2015年11月26日木曜日

自信を持って生きる

今自分が置かれている状況の中、

的確に決断して行動すること、

このことが完璧にできれば、

何の心配もいりません。


でも、

そんなに上手くいくわけが無い!と考えて、

自分にちょうどいい感じを探して辺りを見てみると、


何となくそれなりにやっている人達がいて、

それなりにいい感じなので、

良くは分からないけど、

そんな感じでやってみたら、

たまに嬉しいことがある。


良く分かっていないことがあるので、

なるべく大きな決断は避けていて、


それでも決めなければならない時は

多くの人がしていることを参考に

他の人の意見も聞きながら

まず間違いないだろうということを選択する。


まず間違いない選択も

成り行きの中で決まっていただけのことで、

その後からついて来る結果には、

あまり納得できなくて、

その時点になって、

どうしたらいいかを考えている。


そんな時、

ちょうどいい考え方に出会って、

試してみるもののなかなかそのように考えられない。


とりあえず理想に近づけるように、

そこで言われていることを一生懸命やってみる。


これは、

自信を持てない考え方について、

大まかに記したものです。


こう記されたものを見る限りでは、

どこまで行っても自信が持てないのは、

当然だと分かるのですが、


でも、

実際の生活の中で自信が無いとしたら、

おおよそこのサイクルの中にいることに気付かなければ、

抜け出すことはできません。


上に記した言葉と全く違う感じ方の人も、

自信があったり無かったりする人も、

自信が無い状態とは、

基本的に考え方のサイクルに

はまり込んでしまっている状態なのです。


僕自身が以前、

自信を持つということを、

考え方のように捉えていたことから脱して、

あくまでも実践するだけの行為として

意識するようになって、

自信とは何なのかを理解できたことを、

お話しようと思います。


冒頭に記した、

今自分が置かれている状況の中、

的確に決断して行動すること、


このことを、

どうやったらできるかを考えてしまうと、

自信を持つことはできません。


実はものごとを的確にこなしていくのに

自信があるとか無いとかは関係ありません。


どういう状況にあったとしても、

その状態から淡々と進めば良いだけ、と

行動に移している状態が

自信があるように見えるだけです。


右に行くのが良いのか、

左に行くのが良いのか、

自信の無い状態では、

とにかく考えます。


目的に向かって行くより、

どちらから行けば良いのか、

何も考えないのが怖いのです。


そこには目的に向かうことよりも別の、

思考が働いてしまっています。


危険か安全か、

苦か楽か、

損か得か、

それ以外にも

格好良くいきたいとか、

忘れ難い苦い思いがあるとか、

いずれにしても頭の中にあることで、

現実とは違うことを考えてしまっているのです。


実際には、

右へ行っても左へ行っても、

大した差はありません。


右へ行っても左へ行っても、

自分の学ぶべきことが順に訪れます。


必要なことは、

未熟であったとしても、

真剣に一歩を踏み出すことです。


真剣に一歩づつ感触を確かめつつ進むことで

危険から遠ざかることにもなり、

次の一歩を決める判断材料になります。


何となく踏み出した感じからでは、

次の判断材料にはなりませんし、

学ぶべきこともぼんやりとしてしまいます。


一歩踏み出さずに

失敗するイメージを想定して、

そうならないようにいろいろ考えても、

踏み出さない限り

失敗にもならないし、

目的に近づくこともありません。


失敗したと、

本気で感じることができるのは、

真剣に一歩を踏み出した人だけです。


やっとその段階にきて、

学びとして自分の中に残るものがあります。


学びとして経験できるようになれば、

失敗も失敗ではありません。


そこから目的へ向かうために

良い判断材料としての状況変化があっただけです。


多くの人は、

お互いに助け合いながら

目的を達成することが重要な環境にいます。


それぞれの足りない部分を補い合うことで

一歩づつ目的に近づいていきます。


その中で、

目的以外のことに気を取られていると、

行動が的外れなことをしてしまうため、

さらに自信のない状態へと向かってしまいます。


そこでは社会性が必要で

コミュニケーションをとらなくてはならなくて、

などなどいろいろと考えてしまいますが、

そのようなものは全て二の次です。


例えば仕事の場では、

仕事を順序良く片付けていくことを最優先にするべきで、

それが後回しになってまでコミュニケーションなどが問題になるならば、

そこで仕事が始まるのはいつになるのか分かりません。


遊びの場であれば、

ルールにのっとって楽しむことが最優先になりますが、

それを後回しにして人として考えなければならないことがあるならば、

全ての休日はもう台無しになってしまうでしょう。


それこそ仕事も遊びもそういった枠を取っ払って、

真剣に生きるというスタンスで見てしまえば、

それを後回しにしてまで気にするものは、

よっぽどその気になることが好きなのではないでしょうか。


そのことに自信を持って好きだと言えないとしたら、

それは今その場面では関係の無いことだと、

自分でも分かるはずです。


そういったものを自分のこだわりだとか、

必要なものだとかの思い込みが

真剣な一歩を踏み出す自分を妨げる

言い訳になってしまいます。


今できることを全て後回しにして

言い訳してしまうより前に、


ただ行動すれば

全てが変わってきます。


自信みたいなものがあるかないかも

そんなに気になりません。


本当の学びはそれから始まるので、

前もってやっておかなくてはならないことなどありません。


それまでに何となくやっていただけのこととかも、

ちゃんと役に立つ経験であったということにも

それから気づくことになるでしょう。


