2017年7月28日金曜日

精神的な自立

夏も本番を迎えて暑さが厳しくなってきました。


これ程の暑さはやはり身体には相当きつく感じますね。


何かしようと思ってもこの暑さでは、

なかなか身体が動いてくれません。


それでもやりたいことや、やるべき事は、

いつもと変わらず次から次へとやって来ます。


これほど暑いと身体が動きにくい分、

いろんな思いが頭を駆け巡ります。


頭の中に浮かんで来るものは、

今の自分の状態を如実に物語ります。


僕は自分というものを赤裸々に観るようになって

内側に湧き起こって来るものを受け止め慣れていますが、

これからの世の中の流れは

それぞれの人が持つ両極を本人がどのように受け止めていくのか、

という時代に入っていくことになります。


今この時期いろんな物事のネガティブな側面が

噴き出しているのが分かるでしょうか。


今まで何となくごまかせていたようなものが、

もうそれでは持たなくなって来ているのです。


どんどん正直に成らざるを得ない状況になって来ています。


これは通るべき重要な過程で、

自分の認めたくない部分をしっかり見てはっきり受け止めて、

自分という人間の肉体的、精神的なもの含めて自分を理解して

そこから実質的な可能性に目を向ける段階にいるのです。


いつまで続くのだろう?って思うとしたら、

その状態はいつまでも続いてしまいます。


どんな自分が嫌でどんな自分で居ると心地良いのか、

どの程度の努力でその心地良さを維持できるのか、

その努力はこれからずっと出来るのか、

これぐらいの問いに対して、

「分かりました。出来ます。」と

力まずに自分に答えられるようにするには

自分というものを丁寧に検証していくしか解決策はありません。


この世界をどの様に感じて過ごすのか、

自分が幸せであるかどうかは、

本当にそれだけでしかないのです。


そのことを誰か他の人が代わりにやってくれることは無いのです。


自分がどう感じているかを

他の人の意見に合わせて変えられるのなら、

最初から本当のところ、

そうは感じていなかったという嘘をついていたことになるのです。


自分をシンプルに捉えられれば、

何をどう感じているかなんて、

当たり前すぎて

何を今さらそんな事をしなければならないのか

という気になるでしょう。


世界の出来事に対して、

またそれらに対している自分の行動に対して、

どこか曖昧なまま慣習化してしまって、

はっきり自信を持たずに過ごしている自分を変えるには、

ただはっきり答えること、

それだけが出来ればいいのです。


僕はある時、

僕を取り巻くネガティブな物事に押しつぶされそうになりながらも、

どこかで世界と繋がっていたいと思っている自分に気づいて、

「もういい!関係ない!」と

一度全部を切り離して今の自分との関係を考え直してみたのでした。


世の中にある、

僕が幸せを感じる出来事は、

数える程しかありませんが、

僕を憂鬱にする出来事は五万とあります。


僕は以前、

それらの事柄を一つづつ解決していかなければ

本当の幸せは来ないと思っていました。


例えば、

罪の無い命がどこかで

無惨にも失われていく現実がこの世界にはあります。


この文章を見て、

いい気持ちになる人はいません。


そこで、頭の中でいろいろと巡り始めます。


どんな人でも、

人は何処までも、

心地好くあろうとしますし、

心地悪さを避けようとします。


どちらも常に同時進行で変化し続ける

物事の側面でしかないにも関わらずそうするのです。


なので上に上げたような事柄に対して、

何かしら行動をとっています。


簡単なものとしては、

完全に良い方法など分からない、

だから詳しくは見ないようにする。


これは多くの人が日常的にとっている行動パターンです。


この行動自体には意味は無く、

自分の中に生まれた心地悪さに対して

明確に答えてはいません。


なので置き去りにされたままの心地悪さは、

命の大切さを考えさせられる事に出会った時、

様々な反応として現れてきます。


自分に出来ることを探す人もいれば、

自分との世界に境界線を引く人もいます。


静かに見守る人もいれば、

もう居ても立っても居られなくなる人もいます。


どういう違いが出てきたとしても、

その元となっている事は、

自分の中に生まれた心地悪さに

どうやって対処しているか、

ということには変わりありません。


その自分のやり方を

その時その場に合ったやり方で、

瞬時に決断して行動している人は、

どんな事に遭遇しても、

