子供のころに、
今日が終わらなかったらいいのにな~って思いながら、
夕焼けを見ていた記憶があります。
幸せな時間がずっと続くような人生を思い描きました。
成長するにつれていろんな価値観にふれ、
自分に合った生き方を模索していきます。
そんな中で
心から感動するとか、悔しくてたまらなかったりするような、
衝撃的な出来事があったりすると、
その後の自分の生き方に大きな影響を与えて、
その出来事に関連する事柄を人生の中心に据えて、
そこから見える世界を自分の価値観として築いていきます。
全てが全て上手くいくなんて思っていないんですが、
ちょっとしたことから、幸せでは無いと感じる人生の側面が見え始めました。
最初はそんな経験が、
自分を大人にしていってくれると思いました。
そういう側面に立ち向かって、勝てるような気がしていました。
年月を重ねてさらに多くの価値観にふれると
自分の築いてきた人生観もなんだかぐらついてきていて、
ふとした時に気づく漠然とした不安は、
常に自分と共にあるようになっていました。
それでも元気に陽気に過ごそうとする自分を
何とか奮い立たせて幸せになろうと思っても、
世の中を見ては、
もう生きている心地もしないままで、
ずっと何かを探して常にイライラしていて、
その場その場を何とか凌いでいるだけでした。
そんな僕が今不安も無く、楽に過ごせてるんです。
僕がやったことを簡単に言うと、
今ある以上の何かを求めるのをやめただけです。
もっと幸せになりたかったり、
もっとお金持ちになりたかったり、
もっとかっこよくなりたかったり、
もっと自由になりたかったり、
もっと安心したかったりするのを、
完全に放棄しました。
今でも頭の中に、もっとこんな感じでとか、
思いとして浮かんでくることがありますが、
求めて苦しくなっていたことと、
そこから解放された軽さを知っているのに加えて、
今あることの不思議さが楽しくなっているので、
今をリラックスして味わう方がいいと思っています。
そんな今という瞬間の中には、
以前ならばちょっと敬遠していたシチュエーションもあるんですが、
大体そういう時に限って、
もっとこうだったらいいのにとか考えてしまうんですよね。
そういう時こそありのままでいられると、
もう大丈夫です。
同じようなシチュエーションでもリラックス出来るようになってます。
そうするとだんだんと世の中の見え方が変わってきました。
自分の築いてきた価値観や、求めていた幸せな感じは、
頭の中でつくられた幻想のように思えてきました。
それよりも、今感じる実際の風の感触や暖かさ、
目に飛び込んでくる色や、聞こえる音、
ちょっとふざけた思いが浮かんでくることを
そのまま楽しめる状態でいるほうが尊く感じるようになりました。
その状態はフワフワしていて安定していません。
時間や場所、一緒にいる人なんかで、
まったく変わってきます。
一度たりとも同じ時間同じ場面は無いでしょう。
それを安定させようとすると、
別の幻想の世界に入ってしまうんです。
不安定なままずっと変化するままにして、
そこにありのままの自分でいるということが、
何にも縛られない軽い感覚なのかなぁって思います。
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
社会的な問題が山積み?
一見すると僕らの周りには、
問題がたくさん山積みになっているように感じられます。
このままではいけない‼
とは思いつつも
解決するには専門的な知識が必要だったり、
まったく相反する意見の食い違いがそこにあったり、
係わり合う歴史的な背景まで見ていくととても複雑で、
ただ茫然としているだけでは、
将来が不安になってしまいます。
無視しているわけにはいかないけれど、
自分の身の回りのことで手がいっぱいなので、
とりあえず情報だけは抑えておこう!
でも、ずっとそんなことばっかり考えてたら心が持たなくなるから、
とりあえずストレス発散しよう!
そんなことしてるうちに、
また別の問題が起こって、その情報も調べておいて、
自分のやることが増えちゃったから、
誰かやってくれないかなぁ?
あ、ストレス発散しなきゃ!
前のが片付かないでまた別の問題!
またまた別の、ストレス、問題、前の、別の、、、、、、、、、、、、、、
こんな世の中で
なんで幸せそうに暮らせる人がいるんだろう?
気にする人と気にしない人の差は何なんだろう?
心が強いんだろうか?
僕が弱いんだろうか?
ちょっと待てよ。。。。。
問題だって思ってる自分の考えをよく見てみよう。
どの程度までなら、問題では無いと感じるんだろう?
何にとって不都合になるから問題になるんだろう?
誰かにとっては問題で、他の誰かには問題ではないっていうのは、
その問題の本質は何なんだろう?
解決しようとして、どうなったら解決したことになる?
解決しようとすること自体が問題を生み出している可能性は?
解決策に見えることって別の視点から見ればなんの為にもなってないんじゃ?
さらにその問題は、長い目で見たら
あくまで自然に起こるべくして起こった出来事なんじゃないだろうか?
自分本位に問題だって思い込んではいないだろうか?
誰にとっても問題ではない可能性はないだろうか?
誰に責任があるんだろう?
誰にも責任なんてない。
何が悪くて問題になってるの?
問題視してることで悪く見てるだけじゃないのかなぁ。
このままではいけない?
これは良くてこれは良くないなんて価値観を押し付けるほうが
良くないと思うなぁ。
じゃぁ、何もしなくていい?
今自分に出来ることで幸せの感覚の内に出来ることがあればやればいいかなぁ。
今を幸せに生きる事は、刹那的ではないし、
それが実は社会的にどれほど重要なことか計り知れないし、
それを続けて将来が良くなるわけだから。
問題と思われるものを一旦自分と切り離して、
良く見てみれば、
自然の流れの中のただの事象に
勝手に意味づけして、
ストーリー立てて、
問題視して、
シリアスになっている自分も
発見したのでした。
神様を信じている方は、
神様に委ねましょう。
神様とか信じない方は、
大自然の大いなる営みに委ねましょう。
必ず良くなっていきます。
問題がたくさん山積みになっているように感じられます。
このままではいけない‼
とは思いつつも
解決するには専門的な知識が必要だったり、
まったく相反する意見の食い違いがそこにあったり、
係わり合う歴史的な背景まで見ていくととても複雑で、
ただ茫然としているだけでは、
将来が不安になってしまいます。
無視しているわけにはいかないけれど、
自分の身の回りのことで手がいっぱいなので、
とりあえず情報だけは抑えておこう!