自信を持って生きる生き方を

探すのではなくて、

今できること、

今やりたいことを、

どんどんシンプルにやっていくことが

自分を信じるという言葉の意味を

分からせてくれるのです。


自信を持つことができるのは、

誰か他の人ではなく、

自分だけだということは、

自分で決めて

自分で行動して

自分で感じなければ

自信にはならないということだったんです。



2015年11月18日水曜日

混沌としている世界に感じること

痛ましいできごとが起きていると

ニュースが伝えています。


この星の中でのできごとです。


悲しむ人達の声が届けられ、

勇気づけようとする人達が

それに答えています。


今僕にできることは、

とても限られています。


僕の手の届く範囲で、

世界が平和であるために

僕自身を平和に保つことです。


この星には、

とても多くの命がいて、

人間だけ見ても、

多種多様な価値感を持っています。


僕の分かる範囲での話しですが、

その中に絶対的なものはありません。


人によって、

時と場合によって変化する、

実体の無いものごとが

この世界を作っているので、

絶対的だと思われるものも

相対性の中でしか存在できません。


例えば、

僕の知っている神様は、

絶対ではありません。


僕の内側で感じることのできるその神様は、

絶対あぁしろ!絶対こうしろ!と、

まず僕に言うことはありません。


僕の主体性を最大限に認めてくれる

とても大きな存在です。


そして、

そういうことを「感じる」ことが

僕の内側でしか起こらないということは、

僕の外側に神様を感じることはできません。


ということは、

僕がいなくなったら、

僕の神様ももう居ません。


どこかに居るとしても、

僕が居なくなって、

確かめる人がいなくなる以上、

考えることもできなくなるのです。


このような感じで、

僕には、

絶対的なものはありません。


絶対に間違っていることも、

絶対に正しいことも、

僕の中にはありません。


時の流れの中で、

起こる必然に対して、

僕という一人の人間は

為す統べもなく

そのまま受け入れるだけです。


そこには悲壮感などなくて、

むしろ受け入れたことで

為すべきことも一緒に

無くなっていきました。


ただ、

この受け入れるということができなくて、

絶対的な何かを作り上げてしまうという

ジレンマに陥ってしまっていたこともありました。


絶対にお金が無いとダメだと思っていると、

何をするにもお金が基準となっているのに、

お金では買えない豊かさを求めて

経済的に混乱してしまいます。


本当に自分に必要のない物まで、

必死で手に入れようとしてしまいます。


絶対的な健康を欲しがってみても、

無茶をすれば体に負担は掛かるもの、

本当に体を大切にすることを学べるのは

弱い体をいたわる思いからしかありません。


絶対にガンになりたくないと思いながら

ガンになるような食事をして、

その体に高額な保険をかけて、

ガンと闘うというのも

少し変な感じがします。


絶対的な正義が

ちょっと意見の違う相手に

暴力的になっている様子をよく見てみれば、

「あぁ~あ、、、」となるのですが、


絶対に自分が正しいと思っているがゆえに

自分の悪いところよりも、

相手の悪いところを探してしまうといったことが起こります。


絶対に死にたくないと思ってみても、

この世で死んでない人が

一人も居ないのですから、

自分だけ都合よくできる訳もありません。


絶対にあぁいう死に方はしたくないとか思うとしても、

そんなことより素敵な生き方を考えたほうがいいのだと

本気で思うようになりました。


この世界を見まわしてみると

絶対的な価値観に囚われている人が

混乱を招いているように感じます。


僕は、

僕の手の届く範囲で直観を働かせて、

僕自身を平安に保つ努力をするだけです。


その空間には、

最大限の愛情を持って、

自分をごまかすことなく、

誰とも違う僕でそこにいます。


誰とも違う僕が

絶対的な価値観を持つことはありません。


僕にとっていいものが

誰かにとっていいとは限らないからです。


タイミングが合えば良くても

ずれると役立たないかもしれないからです。


ただ、

自分の持っている絶対だと思っているものを、

捨ててしまっても大したことは無いということと、


捨ててしまったほうが

絶対だと思っているフィルターが無い分、

ものごとがクリアーに見えてくるということ、


この混沌としているかのような世界が

ちゃんとした流れの中

着実に進んでいるところに、

今僕は生きているということに

変わりはありません。


このタイミングで

大きく変わっていくのが

必然なのですから

素直になることです。


素直になれない分だけ

いろんな思いを経験する、

その経験も必然なのです。


2015年11月15日日曜日

一つずつ順にやっていくこと

どんなものごとでも、

僕は一つづつしか

片付けることができません。


一つめを片付けて、二つめ、

二つめを片付けて、三つめ、

この当たり前のことが

やっと最近できるようになってきました。


以前の僕は、

一つめを飛ばして、二つめをやろうとしたり、

一つめと二つめを同時にやろうとしたり、

一つめから三つめぐらいまで誰かに

やってもらおうなんてことをしていたのです。


何気なくそうやってしまっている自分に

気が付かずにいたために、


上手なやり方がどうとか、

他の人のやり方がどうとか、

自分にはできないと思い込もうとしたりとか、

できない理由を探してみたりとか、

何かとやることが増えてしまって、

疲れてしまうのでした。


そのような状態になっている自分を

整えなければならず、

明るく過ごす必要に迫られているように

感じてしまっていたので、


自然体でいるために、

何をどうすればいいのか、

分からなくなってしまいました。


でも、よく考えてみると、

例えば自然体でいるためにどうしたらいいか?

