2015年5月31日日曜日

思いどおりにならない本当の理由

僕は日々の生活の中で、

本当に多くのことを考えます。


今でこそ、

考えることと自分の本質との関係が分かるようになったことで、

ありのままでいることが出来るようになりましたが、


以前は、

心地よい時はいいんですが、

そうではない時、


考えたくないことを考えないようにするために、

意識を別のものに向け続ける努力をしていました。


考えること自体が大きなエネルギーなので、

考えたくないことを考えないようにするのは、

大変なエネルギーを消耗します。


つまらないことで不安になったり、

イライラしてしまうことも当然のことだったんです。


そうならないように心がけて、

日々を幸せに過ごそうと思っていたのに、

なぜ思うとおりにならなかったのでしょう。


僕は前までずっと、

よく考えて意思決定しそれを行動に移すことが

とてもいい事だと固く信じていました。


でも、最近分かったことは、

いくらよく考えても、

その考えるという行為は、

その場その場での脳の反射運動であって、

今目の前で変化していく現実とは別に独立しているということと、


考えて意思決定したかのように感じているけれど、

それは全く後付けで、

意思決定をした瞬間よりも前に身体は動いているということです。


考えていることは、

そこに考え続けるエネルギーを注ぐことで維持されているだけ、のものなのです。


あぁしようこうしようと考えても、

それは考えの中での出来事で

現実はまた別のものなんです。


ものごとに対して二次的である思考に身体が反応してしまう分、

考えて行動することが

現実に則していない結果になるのが多くなるのは

当然のことだったんです。


思ったとおりになるように考えて行動するよりも、

あまりよく考えずに行動した方が上手くいくのはそういう理由です


考えて上手くいったことがあるように感じているのは、

場面場面で無数に起こった反応のうちの

言葉で認識できている部分

考えたことを結びつけて記憶しているだけです。


身体の反応が良くなるように練習すれば上手くなるのは、

反復させることでより反射的になるからです。

そして考えたことよりも、

感じていることを記憶しているのです。


今までずっと当然と考えていたことを、

考えるエネルギーで支えるのを辞めると、

今までもずっとそうだったありのままの状態が

完全なバランスでそこにあるのが分かります。


その完璧なまま変化していく

今の瞬間に心開いてみれば、

本当に感動的な現実が

とても色鮮やかなことに気づきます。


言葉を当てはめてあれこれ考えるのを辞めて、

固く信じていたことも手放して、

そのままの自分をそこで感じる以上の幸せはありません。


それだけで幸せを感じなくなっているということは、

今あるもの以外のものの事を考えていて、

意識がそこに向いているんです。


そうやって見えなくなっている素晴らしさが今この瞬間には溢れています。


どんな状態であっても、

自然の流れに乗ってしまえばいいんです。

流れに乗っていないように思っているとしても、

実はそう思っているだけで、

ずっと一緒に自然に流れています。


どう思っていても、

この大きな宇宙の流れから

独立して存在しているものはありません


いかに小さなものごとだけを見て

あぁでもないこうでもないと考えていたのかを思うと、

本当に笑ってしまいます。


思うとおりにしようなんて小さなことに気を使う必要はありません


もうすでにこれ以上ない幸せを生きているんです。

2015年5月24日日曜日

自我の正体

自我を放棄して見てみると、

自分が考えていた、