でも、ずっとそんなことばっかり考えてたら心が持たなくなるから、
とりあえずストレス発散しよう!
そんなことしてるうちに、
また別の問題が起こって、その情報も調べておいて、
自分のやることが増えちゃったから、
誰かやってくれないかなぁ?
あ、ストレス発散しなきゃ!
前のが片付かないでまた別の問題!
またまた別の、ストレス、問題、前の、別の、、、、、、、、、、、、、、
こんな世の中で
なんで幸せそうに暮らせる人がいるんだろう?
気にする人と気にしない人の差は何なんだろう?
心が強いんだろうか?
僕が弱いんだろうか?
ちょっと待てよ。。。。。
問題だって思ってる自分の考えをよく見てみよう。
どの程度までなら、問題では無いと感じるんだろう?
何にとって不都合になるから問題になるんだろう?
誰かにとっては問題で、他の誰かには問題ではないっていうのは、
その問題の本質は何なんだろう?
解決しようとして、どうなったら解決したことになる?
解決しようとすること自体が問題を生み出している可能性は?
解決策に見えることって別の視点から見ればなんの為にもなってないんじゃ?
さらにその問題は、長い目で見たら
あくまで自然に起こるべくして起こった出来事なんじゃないだろうか?
自分本位に問題だって思い込んではいないだろうか?
誰にとっても問題ではない可能性はないだろうか?
誰に責任があるんだろう?
誰にも責任なんてない。
何が悪くて問題になってるの?
問題視してることで悪く見てるだけじゃないのかなぁ。
このままではいけない?
これは良くてこれは良くないなんて価値観を押し付けるほうが
良くないと思うなぁ。
じゃぁ、何もしなくていい?
今自分に出来ることで幸せの感覚の内に出来ることがあればやればいいかなぁ。
今を幸せに生きる事は、刹那的ではないし、
それが実は社会的にどれほど重要なことか計り知れないし、
それを続けて将来が良くなるわけだから。
問題と思われるものを一旦自分と切り離して、
良く見てみれば、
自然の流れの中のただの事象に
勝手に意味づけして、
ストーリー立てて、
問題視して、
シリアスになっている自分も
発見したのでした。
神様を信じている方は、
神様に委ねましょう。
神様とか信じない方は、
大自然の大いなる営みに委ねましょう。
必ず良くなっていきます。
2015年4月28日火曜日
無我の境地?!
以前の僕は、
この世界には、
無我の境地っていうのがあって、
そうなるには心を綺麗にしていって、
嫌なことが無くなってきたら全てを超越する感じに至る、
そんなふうに思っていたので、
物事を悪いふうに考えないようにむちゃに良い意味付けしたり、
辛いことを何とか楽しいことに考えられるように頑張ってみたり、
何も感じないように必死でのめり込んでみたりして、
その時々のありのままの出来事を見ることが出来ていませんでした。
なんせ自分という人間は、
今はこうだけど成長してあんな風になりたいから
頑張らなくちゃって思っていたので、
自分が本当に感じていることさえも
よく分かっていませんでした。
ふとした時に、
自分は本当はどこに向かっているのか、
今やっていることが本当に幸せに向かっている事なのか、
ものすごく不安になることが多々ありました。
でも、
本当の自分ていうのが
言葉で説明できない感じに溢れていて、
この宇宙で一番不思議な存在なんだなぁって思い始めると、
その不思議なまんまでいる事が楽しくなり始めて、
自分はこうあるべきだっていうのがどんどん消えて、
どこに向かっててもそれはそれ、
その時感じることを味わったら直ぐに手放していって、
そうしてるうちに何をしても新鮮に感じるピュアさが出てきて、
ちょっとぐらい嫌な感じがしても気にすることなく
今ここにあることで完璧な幸せなんだなぁって思えるようになってました。
もう気づいたらその時には、
自分があるとか無いとかそんな事はどうでもよくて、
それよりも今起こってる目の前の事象に
自分が完全に溶け込んでる感じが心地よくてたまらなくなってました。
ん?これって無我の境地?
以前の僕と違う変わった事ってなんだっけ?
自分で何かを変えようとしなくなった途端に、
全部が変わりました。
今でもあるのが、
自分で変えようとしたら
なぜかしんどくなり始めるんです。
そうなった時は一回深呼吸して、
今あることだけだもんなぁって思いなおすと
楽になります。
やっぱりありのままが一番なんですね。
この世界には、
無我の境地っていうのがあって、
そうなるには心を綺麗にしていって、
嫌なことが無くなってきたら全てを超越する感じに至る、
そんなふうに思っていたので、
物事を悪いふうに考えないようにむちゃに良い意味付けしたり、
辛いことを何とか楽しいことに考えられるように頑張ってみたり、
何も感じないように必死でのめり込んでみたりして、
その時々のありのままの出来事を見ることが出来ていませんでした。
なんせ自分という人間は、
今はこうだけど成長してあんな風になりたいから
頑張らなくちゃって思っていたので、
自分が本当に感じていることさえも
よく分かっていませんでした。
ふとした時に、
自分は本当はどこに向かっているのか、
今やっていることが本当に幸せに向かっている事なのか、
ものすごく不安になることが多々ありました。
でも、
本当の自分ていうのが
言葉で説明できない感じに溢れていて、
この宇宙で一番不思議な存在なんだなぁって思い始めると、
その不思議なまんまでいる事が楽しくなり始めて、
自分はこうあるべきだっていうのがどんどん消えて、
どこに向かっててもそれはそれ、
その時感じることを味わったら直ぐに手放していって、
そうしてるうちに何をしても新鮮に感じるピュアさが出てきて、
ちょっとぐらい嫌な感じがしても気にすることなく
今ここにあることで完璧な幸せなんだなぁって思えるようになってました。
もう気づいたらその時には、
自分があるとか無いとかそんな事はどうでもよくて、
それよりも今起こってる目の前の事象に
自分が完全に溶け込んでる感じが心地よくてたまらなくなってました。
ん?これって無我の境地?
以前の僕と違う変わった事ってなんだっけ?
