その時僕はけっこう新しく建てられた建物の中にいて、
数メートル先で幅が50cmはある鉄筋コンクリートの柱が大きく揺れるのを見ていました。
僕は阪神淡路大震災の時にも震度5強を経験していて、
あの時揺れ続けていた部屋の中で
余りにもあっけらかんと「死」を受け入れたのを思い出しました。
自分に起こりうる苦痛の大きさに順序を付けて、
大きいものから遠ざけるように行動していたのですが、
その中で「死」は比較的避けたい事の中ではそれ程大きなものではありませんでした。
揺れが収まるまでの数秒間、
僕の思考回路はフル回転で状況を見極めていましたが、
「死」が平然と起こる可能性を拒絶しませんでした。
今回揺れが収まった時には、
「死」が自分の中で余りにも普通に感じられていたことで、
僕の「生」に対してスイッチが入ったかのような感覚になりました。
僕はもちろんこれからも生きていくわけですが、
今生きていることを本当に大切にするということの意味が
今までと少し変わって感じられるのでした。
僕という人間が生きている意味があるとしたら、
それは一体どういうふうに感じることが出来るでしょうか。
この世界ではいろんな出来事が同時に様々な場所で起こります。
多くの命が自分の目指すべきところへ向けて一生懸命に生きているんです。
どんな形であれそこに展開する命は
光と闇を経験しながら物語を創っていて常に両方の意味を持っています。
例えば僕が希望を抱いて生きているとして、
もしもその希望が叶わないまま命の物語が終わるとしたら、
僕は闇に包まれて消えていくのでしょうか。
希望を叶えるその先に光が差しているのではありません。
なかなか希望の状態に近づいて行かない状況であってもそれは闇の中ではありません。
どんな状況に置かれていてもそこに光は差していて、
その陰に闇の部分があります。
心を閉ざしてさえいなければ
魂が成長していく中で光を認識できる目も養われていくようになりますし、
闇の深さも理解して行くようになります。
その両方を見ることと自分の進むべき道を行くことを
別々の視点で見られるようになったのです
何処へ行くとしてもそこには光と闇が同時に存在していて、
常に影響しあって変化してくことは理解していました。
ある所では必要であったものも、
所が変わればまったく要らなくなってしまうものも多くあります。
ある時は正しいとされていることも、
時代が変われば誤りであるとされることも、
またその逆もあるのです。
そういう状況下で今この世界中で起きている出来事を
僕が個人的に好きか嫌いかという観点以外に、
真実を見ることがどうやってできるでしょうか。
例えば今このブログを読んでくれている誰かの物語を
僕はどうやっても全部を知ることは出来ません。
いろいろと話してイメージを膨らませて繋ぎ合わせてみたところで
本当の自分自身を知っているのは、自分だけしかいないのです。
例えばそれが光に包まれていると感じていても、
ずっと闇に包まれていると感じていたとしても、
それはそういう視点で自分自身が自分を見ているだけかもしれません。
時代が進めば全く変わって見えるようになるその可能性は否定できないはずです。
僕に分かることがあるとすれば、
目の前に在ることにその時感じること以外には無いのです。
光と闇の側面がコインの表裏だとしたら
それと同じように生きている命が織りなす出来事を
自分の物差しであぁでもないこうでもないと判断していた了見の狭さに
人間らしさとはこういうものだったのかと感じるようになった次第です。
いろんな出来事の中には避けたいものもあれば
是非一度は味わってみたいものなど様々で、
それらは思いもよらない形で突然にしかも当然のごとくやってきます。
僕がそれらを真っ直ぐ受け取らずに、
それらの経験を選り好みしていて何を得ることが出来るでしょうか。
僕自身が真っ直ぐに生きることを選択しているのならば、
それによって起こることも真っ直ぐに受け取ればそれによって
真っ直ぐに進んでいくことが出来る、
そのことに気が付くことが出来たのでした。
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