自分に付随するものごとは、

それらを考えている時にしか存在していなかったということがわかります。


真剣に何かに没頭している時、

考えている自分について考えたりしません。


考えるよりも、

純粋に身体が動いていることが、

純粋な経験として心地良いからです。


でも多くの人が

嫌なことや不安について考えたくないために、

没頭出来る何かに時間を費やそうとしてしまいます。


普段の生活の中で

実際に考えないということもやっているのに、

また時が来ると、

考えるという行為を始めるんです。


考えるという行為自体は、

決して悪いことではないのですが、


考えることから始まって、

それにかぶせてまた考えて、

を繰り返す内に考えだけの世界になって、

それが純粋な経験を見えなくしてしまうということが起こります。


それが不安や、恐れを作り出す一番の要因です。


不安や、恐れは、

将来必ずやって来るはずの無いもの、

実態の無いものを

今、考えてしまっているだけのものです。


もしあるとしても、

その時に的確に判断対処出来ればいいだけで、

今、不安になる必要はありません。


その時に備えて‼  

と思いたいかもしれませんが、

その時素直で純粋であれば、

さっと判断して行動できるものです。


大事なのは将来について考えることよりも、

今、素直に純粋になってしまうことで

将来に対処できてしまうということです。


過去への囚われにも同じことが言えます。


あれほどの思いまでして乗り越えて来たという考えが、

自分を形作ってしまいますが

いくら力説したところで、

今の自分を物語るものではありません。


どんな経験をしていようが、

今ここにいる自分がそのままあるだけなので、

過去はまったく関係無いと言っても

大げさではありません。


あれだけのことをしたから今がある‼


そう思いたくなりますが、

逆に今があるから、

そう思えるのです。


過去をどう評価するかよりも、

全てを味わうことの出来る

今を純粋に生きることに価値を見出すことで

過去の真の意味がわかります。


ここまで上げてきた例でも、

自我は

自分が自分について

考えている中だけにしか存在していないんです。


なので考えないということで、

居なくなります。


そう考えないように、

別のことを考えるのとは違います。


考えるのをやめるんです。


その時にいろんな音が周りでしているはずです。

それを聞いてみましょう。


暖かさや寒さを肌で感じているはずです。

それを感じてみましょう。


呼吸をしている空気が鼻やのどを通っているはずです。

そこに自分がいる証拠です。


何も言葉に置き換えてしまう必要はありません。

だから何だとかありません。

何かしないと暇だなぁと感じるかもしれません。


それがありのままの自分です。


そうするうちに考えはじめます。

そんなはずは無い‼


でも、

言葉に置き換えない時間を経験している間は、

本当に何も感じていないのでしょうか。


それまで頭の中で

言葉でいろいろと考えを巡らせることに

慣れすぎているせいで

自分の内側で過ごすことのできる静けさを

忘れてしまっています。


その静けさに慣れてくると、

徐々にその内側と外側と思っていた境界線は、

またそう考えていただけということに気づきます。


その時、

一つの大きな大きな生きた感覚に

くっついていただけの自分の小ささには

笑ってしまうでしょう。


自我の正体は、

もうそこにはありません。


さっきと何も変わらずに、

ありのままの自分になっていました。

2015年5月19日火曜日

自我の放棄と真我の目覚め!?

