ここ最近、世界のワチャワチャした感じが
一層強さを増してきています。
世界の至る所でいざこざが起きていて、
それぞれに信条を掲げて
自由とは何か、
公平とはどういうことか、
平和とはどんな状態のことなのか、
今まで人間が築いてきた理想を達成しようと、
多くの人が現実に行動に移している、
それをリアルタイムで見ることが出来る
凄い時代なんだなぁと思います。
多くの人がそれぞれに議論を展開していて
今までにないスピードで情報の共有が出来て、
様々な観点で物事を検証出来て、
それでも不確実な未来を
どう素晴らしいものにしていったらいいのか、
手探りで進むしかない現在に、
恐れや苛立ちが立ちはだかって、
それを打開するべく行動に移しているのではないでしょうか。
僕は皆さんの発してくれる情報で
ピンと来たものにアクセスして、
何か警戒を要するものがあれば、
すぐ動けるようにしています。
いろんな情報に触れるたびに
皆さん良く調べられてるなぁなんて、
本当に感心している次第です。
僕の生活リズムでは
今以上に調べたり勉強していったりするのは無理なので、
背伸びをせず今の僕の目線で見て
このめまぐるしい変化に飲み込まれずに
如何に僕自身にとって最適な判断をしていくか、
そこに揺らぎが無ければ、
この世界の変化からとても多くのことを学ぶことが出来ると思っています。
今の僕の知識と経験から得たもので、
一番確実な基準としている言葉は、
「命を育むこと」です。
もしも自分が何かを選択しなければならない時、
どちらがより命を育むのかという基準で
考えるようにしています。
そうやって考え始めると、
僕はとにかく心が落ち着いていって、
難しく考えなくてもいいんじゃないかなぁとなるのでした。
もしも命を育む要素がないのであれば、
自分としては完全にアウト。
命が育まれる方向へ向いていない話しはアウト。
こっちの命は育むけど
あっちの命を育まないのであればアウト。
命を育む事から優先的に、
そのための思考、
そのための話し、
そのための行動、
それ以外は別に何でもいいしどうでもいい。
という具合に
頭の中はいたってシンプルになってしまうのでした。
そういうところまでシンプルになっていくと、
壮大な理想や
人間の持つ悲しい性や宿命みたいな話しは、
別に何でもいいしどうでもよくって、
今目の前にいる命を
僕が大切に扱えているかどうかが
一番の命題となるのでした。
僕が粗末に扱っていい命など
どこにもありません。
どんなに小さくても
どんなに弱々しくても
どんな形をしていても、
生きたエネルギーとしてあるものが、
僕と一緒に育っていけるように、
僕は自分の全エネルギーを注げばいいのです。
上手にできるかどうかは分かりません。
相手も生きている以上、
自分と違う考えがあるでしょうから、
何か自分の行為が気に食わないかもしれません。
そうならないように
押し付けないように
流れる空気のように
相手に心を配ろうと思っています。
人にも
動物にも
植物にも
もっと意識を拡大して
水や石、
風や星も、
道具や意識の中にいる者たちも、
僕自身の命を育んでくれる相手として、
僕と共にこの世界に存在している全てに
丁寧に接すること、
まぁまだまだですけど、
そこをちゃんとまず自分が出来れていれば
何も相手を責めたりする必要は無くなります。
相手に求めてやってもらえないことより、
自分が分かっているのに出来ないことの方が、
辛いと感じるからです。
命を育むことって
そんなに難しいことなのかなと
感じていた時期もありました。
でもそれは、
何だかんだと理由を勝手に付けて、
