2015年7月31日金曜日

してはならないこと、しなくてはならないこと

社会生活を営むうえで、

ルールやマナーを守っていくことは

とても大切なことです。


こんなことを言いながら、

以前はかなり調子にのった

やんちゃな頃もあったので、

あまり偉そうなことは言えませんが、


そういった経験から学んだことで

自分の気付きに確証を持てたことを

少しお話しさせていただこうと思います。


今回タイトルとしている、

してはならないこと、と

しなくてはてはならないこと、は、

この世界には存在しません。


少し荒っぽい表現に感じるかもしれませんが、

このことをちゃんと理解できなければ、

本当の自由を生きることはできません。


実際には

したくないことと、

したいことがあるだけです。


でも、いろんな場面において、

定められた規律を守るように

促される文章を目にします。


言われなければ守れない人間は

ダメな生き物なのでしょうか。


いやいやそんなことはありません。


してはならないこと、

しなくてはならないこと、

として心に作用する力によって

内側にいろんな感情が現れてくるのですが、


それを素直に経験していくことが

魂の成長にとって

とても大切なことなのです。


それでは、

してはならないこと、と

思ってしまう状態のことを見てみましょう。


してはならないこととして

心に作用するものは

必ず自分の中にある執着を

見つけることができます。


素直に過ごしている中で

したくないことに

わざわざ興味を抱きません。


強制的に自分に禁じてしまう

その心の内側にあるものを

見ることができるのも、

優しく包み込むことができるのも、

自分だけです。


誰かが強制しているわけではないのです。


自分の魂が執着から

自由になりたいと感じているのです。


そのことを意識できれば、

力が抜くことができます。


だんだんと気にしなくなってきます。


それでは、もう一つの

しなくてはならないこと、と

思ってしまう状態を見てみましょう。


今していることを

したいことと思っている中では、

素直に歓びを経験していくのですが、

しなくてはならないことと思っている中では

いろんな感情を味わうことになります。


そこでいくら考え方を変えようとしたところで、

魂が望んで経験している感情を

素直に受け入れるまでは

その感情を味わい続けます。


そこで大切なことは

そこで経験している感情を

無理に否定したり、

無理やり肯定するための考えを持たないほうが、

魂の成長につながりやすいということです。


そしてどんな状況であっても、

その経験を魂が自ら選んでしているので、

環境や他の誰かが

強制しているわけではないということです。


素直に受け入れるまで続いてしまいますので、

環境を変えても何も変わりません。


自分が経験していることから、

逃げ出す必要がないことを理解しましょう。


自分が今その感情を経験することが

とても尊いことなのを受け入れた瞬間、

ほっとするような安心に包まれるはずです。


自分の感情の

振れ幅の範囲の中で

この世界の出来事は

展開しています。


それを外側に開いたときに

和を尊ぶことで

誰かに強制したりされたりすることのない、

真の自由を生きることができます。


そのために、

魂はすすんで経験していきます。


近道などありません。


ただ、

どんなことでも

一つ一つの経験が

かけがえのないものだということ、

それを意識することが大切だと思います。





2015年7月27日月曜日

言葉が指し示すものとその力について

日々の生活の中で

言葉に触れないで過ごすことはありません。


そのあまりにも当然にある言葉とは

一体何なのでしょうか。


空気や水などとは別で、

人が使うものとして存在していて、

時間や空間によって変わっていったりします。


そうかと思えば、

常にどこかにあって、

ものすごい影響力を持っていて、

普遍的な何かに触れることができるもの、