という発想がおかしいことが分かります。


何かをするために、

まずその前に

別の何かが必要になるという発想です。


この考え方をごく当たり前に

してしまっていることに気がついた僕は、

一旦スタート地点に戻ることにしました。


僕の目の前には、

山積みになって

どうしようもなくなってしまったかのような

ものごとがたくさんありました。


僕はその中から、

気が付いた順に

今すぐに簡単にできることを、

やることにしました。


そこで本当にシンプルなことに気づきます。


気が付いた順に、

今すぐ簡単にできることからしか、

できないのです。


今までもそのようにしか

できなかったにもかかわらず、

いろいろと考えては、

ものごとを難しく捉えていたのです。


その順序でしか

ものごとを片付けられないので、

その通りに

気が付いた順に、

今できることからやっていくと、


ちょっとずつであっても、

進んでいるという実感と、

ものごとが変わっていく様が一致するので、

単純に楽しくなってきます。


そうすると、

また新しく気づくことがあります。


全てのものごとに

自分が取り組める順序があって、

それをそのままやっていくだけで、

できるようになっていくということです。


得意なものもあれば、

不得意なものもありますが、

どんなことでもできるようになります。


一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、

六つ、七つ、八つ、九つ、十、

順序よく一つずついくことが大切なのです。


一つめが終わると、

二つめにやることがはっきり分かります。


上手くできなかったら、

そこからもう一度、

一つずつやっていきます。


一つずつ丁寧にやることに

集中できるようになってくると、

今まで他のことに気を取られて、

目の前にあることを

よく見ていなかったことにも気づきます。


目の前のことを

大切にできるようになると、

他のことは気にしなくて良いことなのが、

分かるようになります。


ここで結果が全てではないことが分かります。


結果は後からついて来るだけのものとなると、

結果が怖くて取り組んで来なかったことも、

自分にとって、

難題ではないということが分かります。


一つずつ

自分に今できることから

やっていくだけです。


自分が生きている間に

上手くできなかったとしても、

問題ではありません。


自分が今ここにいて何をするかに

意識がしっかり落ち着いていることは、


自分が全てと繋がっていることを

分かりながら行動できている状態です。


行きつく先へ繋がっている道の

今ここに立っているという意識があるからです。


この時また理解できることは、

常に100%この状態で居ることが

生きている目的ではないということです。


目の前のことに

真摯に向き合うことが

その状態を作っているという

順序があるからです。


上手くできなくても、

また一つずつ、

上手くできたら、

また一つずつ、

真摯に自分のまことを捧げていくことが

一番始めにある世界を生きているのが

本当に気持ちいい

ただそれだけなんです。


シンプルであればあるほど

生きることは楽になっていくのだと思います。


2015年11月9日月曜日

神様が僕の人生に手を出さない訳

僕の人生に初めて

神様が現れて下さったのは、

8歳の夏の夜のことでした。


それ以前の僕はどこか冷めていて、

誰にも自分の本心を打ち明けることのない子供でした。


もちろん冗談を言ったりもするのですが、

自分をごまかすためだったりして、

自ら楽しいと思う時間を過ごせなかったのです。


ただその年に引っ越して、

学校が変わったのを機に

自分を変えたいという思いが湧いてきました。


そんな夏の日のことです。


夜は扇風機のタイマーをかけて寝ていたのですが、

タイマーが切れてもなかなか寝付けなかった僕の枕元に、

誰かが近づいて来たのでした。


部屋の電気が点けられたのを何となく感じながら、

母親が扇風機を持っていくのだと思って、

まぶたを閉じた状態のまま寝ていたのです。


ところが枕元に立ったまま何もしないうえに、

まぶた越しに感じる眩しい光に、

早く電気を消してくれないと眠れないじゃないか!