雑な行動をしていただけだったのでした。
命は非常に脆くて弱いものです。
だから丁寧に扱わなくてはなりません。
丁寧にさえ扱えばとても強く輝き始めます。
僕はまず自分の命を丁寧に扱うように心がけました。
そうする中で、
他の命も自分と何の違いも無いことに気が付いていったのでした。
ただその命の営みも自然の流れの中で
いつか自然と一つになっていく時が来ます。
それまでの間どれだけ丁寧に扱えるかだけで
いいのではないでしょうか。
それさえ出来れば実は
人間て幸せなんじゃないかなぁと
思っています。
2016年11月15日火曜日
2016年11月4日金曜日
自信の無い人へ
何があっても自分を信じて
一歩づつ着実に進んでいく、
そういう自信に満ちあふれた生き方が出来れば、
もう何も心配する必要は無くなりますよね。
どこで何が起ころうとも、
誰が何と言おうとも、
心の底から沸き上がって来る思いに、
純粋に従って行くことに躊躇すること無く、
連なっていく結果に執着もしない。
さらに新しい変化に向けて、
自ら進んでいく、
そういう自信を深めて行くことが
人として生きる最大の目標と
言ってもいいのではないかと
僕は思っています。
そのために、
価値ある仕事を出来るよう努力したり、
ライフワークとなるような趣味を持ったり、
様々な本を読んだり、
映画を見たり、
お金を貯めることなんかも、
そういう側面で見ることが出来ると思います。
そんな小難しい見方をしなくて
いいかもしれません。
でも、
自信に溢れた自分で居られないならば、
何をしていてもどこかで物足りなさや不安を感じていて、
どこか投げやりな時間を過ごしていて、
実のところ面白いと感じるところもなく、
物事をただこなすだけの日々、
数多くの嫌なことをどうやって忘れていくかの習慣を身につけ、
夢中になれるものを人生でもっとも大切な事のように思い、
それ以外の事は蔑んで見てしまうようになって、
理解出来ない世界が増えて、
孤立していく自分と似たような境遇の人達を仲間と思って同調しあい、
否定されないことが唯一自分を認める手掛かりになってしまうでしょう。
そのような状態になってしまうと、
ひたすら自己矛盾と抗うか、
ひたすら自分と食い違うことと抗うか、
ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていくか、
結局のところ自信のある人を羨ましく真似するだけで、
自分を信じることからは遠く離れてしまいます。
僕はずっと幼い頃に親に反抗する形で心が独立する機会を経て、
家族という社会をなるべく乱さないで
自分で考えて自分らしい存在の仕方を模索していました。
小学校の高学年の頃には、
サルトルやヤスパースやキルケゴールなどの哲学を読み、
人と違うことが自分のアイデンティティとして必要だと強く思っていました。
自信があったんですが、
最初のスタートがひねくれた所から出ているもんですから、
小さな矛盾が出てき始めたとき、
素直になることが出来ずに、
ひたすら自己矛盾と抗い、
ひたすら自分と食い違うことと抗い、
ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていって、
自信のある人を羨ましく真似してみることでごまかして、
自分を信じることからは遠く離れてしまったのでした。
常にどこかで淋しさを感じていて、
優しさに触れると心が大きく揺さぶられて
自分の余裕の無さをどうしたら克服できるのか、
その答えを求めてさらに自分の内側を探り、
外の世界にヒントを求めて彷徨っていたのでした。
自信のある状態とは何なんだろう?
