2016年2月24日水曜日

バランス感覚

ポジティブにものごとを見るのと、

ネガティブにものごとを見るのでは、

同じ事象も全く変わってきます。


なんだかんだ言っても、

ポジティブな方がいいよなぁぐらいに

感じている人は多いと思います。


ネガティブな発想が

更にネガティブなことを引き起こす、

負の連鎖を避けたくて

ポジティブでいることを

心掛けている人も多いと思います。


今この世界を見渡したとき、

みんなが幸せを目指して

できるだけポジティブに生活しているのは

間違いないのですが、

どうも上手く行ってないところがあります。


何故なんでしょう?


そしてそれを何とかするために

更にポジティブな方向へと

ものごとを持って行こうと

みんな頑張るのですが、

そこは少し丁寧に見ていく必要があります。


何故かというと

ポジティブなことを別の観点から見たとき、

ネガティブな部分が必ずあります。


必ずです。


ある方向性を向くことに対して

別の方向性のことが必ず発生していることに

気付いるのといないのでは

後の導かれることが変わってきます。


ある目的に対して正の方のことが

負の方に対して大きいとき、

一見ポジティブな感じがしますが、


その小さな負を無視して進み続けると

積もり積もってその負の状態を

制御出来なくなることになります。


今の世にある問題とされていること全て、

この制御出来なくなったポジティブの裏側が

そのように現れているのです。


戦争も、

経済的な格差も、

環境破壊も、

人口の問題も、

もっと範囲を絞って、

人間関係から、

家族のこと、健康のことまで、

人間を取り巻く全ての問題は、

もともとネガティブなのではなく、

ポジティブな発想から生まれています。


安定した平和をもたらすため、

便利で豊かな生活をするため、

ずっとそうやって頑張って来た過去を

別の角度で見てみれば分かります。


絶対に正しいと思ってしまうことで

見落としてしまう小さなズレが、

この時代に入って、

見過ごすにはちょっと大きくなってしまって、

あからさまに目の前に現れています。


それを見なくて済むように、

更にポジティブを目指しているので、

ポジティブでいることがとても大変です。


そんな命懸けのポジティブに

心の余裕など無くて、

ネガティブな世界に

押し潰されないようにするのを

ごまかし続けるのはもう無理でしょう。


もうそうなると、

ポジティブが良いのではないことが

分かると思います。


もちろんネガティブも良くはありません。


良いふうに言われていることを、

丸呑みにしてしまうことは

もうやめるべきです。


安心しようとすれば

不安が付きまといます。


安定を求めれば

不安定を意識させられます。


ポジティブなものとネガティブなものは

常にセットであり続けます。


良いことをどんどん推し進めていくと

悪いことをどこかで増長させていきます。


何もしないのが良いのではありません。


そうやってものごとが

陰と陽、正と負、静と動、

常に影響しあって進んでいくことを理解すれば

真ん中がだんだんと見えてくるようになります。


そうすれば少し行きすぎたら戻すことも、

少し足りなければ足すことも、

自分の感覚として分かるようになります。


ネガティブな感覚をただ遠ざけるのではなく、

ポジティブを上手に引き出すために

ちゃんと意識して活用するのです。


行き過ぎたポジティブが生み出すネガティブを

ポジティブに埋もれさせようとせず、

ちゃんと見て理解して

行き過ぎたポジティブを慎みましょう。


そして中庸でいることを意識しましょう。


それができるようになると、

慎むことが更に大切なのが分かります。


悪いことを慎むのと同様に、

良いことも慎んで行うのです。


高いところへ行けば、

その分降りてこなければならなくなります。


しっかりと自分の足で立ちやすい

平らな地面の上でバランスを取るのが

一番楽でしっかりします。


自分の目線で周りを見れば

自分にできることが分かってきます。


それをやれば問題は片付きます。


ポジティブになることに

必死になる必要も無ければ

ネガティブを無くすために

頭をグルグル使う必要もありません。


両方を自分の目線で見て

タイミングを見て必要なエネルギーとして

使っていけばどちらも有用なものになります。


ものすごく悔しかったり悲しかったりすることで

前進するのはそういうことです。


感情に対してドライでいる必要はありません。


どちらにも傾倒しなければいいだけです。


どちらにも振り回されなければいいだけです。


そのためにも慎み深い心で

日々を過ごすことが大切になります。

2016年2月18日木曜日

健康という考え方から見えてくること

健康でいることと

幸せであることは

とても密接な関係にありますが、

健康とはどんな状態のことを