それが言葉です。


この文章も言葉によって

綴られていて、

伝えていくことによって

さらに深まっていく何かについて

僕ではない他の誰かが

感じ取ることのできる

目には見えない心の流れを

描くことに力を注いでいます。


音声であったり

文字であったりする言葉は

おそらく僕らが理解できる以上の

年月を経ていて、

僕らが辞書で引く意味よりも

その言葉が指し示している何かに

意識を向けることで

本来の力を発揮します。


それは例えば

言語の違う国の人と

お互いを理解しあえたりするのは

言葉の先にある何か別のものを

お互いが指し示しあうことでできることです。


もちろんそこには

言葉以外のジェスチャーなども含まれてきますが、

言葉で指し示そうとすることが

大きな要素であるのは間違いありません。


「ありがとう」という言葉も今の時代では

案外いろんなところで使える言葉になっています。


例えばその言葉を使うときに

かたちだけ口にしても

それなりに伝わりますが、


内側から湧いてくる気持ちを

言葉にしてそうなった

「ありがとう」は

意味とかそういったレベルを超えたものが

相手に伝わります。


言葉をそのように扱うとき、

その言葉が指し示すものは、

生きたエネルギーそのものになります。


生きたエネルギーであれば、

人によって表現が変わるのも当然で、

場合によっては真逆の言葉で示されたりします。


表面的な意味にとらわれずに

その奥に感じるものに意識を向けることで

腑に落ちる言葉として作用するからです。


古くから残る言葉が

力強く感じられるのは

言葉が伝えていることが

意味よりももっと

感覚的なものを描いているからです。


以前は分からなかった言葉が

その指し示しているエネルギーを

自分の中に感じ取ることができると

スッと腑に落ちるように入ってきます。


全ての人が

全ての感受性を持っています。


素直になればなるほど、

感受性は豊かに働いてくれます。


自分というフィルターを

どれだけ通さずに

言葉に接しているでしょうか。


僕もまだまだ

これからです。


2015年7月23日木曜日

循環するエネルギーと「死」について

全ての命は、

生きたエネルギーが

形をまとって現れて、

変化しては消えて、

さらに大きなエネルギーの波に

溶け込んでいきます。


それぞれのエネルギーは

お互いに影響しあって、

必要な状態を作り出しながら

大きな流れを作っています。


見かけの上では

得るものと得られるものに

分かれているように見えますが、

それぞれのエネルギーに必要な経験をするために

必要な形と必然のタイミングでの

役割を果たしあいます。


それぞれのエネルギーが作用しあって、

プラスとマイナス、

上昇と下降

左まわりと右まわり、

膨張と収縮、

そういった新しいエネルギーの波を起こして

経験を引き寄せています。


経験による意味を考えてしまいがちですが

一つの経験がもたらすエネルギーの波は

全方向に波打って影響していくことから見ると


後から考える意味に執着するより

経験そのものの尊さを味わうことで

自分の内側に見えてくるものの深さが変わってきます。


言葉にすると同じ経験であったとしても、

その経験は常に新しくて

今まで誰もしたことのないものなのですが、


確実に言えることは、


自分というものが

この世界を構成している

かけがえのない存在だということを

最もシンプルな形で気付いていけるように、

経験しているということです。


その経験から愛にふれれば、

愛に満ちたエネルギーの波が起こって、

歓びが溢れ

さらに深い愛のエネルギーにふれる経験をしていく

流れに乗ります。


逆に、

その経験の捉え方を

愛から分離していくように感じてしまうと、

流れが滞る重たいエネルギーになっていきます。


循環するエネルギーの中では

なかなか流れていかない状態になっていくと

自分の経験を認識する力だけでは

なかなか新しい気付きを