その場で自分の中に生まれた感情に対して答えるので、

ネガティブな感情に引きずられ続ける事はありません。


ネガティブなものもポジティブなものも、

そのエネルギーを上手に使いさえすれば、

進んでいく道は明るく自信に溢れてきます。


自分の進むべき道を自分で決めて行くことは、

それ自体が豊かで自由で楽しいことなのです。


今の憂鬱なニュースが多い世界の中でも

自立した自分でいるために、

僕は「距離感」を大事にしています。


僕を中心にして、

手の届く範囲から順番に大切なものが、

その時その時で変化します。


物理的にも、

精神的にも、

僕と近く感じるものから優先します。


僕から離れて行こうとするものや、

距離が縮まらないもの、

何処にあるのか分からないものには、

僕から何かをしようとは思いません。


僕に近づいて来るものでも、

僕の目線の高さ、

これは物理的にも精神的にも同じ範囲に無いものは、

僕と関係ないものとします。


先に上げた文章の、

どこかで失われていく命、

ということに対して

僕は基本的にどうする必要も無いと感じます。


何処にいるのか分からない不特定多数の存在が

あまりにも遠すぎて、

その命が求めているものが、

僕には分からないからです。


想像を広げれば生きたいのだろうと感じることは出来ます。


でも本気で生きたいと僕に訴えて来る命は、

もっと範囲を狭くしてもたくさん現れて来ます。


命を助けるということを

本当に経験したことのある人は少ないと思いますが、

こちらも命懸けでいかなければなりません。


これはどんな命にでもほぼ当てはまる事だと思いますが、

甘いものではありません。


生きているだけで十分という言葉が

真理として自分の中で息づくには

純粋にそれを求めていないと、

この世界にあるものは全て

命を削ぐものでしか無いのです。


その削ぎ落していく命の代わりに、

この世界で何を見たいのか、

それが今すぐに具体的では無いとしても、

求める気持ちが無い命には

この世の現実はただただ過酷なだけになっていくのです。


それらをごまかす術はいくらでもありますが、

最後はみな同じく「死」を迎えます。


自分の代わりはいません。


それも踏まえて生きるということを

全面的に受け入れるということが、

自分一人で出来なければ、

本当に自分の道を歩き始めることはないのです。


どれ程まで自分に真剣にならなければならいでしょう。


家族、親、友達、知り合い、お世話になった人、

全て距離感の違いはあれど、

僕が自分に幸せを感じるかどうか、

僕の代わりに感じてくれる人は居ないのです。


誰かのために出来ることを考えるより先に、

先ず自分がどうしたら幸せになれるのか、

真剣に考えて行動してみてください。


誰かが提示する幸せは全部違います。


いくら他の人のことを学んでも辿り着きはしません。


行動に移った段階で、

少しづつ開いてくる世界があります。


他の人の意見は参考にしても、

自分の内なる声だけに正直で居てください。


必ずあるタイミングで、

自分の内なる声の強さが自分の弱さを打ち破っていきます。


誰でもない自分の誕生がその時起こります。


もう大丈夫です。


自分一人がこの世界とどう関わっていくかは

自分次第になるのです。





2017年7月20日木曜日

八百万の神様

僕は子供の頃から身の回りにある物に人格のようなものを当てて

それと会話をしながら使うということを普通にしていて、

物によって男性的だったり女性的だったり、

使う前に「お願いしますね!」と一声かけてから使うようにしていました。


特に最近自分の言動一つ一つを丁寧にすることを心がけるようになって、

その行為がとても重要なことだったと改めて感じるようになりました。


当たり前の事ですが

物は大切に扱えばとても長く使えます。


いつかは寿命が来るものだとしても、

扱い方によっては一生自分と共に居てくれるものもあります。


さらに丁寧に語り掛けながら扱うようになると、

それらが持つ精妙な波動がいろんなことを教えてくれるようになります。


例えばいわゆる良いものというのは、

作る段階から丁寧に扱われていて、

素材が宿している波動、

その素材が生まれてくる大地や海から

その素材が教わったことが

その物の中にデータのように込められていて、

丁寧に扱われることで、

そのデータとしてある波動を壊さずに、

物として形を変えて、

僕の元まで届いてくれます。


そしてその物の正しい使い方や

その行為を通してこの地球との共生の仕方などを