言うのでしょう。


美味しい物を食べられて、

元気で長生きできたら

それで幸せです、と


以前は思っていたのですが、

最近は感じ方が変わってきて、


今、身体と心が健やかに

自分らしくあることが健康なこと、と

思うようになりました。


どのように変わったのかを

説明していきましょう。


多くの人がある程度自分の健康を

意識して生活しているのは間違いありません。


でも、

自分の健康を

断言できる人はいなくて、


この国のほとんどの人が

ガンや脳卒中や心臓疾患にならないように、

健康診断を定期的に受けています。


実際には健康かどうかの判断を

自分と違うお医者さんにしてもらっていて、

その人の言う食生活や運動を実践することで、

何となく健康に気を使っているという人が

ほとんどではないでしょうか。


以前の僕は少なくともそうでした。


自分が健康かどうかを

自分では判断できなかったのです。


病気を恐れる思いが、

心のどこかに不安を作り出しているので、

健全な健やかさを理解することは、

ありませんでした。


玄米菜食をするようになって、

食べる行為がどれ程直接的に

身体の感覚に関係しているかを知ると、

以前の食事がいかに満足感を刺激するための

行為だったのかが分かりました。


味付けにインパクトがあって、

食べ応えがあって、

満足感を得るのが

食事の醍醐味という感じでした。


でも、しょっちゅうお腹を壊していました。


でもまた時間が来ると、

また満足感を求めて別の食べ物を

腹一杯食べたいと思ってしまうのでした。


僕が禁欲的になった訳ではなくて

身体に優しい食事によって、

欲が作り出してしまう

満足感を求めようとする仕組みを

理解することができたのです。


満足感を刺激することが

常習化していたために、

どんどん刺激を求めることを、

幸せを求めることのように

感じてしまっていたのです。


それがわかると、

心と身体の健やかさは  

医学的な健康管理の考え方と

少し別のところに起因していることを

理解できます。


栄養学的なカロリー計算などで、

身体の機能を維持する見方も、

完全に間違いではないのですが、


心も身体も含めた

全体のバランスとして考えると、


例えば、

痩せなくてはならないと言われて、

「食べたい」と思う気持ちを

抑えたりすることや、


栄養があるからと言われて、

「食べなければならない」と

強迫観念みたいに感じていたりすること、


本当は口にして嬉しくないもの、

例えば化学薬品や添加物などを

しょうがない事として摂る行為は、

心の健やかさを全く無視しているので、

必ずどこかに歪みが発生してきます。


そのままそれを気にしないでいると、

身体的、内面的な歪みが病気という形で

現れて来ます。


どこかで無理をしていれば、

それがその通りに現れて来るだけなのです。


無理をしている部分を

気付いたら素直にやめる

ということだけでいいのです。


病気になるかもしれない、

という不安に対処することを

健康管理と考えていると、

他の人の言うことが気になります。


食べた方が良いものや、

食べない方が良いもの、

してはいけないことや、

やらなければならないこと、


それら全てを自分以外の人が決めている、

そのような状態は

僕は健全な健康とは呼べないと思います。


どれ程お金を出して検査をしても、

無理をしている自分を止められなければ

健全な健やかさは無いのです。


欲を満たすための食事をして、

身体の調子を崩して、

薬で症状を押さえ込んで、

また欲を満たす食事をして、

を繰り返して、

不安を持っていても無視をして、

自分ではどうにもならない症状がでると、

お医者さんにその症状を抑える薬をもらう。


その行為が何かを治しているとは、

思わなくなりました。


そのような生活の中で感じていた

刹那的な幸福感は

自分の心と身体を健やかにはしていない、

ということを理解すると、


刺激的な美味しさを求める考え方も

ただ長く生きるための医学的な考え方も

僕には無くなりました。


自分ことに気がつかないまま、

自分以外の人が判断する健康に

従うことにストレスを持ちながら、

病気への不安をどこかで感じている生活を

止めたのです。


自分の身体に起こる変化を感じながら、

自分で自分のケアをするのが、

心も身体も最も健全な状態だと、

分かったのです。


自分を健全にする選択を

自分の手で選んでいるので、

納得して生きている実感が生まれます。


それでもなってしまう病気は

その時学ぶべきことが自分にある事でしょう。


自分に対して、

無理をせずどれだけ素直か、

今僕が思う健康とは、

そういうことだと思うようになりました。




2016年2月8日月曜日

ホツマツタヱという書から感じること

僕がこのブログに書いているような精神性を