自分で何かを変えようとしなくなった途端に、
全部が変わりました。
今でもあるのが、
自分で変えようとしたら
なぜかしんどくなり始めるんです。
そうなった時は一回深呼吸して、
今あることだけだもんなぁって思いなおすと
楽になります。
やっぱりありのままが一番なんですね。
2015年4月27日月曜日
あるがまま
今ある事を、
あるがままにしておくのが
なんで出来なかったんだろう?って思います。
今ここで起こっていること、
それ以外の今が有り得ないという単純なことが、
見えなくなってしまう程、
頭で考えていたんだなぁって思います。
考えるのをやめた瞬間に、
考えていた以上の幸せが、
ここにあることに気づきます。
何もしないで放っておくことが一番ちょうどいい状態に落ち着くんです。
無理して求めることが
自然である状態に歪みを与えてしまうんですね。
将来、幸せになるなんてことはありません。
今ある事が幸せであることに気づくだけでいいんです。
そう思えない状況にいる人も、中にはいるでしょう。
でも、そう思えない理由には、何の確証も無いこと、
もっと今と違う幸せがあるというのは思い込みでしかないということを
本当は分かっているんです。
でも、今よりもっと幸せになりたくて
今までずっと我慢して頑張ってきたっていう思いが
簡単には手放せないんです。
今すぐ、手放せます。
ちょっとだけ勇気がいりますが、
手放してしまえば、軽くなります。
あるがままの世界は、
何も特別なものなど必要としていません。
本当に居たいまんまの自分で居られるんです。
そのあるがままの世界は、
今ここにあるんです。
あるがままにしておくのが
なんで出来なかったんだろう?って思います。
今ここで起こっていること、
それ以外の今が有り得ないという単純なことが、
見えなくなってしまう程、
頭で考えていたんだなぁって思います。
考えるのをやめた瞬間に、
考えていた以上の幸せが、
ここにあることに気づきます。
何もしないで放っておくことが一番ちょうどいい状態に落ち着くんです。
無理して求めることが
自然である状態に歪みを与えてしまうんですね。
将来、幸せになるなんてことはありません。
今ある事が幸せであることに気づくだけでいいんです。
そう思えない状況にいる人も、中にはいるでしょう。
でも、そう思えない理由には、何の確証も無いこと、
もっと今と違う幸せがあるというのは思い込みでしかないということを
本当は分かっているんです。
でも、今よりもっと幸せになりたくて
今までずっと我慢して頑張ってきたっていう思いが
簡単には手放せないんです。
今すぐ、手放せます。
ちょっとだけ勇気がいりますが、
手放してしまえば、軽くなります。
あるがままの世界は、
何も特別なものなど必要としていません。
本当に居たいまんまの自分で居られるんです。
そのあるがままの世界は、
今ここにあるんです。
2015年4月24日金曜日
虚構の中で
ずっともがいていた僕は、
ずっと感じている苦しさから解放されるためにはどうすればいいか、
何かヒントになるものを探してまわっていました。
少しでもその状況を変えられると感じたら、何でも試してみました。
ピュアな自分と色々考え込んでしまう自分との、
差は何なのか、
優しい自分と怒りがこみ上げてくる自分は?
大らかな自分といちいち気にする自分は?
そういった疑問が頭の中で、行ったり来たりする日々です。
僕は限りなく、悩んでいる自分を隠していました。
表に出したくなかったのもありますし、出せなかったですね。
そういった自分の未熟さから、多くの方々に迷惑をかけてしまいました。
またその迷惑をかけてしまったという思いが、
更に重くのしかかっていました。
いつ僕は解放されるんだろう?
何が原因でこんなに苦しいんだろう?
死んでも何も変わらないとしたら?
もう何にも縋る事ができなくなった僕は、本気で諦めたのです。
今ここにあることだけ、それだけで、いいや。
それだけ。。。。。。
それだけ?
今ここにあることだけ、でいいかも?
良く見てなかったけど、今ここにあることだけ、しかないかも!?
大きすぎて全体が見えないんだけど、
今ここにあることってすごくない?
あれ?気にしているって、何を?
こみ上げるって、関係無いのに、なんで?
考え込むって、答えなんて必要無いのに、どうして?
変える?何を何に?
ずっと今まで基準にしていたはずのものは、今ここには無かったんです。
無いものを基準にして、良く成り立っているように思ってたもんです。
そう言えば、なぜか辻褄が合わないところを、
無理にこういうものなのだろうと、
言い聞かせていたところってあったんですけど、
変だと思ってたのにそう信じてしまっていた自分。
信じようとすることで、ずっと力みっぱなしでした。
力が抜けた状態で見てみると、
基準にできるような、ずっと一定のものなどどこにもなくて、
絶えず変化していて、とてつもなく大きいのはわかるけど全部は見えなくて、
いつも新しくて、平安で、シンプルな
今この瞬間。
どこの誰にも等しく、
どんな過去を経験していたとしても、
どんな夢に向かって歩んでいたとしても、
どんな環境を与えられていたとしても、
笑っていても、
泣いていても、
怒っていても、
真剣でも、
ふざけていても、
何かを信じていてもいなくても、
分かっていてもいなくても、
今この瞬間は、
今ここで起こり、終わり、次の瞬間へ変わっていきます。
全部です。
全部どんどん終わって、次へ進みます。
でも、全部ゆっくりと形を変えていく状態の変化として進んでいきます。
区切りできる基準は、人が勝手に決めた虚構としてしかありません。
昨日が今日に、今日が明日になるのではなくて、
今がどんどん進んでいるだけです。
まさに今、やっていることが、完璧な全てです。
そのままです。
次の瞬間も、そのままでいくのがベストなのではないでしょうか。
ずっと感じている苦しさから解放されるためにはどうすればいいか、
何かヒントになるものを探してまわっていました。
少しでもその状況を変えられると感じたら、何でも試してみました。
ピュアな自分と色々考え込んでしまう自分との、
差は何なのか、
優しい自分と怒りがこみ上げてくる自分は?
大らかな自分といちいち気にする自分は?
そういった疑問が頭の中で、行ったり来たりする日々です。
僕は限りなく、悩んでいる自分を隠していました。
表に出したくなかったのもありますし、出せなかったですね。
そういった自分の未熟さから、多くの方々に迷惑をかけてしまいました。
またその迷惑をかけてしまったという思いが、
更に重くのしかかっていました。
いつ僕は解放されるんだろう?
何が原因でこんなに苦しいんだろう?
死んでも何も変わらないとしたら?
もう何にも縋る事ができなくなった僕は、本気で諦めたのです。
今ここにあることだけ、それだけで、いいや。
それだけ。。。。。。
それだけ?
今ここにあることだけ、でいいかも?