それを探して
ありとあらゆることにチャレンジした感のある僕が
今その答えを求める人に伝えられる言葉は、
自信など探してもどこにも無い、
ということです。
僕自身が彷徨ってしまった一番の原因は、
探してしまったことでした。
このことに気づくのに大変な道のりを
歩くことになりました。
でもそのお蔭でいろんなことを確かめて
自信を持って今ここに居ることが出来ます。
自分を信じるために必要なことは、
今の自分をちゃんと見ることだけです。
自信をつけてから物事に向かおうとした途端、
恐くなってしまいます。
今の自分に出来ることを一つづつやっていく、
その行動することだけが答えとなって現れていきます。
そこに自信があったかどうかは、
後で考えてみても良く分からないことなのです。
頭の中で考えてしまった途端に
今という時間から離れて出来もしないことについて考えたり、
出来なかった時の言い訳なんかを考えてしまいます。
どれだけ小さなことでも
一つづつやっていくこと、
それだけが結果に結びついていきます。
このことはどれ程ものごとに熟達していったとしても
変わらない事実です。
丁寧に一つづつやらない限り、
結果というものは現れようがないんですから。
例えばやってみて、
本当にこれでいいのだろうかみたいな、
疑問が湧いてきたとします。
一旦休んで、
素直になって見てみましょう。
自分が思い描く目的へ向かって、
自分が出来る一番最初のことが、
それならば間違いありません。
自分に合ったやり方がそう選択させた理由です。
この時他の人のことを考えてしまうことがありますが、
他の人は他の人、
自分に出来ることがそれなら、
それで間違いありません。
もしも他に今出来ることがあった場合、
一番最初に簡単に出来るものから取り組んでみましょう。
自信というものは
自分を信じるのであって、
自分以外の何かを信じるのではありません。
今出来ることとは、
今までに似たような事があったとしても全く別の、
完全に初体験になります。
上手くいくことが当たり前ではありません。
初めてやるのに失敗はつき物です。
大失敗でも構いません。
その時のことを忘れずに
覚えておきましょう。
次に役に立ちます。
行動に移せないまま、
どうしても考えてしまう人は、
まずそういう自分に言い訳をしないことです。
言い訳をすることに慣れてしまっているだけなので、
自分を見れないのではありません。
結局のところそれでは結果に結びつかないことを
別の角度から見て自分から切り離そうとしてしまうんです。
自信をつけたい自分を隠して、
自分以外の何か所為にしてしまいたいんです。
コツコツ行くしかないとなると、
何年かかるか分かりません。
でも自信を持つことなく、
一生を終えていくか、
今ここで自分の道を行くかは
本当に紙一重ですが、
人生の意味がまるっきり変わるのは、
分かると思います。
自分の道を歩き始めた人は、
自信があるとか無いとか、
そんな事どうだってよくなります。
その道しか無いからです。
一年二年して他の人も己の道を一生懸命に歩いていることに、
感動さえ覚えるでしょう。
そのような生き方をする人が、
誰か他人を非難することができるでしょうか?
お互いに助け合うことの本当の意味に触れられるのは
その道を進んでいる人達だからこそのことです。
誰かが先に行っていたり、
誰かが遅れていたりすることなど、
実は全くありません。
みんな横並びで、
一つの初めての瞬間を
一緒に経験しています。
その今の自分を
ありのままに見ているかどうかだけなんです。
一人一人が受け取る結果もまちまちですが、
そこがまたスタート地点になります。
ゴールも自分が決めた場所になるので、
そこまで行くことになります。
自分の力で歩いていると意識できている人は、
自分のペースで進むことが出来るので
自信があるように見えるのです。
どこへどういうふうに行きたいのか、
もう一度自分に正直になって見ましょう。
今の自分を見て
正直に何が出来るでしょう。
それが唯一の答えです。
一歩づつ着実に進んでいく、
そういう自信に満ちあふれた生き方が出来れば、
もう何も心配する必要は無くなりますよね。
どこで何が起ころうとも、
誰が何と言おうとも、
心の底から沸き上がって来る思いに、
純粋に従って行くことに躊躇すること無く、
連なっていく結果に執着もしない。
さらに新しい変化に向けて、
自ら進んでいく、
そういう自信を深めて行くことが
人として生きる最大の目標と
言ってもいいのではないかと
僕は思っています。
そのために、
価値ある仕事を出来るよう努力したり、
ライフワークとなるような趣味を持ったり、
様々な本を読んだり、
映画を見たり、
お金を貯めることなんかも、
そういう側面で見ることが出来ると思います。
そんな小難しい見方をしなくて
いいかもしれません。
でも、
自信に溢れた自分で居られないならば、
何をしていてもどこかで物足りなさや不安を感じていて、
どこか投げやりな時間を過ごしていて、
実のところ面白いと感じるところもなく、