いつから意識し始めたのかを考えてみると、


子供のころから

「人は何で生きているんだろう?」と

ずっと思っていて

よく親に質問しても上手くかわされたのを覚えています。


子供の頃はあまり深刻にはなっていませんでしたし、

楽しく遊ぶことでそんな疑問はすぐにどこかへ

飛んでしまうのでした。


でも歳を重ねていくと、

何かその答えになるものが欲しくなっていて、

十歳のころには実存主義なる哲学書を

手に取っていました。


あまり辛気臭い感じに思われるのも嫌だったので、

夜に一人で机に向かって読んでいました。


思春期から二十歳のころまで、

ずっとロックバンドを組んでいたので、

結構いろんな考え方に接する機会が

多かったと思います。


ある程度有名な文学作品も読みましたし

海外のカウンターカルチャー的なものから、

日本のアンダーグラウンドなものまで、

自分の疑問の答えになるような言葉を

ずっと探していました。


それでももっとカチッとくる言葉が欲しくて

ネイティブアメリカンのメディスンや

旧約聖書やヒンディー教のタントラ、ムスリムのコーランも

読みました。


書かれている事はどれも素晴らしいと思うのですが、

何か距離感があるように感じたのでした。


三十代になって仏典にも目を向けてみるものの、

何かまだもっとはっきりとしたものに出会うような気がして、

そのころには自分の疑問にいつまでたっても

答えが見つからないことに少し焦りのような気持ちも

持つようになっていました。


日月神示や火水伝文にふれ、

言葉の優しさがとても心地よく感じたのですが、

まだ分からないことが多くてまだ探してしまう自分を

抑えることが出来ませんでした。


そしてホツマツタヱに出合います。


オオタタネコの命が景行天皇に奉呈したとされる

日本の古代のできごとをヲシテという文字で綴った

古い書物です。


このことはホツマツタヱが正しいとか間違っているとか

そのようなことが言いたいのではありません。


ただ僕の中に安心感が生まれたのでした。


僕は三輪の姓を持つので、

もし真書であれば約二千年前の僕のご先祖様が

「末の例とならんかと」残してくださった言葉に

触れていることになります。


もしも偽書であったとしても

和の心が丁寧にしかも細かな整合性を持って

全編に表現されている一級の芸術作品に

間違いありません。


ヲシテと呼ばれる文字一つ一つにも、

細かな意味に合わせてその形が決まっていて、

美しさを感じることが出来ます。


多くの方が現代語訳して下さっているお蔭で

読み比べながら自分の中に風景を描きやすく、

初めて読んだその日に、

「これだ!」と確信したのです。


自分の中に納得のいく感覚が生まれると、

それまで答えを求めて学んできた全ての言葉たちは

出会ったその時点の自分には

少し遠く感じていただけだったことも

理解できました。


自分がそれまでいろいろ学んで来た経験を

上手くまとめられなかったことが

もっと大きな視点から

一つにまとめることができたのです。


そして実際に生活の中で実践することを

意識するようになります。


今僕が完全菜食になったのも、

ホツマツタヱに、獣の肉を食せば血が凝って身も枯れるぞ、

それは濁った水が乾きやすいのと同じことなのだぞ、

とあったのを見てからです。


腑に落ちないことができない自分に

この言葉だけでそれ以来肉食をしなくさせる

作者の優しさを感じたのです。


お蔭さまで僕の身体は

記憶にある年数風邪をひいていない

健康状態にあります。


何かが正しくて何かが間違っているような

感覚で読んでも見えてこないものがあって、


それは、

陰と陽の相互作用から全てが成り立っていて

足りなくても過ぎてもいけない、

その中を大切にするための説話によって

綴られていることによるのだと思います。



「末の例とならんかと」残してくれた言葉たちに

これからの日本の、世界の在り方のヒントが

詰まっているように感じています。


そして僕はホツマツタヱの言霊たちを

現代に蘇らせる何かお手伝いをしたいと考えました。


ずっと音と映像で何かできないかと考えていたのですが、

今回、ヲシテで詩を詠み、

それに音を合わせるという手法にしようと思いたちました。


僕の表現はホツマツタヱのエッセンスを自分流にアレンジして、

現代に新しい形として蘇らせたいとの思いもあって、

詩は7、5 7、5 7、5 7、5 の今様で表しました。


並びもグラフィックにしたとき

その文字配列が綺麗に見えるので

和歌で詩を詠むのはまだもう少し先になりそうです。


ただ現代に蘇らせるには

ヲシテを使う事が一番大切なことだと感じています。


今回は2作品をYOUTUBEにUPします。


くにとこたちへ わのちかい

たててあゆまん そのみちに

はるかふくかせ あたたかく

こころほつまに はなもさく





あめのむすひの たまのをの