学ばせてくれる道具となってくれるのです。


全ての物はこの宇宙の営みから出来てきて、

いろんな出来事を経て、

今この時にこの形として僕の元へやって来ました。


それらが持っている波動を読み取るには、

それに共鳴できる波動を持っていなければなりません。


もし自分が荒々しい波動でそれらに接すれば、

すぐにそれらはそのように共鳴して

荒い波動によって精妙な部分はかき消されて、

雑な荒い波動を持つ物として僕の空間に存在するようになります。


そうなれば長持ちもしないでしょうし、

その様な形でしか僕の手伝いをしなくなってしまいます。


その物がこの地上に生まれてくるときに宿してきた叡智は、

丁寧に扱われていればいるほど、

濃密なそれでいて精妙な波動を持っていて、

その物と居ると

とてつもない安心感を得ることが出来ます。


僕よりも大きくて永い営みを経験している

大きな存在から分かれて来ているので、

その安心感は間違いありません。


その視点で自分の周りにある物を見回してみてください。


何一つこの宇宙の営みから離れたところで出来てきたものはありません。


でもそこに来る過程での

作る人の意識や扱う人の意識の差で、

宿している波動に大きな違いが出てきます。


この宇宙の営みが陰と陽の合わさりによって

出来上がって来ているので、

全ての物に陰と陽の性質が備わっています。


なので丁寧に精妙な氣でもって作られ扱われたものは、

僕らの生活に陽の氣をもたらしてくれます。


逆に雑に荒い氣で作られ扱われたものは、

陰の氣をもたらします。


でもそれらは今僕がどう扱うかによって

どちらにでも変化します。


それはその中に本質的に陰と陽の性質を宿しているからです。


それらを使う『僕』という視点から

もう一度全部見渡してみましょう。


僕の身体も丁寧に使いましょう。


言葉もそうです。


僕の元へやって来る食べ物や、

それを調理する道具、

食べる時に使う器や箸、

それを味わう空間としてある部屋やテーブル、

身体を包み込む服や靴、

レクレーションのためのサーフボードやそのグッズ、

音楽を聴いたり作ったりできるパソコンなんかも、

僕の元へやって来て、

今この生活を色とりどりに鮮やかに華やかに

豊かさを演出してくれています。


僕がそれらを喜んで楽しくそして丁寧に使うことを、

同じく喜んでくれています。


この感覚を知ることが出来るようになるには、

ただ消費していくだけの生活からでは無理です。


自分の生きる道をしっかり歩み始めれば、

必要な物がちゃんと分かります。


自分の元にやって来る物たちが

教えてくれるからです。


丁寧に使って役目を終えたら

その物たちに感謝を持って

丁寧に地球にお返していきます。


またある時、

何か別の形でお会いすることがあるかもしれません。


でも基本的にはすべて一期一会の出会いです。


なおさら大切に丁寧に扱いたいと、

その様に思う訳です。


この様に僕にいろんなことを教えてくれる

大切な物たちに宿っている魂を、

その昔は、

八百万の神と呼んで尊んでいました。


今もずっといらっしゃいます。


そのお声を聴くことが出来る

生き方がある

というお話しでした。





2017年7月13日木曜日

聖なる生き方

夏に入って暑さが一層増しています。


僕は今年の暑さは何だか今まで感じていた夏の暑さ以上のもの、

もっと奥の方から湧き出させられるもっと大きな力があるように感じてなりません。


先月の終わりに夏越の大祓が執り行われて、

上半期の穢れを祓ってもらってから、

僕がこれからどの方向へ向かって生きていくべきなのか、

ということについて今の自分に見えていることを

綴っておきたいと思います。


今年に入るころに僕は大きな決断をしました。


それは自分の内側に誓いを立てることであったので、

あまり表だって言葉にしてしまうと、

何だか陳腐なものになってしまうようで、

このブログにもその様なことを書くのは違うかもしれないと思って

決断をしてから自分の変化をずっと静かに観察しているだけにしていました。


でもここに来て

自分自身とまわりにいる人々や世界の変化のうち、

この決断によって導き出される違いがハッキリ見えてきたので

出来るだけ多くの人とシェア出来ることを願ってここに記す次第です。


僕は今年の春に

本宮大社奥之院にあたる玉置神社で、

『カミのイ』を継ぐことを決意させて頂きました。


僕は何年か前にホツマツタヱに出会い

アメナルミチを学ぶきっかけを頂きました。


それまでも正しい生き方とは何なのかを知りたくて、