物事をただこなすだけの日々、
数多くの嫌なことをどうやって忘れていくかの習慣を身につけ、
夢中になれるものを人生でもっとも大切な事のように思い、
それ以外の事は蔑んで見てしまうようになって、
理解出来ない世界が増えて、
孤立していく自分と似たような境遇の人達を仲間と思って同調しあい、
否定されないことが唯一自分を認める手掛かりになってしまうでしょう。
そのような状態になってしまうと、
ひたすら自己矛盾と抗うか、
ひたすら自分と食い違うことと抗うか、
ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていくか、
結局のところ自信のある人を羨ましく真似するだけで、
自分を信じることからは遠く離れてしまいます。
僕はずっと幼い頃に親に反抗する形で心が独立する機会を経て、
家族という社会をなるべく乱さないで
自分で考えて自分らしい存在の仕方を模索していました。
小学校の高学年の頃には、
サルトルやヤスパースやキルケゴールなどの哲学を読み、
人と違うことが自分のアイデンティティとして必要だと強く思っていました。
自信があったんですが、
最初のスタートがひねくれた所から出ているもんですから、
小さな矛盾が出てき始めたとき、
素直になることが出来ずに、
ひたすら自己矛盾と抗い、
ひたすら自分と食い違うことと抗い、
ひたすら逃げ続けて狭い世界に閉じこもっていって、
自信のある人を羨ましく真似してみることでごまかして、
自分を信じることからは遠く離れてしまったのでした。
常にどこかで淋しさを感じていて、
優しさに触れると心が大きく揺さぶられて
自分の余裕の無さをどうしたら克服できるのか、
その答えを求めてさらに自分の内側を探り、
外の世界にヒントを求めて彷徨っていたのでした。
自信のある状態とは何なんだろう?
それを探して
ありとあらゆることにチャレンジした感のある僕が
今その答えを求める人に伝えられる言葉は、
自信など探してもどこにも無い、
ということです。
僕自身が彷徨ってしまった一番の原因は、
探してしまったことでした。
このことに気づくのに大変な道のりを
歩くことになりました。
でもそのお蔭でいろんなことを確かめて
自信を持って今ここに居ることが出来ます。
自分を信じるために必要なことは、
今の自分をちゃんと見ることだけです。
自信をつけてから物事に向かおうとした途端、
恐くなってしまいます。
今の自分に出来ることを一つづつやっていく、
その行動することだけが答えとなって現れていきます。
そこに自信があったかどうかは、
後で考えてみても良く分からないことなのです。
頭の中で考えてしまった途端に
今という時間から離れて出来もしないことについて考えたり、
出来なかった時の言い訳なんかを考えてしまいます。
どれだけ小さなことでも
一つづつやっていくこと、
それだけが結果に結びついていきます。
このことはどれ程ものごとに熟達していったとしても
変わらない事実です。
丁寧に一つづつやらない限り、
結果というものは現れようがないんですから。
例えばやってみて、
本当にこれでいいのだろうかみたいな、
疑問が湧いてきたとします。
一旦休んで、
素直になって見てみましょう。
自分が思い描く目的へ向かって、
自分が出来る一番最初のことが、
それならば間違いありません。
自分に合ったやり方がそう選択させた理由です。
この時他の人のことを考えてしまうことがありますが、
他の人は他の人、
自分に出来ることがそれなら、
それで間違いありません。
もしも他に今出来ることがあった場合、
一番最初に簡単に出来るものから取り組んでみましょう。
自信というものは
自分を信じるのであって、
自分以外の何かを信じるのではありません。
今出来ることとは、
今までに似たような事があったとしても全く別の、
完全に初体験になります。
上手くいくことが当たり前ではありません。
初めてやるのに失敗はつき物です。
大失敗でも構いません。
その時のことを忘れずに
覚えておきましょう。
次に役に立ちます。
行動に移せないまま、
どうしても考えてしまう人は、
まずそういう自分に言い訳をしないことです。
言い訳をすることに慣れてしまっているだけなので、
自分を見れないのではありません。
結局のところそれでは結果に結びつかないことを
別の角度から見て自分から切り離そうとしてしまうんです。
自信をつけたい自分を隠して、
自分以外の何か所為にしてしまいたいんです。
コツコツ行くしかないとなると、
何年かかるか分かりません。
でも自信を持つことなく、
一生を終えていくか、
今ここで自分の道を行くかは
本当に紙一重ですが、
人生の意味がまるっきり変わるのは、
分かると思います。
自分の道を歩き始めた人は、
自信があるとか無いとか、
そんな事どうだってよくなります。
その道しか無いからです。
一年二年して他の人も己の道を一生懸命に歩いていることに、
感動さえ覚えるでしょう。
そのような生き方をする人が、
誰か他人を非難することができるでしょうか?