本当の自分に出会って、

自分本来の生き方をするには、

どうしたらいいのでしょう。


僕にお伝えできるのは、

簡単に言うと、

自我を放棄することです。


もう少し違う言い方をするなら、

自我とは何なのかということに気づくことです。


なんの修行もいりません。


自我の正体が何なのかが分かれば、

手放すことが出来るんです。


手放すというよりも、

気にしなくなるという感じです。


めちゃくちゃ簡単に言わせてもらうと、

自我とは、

単なる思い込みなんです。


自分はこれこれこういう人で、

こんな性格で、

こういうことが好きでこういうことは嫌いで、

と自分に思っていること全部です。


そういった思いの類はすべて、

頭の中だけの出来事で、

自分とは何なのかを分かりやすいように

言葉で理解しようとしているだけであって、

本当の自分そのものではありません。


なぜならば、

思うということ自体が

本当の自分とは別に勝手に起きている事象だからです。


勝手にというよりは反射運動と言うほうが理解しやすいかもしれませんが、

風が吹いたら葉っぱが揺れるのと同じです。


今までずっといろんな事を思いながら

生きてきて余りにも自然にやっていることなので、

思うこと自体が自分であるかのように

思ってしまっているんです。


例えば、

自分の手を見ながら、

グーにしたり、パーにしたり、チョキにしたりを

自分で言いながらやってみれば分かります。


めちゃくちゃ早くやろうとすると、

とんでもなく間違えます。


実は自分がぼやぁ~っと思っていることに体は反応しているだけで、

自分がこうしようと思ってから動いているのではないんです。


思うという行為は、

事象が起こってからそれを理解して記憶するために

脳が自動的にやっていることなんです。


それはそれで凄いスピードでやっているので、

脳も凄いと思います。


でももっと凄いのは、

グーとかパーとかチョキのことを

何となくぼやぁ~っと思った瞬間には

もうすでにそうなっている手です。


思うより早くすでにそうであるところのもの、

それがそこにあるんです。


自分が自分のことを

思う通りに動かしてきたのではないんです。


少なくとも自分が意識して思えるレベルでは、

行動のほうが先にあります。


思うより先に

本当の自分はそこにいて動いているんです。


自分が考えたり、思ったり、感じたりするよりも前で経験しています。


その前にいる本当の自分に気づかずに、

後から思っていることを自分であるかのように見てしまっているとき、

素直さに欠けてなんだか嫌な気分になっていたように思います。


そこに自分がいるということをどう思っていても、

その場面を経験して、感じて、さらに行動して次へいくのです。


それを頭が言葉で理解しようとしていても、

全てを捉えきれることもないし、

それによって良いも悪いもありません。


今までもそうだったんです。


思うということに、

あまりにも重きを置いていたために、

純粋に経験するということができなくなっていたのでした。


考えたり思ったりすることも、

ただの自然現象の一部と思うと、

自分の純粋な経験がよみがえります。


子供の頃の感じと似ているけれど、

ちょっと違うのは、

やっぱり今の経験値があっての歓びです。


放棄といっても、

何かをなくすようなことではありません。


ありのままでいいんです。

2015年5月15日金曜日

問題として感じることに投影している自分

対処しなきゃならない問題があると思っている時、

それを解きほぐすには、

問題があると感じていることをちゃんと受け入れること、

そこから始まります。


この事をちゃんとしていないことが多くて、

受け入れてしまえば

なんてことはないなんてことはよくあることなんです。


感じていることを無視しようとしたり、

その思いを抱く自分を別の角度から見たりするのを辞める。


誰か他の人の言うことが、

気持ちを楽にしてくれることもありますが、

「こう思ってみたらいい」みたいなことが本気で思えないならば、

それは自分の思いには成り得ません。


信じるということも、

信じなければ意味がないんです。


疑ってしまうという逆の一面も一緒になっているので、

心は静まりません。


やっぱりまずは、

自分は今、問題を抱えてここにいると認めて、

その不快な思いを起こさせるものを

一つづつ見ていくのが一番なんです。


だいたいは、

自分が不快な思いを抱きたくないことから、

そこにあることをちゃんとよく見ていないだけだったりします。


ちゃんと見ていないことに言い訳したりします。


大丈夫です。

