが出来ていました。


自分の満足を自分で作り出すことが早くなったのです。


誰かに自分の満足を提供してもらう必要が無いので

僕は本当の自分を生きていく自由を手にしています。


これは僕が僕の人生を生きる上で、

求めていた最上級の出来事で、

この感覚が先に在ることで

これから自分がやっていく行動の意味が変わってきます。


僕が何を見たいのか、

それを僕がちゃんと分かっていることで、

一か八かの運試しのようなことをせずに、

その景色を見るために通るべき道のりを、

いかにスリリングに楽しんでいくかという風に変わって来るのです。


何か一定の形になることを求めても良かったのですが、

僕はそれ以上に自分を満足させることを求めていたのです。


誰かの評価を気にするよりも、

自分で自分を完全に認めることが出来るようになりたかったのでした。


そうすることで僕は自由に何にでもチャレンジすることができます。


改めてこの二本柱のライフワークで世界と向き合おうと思っています。


どうなるのかなんて全く分かりませんが

僕という人間をこの広い世界に開け放ちたいと思います。


SoundCloudという音楽専門のSNSに僕のページを作って曲をアップしていっています。


基本的に世界へ向けているので英語で曲紹介していますが、

宜しければそちらも今後どうぞよろしくお願いいたします。


https://soundcloud.com/user-137178336


さてこれからどんな事がおきてくるのでしょうか。


楽しみです。