と思って目を開けたら、

知らない人の足が見えました。


細いんですが、

すねの辺りの筋肉がしっかりとしていました。


「えっ!誰!」と思って上の方に目線を送るうちに

その人に悪い感じがしないことに気がつきました。


膝の下あたりまで垂れた白い布をまとったその人の

顔を確かめようとして見てみるのですが、

あまりにも眩しい光に

腰よりも上が見えません。


その光のとても優しい暖かさが

本当に心地よくて、

目を閉じて大きく息を吸い込んで、

また目を開けると、


電気の消えた、

扇風機も置かれたままの部屋で

タオルケットをかけて寝ていた自分がいたのでした。


それまでにも青い竜が

部屋を飛び回っていたりするのを

恐い思いで見る経験があった僕は、

とにかくお化けやその類いのものが

嫌で仕方がありませんでした。


でもその人には、

なにも恐怖心を抱かなかったのです。


その人が誰なのか?という思いが、

今の僕へと導いてくれる

きっかけとなっていることは間違いありません。


二十歳代に自分の一つの夢であった

プロミュージシャンになることが決まったとき、

ものすごく当たると言われている手相鑑定を

受ける機会がありました。


その時言われたのはたった一言、

「大丈夫ですから。」

とだけ言われたのでした。


「えっ!何がですか?」と聞いても、

「大丈夫ですから。」としか答えてくれませんでした。


それが意味することも、

今は分かるのですが

その時は何だか嫌な気になってしまったのでした。


その後僕は一つの成功というものを求めて生きていくのですが、

心のどこかで何か別のものを求めていることに気づいたのでした。


三十歳代に入って一旦仕事をやめて、

旅に出たときのことです。


南インドの海辺の丘で

少し疲れて座っていた浜に生えたヤシの木が

心地よく揺れる風が吹いたのです。



手のひらに付いた乾いた砂が

ハラハラと風に吹かれて落ちていくと、

そのまま自分の手も腕も砂となって、

風に飛ばされていくような感覚を覚えたのです。


そうするうちに、

足もお腹も胸も頭も砂となって

飛ばされてしまいました。


視覚には自分の体としてあるのですが、

感覚はどこかもうすでに自分のものでは無くなっていて、


動く意識がそれらを見ているだけのような感じの中、

暖かい風が吹いていました。


その時

自分の見ている景色の中、

太陽も、

青い空も

白い雲も

風も

海も

ヤシの葉も

この身体も

全部違うスピードで動いているけれど、

同じ暖かさの中にいることに気づいたのです。


その暖かさは、

僕が子供のとき見た

眩しい光の暖かさと

同じでした。


そのときから、

どんどんナチュラルな生き方を模索していくようになります。


ほんとうに自分の身の丈にあった

自分らしい生き方を心掛けて過ごすようになっていきました。


そんな中で妻に出会い、

週末はサーフィンを楽しむ

ベジタリアンな生活になっていました。


あの人が僕の枕元に立って

じっと僕を見ていただけだったのは、

今も変わりません。


あの暖かさを

今でもすぐに感じることができます。


でも僕に何かをさせようとしたり、

何かの助言をくれたりはしません。


僕の求めてしまうような奇跡を

起こしたりはしません。


僕が思うように生きて

思うように学んで、

思うように成長して

精一杯自分を楽しんでいるのを

ずっと見守ってくれているのです。


本当に自分に納得のいくように

やらせてくれているのです。


自分の生き方を

自分で決めていいのです。


他の誰かに決めてもらって

生きるなんてもったいないです。


どこかで聞いたことのある

幸せな生き方なんてしなくていいのです。


自分に合った幸せを

自由に作り出しているとき、

本当に嬉しそうに見て下さっているのが分かります。