不快だったり嫌だったりする感情は、決して悪者ではありません。

ひとつの感情です。

そのことが理解できればその時点で少し落ち着いているでしょうか。


そうしたら、

その感情を抱かせる問題点はどこにあるでしょうか。


社会的な事にせよ、個人的なことにせよ、

自分が今取り組むべき事が目の前にあるならば、

不快であるとしてもそれと向き合うことができれば問題では無くなります。


その時点で変化が始まります。


次の瞬間、

そこから自分が離れていくか、

もっと変化と共にいるかです。


結果が思うものと違うかもしれません。


結果を恐れているならば、

結果が分からないうちから、

妄想が膨らんでいるだけです。


妄想は真実ではありませんが、

視覚や感覚を伴って

あたかも真実であるかのように感じることもあります。


そんな時、

そこには何も無いということを理解できれば

妄想は終わって、

結果に囚われずに変化にまかせられます。


では問題点として感じることが、

目の前ではなく、

漠然としていて大きい時はどうでしょうか。


自分にはどうすることもできないような、

大きな出来事ですが、

確かに自分の内に、

不快な感情を抱いてしまうようなことがあるとします。


そんな時でも、

基準になるのは自分のいる今ここです。


漠然としているものでも、

自分として行動することが自ずと湧き出て来るなら、

その時は考えることを手放してみましょう。


妄想をやめて、

思考の世界から飛び出して、

今出来る本当の経験を味わえる時です。


それは辛いかもしれません。

苦しいかもしれません。

この場合も結果として自分の思う通りではないかもしれません。

でも、問題ではありません。


確実に変化している自分を感じているからです。


では漠然としていて、

自分として何をしていいのか分からないような問題、

と感じられるものはどうでしょう。


それも基準は今ここにいる自分です。


何をしていいのか分からないようなことを、

問題として感じているのは確かですが、

今自分は何も分からないんだということを認めましょう。


そのことを本当の意味で責めることの出来る人は、

自分自身しかいません。


問題として感じていたのは、

自分を責めてしまっている自分の思いが

確かに問題のように見える出来事に

投影されていただけではないでしょうか。


そのように自分を見るようになってから、

僕個人が思うのは、


全てがプラスとマイナスに相反する面を持つ出来事として

同時にたくさん起こっているだけで、

その一面から見て

いいとか悪いとかは

有り得ないことと感じるようになりました。


今まで何かを失ったことも無ければ、

何かを得たことも無かったんです。


確かに起こって欲しくないことが起こるんですが、

それも含めて、

何もかもが一生懸命に生きている今を、

ありのままで受け入れること、

それがまず一番大切なことだと思うようになりました。

2015年5月9日土曜日

内側と外側

確かに、気づくということは、

自分の内側で起こります。


自分以外の人が分かっても、

自分に分からないことは、

「あ!そうか!」とはなりません。


でも自分の内側で起こることが、

外側に反映されているだけなので、

内側と外側という分け方は、

本当は出来ません。


気づくということは、

そのままを受け入れている自分に気づくだけで、

今あるままのものと違う何かを理解することではありません。


そのままを受け入れることで、

変化したり、させたりする必要が無くなるから、

気持ちが楽になるんです。


なので、

分かったから、

あんな風になったり、

こんな感じに変化したりすると思ってしまっているような時は、

言葉で、自分に納得させようとしている場合があると思います。


気づきが本当に腑に落ちたとき、

空間が安堵感で満たされます。


空間が自分の内側を反映しているからです。


分かった!と思っているにもかかわらず、

なぜか安堵感が無い時は、

納得させようとしてしまっているかもしれません。


それは結局自分に嘘をつこうとしてしまうことになるため、

気づきには成り得ないんです。


納得出来ない事は、

納得出来ないままにしておく、

それに感情がくっついたりするのはまた別の出来事で、


分からないことは、

分からないままでいいんです。


そのままリラックスしていればいいんです。


「あぁ~、分からないことってあるよなぁ」でいいんです。


それでいいんだぁ、

という安堵感で内側も外側も満たされます。


内も外も無くなっていきます。


2015年5月7日木曜日

今、やってみる?

