2018年10月10日水曜日

不機嫌にならないで過ごす

先週、妻の誕生日を機に

「何があっても不機嫌にならない」ということを約束して、

それ以来、といってもまだ一週間過ぎたかどうかというところですが、

未だ自分が不機嫌にならずに過ごせている自分が

不機嫌にならない恩恵を一番受けていると分かってきました。


もともとそんなに不機嫌になったりすることもありませんでしたが、

自分にとって嫌なことをされていた場合には、

そのことが本当に相手に伝わって欲しいと思っていたこともあって、

しっかり不機嫌な自分になってしまっていました。


今思うと嫌な事は嫌と伝えることと、

不機嫌になってそのまま過ごすことは全く別のことだったなぁと思っています。


以前は不機嫌になることが

自分がどれだけ嫌かを相手に伝える手段のように思っていたところがありましたが、

今思うととても子供じみていたようにも思います。


それにもったいない時間の使い方をしていたように思います。


例えば嫌なことがあって、

他の人が心を切り替えるのにどのようにしているのか、

想像を膨らませることは出来ても、

実際に自分が心を切り替えるのに必要な「何か」は

意思の強さなのか、

単純に時間が要るのか、

それともあまり深く考えないで済む脳みそを持つことなのか、

よく分からないまま不機嫌な時間を

自分でも嫌だなぁと思いながら過ごしていました。


よく「自分も怒りたくないんだけど、一言云わせてもらうぞ!」

と不機嫌になる人を見ていて、

怒りたくないんだったら怒らなければいいのに、って思えるのですが、

自分のこととなると話しは別になってしまうところがありました。


やっぱり自分自身の場合はそういう場面を迎える時も、

どういう風に心が感じてその流れになっているかを覚えているので、

どうしても受け流すことが出来ずにいる自分を

正当化するだけの証拠を持っているかのように思ってしまいます。


でもこの機会に一切不機嫌になることをやめようと思って

実際にやり始めてみると面白いことが分かるようになってきました。


一人一人の人間がその時その時に感じる事柄は本当に千差万別で

似ている部分が多少あったとしてもその深さやその人にとっての意味あいは、

到底考えが及ぶはずもありません。


全員が全員、自分の人生しか経験できない中で、

育ってきた環境が全く違う人達と

どれほど感覚が共通するのかを確かめる術はありません。


会話をして理解し合える部分がどれだけあるのか、

実はお互いに全く違うことを頭の中で繋ぎ合わせている可能性も否定できません。


それでもこの世界が大勢の人の共有できる空間として機能しているということが

一つの魔法のように思えてくるのでした。


どれだけシリアスになって相手に伝えようとしても、

その内容がどれだけ自分にとって大切な問題だったとしても、

相手がどれ程シリアスかも分からず、

相手にとってどれだけ必要かも分からず、

しかも全神経を集中させてもどれだけ伝わったかも分からないのに、

不機嫌になっている時間があるとしたら、

その時間をもっと別のエネルギーを注いだ方が有意義なんじゃないかと

思うようになったのです。


伝える、ということそのものも

楽しんでしまえばいいじゃないか!

という気持ちになったのでした。


目の前にある事柄にシリアスになりすぎてしまって、

感情がなんか嫌ぁな方向に行ってしまうのを防ぐのに、

視野を広げて見てみるということはとても有効なので良くやっているのですが、

今はさらにそれに加えて「真剣にふざける」ということを意識するようになりました。


例えばそうやって楽しんで過ごしている中でも、

ふざけた事柄の中から伝わることは伝わっていきます。


もしそこで悪ふざけが過ぎていくような人とは距離を取ればいいのです。


本当に大事な事はいつも感覚を超えたところにあります。


それが分かるかどうかは、他の人が強制するべきことではありません。


分からない人に分からせるなんて、

拷問のようなことになっていくだけでしかありません。


分かりたいと本当に思った人がそれを受け取る準備が整えば、

その人の腑に落ちていくことになります。


それまで、分かっていることがある人が提示できることは、

本当に大事な事の中にいて楽しんでいることなのではないかなぁと

思うようになったのです。


余裕があるからそうするのでもありません。


もう単純に楽しい方がいい、

その自分に素直になることを決めて過ごすことにしたのです。


やっぱり自分で決めていく  

ということなんじゃないでしょうか。




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