お互いに助け合うことの本当の意味に触れられるのは
その道を進んでいる人達だからこそのことです。
誰かが先に行っていたり、
誰かが遅れていたりすることなど、
実は全くありません。
みんな横並びで、
一つの初めての瞬間を
一緒に経験しています。
その今の自分を
ありのままに見ているかどうかだけなんです。
一人一人が受け取る結果もまちまちですが、
そこがまたスタート地点になります。
ゴールも自分が決めた場所になるので、
そこまで行くことになります。
自分の力で歩いていると意識できている人は、
自分のペースで進むことが出来るので
自信があるように見えるのです。
どこへどういうふうに行きたいのか、
もう一度自分に正直になって見ましょう。
今の自分を見て
正直に何が出来るでしょう。
それが唯一の答えです。
2016年11月1日火曜日
断食を終えて
昨日までの四日間、
味噌汁断食をしていました。
僕は今までも何度かプチ断食をした事があって、
その時はだいたい水と塩だけで過ごしていました。
ガンを克服した方のブログに、
具無しのお味噌汁を定期的に摂って、
後はお茶や、スムージーだけの食事で、
血液を綺麗にしてガンを治していく
サナトリウムがあるということで、
なんかピンと来たのでした。
自分の体内環境を整えるのには、
断食がとても良いのは知っていましたが、
塩と水だけの断食は、
始めるタイミングやその前後のことまで
考えなくてはなりませんが、
プチ断食をしたことのある僕には、
お味噌汁を摂っていいなら、
4日間ぐらいはいけそうだ、
そういう感覚でした。
今回は身体のリセット、
血液を綺麗にしたいなぁとの思いで始めました。
で、ちょうど新月へ向かっていくし、
明けてちょうど11月1日ってなんだかいいなぁ
と思って始めました。
体内に何も入れないと、
腸は休んで
体内にあるものだけで活動しようとして、
普段あまり巡りの無いところが
活性化していくのでしょう。
初日の夜には、
お腹のあたりを中心に全身に発疹が出来ました。
反応が出て来るのがとても早かったのは、
今回の断食の前に知人の方が
自然農法で育てたマコモを分けて下さって、
それを食べていたからというのもありました。
マコモは縄文時代から食されていたイネ科の植物で
食物繊維を多く含んでいて、
毒素の体外排出を促します。
ちょうどそういった食材を頂いてタイミングの良いこと、、
この断食がちょうどよいサイクルで巡ってきたんだとすぐに気づきました。
初日の空腹感は、
お腹が空いたらお味噌汁を飲めばいいという
安心感もあってほとんど気になりませんでした。
それよりも身体が軽くなって
それに共なって身体感覚が鋭くなっていくのが楽しくて、
このまま行けばどうなって行くんだろうという
ワクワクした状態で床に就いたのでした。
二日目、出ていた発疹も少し落ち着いて
空腹感が心地好くさえ感じられるようになっていました。
五感はとてもピシッとして、