以前の僕は本当によく悩んでいました。


考え悩むことをやめるなんてことは、

絶対に出来ないと思っていました。


楽しそうなふりはできても、

心の底から楽しく生きるなんて、

もう無理かもなぁと思っていました。


明るく過ごしてるように見えても、

心の奥では

ずっと悩んで苦しんでいる事を

誰にも打ち明けられずに、

何とも言えない孤独感の中で、

一切の疑問を解決できる答えを、

ずっと探していました。


いろんな宗教経典も読めるものは、

読みあさりました。


いろんな人たちのYouTubeも見ました。


でも、

それが出来ないんだよなぁって、

いうことばかりで、

やっぱり聖なる人たちは、

ちょっと違うんだろうって思ってました。 


頭の中で「なぜ今、幸せを感じてないのか?」

という問いかけが起こっている時に、

ちょっとした変化に気づきました。


その時たまたますぐ近くに居た人の表情が

寂しそうに見えたんですが、

僕の心の中で、

その見ず知らずの人に気を使ってるんです。


「こんな時代だ。大変な人もいるのに楽しく生きるなんて申し訳ない。」


ここに書いている流れの中では、

当たり前のようにに気づいていますが、

僕にとってはこの、

「申し訳ない」という言葉が

今までずっと何をするときでも、

必ず自分の考えにくっついていたことに

初めて気づいたんです。


家族に、

両親に、

友人に、

仕事仲間に、

世間に、

何かと申し訳なく思っていたんです。


そしてもう一つ気づいたのは、

その寂しそうな表情をした人を、

勝手に寂しい人と決めて見ている自分。


よく考えてみると、

そういうことを知らず知らずにやっていました。


出来事を自分勝手に受け止めて、

自分の記憶にある言葉と結び付けて、

これはこういう場面では必ずこうなる、

みたいに思い込んで見ている。


思い込んで見ているから、

思った通りになったら、

「ほら、やっぱり。」で、

思い込みはどんどん強くなって、

違った時は、

「まぁ、そんな時もある。」と

自分の勘違いに気づこうともしない。


そう感じた時、

自分が今まで普通だと思っていた事は、

もしかしたら自分が勝手に思っていただけかも、

と思い、

思うことを手放すことに、

挑戦しました。


言葉が浮かんできますが、

浮かぶ瞬間に止めます。

これは案外すぐできます。


目に入ってくる文字を読んでしまいそうになりますが、

視点をずらして聞こえる音などに意識を向けたりします。


体のどこかに力が入っていたら、

力を抜きます、


心の中も、

力んだ感じがあれば緩めます。


そのまま静かな状態を、続けるだけです。


なにも変えません。


はい。


自分を手放すことが出来ました。

2015年5月4日月曜日

矛盾することがある?

あぁ~、なんだか仕事をする気がしないなぁ、、、

なんてなることがしょっちゅうだった僕は、

何とか自分を仕事に向かわせるために、

この稼ぎが何のためになってるか、

考えてみるのでした。


家族が喜んでご飯を食べてるじゃないですか。

週末の楽しい時間を作れてるじゃないですか。

新しい服が、新しい靴が、

好きな事が出来るのも、この仕事があるからだ....................


ってどれだけ自分に言い聞かせてみても、

また同じ答えがやってきました。


「今は、しょうがない。。。。」


確かに気が乗ってて、

バリバリ出来る時もある。


そんな時は何も気にならないし、

仕事をするということ自体が

喜びとして感じられるものです。


ただ、ほんとに些細なことで、

その喜びは消えて、

我慢して仕事に集中することで、

その日その日を終えていくのでした。


少しの喜びのため、

多くを犠牲にしているとは思いたくないので、

少しでもポジティブになれる考え方を

学ぼうとしていました。


優しい言葉や、

励ましてくれる言葉、

勇気づけられる言葉、

同調してくれる言葉なんかを、

常に探して、


自分に言い聞かせては、

自分の見たくない自分から

目を逸らせて生きていました。



抱えた矛盾を解消することが出来なければ、

自分につき続けた嘘が、

どんな形で自分に返ってくるかなんて、

考えたくもない。


世にある痛ましい出来事の多くが、

そんな事柄の現れなんじゃないだろうか?