良く見てなかったけど、今ここにあることだけ、しかないかも!?
大きすぎて全体が見えないんだけど、
今ここにあることってすごくない?
あれ?気にしているって、何を?
こみ上げるって、関係無いのに、なんで?
考え込むって、答えなんて必要無いのに、どうして?
変える?何を何に?
ずっと今まで基準にしていたはずのものは、今ここには無かったんです。
無いものを基準にして、良く成り立っているように思ってたもんです。
そう言えば、なぜか辻褄が合わないところを、
無理にこういうものなのだろうと、
言い聞かせていたところってあったんですけど、
変だと思ってたのにそう信じてしまっていた自分。
信じようとすることで、ずっと力みっぱなしでした。
力が抜けた状態で見てみると、
基準にできるような、ずっと一定のものなどどこにもなくて、
絶えず変化していて、とてつもなく大きいのはわかるけど全部は見えなくて、
いつも新しくて、平安で、シンプルな
今この瞬間。
どこの誰にも等しく、
どんな過去を経験していたとしても、
どんな夢に向かって歩んでいたとしても、
どんな環境を与えられていたとしても、
笑っていても、
泣いていても、
怒っていても、
真剣でも、
ふざけていても、
何かを信じていてもいなくても、
分かっていてもいなくても、
今この瞬間は、
今ここで起こり、終わり、次の瞬間へ変わっていきます。
全部です。
全部どんどん終わって、次へ進みます。
でも、全部ゆっくりと形を変えていく状態の変化として進んでいきます。
区切りできる基準は、人が勝手に決めた虚構としてしかありません。
昨日が今日に、今日が明日になるのではなくて、
今がどんどん進んでいるだけです。
まさに今、やっていることが、完璧な全てです。
そのままです。
次の瞬間も、そのままでいくのがベストなのではないでしょうか。
2015年4月21日火曜日
何も問題なんか起きない。
安心していて大丈夫。
今までも、多くの人がこのメッセージを様々な形で残してくれているんですけど、
ここで改めて僕が記すのには、多分二つの理由があるんじゃないかなぁ。
ひとつは、この捉えることの出来ないただ在るという感じを
文章化することで、何とかして自分で認識しようとしていること。
ふたつめは、必要なところに必要な形で届いていくという
文字どおりメッセージとして。
このメッセージは、ほんとにシンプルで、
受け取ることの出来る人にちゃんと届いている。
大丈夫という言葉を信じたりする必要はなくて、
もう全部が大丈夫な宇宙空間に存在しているということなんです。
考えてみて下さい。
今まで何か一つでも大丈夫で無かったら、今は存在しているでしょうか?
あんな事や、こんな事があって、大変だったかもしれません。
でも、その経験以外はしていないし、出来なかったんです。
避けることが出来たかもしれない経験、なんていうのは、
万が一にもありません。
大変だったかもしれないけれど、大変で良かったんです。
二度としたくない経験とか、ありますけど、
それが実際に起こり、経験したことで、
今が実際あるのは一番確かなことなんです。
その経験や、今あることも真っ直ぐに受け止める余裕が無かったりすることがあります。
時間が必要と感じるかもしれませんが、そうではありません。
その経験こそ、ちょっとだけ勇気をだして寄り添ってみて下さい。
何が起こっていようと、理解しようとするのではなくて、
一つの、個性溢れる感じ方を持って、
今その場面で生きている事を感じられる、その瞬間にリラックスして
全てを預けてみて下さい。
何か大変な問題が起こっているのではないんです。
経験した事のない変化が起こっています。
理解しようとする思いが起こっています。
感情の高ぶりが起こっています。
体の反射が起こっています。
これらの変化に対する反応は、素直であればあるほど、
順応しやすいものになって出てきますし、
素直になれない、何かブロックが深ければ、
反発する形で出てきます。
リラックス出来ていればここで、ブロックしている何かを見つけることも出来るんです。
何か大変な問題が起こるのではなくて、
起こるべくして起こる自然現象に対して、反発してしまう時、
それを無理に退けたりする場合に問題化しているように見えるんです。
とにかくリラックスして、変化して行くさまを、感じてみましょう。
変化していくものも、全部で一つの完璧にバランスの取れた
今この瞬間の中に、ずっと現れている
意識の一部だということが分かるはずです。
僕ら一人一人が、切り離された個人として感じてしまう不完全さからは、
完全なものなんて理解できるわけがありません。
でも、実はその一部分として、個性を発揮して生きているんです。
大丈夫じゃないなんてことは、有り得ないんです。
リラックスして委ねた方が、うまくいくことって、
そういうことなんです。
今までも、多くの人がこのメッセージを様々な形で残してくれているんですけど、
ここで改めて僕が記すのには、多分二つの理由があるんじゃないかなぁ。
ひとつは、この捉えることの出来ないただ在るという感じを
文章化することで、何とかして自分で認識しようとしていること。
ふたつめは、必要なところに必要な形で届いていくという
文字どおりメッセージとして。
このメッセージは、ほんとにシンプルで、
受け取ることの出来る人にちゃんと届いている。
大丈夫という言葉を信じたりする必要はなくて、
もう全部が大丈夫な宇宙空間に存在しているということなんです。
考えてみて下さい。
今まで何か一つでも大丈夫で無かったら、今は存在しているでしょうか?
あんな事や、こんな事があって、大変だったかもしれません。
でも、その経験以外はしていないし、出来なかったんです。
避けることが出来たかもしれない経験、なんていうのは、
万が一にもありません。
大変だったかもしれないけれど、大変で良かったんです。
二度としたくない経験とか、ありますけど、
それが実際に起こり、経験したことで、
今が実際あるのは一番確かなことなんです。
その経験や、今あることも真っ直ぐに受け止める余裕が無かったりすることがあります。
時間が必要と感じるかもしれませんが、そうではありません。
その経験こそ、ちょっとだけ勇気をだして寄り添ってみて下さい。
何が起こっていようと、理解しようとするのではなくて、
一つの、個性溢れる感じ方を持って、
今その場面で生きている事を感じられる、その瞬間にリラックスして
全てを預けてみて下さい。
何か大変な問題が起こっているのではないんです。
経験した事のない変化が起こっています。
理解しようとする思いが起こっています。
感情の高ぶりが起こっています。
体の反射が起こっています。
これらの変化に対する反応は、素直であればあるほど、
順応しやすいものになって出てきますし、
素直になれない、何かブロックが深ければ、
反発する形で出てきます。
リラックス出来ていればここで、ブロックしている何かを見つけることも出来るんです。
何か大変な問題が起こるのではなくて、
起こるべくして起こる自然現象に対して、反発してしまう時、
それを無理に退けたりする場合に問題化しているように見えるんです。
とにかくリラックスして、変化して行くさまを、感じてみましょう。
変化していくものも、全部で一つの完璧にバランスの取れた
今この瞬間の中に、ずっと現れている
意識の一部だということが分かるはずです。
僕ら一人一人が、切り離された個人として感じてしまう不完全さからは、
完全なものなんて理解できるわけがありません。
でも、実はその一部分として、個性を発揮して生きているんです。
大丈夫じゃないなんてことは、有り得ないんです。
リラックスして委ねた方が、うまくいくことって、
そういうことなんです。
自分の幸せな時間?