匂いや音の変化をいつも以上に感じてました。
無駄な思考が減って、
感覚が優れて来るので、
そこから安心感が生まれて来るのが分かりました。
その時に、
野生動物達はこの感覚を維持しているんじゃないかな、
なんて思ったりしました。
その時感じていた空腹感は
飢えではありませんでした。
不安は無くて、
移り変わるものに気を取られすぎることも無く、
でも変化に対してはきっちり反応しているんです。
朝昼晩にはお味噌汁を飲んで、
その間は番茶で喉を潤していました。
デトックスするなら、
とことん行くつもりだったので、
完全自然農法の大豆と米から出来た味噌と、
お水は奈良三輪山のお水、
番茶も奈良で古代からの製法を守って作られたもの、
それらがこの身体を綺麗にしてくれないはずは無い
という思いで居ました。
かなり食事に気を使って
添加物の入ったものや肉食もやめていましたが、
腸が休むことって、
ずっと食事をしている限り無いのでしょう。
腰のあたりに変化を感じました。
僕は腰痛持ちで
腰椎の3番がよくずれるのですが
そのずれが出なくなります。
先のガンを克服された方は、
内臓が張れて背骨を圧迫して、
ぎっくり腰になったということでした。
僕も何かしら内臓の不調があって、
腰痛になっていたのかもしれません。
三日目になると、
さすがに空腹感は少し意識されるようになって来ました。
でも朝、
お味噌汁の一口をゆっくりと
胃の中へ落としていくと
味噌の香りがフワッと広がって、
その日一日をまた新しい変化と共に過ごせる
幸せな感覚に包まれました。
何口か頂いたら番茶を飲みますが、
それがまた口の中に甘く広がります。
ひとくちひとくちが、
本当に感動でした。
この日も仕事を無事終えての夜、
3日目となるとやはり空腹感が強くなっていて、
一口目のお味噌汁をゴクンと勢いよく飲み込んでしまいました。
あ、やってしまったかな?
と思ってそれからまたゆっくりと味わうように
食していきましたが、
その後五回トイレへ行くことになりました。
具無しのお味噌汁と言えども、
空腹時に一気に食すと
お腹を壊します。
お茶とは反応が違うんです。
そのことが食事を丁寧に食べなければならない意味として
自分の中にしっかり刻まれました。
四日目に入ると、
まだ行けるなぁという感覚もありながら、
一つの到達点として決めていたゴールが見えた安堵感もあって、
とても心地よい朝を迎えました。
空腹感はあっても、
それで苦しむようなことは無くて、
それが逆に心地よく感じるのでした。
一杯のお味噌汁を5分以上かけて
ゆっくりお腹へ落してゆきます。
本当に有り難いことです。
食事って本当に大切なことだなぁって
心の底から思ったのでした。
その日の夜、
お味噌仕立てで、
自然栽培の七分づきのお米を
おじやにして食べました。
お米を口に入れて、
噛んでいる間、
身体がこれを受け付けてくれなかったらどうしよう?