本当にいろんなことを勉強してきました。


タイミングというものがバッチリ合うところに

ホツマツタヱが自分のところにやって来てくれたこともあって、

それまで自分が学んで来ていたことが、

一つの出来事を現わしていると気づくことが出来たのでした。


全てのものが陰と陽の交わりによって出来ていて、

それぞれ陰と陽の性質を持ち合わせていて、

その性質がまたそれぞれに引き合い離れあいながら、

生々流転してこの世界を作っている、


という視点を持たせてもらうことが出来て、

それまでの、これこれが正しくてこれこれが間違っている、という

偏った考え方を捨てることが出来たのでした。


和を尊ぶ上で

このことは非常に大切なことです。


自分の中に偏った正しさが無くなると、

内側に「準備が整いました。」と言う感覚が訪れました。


そうするとまたまたタイミング良く

玉置神社の近くを通るルートで波乗りへ行くようなことになり、

『カミのイ』を継ぐことを心に誓う旨の説明を

運転しながら妻に必死で話したりしている自分に気が付くのでした。


人生でそれ程緊張することもないくらいに

緊張しながら玉置神社本殿の前で、

国之常立の命様に向かって

いきなり口をついて出てきた言葉は、

『カミのイ』謹んでお受けいたします。

というものでした。


それまでも僕は惟神の道を地で生きて行こうと思っていたので、

なるべく穢れを自分から遠ざけることにはしていたのですが、

その様な言葉を口にした以上中途半端なことはできません。


最初の何日かは緊張もしていましたが、

アメナルミチを実践すればいいのです。


これこれは正しくてこれこれは間違っているという

そんなちっぽけなことではありません。


陰と陽を見極めて

自らの意識を陽の位置に置いて

その氣で空間を満たしていく

ということを実践していくのです。


自分を穢してしまうようなもの、言葉、行いを

その時その時の判断で遠ざけるようにします。


変に神経質になってしまうのも良くありません。


それだけで氣が陰に偏ってしまうからです。


自分の内側に大切な『カミのイ』を持つものとして、

雑なことは出来ません。


誰か特定の人のためだけにしかならないような事に

手を貸すようなことは決してしません。


僕という人間が居なくなってさらに先の世にとっても

必要であると感じることを優先します。


その土地土地にあるルールを優先します。


でも自分が本気で納得できないことはしません。


そしていくら考えても答えの出ないことに執着することはありません。


なので今やることとして目の前にあることを

その時にやってしまいます。


それは必ずこの地球上でやることなので

この地球に対してリスペクトを持って出来ることをします。


何より実践出来ないならば、

頭で考えるだけのようなことはしません。


どれだけ人として素晴らしいと思われるような事であっても

今の僕に出来ないことならば出来ない事実についてまったく気にしません。


その出来ないことについて、

誰かの手を借りればできるとしても自分で出来ないならしません。


今ちゃんと出来なくてもしたいと思うことに努力を惜しみません。


どんな時でも完全である必要はありません。


言い訳しません。


常に自分のこととして実践します。



いろいろ書き綴りました。


これやってみると、

すっきりします。


誰もが出来ることではないかもしれません。


でも、やってみると意外と簡単で

自分に筋が通ってくるので、

もの凄く自信に繋がります。


見えなかったものがハッキリと見えるようになって、

それらの行為自体は何ら凄いことでは無いことが分かります。


それよりもいろんな言われ方をしている

聖なる生き方が命に繋がっているのが分かるのがたまりません。


いろんな人がそれぞれのやり方で

聖なる生き方をしています。


その人たちがやっていることで共通しているのは、

ごまかしが無いという部分です。


自分の命に対して正直になっている人、

そこまで生ききっている時、

その人のバイブレーションはもうカミの領域にあります。


その時僕らは本当に触れているんです。


生きるっていうのは、

本当に素晴らしいことなんです。


それが見えにくくなってしまう程、

いろんなごまかしがこの世界に溢れかえってしまいました。


それを取り去って行くために、

僕は僕のやり方で僕の命を磨いていくことにしたんです。


だってこの命は、

もともとカミからお預かりしたものですから。


それを最大限輝かすかどうか、

僕にしかできないことなんですから。