僕らは、この一つの宇宙で
嬉しいとき、腹の立つとき、哀しいとき、楽しいときを
さまざまな出来事を通して経験しています。
その中でも
嬉しい、楽しい、という感覚は、出来るだけ長く味わっていたいって
そう思うことがあったんですけど、
もうやめました。
喜怒哀楽のどれかが良くてどれかが悪いなんてことはなくて、
どれも生きている感情なんですよね。
それは分かってるんですけど、ちょっとした嬉しい出来事を
もうちょっと味わいたくて、記憶を呼び起こしては、
「あ~、良かったな~。」 なんてやっていると
どんどん今この瞬間から意識が離れていってしまうんですよね。
そうやって記憶を呼び起こしてまで、感覚を味わうという状態は、
ちょっとだけだったとしても、自分のエゴが関係しているんです。
エゴは好きな経験を選り好みして、味わおうとしてしまいます。
これは良くてあれは嫌、という気持ちが出来てくるんですね。
それはすでにこの宇宙を、こまかく分けようとする行為でなので、無理が出てきます。
この宇宙は自分を含めた全部が一つの状態で、完璧に成り立っているので、
そのどれかを否定しようとすることは、自分を否定することと同じなんですよね。
それに、今からは幸せでさっきまでのは違うなんて、よく考えたら変ですよね。
ずっと続いている瞬間、空間の中で連続した変化が起こっているだけなんですよね。
そう考えると、自分の幸せな時間て、そんな狭い考え方は、
無くてもいいかなぁ、なんて思いませんか?
現実に起こる嬉しい経験、楽しい経験は、どんどん過ぎ去っていくものなんですよね。
哀しい経験、腹の立つ経験も同じです。
本当に心の底から味わうことのできる経験は、
今という瞬間の中にしか無いんですよね。
いい経験をしていきたいなぁって、思うようになりました。
リラックスして今を味わって、過ぎ去っていくままにすることが
ほんとに軽~くなっていく幸せだと思います。
嬉しいとき、腹の立つとき、哀しいとき、楽しいときを
さまざまな出来事を通して経験しています。
その中でも
嬉しい、楽しい、という感覚は、出来るだけ長く味わっていたいって
そう思うことがあったんですけど、
もうやめました。
喜怒哀楽のどれかが良くてどれかが悪いなんてことはなくて、
どれも生きている感情なんですよね。
それは分かってるんですけど、ちょっとした嬉しい出来事を
もうちょっと味わいたくて、記憶を呼び起こしては、
「あ~、良かったな~。」 なんてやっていると
どんどん今この瞬間から意識が離れていってしまうんですよね。
そうやって記憶を呼び起こしてまで、感覚を味わうという状態は、
ちょっとだけだったとしても、自分のエゴが関係しているんです。
エゴは好きな経験を選り好みして、味わおうとしてしまいます。
これは良くてあれは嫌、という気持ちが出来てくるんですね。
それはすでにこの宇宙を、こまかく分けようとする行為でなので、無理が出てきます。
この宇宙は自分を含めた全部が一つの状態で、完璧に成り立っているので、
そのどれかを否定しようとすることは、自分を否定することと同じなんですよね。
それに、今からは幸せでさっきまでのは違うなんて、よく考えたら変ですよね。
ずっと続いている瞬間、空間の中で連続した変化が起こっているだけなんですよね。
そう考えると、自分の幸せな時間て、そんな狭い考え方は、
無くてもいいかなぁ、なんて思いませんか?
現実に起こる嬉しい経験、楽しい経験は、どんどん過ぎ去っていくものなんですよね。
哀しい経験、腹の立つ経験も同じです。
本当に心の底から味わうことのできる経験は、
今という瞬間の中にしか無いんですよね。
いい経験をしていきたいなぁって、思うようになりました。
リラックスして今を味わって、過ぎ去っていくままにすることが
ほんとに軽~くなっていく幸せだと思います。
2015年4月17日金曜日
溶けていく感覚
水の中にインクが落ちると、
溶けてだんだんと色が薄くなって最後は見えなくなってしまいます。
今の僕は、そんなふうな感じです。
でも、もともとその水の一部として存在してる感覚があるので、
安心しています。
今この瞬間から離れて個別に存在するものなんてないという感覚です。
どこにいても、どんな状況でも、人も、動物も、木も、水も、石も、空も、
同じ今この瞬間を一緒に経験しているんです。
誰のものでもありません。
今というのは、絶えず変化していて、
同時に 多くの物事が生まれては、消えていっています。
そして、それぞれの人の
目に映る世界も、頭の中の空想も、含んだ状態で進みます。
でも、瞬間としては同じものの中です。
その中にいて、全て 初めての瞬間ばかりです。
この世にいる全ての存在にとって、ずっと初めての今があり続けています。
見るものも、聞く音も、感じることも、考えることも、
似てる事があるかもしれないけれど、
初めての今の中で、初めて経験していることばかりです。
過去に囚われている間に、過ぎていきます。
未来を予想している間に、見逃してしまいます。
でも大丈夫です。
どこにいても、何をしていても、気が付いていても、いなくても、
ずっと今という瞬間はありつづけます。
リラックスして初めての瞬間を味わってみましょう。
何にも囚われることなく、ずっと初めての状態を楽しんでみましょう。
小さな変化かもしれません。
はたまた、意外と大きいかもしれません。
この広い宇宙が一斉に、初めての今をみんなで一緒に体験しています。
初めてのことですから、いいも悪いもありません。
ちょっとぎこちなさを感じるかもしれません。
けっこう好きな感じかもしれません。
ずっと、初めての今はこれからもあり続けるので、
慣れるまでやりつづけてもいいし、
また気が向いた時でもいいですね。
溶けてだんだんと色が薄くなって最後は見えなくなってしまいます。
今の僕は、そんなふうな感じです。
でも、もともとその水の一部として存在してる感覚があるので、
安心しています。
今この瞬間から離れて個別に存在するものなんてないという感覚です。
どこにいても、どんな状況でも、人も、動物も、木も、水も、石も、空も、
同じ今この瞬間を一緒に経験しているんです。
誰のものでもありません。
今というのは、絶えず変化していて、