ちょっとだけ不安がよぎりましたが、
噛んでいくうちに唾液に溶けて、
甘味を出しながら喉の奥へと、
自然に落ちていってくれました。
「うまい!」
「めちゃくちゃうまい!」
僕は本当にその時、
「これだけでいいや。」って
思ったんです。
もちろん僕自身が比較的体力のある
健康な身体を持っているとしても、
具無しのお味噌汁だけで
4日間も普通に肉体をしっかり使って仕事をしても、
フラフラしなかったんです。
一般的に考える栄養とカロリーが
必要なのでは無いと僕の感覚が理解しました。
無理して食べる必要がないことを
僕の身体が覚えたのでした。
確かに食べることはとても大切で
それによって命が維持されていて、
人生の多くの幸せの部分となることには違いないのですが、
それが全てではないことを体験出来ました。
そして何よりも、
身体が軽くなって
僕の持っている五感で感じることの
楽しさが蘇りました。
食事はその一部として、
楽しめればいいんだなぁと、
思ったんです。
それ以上の意味を与える必要は
もう無くなりました。
ヨガの行者が
最後に不食という段階に行くと聞きましたが、
何となく分かりました。
現代はあまりにもいろんな意味が与えられすぎていて、
本当に大切なことが何なのかが、
見えにくい時代になってしまっています。
シンプルにひとつひとつを見ていくために、
いろんなやり方があると思います。
断食もいろんなやり方があって、
僕は今回こんなやり方で
食と健康というものを見つめることが出来ました。
もちろん自分の体調や性格に合うやり方でないと、
身体を壊してしまうこともあるので
気をつけないといけません。
ただ、
食べない健康法というものも
あるんだということは
知っておいて損は無いと思います。
味噌汁断食をしていました。
僕は今までも何度かプチ断食をした事があって、
その時はだいたい水と塩だけで過ごしていました。
ガンを克服した方のブログに、
具無しのお味噌汁を定期的に摂って、
後はお茶や、スムージーだけの食事で、
血液を綺麗にしてガンを治していく
サナトリウムがあるということで、
なんかピンと来たのでした。
自分の体内環境を整えるのには、
断食がとても良いのは知っていましたが、
塩と水だけの断食は、
始めるタイミングやその前後のことまで
考えなくてはなりませんが、
プチ断食をしたことのある僕には、
お味噌汁を摂っていいなら、
4日間ぐらいはいけそうだ、
そういう感覚でした。
今回は身体のリセット、
血液を綺麗にしたいなぁとの思いで始めました。
で、ちょうど新月へ向かっていくし、
明けてちょうど11月1日ってなんだかいいなぁ
と思って始めました。
体内に何も入れないと、
腸は休んで
体内にあるものだけで活動しようとして、
普段あまり巡りの無いところが
活性化していくのでしょう。
初日の夜には、
お腹のあたりを中心に全身に発疹が出来ました。
反応が出て来るのがとても早かったのは、
今回の断食の前に知人の方が
自然農法で育てたマコモを分けて下さって、
それを食べていたからというのもありました。
マコモは縄文時代から食されていたイネ科の植物で
食物繊維を多く含んでいて、
毒素の体外排出を促します。
ちょうどそういった食材を頂いてタイミングの良いこと、、
この断食がちょうどよいサイクルで巡ってきたんだとすぐに気づきました。
初日の空腹感は、
お腹が空いたらお味噌汁を飲めばいいという
安心感もあってほとんど気になりませんでした。
それよりも身体が軽くなって
それに共なって身体感覚が鋭くなっていくのが楽しくて、
このまま行けばどうなって行くんだろうという
ワクワクした状態で床に就いたのでした。
二日目、出ていた発疹も少し落ち着いて
空腹感が心地好くさえ感じられるようになっていました。
五感はとてもピシッとして、
匂いや音の変化をいつも以上に感じてました。
無駄な思考が減って、
感覚が優れて来るので、
そこから安心感が生まれて来るのが分かりました。
その時に、
野生動物達はこの感覚を維持しているんじゃないかな、
なんて思ったりしました。
その時感じていた空腹感は
飢えではありませんでした。
不安は無くて、
移り変わるものに気を取られすぎることも無く、
でも変化に対してはきっちり反応しているんです。
朝昼晩にはお味噌汁を飲んで、
その間は番茶で喉を潤していました。
デトックスするなら、
とことん行くつもりだったので、
完全自然農法の大豆と米から出来た味噌と、
お水は奈良三輪山のお水、
番茶も奈良で古代からの製法を守って作られたもの、
それらがこの身体を綺麗にしてくれないはずは無い
という思いで居ました。
かなり食事に気を使って
添加物の入ったものや肉食もやめていましたが、
腸が休むことって、
ずっと食事をしている限り無いのでしょう。
腰のあたりに変化を感じました。
僕は腰痛持ちで
腰椎の3番がよくずれるのですが
そのずれが出なくなります。
先のガンを克服された方は、
内臓が張れて背骨を圧迫して、
ぎっくり腰になったということでした。
僕も何かしら内臓の不調があって、
腰痛になっていたのかもしれません。
三日目になると、
さすがに空腹感は少し意識されるようになって来ました。
でも朝、
お味噌汁の一口をゆっくりと
胃の中へ落としていくと
味噌の香りがフワッと広がって、
その日一日をまた新しい変化と共に過ごせる
幸せな感覚に包まれました。
何口か頂いたら番茶を飲みますが、
それがまた口の中に甘く広がります。
ひとくちひとくちが、
本当に感動でした。
この日も仕事を無事終えての夜、
3日目となるとやはり空腹感が強くなっていて、
一口目のお味噌汁をゴクンと勢いよく飲み込んでしまいました。
あ、やってしまったかな?