そんな風に思っていた矢先に、

こんな言葉に出合います。



「自分なんてものは、どこにもいない。」



意味がよく分からなかったんですが、

これならいける、

みたいに思いました。


そもそも自分の見たくない自分もいなければ、

目を逸らしている自分もいない。


自分がいなければ

自分への嘘もないし、

何も返ってこない。


何も怖がることもないし、

痛ましくもない。


当然、矛盾など無い。


このままいっても、

中途半端な苦痛にさいなまれるようで、

それが本当に嫌な気がしたので、

本気で、

僕がいるのかいないのかを、

確かめることにしました。




僕の中心はどこか。


僕の境界線はどこか。


いつから僕がいるのか。


客観的に見ていると思っている対象がそもそも何なのか。


脳の中?


意識の中?


心の中?


魂の中?



いるという証拠もなければ、

いないという証拠も提示できない。


中にいなければ、

外は?


どこの外?


いるという感じだけが、

この肉体を伴って動いています。


いや、この肉体に関係なく

いるという感じがここにあります。


この、

いるという感じにとどまっていると、

とてもリラックスしてきました。


そのまま仕事にかかれば、

今までもそうだったように、

どんな状態であろうと仕事をこなしている自分と、

いろいろ考えていてもそれと関係なく

いるという感じはずっとあったことに気づきます。



抱えていた矛盾は、

解消しなければならない問題としてではなくて、

少しアンバランスな状態で思いこんだイメージの一部分として、

捉えなおすことができるようになります。


それらに対してやるべきことはありません。


気が付くと、

笑いながら仕事に打ち込んでいました。


ポジティブに考えようなんて思わなくていいんです。


そもそも自分なんていないんですから。

2015年5月1日金曜日

具体的な方法って?

具体的にどうすれば

不安がなく幸せに暮らせるんだろう?


そんな時、
 
これが唯一の答えです!

っていうのは、ちょっと違うと思います。


この世界にはいろんな個性があって、

それぞれが自由に楽しめるようになっています。


そして今ここで、

幸せと感じているかどうかは、

完全に自分に託された感覚で、

他の人はどうすることもできません。


目に映らない感覚に対して、

他の人の言う具体的なやり方は、

あまり役に立たないと思います。


僕はここに具体的なやり方より、

僕の心がどう動いたか、

という事をメインに書いています。


僕が具体的に何をしていて

感じた事なのかは書いていません。


僕にまつわる身の上話しを書く事で、

読む方達に納得出来るストーリーとして

「ふ~ん、そうだったのかぁ。」

になってしまうと、

その具体的なやり方が、

幸せになる方法みたいに思われると違うからです。


いくらやり方を真似しても、

自分で気づかなければ

心は求めることを辞めないでしょう。


でも決して求めることを我慢したり、

無視したりするのではなくて、

ただ消えて無くなるまでそのままにしておくんです。


幸せを感じる心っていうのは、

頭で理解出来るものでは無いことを認めて、

今、まさに今この瞬間を理解しようとする無駄な行為を辞めるんです。


そうするとちょっとづつ悩みや不安が消えて

自分が思っていたのとは違った形で、ほわっとした幸せな空間が

辺りを包んでいる事に気づきます。


今ここで、全ての思い込みや思考が作り出すものよりも、

もっと純粋に今この全てを受け入れるんです。


そこでは個性が本当に自由に動きまわっています。

本当の自由の共有は、無秩序になることではありません。


なぜなら、

全て受け入れると、

他を排除してまで

自分がそこに存在する理由なんて

無いからです。


例えば怒りが起こるとしても、

それは素直な感情の動きなので、

必要ない暴力的な行動までしなくなりますし、

怒り自体もすぐ無くなります。


ものごとが急に展開する場面に、

怒るという感情が必要で

そのようになる事が多いと思います。


その他の感情や、思考なんかもそうなんですが、

その場面に必要な形で、起こるべくして起こり、

自然に無くなっていきます。


ただそこにいて、

それを完全に味わえる経験の尊さに

気づいている事

幸せなんだなぁって思います。