同時に 多くの物事が生まれては、消えていっています。
そして、それぞれの人の
目に映る世界も、頭の中の空想も、含んだ状態で進みます。
でも、瞬間としては同じものの中です。
その中にいて、全て 初めての瞬間ばかりです。
この世にいる全ての存在にとって、ずっと初めての今があり続けています。
見るものも、聞く音も、感じることも、考えることも、
似てる事があるかもしれないけれど、
初めての今の中で、初めて経験していることばかりです。
過去に囚われている間に、過ぎていきます。
未来を予想している間に、見逃してしまいます。
でも大丈夫です。
どこにいても、何をしていても、気が付いていても、いなくても、
ずっと今という瞬間はありつづけます。
リラックスして初めての瞬間を味わってみましょう。
何にも囚われることなく、ずっと初めての状態を楽しんでみましょう。
小さな変化かもしれません。
はたまた、意外と大きいかもしれません。
この広い宇宙が一斉に、初めての今をみんなで一緒に体験しています。
初めてのことですから、いいも悪いもありません。
ちょっとぎこちなさを感じるかもしれません。
けっこう好きな感じかもしれません。
ずっと、初めての今はこれからもあり続けるので、
慣れるまでやりつづけてもいいし、
また気が向いた時でもいいですね。
2015年4月16日木曜日
今ここにいるだけで 。。。。。
もう何も心配することはない 。。。。。
ほんとに、そんな事ってあるのかなぁ。
漠然とした不安が頭のどこかにずっとあって、
楽しい時間はあっという間に過ぎて、
もっと幸せな生活を送るには、どうしたらいいのか、
すごく意識しているわけでは無いけど、ずっとそんな思いがある。
そんなことでは、何をしていても、心から幸せを感じるなんて無理。
いろんな人たちが言っているメッセージは、なんだかどれも遠くで鳴ってるだけで、
一度響いたとしても、また離れて行ってしまう。
何で手元に残らないんだろう?
実感できる何かが欲しい!
これはもう全てを超越するしかない!って思ったんです。
で、調べてみると、
意外と多くの人が、悟っちゃってるんですね。
悟っちゃってるっていう表現自体がおかしいのは、置いといて、
みなさんそれぞれの表現で、個別に存在する私はいないということを
説明しているんです。
空です。
で、みなさん現代の方なので、現代社会にマッチした表現をしてらっしゃるんです。
そんな中で、アメリカのジョーイ ロットという方の言い回しや、
ジョーン トリフソンという方の話しに、興味が惹かれました。
どちらの方も、ヒロさんという翻訳家の方の記事で知ったのですが、
今あることをあるがまま受け入れること、それだけでいいと言うのです。
こちらにしてみれば、それが出来なくて困っているのに、
これ以上どうすればいいんだ?!
そう思いながらも、どこかで理解している自分がいます。
ちょっとだけブッダ好きな僕は、彼らの言っていることが、
般若心経と同じなのが分かります。
ただ、ポイントがあって、
なんとなくいい感じで過ごせてる時は、受け入れることは容易いけど、
居心地の悪い時も、同じようにリラックスして受け入れる事ができるかどうか、
その時に、自分の体の反応や、感情の流れを意識できるか、
それこそ今を経験することに他ならないということなんですね。
よし!やってみよう!
ということでやってみると、どれだけ自分がこっちは良くて、あっちはダメとか、
これは好きだけど、あれは嫌いとか、めちゃくちゃ判断している事に気づきます。
生理的に合わないとか、こじつけてるものが結構あるんです。
最初のうちは、
そうやって選り好みしながら記憶していくことで
結局自分が、幸せと幸せでないものを作り出して、
目の前で展開する今を見ずに、
思い込みの世界で過ごしている事に気づき始めます。
へぇ~っ! 全然現実を見れてないじゃないですか!
って思ってる内に、そうやりながら生きてきたその時々を
その意識していないと思っていた風景や
空間の広さや温かささえも
実はちゃんと意識してしていた自分が居たことを思い出しました。
頭で考えていた事とは別に、ただじっと物事が移り変わっていくのを
見ていただけ、聞いていただけ、感じていただけの自分が居たんです。
それを思い出すと、その自分のいた場所は、今ここに繋がっていて、
その時々の何ものにも左右されることのなかった全てを受け入れ続けていた
意識そのものの中だったのが分かったんです。
時間もなくて、ただ温かくて、ずっと生きていた。
もう、何も心配することはないんだ。
ほんとにあったんだ。
これだけでいいんだ。
何もいらないんだ。
これは全部と完全に一つだからこそ、超越するなんてことは有り得ない。
何とも関係ない。
子供だろうと、
大人だろうと、
分かろうと、分かるまいと、
ずっとある。
だから、安心できるんだ。
ほんとに、そんな事ってあるのかなぁ。
漠然とした不安が頭のどこかにずっとあって、
楽しい時間はあっという間に過ぎて、
もっと幸せな生活を送るには、どうしたらいいのか、
すごく意識しているわけでは無いけど、ずっとそんな思いがある。
そんなことでは、何をしていても、心から幸せを感じるなんて無理。
いろんな人たちが言っているメッセージは、なんだかどれも遠くで鳴ってるだけで、
一度響いたとしても、また離れて行ってしまう。
何で手元に残らないんだろう?
実感できる何かが欲しい!
これはもう全てを超越するしかない!って思ったんです。
で、調べてみると、
意外と多くの人が、悟っちゃってるんですね。
悟っちゃってるっていう表現自体がおかしいのは、置いといて、
みなさんそれぞれの表現で、個別に存在する私はいないということを
説明しているんです。
空です。
で、みなさん現代の方なので、現代社会にマッチした表現をしてらっしゃるんです。
そんな中で、アメリカのジョーイ ロットという方の言い回しや、
ジョーン トリフソンという方の話しに、興味が惹かれました。
どちらの方も、ヒロさんという翻訳家の方の記事で知ったのですが、
今あることをあるがまま受け入れること、それだけでいいと言うのです。
こちらにしてみれば、それが出来なくて困っているのに、
これ以上どうすればいいんだ?!