いつも見守ってくださって

ありがとうございます。




2015年11月8日日曜日

コミュニケーションにおける素直な意思表示の大切さ

この世に生まれてきた瞬間、

自分という意識が

自分を表現するということで

全てが始まります。


個として存在する不自由さは、

コミュニケーションそのものを

深く理解して上達するうえでも

とても重要な要素になります。


自分という個が和のうちに過ごすには、

自分を含めた空間全体を心地好い状態に

調えていくことが大切になるのですが、


その中で

自分の意思を表現するということが、

コミュニケーションの基本となります。


本当に当たり前の、

この基本をもう一度見直すことで、

今までのコミュニケーションを超えて、

新しい世界を開くことができます。


ただぼんやりと感じていること、

それが一番素直な自分自身なのですが、

その感じていることをごまかさずに

そのまま表現することが大切です。


ただ何となく感じていることは

思っている以上に、

言葉や行動に現れていて、

それに周りが反応して

環境を形作っているのですが、

自分に素直であればあるほど、

周りへも素直に伝わっていきます。


この時伝わっていることとは、

今どう感じているかということだけです。


自分がどうしたいかということや、

相手にどうして欲しいかということは、

関係ありません。


コミュニケーションというと

それらを伝えるために

行われているような気がしますが、


自分がしたいことは、

誰に気兼ねすることなく

勝手にすればよくて、

もしも今出来ないなら、

しなくていいことですし、


相手にして欲しいこととは、

まず自分がやるべきことなのです。


~したい、~して欲しいという思いは

なぜそうしたいか、なぜそうして欲しいのかという風に

掘り下げていくことができるので、

一番素直に感じていること、

素直な自分自身とは

別のものなのです。


今ここにいる自分を

どのように感じているか、

このことだけが自分で分かる

一番確かなことなので、


それを意識の中心に据えて、

素直に表現するようにしてみましょう。


それが自分の意識が届く、

この宇宙の中心になってくるのです。


例えば少しわがままだったとしても、

そのまま周りの世界をそのように感じて

それによって嫌な気持になるのが、

自分だと気づけば良いのです。


自分の感じることを

ごまかさないことの方が大切です。


自分の意識の中心に

自分の一番確かに感じることを据えて、

表現をし始めてみれば、


それ以外の不確かなことに

気を取られることは無くなっていきます。


過去に引きずられたり、

未来にさいなまれることは無くなって、


上手くいかないことも、

自分の素直さを磨く経験として、

納得して次へと進むことが出来るようになります。


宇宙の中心が自分の確かな感覚であるということは、

この宇宙で自分が感じることに言い訳は通用しなくなります。


文句の言いようも無くなります。


でも言い訳をずっと探さなくて済みますし、

文句を言わなくても済むようになります。


すっきりと過ごすようになってくると、

ものごとがすっきりと見えるようになってくるので、

自分に自信がついてきます。


間違うことが無くなってくるのではなく、

間違うことから学ぶことが素直にできるようになるので、

何かを責める必要も無くなります。


どこまでも素直な自分になることは、

全くストイックなことではありません。


僕の知る限りですが、

一番楽な生き方です。


それ以外にやるべきことが

無くなるからです。


そうしたら、

次はそれを素直に表現してみましょう。


自分の外へ出すということは、

形ある外の世界が反応し始めるのです。


新しい世界が始まるのは、

そこからです。