みたれほとくは おのつから

あまつひつきに まつろひて

あわすこころの ゆえおしる




これを詠んでまた何かを感じていただけたら幸いです。


2016年2月2日火曜日

自立する

この世に生まれて来るということは

それぞれの個性を持って一つだけの存在となることです。


得意不得意がそれぞれにありますが、

生まれ出てきたその時から、

自分という個として何ものからも独立します。


この世界の中で

自分という持ち場を完全に任されます。


何をしても良くて、

何を学ぶにも、

全くの素人からの出発です。


呼吸をすることから始めて、

食べることも、

歩くことも、

言葉を使うことも、

その環境に合わせて、

全て経験しながら考えては、

更に自分の可能性を試していくことで

成長していきます。


個として存在する以上、

小さな赤ん坊の内から、

確実に自分で考えて行動しています。


身体を上手に使いこなせなくても、

素直に自分の感情を表現して、

如何にして自分の思いを相手に伝えるかを

学びながら少しずつできるようになっていきます。


言葉でコミュニケーションするようになって来ると、

自分以外の人の経験も

言葉を通して擬似的に経験していきます。


言葉による擬似経験は、

空想をともなって本当の経験と変わらない

身体感覚のある記憶となっていきます。


他の人の経験から学んで、

自分の人生に生かすことのできる

人の素晴らしい特性です。


ただ最近、

この擬似経験が

あまり上手く生かされていないことが

多いように感じます。


他の誰かの経験の話を、

自分の直接的な経験とを混同してしまうと、

自分で行動して経験していないことを、

分かったかのように感じてしまいます。


やらなくても分かるというのは、

自分の経験で得た感覚に

同じように至るのが分かることです。


場面が違ったり、

程度が違ったりしても、

自分が経験したことが基になっています。


自分の経験が浅く、

いろんな側面から見ることが

出来ていない内から

他の人の話しを鵜呑みにしてしまうと、

行動力が低下していく上に

自分で考えることをしなくなってしまいます。


自分で考えて行動することは、

この世界を豊かに生きる上で、

もっとも重要な要素です。


自分でやろうとしても

中々できないことを

どうやって乗り越えていくのか、

そこに頭を使って、

試行錯誤してやっとできるようになり、

それを幾度となく繰り返して、

徐々に体が覚えてくるようになると、

そこからやっと自分らしさをその中に見つけて、

その行為を本当に楽しめるようになっていきます。


このことは、

人生のどのできごとにあっても

同じことが言えるのです。


例えば趣味であっても、

仕事であっても、

コミュニケーションであっても、

もっと内面的な愛情の出し方であっても、


自分が経験していく中で、

試行錯誤しながら

自分と向き合って

成長していくものなのです。


その際、

今自分でできないことに

理由を付けてしまう弱さや、

人にやってもらって当然のように思える傲慢さや、

無理だと決めつけてしまう頑固さがあるとしたら、

自立するタイミングです。


自分一人の力で

やってみないことには

何も得るものはない、


そのことに

気付いているのです。


もし本当に

自分一人でできないことだと本気で思うなら、

それはやるべきではありません。


やってみたいと思う事でも

自分一人では出来ないと思うなら

やらないほうがいいです。


なぜならば、

上手くできなかったときの言い訳ができてしまうので、

自分の経験として得られないのです。


上手くできなかったときの

自分の感覚の記憶をたどって、

次に生かせるのは

自分の決意で行動した部分だけだからです。


どんな状況でも

自分一人でやってみるという覚悟があるときに

初めて周りのサポートも得られるようになります。


そこで初めて絆や友情といった

繋がりが意味を持ってくるのです。


自分にできないことを

まず誰かににやってもらう前提で

チームワークなどはあり得ないのです。


得意不得意があっても、

最初から上手くできなくても、

失敗する恐怖に押し潰されそうであっても、


自分一人でやっていく決意が

自分を変え、

自分の周りを変え、

学びの質を変え、

結果を変えていくのです。


一番重要なことは、

決意を自分の中に抱くことです。


そうすれば、

そこから出会ういろんな人の話す、

擬似経験も全く意味が変わってきます。


他の人の経験は、

自分のものではなく、

自分がする経験と

遜色なく評価しあえるようになるでしょう。


他の人の学びを自分に生かし、

自分の学びを人が生かせるのも、

自立した行動による経験からです。


自分という個がこの世界の中で、

しっかり自分の力で立つこと、

それが協調性の一番最初に始めるべきことなのです。