そう思いながらも、どこかで理解している自分がいます。
ちょっとだけブッダ好きな僕は、彼らの言っていることが、
般若心経と同じなのが分かります。
ただ、ポイントがあって、
なんとなくいい感じで過ごせてる時は、受け入れることは容易いけど、
居心地の悪い時も、同じようにリラックスして受け入れる事ができるかどうか、
その時に、自分の体の反応や、感情の流れを意識できるか、
それこそ今を経験することに他ならないということなんですね。
よし!やってみよう!
ということでやってみると、どれだけ自分がこっちは良くて、あっちはダメとか、
これは好きだけど、あれは嫌いとか、めちゃくちゃ判断している事に気づきます。
生理的に合わないとか、こじつけてるものが結構あるんです。
最初のうちは、
そうやって選り好みしながら記憶していくことで
結局自分が、幸せと幸せでないものを作り出して、
目の前で展開する今を見ずに、
思い込みの世界で過ごしている事に気づき始めます。
へぇ~っ! 全然現実を見れてないじゃないですか!
って思ってる内に、そうやりながら生きてきたその時々を
その意識していないと思っていた風景や
空間の広さや温かささえも
実はちゃんと意識してしていた自分が居たことを思い出しました。
頭で考えていた事とは別に、ただじっと物事が移り変わっていくのを
見ていただけ、聞いていただけ、感じていただけの自分が居たんです。
それを思い出すと、その自分のいた場所は、今ここに繋がっていて、
その時々の何ものにも左右されることのなかった全てを受け入れ続けていた
意識そのものの中だったのが分かったんです。
時間もなくて、ただ温かくて、ずっと生きていた。
もう、何も心配することはないんだ。
ほんとにあったんだ。
これだけでいいんだ。
何もいらないんだ。
これは全部と完全に一つだからこそ、超越するなんてことは有り得ない。
何とも関係ない。
子供だろうと、
大人だろうと、
分かろうと、分かるまいと、
ずっとある。
だから、安心できるんだ。
2015年4月14日火曜日
シンクロする事象と「僕」という人生劇場の終わり。
確かに変化は起こりました。
悩まなくなってるし、不安もないので、物事に柔軟に対応する事が出来ています。
でも、以前と変わらない生活で、
なんだか苦手な事象はまだ起こるし、
イラっとすることもあるんです。
ただ、その時にそれだけで終わるようになりました。
何とかして苦手な事象を味わうことのないよう
頭の中で準備をしたり、
意味があることとして認識しようとすることに興味がなくなりました。
今起こって、変化して、無くなっていく一連の自然な流れを感じていると、
すごく安心したまま、「あぁ~、イラっとしたりもするよなぁ~」で終わるようになったんです。
以前は、イラっとしないように頑張って違うことを考えてみたり、
何でそうなったのか、そうならないようにする努力が足りなかった場面はいつだったか、
そうなってしまった事から学べる事は何なのか、
延々と頭の中で、ストーリーが組み立てられて、
次からはこんなことのないように!って、祈ったりもしてました。
そんな風にしてずっと生きていると、次から次へ、事象が繋がっていきます。
またその繋がりにも意味を持たせて、
こんなことやあんなことを学べている道と考えるようになってしまっていました。
これが続けば、物凄い意味のある人生になるはずです。
ん?何かおかしい?
確かにシンクロするかのように見える事象は、起こります。
でも、今この広い世界でいっぺんに物凄い数の事象が起こっていて、
自分の意識が向いてるところだけの事象を取り上げて、
そういう事象に、考えてわかる程度の意味を与える事に、意味が無いと気づいたんです。
3月19日の朝、仕事に向かう途中、いつもの如く頭の中で考え続ける僕に、
「ずっと今まで僕の頭の中で、いったい誰と誰が会話をしてるんだ?」
という疑問が湧いてきました。
ちょっとだけでいいから黙ってみようと深呼吸をしてみると、
道ゆく車の音とか、通学する子供たちの声とか、雀の鳴き声とか、飛行機の音とか、
いろんな音がいっぺんに鳴っていた事に気づきました。
今まで全然聞いてなかったけど、ずっと鳴ってたんです。
そう言えば、何をしてようが関係なくずっと現実ってここにあるよなぁ~。
なんだか僕が色々と考え続けていた事が、
バカバカしく感じた まさにその時です。
曲がり角にある一軒家の駐車場から出てきたおじいさんが、
「ふぅ~、重かったねぇ~。」って、
凄いシンクロのようですが、ただのおじいさんの独り言です。
その時、物心ついた時からずっと作り上げてきた、
あんな風になりたい僕や、
こんな風になってしまった僕、
そんな風にだけはなりたくない僕について、
それ以来考えなくなりました。
それから徐々に軽くなっていくんですが、
現実って面白いですよね。
悩まなくなってるし、不安もないので、物事に柔軟に対応する事が出来ています。
でも、以前と変わらない生活で、
なんだか苦手な事象はまだ起こるし、
イラっとすることもあるんです。
ただ、その時にそれだけで終わるようになりました。
何とかして苦手な事象を味わうことのないよう
頭の中で準備をしたり、
意味があることとして認識しようとすることに興味がなくなりました。
今起こって、変化して、無くなっていく一連の自然な流れを感じていると、
すごく安心したまま、「あぁ~、イラっとしたりもするよなぁ~」で終わるようになったんです。
以前は、イラっとしないように頑張って違うことを考えてみたり、
何でそうなったのか、そうならないようにする努力が足りなかった場面はいつだったか、
そうなってしまった事から学べる事は何なのか、
延々と頭の中で、ストーリーが組み立てられて、
次からはこんなことのないように!って、祈ったりもしてました。
そんな風にしてずっと生きていると、次から次へ、事象が繋がっていきます。
またその繋がりにも意味を持たせて、
こんなことやあんなことを学べている道と考えるようになってしまっていました。
これが続けば、物凄い意味のある人生になるはずです。
ん?何かおかしい?