得にくくなってしまいます。


凝り固まるという状態です。


僕はこの状態を

「死」と捉えるようになりました。


それとは違って、

肉体的な生と死は

一つのセットになっていて、

愛を深く知っていくうえで

必要な経験としてみんなに起こります。


でも、花が咲いたら

必ず散ります。


散るがゆえに、

美しさが永遠になります。


形あるものが

消えていくのは寂しいですが、

だからこそ尊いのがわかります。


その奥に見えない美しさがあるのです。


その美しさは、

ずっと流れていて

僕らのまわりの世界を形作っています。


循環するエネルギーです。


「死」はそれらの中には

存在しません。


「死」は

その世界から分離させてしまう

人の思考の中に存在しているのです。


何かに執着してしまって、

流れなくなってしまったエネルギーには

肉体や時間や空間などは

意味をなしません。


そのように現れて、

そのように経験していきます。


でも、

一番大きな愛からみれば、

それも一つの大きな波です。


その経験から

生きたエネルギーの波に乗れるかどうかは、

自分の心次第です。


どんな状況であっても、

素直になることで

凝り固まった自分を

手放すことができれば、

エネルギーは流れ始めます。


少しづつでも、

手放していければ

必ず軽くなっていきます。


ゆっくりでもいいと思います。


愛はずっとずっと

僕らのまわりで

そのままであり続けています。


2015年7月13日月曜日

自分を整えることでしか見えてこないこと

今ここ、この世界が愛に満ち溢れているという言葉は

今までもたくさんの人たちに何度となく言われています。


でも、そんな風には思えないという人は多いと思います。


愛の中でなぜ争いが絶えず、

不安や恐れを味わうことになるのでしょうか。


この世界には、

神様も仏様もいないのでしょうか。


何を指針とすれば、愛に溢れている世界を

実感できるのでしょうか。


自分で確実に分かる部分から、

確かめていくしかありません。


それでは見ていきましょう。


この世界で誰でも分かる一番確かなことは

今何を感じているかです。


自分は今、

心地よいか、

なんか嫌な感じか。


このシンプルな感覚に

ごまかしがなく

素直さをもって接するなら、

その感覚を使って自分を整えることができます。


日々いろんな場面で出会う人や、

言葉、ものごとに接する中で

何かずっと気にしてしまって、

心地よく感じられない時に、


それをすぐ他人や環境、

自分の外側にあるものの責任にせずに、


落ち着いて

自分の中にある

そう感じるに至った考え方や

ものの見方をよく見ることができれば

自分の未熟さを発見することができます。


その未熟さが

心を緊張させていたので

心地よくない感覚を味わっているのです。


その心の緊張に

気づいたらひと息ついてほぐす

気付いたらひと息ついてほぐす

を繰り返しているうちに

自分の中にあった未熟さは

形をかえて

受け入れられるようになっているはずです。


自分の未熟さに気づいた時に

それをすぐに何とかする必要はありません。


認めて受け入れる以上のことをしても

それは未熟さに対して執着してしまうことになりかねません。


完全でなくていいのです。


心にある緊張をほぐすことができれば

さっきまであった未熟さを

包んでくれる大らかさが

自分の中にできてきます。


自分がまだまだだと分かるようになるだけで、

謙虚になれますし

その後の自分の行動に

必ずよい変化があらわれます。


また、整えていくなかで

何か心が温かくなるようなものに接していても、

自分の内側には逆のもの、

反発であったり、

自虐的な感覚が生まれてしまうこともあります。


そんな時も、

落ち着いてひと息ついて

未熟さからくる緊張をほぐしましょう。


素直さを取り戻せるまで

繰り返しリラックスすることを

心がけましょう。


なぜ?とか

どうして?