と思ってそれからまたゆっくりと味わうように
食していきましたが、
その後五回トイレへ行くことになりました。
具無しのお味噌汁と言えども、
空腹時に一気に食すと
お腹を壊します。
お茶とは反応が違うんです。
そのことが食事を丁寧に食べなければならない意味として
自分の中にしっかり刻まれました。
四日目に入ると、
まだ行けるなぁという感覚もありながら、
一つの到達点として決めていたゴールが見えた安堵感もあって、
とても心地よい朝を迎えました。
空腹感はあっても、
それで苦しむようなことは無くて、
それが逆に心地よく感じるのでした。
一杯のお味噌汁を5分以上かけて
ゆっくりお腹へ落してゆきます。
本当に有り難いことです。
食事って本当に大切なことだなぁって
心の底から思ったのでした。
その日の夜、
お味噌仕立てで、
自然栽培の七分づきのお米を
おじやにして食べました。
お米を口に入れて、
噛んでいる間、
身体がこれを受け付けてくれなかったらどうしよう?
ちょっとだけ不安がよぎりましたが、
噛んでいくうちに唾液に溶けて、
甘味を出しながら喉の奥へと、
自然に落ちていってくれました。
「うまい!」
「めちゃくちゃうまい!」
僕は本当にその時、
「これだけでいいや。」って
思ったんです。
もちろん僕自身が比較的体力のある
健康な身体を持っているとしても、
具無しのお味噌汁だけで
4日間も普通に肉体をしっかり使って仕事をしても、
フラフラしなかったんです。
一般的に考える栄養とカロリーが
必要なのでは無いと僕の感覚が理解しました。
無理して食べる必要がないことを
僕の身体が覚えたのでした。
確かに食べることはとても大切で
それによって命が維持されていて、
人生の多くの幸せの部分となることには違いないのですが、
それが全てではないことを体験出来ました。
そして何よりも、
身体が軽くなって
僕の持っている五感で感じることの
楽しさが蘇りました。
食事はその一部として、
楽しめればいいんだなぁと、
思ったんです。
それ以上の意味を与える必要は
もう無くなりました。
ヨガの行者が
最後に不食という段階に行くと聞きましたが、
何となく分かりました。
現代はあまりにもいろんな意味が与えられすぎていて、
本当に大切なことが何なのかが、
見えにくい時代になってしまっています。
シンプルにひとつひとつを見ていくために、
いろんなやり方があると思います。
断食もいろんなやり方があって、
僕は今回こんなやり方で
食と健康というものを見つめることが出来ました。
もちろん自分の体調や性格に合うやり方でないと、
身体を壊してしまうこともあるので
気をつけないといけません。
ただ、
食べない健康法というものも
あるんだということは
知っておいて損は無いと思います。
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