確かにシンクロするかのように見える事象は、起こります。
でも、今この広い世界でいっぺんに物凄い数の事象が起こっていて、
自分の意識が向いてるところだけの事象を取り上げて、
そういう事象に、考えてわかる程度の意味を与える事に、意味が無いと気づいたんです。
3月19日の朝、仕事に向かう途中、いつもの如く頭の中で考え続ける僕に、
「ずっと今まで僕の頭の中で、いったい誰と誰が会話をしてるんだ?」
という疑問が湧いてきました。
ちょっとだけでいいから黙ってみようと深呼吸をしてみると、
道ゆく車の音とか、通学する子供たちの声とか、雀の鳴き声とか、飛行機の音とか、
いろんな音がいっぺんに鳴っていた事に気づきました。
今まで全然聞いてなかったけど、ずっと鳴ってたんです。
そう言えば、何をしてようが関係なくずっと現実ってここにあるよなぁ~。
なんだか僕が色々と考え続けていた事が、
バカバカしく感じた まさにその時です。
曲がり角にある一軒家の駐車場から出てきたおじいさんが、
「ふぅ~、重かったねぇ~。」って、
凄いシンクロのようですが、ただのおじいさんの独り言です。
その時、物心ついた時からずっと作り上げてきた、
あんな風になりたい僕や、
こんな風になってしまった僕、
そんな風にだけはなりたくない僕について、
それ以来考えなくなりました。
それから徐々に軽くなっていくんですが、
現実って面白いですよね。
2015年4月13日月曜日
初めまして。
このブログを読んでくださる皆さん、初めまして。
みつわね と申します。
これから僕が綴っていくこのブログが、どれだけの人に届くかは分かりませんが、
今自分が体験している日々の出来事が、きっと誰かの役に立つ様な気がしています。
よろしくお願いします。
さて、僕が取り上げるテーマは、
完全に解放された、今を幸せに生きることです。
なんだかすごそうな感じの言葉になってしまいましたが、
僕が今、ここにいる事が本当の幸せで、これ以外有り得ないことを理解するのに、
何か特別な事など何もしませんでした。
劇的な変化なども必要ありませんでした。
ただ、なんとなくあり続けていた不安や、ずっとずっと無くならなかった悩み事が、
3月19日を境に、なにをあれ程考えていたのかよく思い出せないぐらいになって
今、ここにいます。
先に、答えを言います。
ただただリラックスして、今を生きているということを味わうだけ。
言葉で説明すると、たったそれだけ、それだけを真剣にやりました。
でも、以前の僕は、本当にリラックス出来ていた時間なんてほとんど無くて、
さっきのことや、昨日のこと、去年のことや、3年前のこと、
明日のことや、次の週末や、半年先のことなんかをずっと頭のどこかで考えていて、
本当の意味では今を生きていなかったんですよ。
過去や、未来について考える事が、決して悪いことではないんですが、
今、ここにいるということを忘れて過去や未来を見てしまうと、
解決しそうもない問題が出来上がってしまうんですよね。
今がどんな状況でもリラックスして深く感じてみたことって、ありますか?
体の中で感じる変化を本当に味わうその前に、嫌がって、遠ざけようとしたりしてしまうと、
その出来事は、自分にとって、遠ざけなければならない、嫌な問題になっていくんですよね。
少し勇気を持って、深く深呼吸をして、浮かんでくる感情に受け答えしないで、
言葉が頭の中でペラペラしゃべりだすのを、少しだけ待ってもらって、
その場所にしか、今いることのできる場所がない事を、力まずに理解すれば、
問題だと思っていたことは、ただの思い込みでしかないことになります。
どこにも、
問題なんて起こってないんです。
今までも、そして、これからも。
今ここで、この文章を書いている事実。
今ここで、この文章を読んでいる事実。
それが、証拠。
次回からは、もうちょっとちゃんと事細かに、何をどう経験しながら、そうなったのか、
他にも、いろんな事から検証出来ることとして書いていきます。
たまには余談も挟むかもしれませんが、
よろしくお願いします。
みつわね と申します。
これから僕が綴っていくこのブログが、どれだけの人に届くかは分かりませんが、
今自分が体験している日々の出来事が、きっと誰かの役に立つ様な気がしています。
よろしくお願いします。
さて、僕が取り上げるテーマは、
完全に解放された、今を幸せに生きることです。
なんだかすごそうな感じの言葉になってしまいましたが、
僕が今、ここにいる事が本当の幸せで、これ以外有り得ないことを理解するのに、
何か特別な事など何もしませんでした。
劇的な変化なども必要ありませんでした。
ただ、なんとなくあり続けていた不安や、ずっとずっと無くならなかった悩み事が、
3月19日を境に、なにをあれ程考えていたのかよく思い出せないぐらいになって
今、ここにいます。
先に、答えを言います。
ただただリラックスして、今を生きているということを味わうだけ。
言葉で説明すると、たったそれだけ、それだけを真剣にやりました。
でも、以前の僕は、本当にリラックス出来ていた時間なんてほとんど無くて、
さっきのことや、昨日のこと、去年のことや、3年前のこと、
明日のことや、次の週末や、半年先のことなんかをずっと頭のどこかで考えていて、
本当の意味では今を生きていなかったんですよ。
過去や、未来について考える事が、決して悪いことではないんですが、
今、ここにいるということを忘れて過去や未来を見てしまうと、
解決しそうもない問題が出来上がってしまうんですよね。
今がどんな状況でもリラックスして深く感じてみたことって、ありますか?
体の中で感じる変化を本当に味わうその前に、嫌がって、遠ざけようとしたりしてしまうと、
その出来事は、自分にとって、遠ざけなければならない、嫌な問題になっていくんですよね。
少し勇気を持って、深く深呼吸をして、浮かんでくる感情に受け答えしないで、
言葉が頭の中でペラペラしゃべりだすのを、少しだけ待ってもらって、
その場所にしか、今いることのできる場所がない事を、力まずに理解すれば、
問題だと思っていたことは、ただの思い込みでしかないことになります。
どこにも、
問題なんて起こってないんです。
今までも、そして、これからも。
今ここで、この文章を書いている事実。
今ここで、この文章を読んでいる事実。
それが、証拠。
次回からは、もうちょっとちゃんと事細かに、何をどう経験しながら、そうなったのか、
他にも、いろんな事から検証出来ることとして書いていきます。
たまには余談も挟むかもしれませんが、
よろしくお願いします。
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