という問いが浮かんできても、

考えなくて大丈夫です。


そんなことよりも

大切なことに気づくチャンスだからです。


素直になれないこともありますが、

今この瞬間に素直でいることが、

この広い世界に対して

まことを貫く

ただ一つの手段です。


完全に落ち着いた状態で

素直になれた時、

そこが自分の

完全なスタート地点であるという

覚悟ができます。


その覚悟は

力んでする覚悟のような感じのものと違って、

足が地面にちゃんとついていて

落ち着きはらっているので、

その時すでに

全てを受け入れています。


何かがあるとか

何かがないとか

関係ありません。


そこにある自分が

全ての始まりです。


そこに全ての

エネルギーがあります。


神様も仏さまも

そこにいらっしゃいます。


そこは

未熟なものも

全部含むことのできる

大きな愛で満ち溢れています。


素直にそこから

自分にひらめいたことを

やっていけばいいのです。


何かのためとか

いいとか悪いとか

そんなレベルでは行動しなくていいのです。


ただひたすらに

自分を整えていこうとすることで

自分自身の愛が深まっていきます。


完全を目指しますが

完全であることが

目的ではありません。


ただ

リラックスして

素直になれるよう

自分を整えるだけです。


自分の扉を開くのは

自分にまかされた

自分の大切な役目です。


自分を整えることで

自分の扉を開くことが出来ます。



2015年7月10日金曜日

痛みを感じることについて

僕はここ最近まで、

ずっと腰痛を抱えていました。


お薬をなるべく使いたくなかった僕は、

いろんなマッサージを受けに行って、

ほぼ毎日ストレッチをして、

なるべく姿勢を整えるように心がけていました。


どんどん身体は柔らかくなっていくのですが、

ある角度に曲げたときに走る痛みは

一向に無くなりませんでした。


でも最近、

この痛みという感覚をよく見てみたところ、

心にも身体にも変化が起こりました。


では、

自分が見ていったことを記していきます。


まず、

マッサージを受けた後は痛みが和らぐことから、

筋肉の『緊張』が痛みを引き起こしていると思いました。


『緊張』している自分の身体と心はリンクしていると感じたので、

痛みを感じている心の部分を見つけてほぐすことができれば

身体の痛みも無くなると思いました。


今回は痛みに寄り添うような心持ちで

痛みを感じてみました。


そもそも痛みとは

自分だけにしか感じられないものなので、

自分にとって大切な何かであるはずです。


だいたい同じ経験から想像することで、

痛む感じを分かることはできても、

本当に痛いのは自分だけです。


近くに誰かが寄り添うことで、

痛みが和らぐような感じを

経験したことがある方もいらっしゃるかと思いますが、


それは痛みからくる不安や恐れを和らげてくれているのであって

痛みそのものは自分だけの感覚です。


今回は、

不安や恐れというものは

妄想からでき上がってくるだけ、

という部分はクリアーしていたので

痛みそのものに寄り添うことができたのです。


そして

こんな思いが湧いてきました。


誰かが変わりに感じてくれることのない

たとえ痛みのような嫌な感覚も

自分のうちに起こる大切な経験として

素直に受け入れることができるようになる

ということです。


本当に当たり前に

やっぱりできるだけ避けたいことがある

という気持ちを持っていることと、


どんな痛みであれ

その人の経験としてある痛みを

むやみに取り除くことが

必ずしも良いのではない

ということも分かりました。


あとは

この『緊張』している心を

ほぐすためにできること、

ただリラックスして受け入れるということだけです。


そう意識すると、

今までどれだけストレッチしても伸びなかった場所が

ムニョッと伸びたのです。


まだ少し朝起きたとき、

ちょっと違和感を感じるのですが、

以前のような痛みが走ることはありません。


また少し軽くなることができました。

2015年7月2日木曜日

世界と一つになるということ

この広い世界は

僕の生まれるずっとずっと前から、

とてつもなく長い時間をかけて

今ある全てを形づくってきました。


それらは完璧なバランスの上にでき上がってきました。


全てに均衡のとれた必然があることで一つづつ生まれてきます。


勝手にでき上がってからつり合いがとれていくのではありません。


常に陽と陰のバランスは完全で、

その視点から見ることで

この世界がプラスマイナス= 0 になるのです。


無限でどこまでいっても捉えることのできない神秘である所以です。


全てが生きていて

エネルギーが波うっているので、

場面場面では心地よかったりそうでなかったりします。


その時々で主に感じることと、

反対に作用している部分が常にあるのですが、

人間は完全な状態の全てを同時に見ることが出来ないので、

何かアンバランスなものの見方に偏ってしまうこともあります。


ただそんな時も、

自分の見方が有限で不完全で部分的なものであることを理解したとき、

その見えている景色を入り口にして

完全なる無限の世界に入っていくことができます。


そこには限りになる境界線はないので、

全てが完全に一つです。


自分のものなんていうちっぽけなものはありませんし

必要ありません。


全てを

拒絶することなく受け入れる

愛そのものの世界です。


ただそこは、

その入り口に誰かが立っていて

「さぁどうぞ」と手を引いてくれるわけではありません。


誰かが手を引いてくれる所は

その手を引いてくれる人の世界の入り口になるので、

そこから入っても愛そのものの世界には成り得ません。


自分からしか見ることのできない

今ここ、が入り口で、

そこから入るためには

自分で一歩を踏み出さなければならないのです。


さらに、

愛そのものの世界に

拒絶になるものを持ち込むことはできないので、

自分だけのものは

手放さなくてはなりません。


その世界に踏み込んでからも、

自分で気付いていない、

本当の意味で調和を保てる状態にないものは、

どんどん引き離されていくでしょう。


そんな中で自分の持っていた

執着に気付いて手放していくことで

愛そのものの世界は

どんどん広がっていきます。


素直になればなるほど豊かに過ごすことができるのです。


本当の意味での成長はそこからのような気がします。


この広い世界を知っていく本当の経験が始まります。