2015年9月22日火曜日

生きることを楽しむために必要なもの

ここ最近の僕は、

実際に起きている凄まじい現実の中にあって

楽しむということが自分をいかに

本当の自分へ導いてくれているかをご紹介できるように

いろいろと検証していた次第です。


この頃感じていたのは

大人になっていくにしたがって

楽しむということから

遠ざかってしまう人達の多さです。


楽しむために先ずするべきことが

とても多くあると思っているので

それがふとした瞬間の言動に現れてきます。


時間やお金、

道具や雰囲気や仲間も

そろっていなくては楽しめないように

なってしまっているようです。


やらなくてはならないことに追われて

思うように楽しむことを満喫できないことさえ

大人であるがゆえの辛さのように

感じている人もいらっしゃるかもしれません。


楽しむこととは、

そんなにも難しいことなのでしょうか?


難しくなってしまう理由について

考えてみましょう。


まず、楽しいと感じる感覚を

思考で捉えてしまうようになっていることはないでしょうか。


どうしたら楽しめるか、

という考えが浮かんでくる場合、

感覚を思考で捉えようとしています。


感覚は内から湧いてくるものです。


思考よりももっとシンプルなものなので、

複雑に考えても分かりません。


今、楽しいと感じていない理由を

すぐ見つけられるでしょうか?


ここで一つ注意しておくべきことがあります。


感覚とは、

全くもって自分の内側にあるものなので、

自分が何をどう感じるかということは、

完全に私事です。


それを、この瞬間を楽しいと感じていない原因を

自分ではない、他のせいにしてしまっているところがあれば

それをやめてみましょう。


感じる物事を他のせいにしなくてすむのは、

それだけでも気持ちがとても楽になります。


自分のままにしていることを、

何か他のせいにできることなどないのです。


その上で、

何かが足りないと感じているとしたら、

そこは間違いだと気付いてください。


楽しむということは、

今ここにあることをいかに楽しむかという

現在形の行為の中でしか感じられません。


ないものを手に入れたその先に

楽しいと感じるのではありません。


今足りないものは

今ここにないということなので、

ない状況を楽しむ以外ないのです。


ないと感じるもの自体が、

そもそも楽しむことと何の関係もないのです。


なくてもいいものを求めていると

楽しむというシンプルなことを

見失ってしまいます。


見失ったまま、

ただの興奮状態を生む刺激を

楽しむことと勘違いしてしまいます。


そこからは

もっともっと、となっていくだけです。


それでは最終的に飽きてしまうか、

破滅的な道をたどってしまうでしょう。


そのような興奮状態と

楽しむ感覚の違いまで理解しているのであれば、

その空間に完全に自分をゆだねてみて下さい。


ゆだねきれない小さな自分を

見つけてあげられるでしょうか。


その小さな自分のままで

周りを見回してみましょう。


恐れることはありません。


この世界はそんなに大差はなくて、

不完全なものがそのまま存在できる

完全性を持っています。


不思議です。


あり得ないと思われるようなものもあるし、

当たり前にあると思っているものは

何一つ同じもののない唯一無二の存在だったりします。


分かっていたように思っていた

目の前で本当に起こっているものごとを

僕らは何一つ完全に理解できていないのです。


楽しむことができなくなるのは、

この分からないでいる自分を恐れてしまうことから始まっています。


分からないまま

次の瞬間を迎え入れてみましょう。


思うようになることはありませんが、

なるようになるままにゆだねてみてください。


自分が思う以上になっていきます。


そこが楽しいのです。


どういう形であれ迎え入れる準備が整うと、

楽しむことが基準になってきます。


一度も経験したことのない新しい瞬間に出会うのです。


それもただ思い出すだけのようにやってきます。


本当に不思議な世界に

そのままゆだねるということが

一番楽しむコツだったのです。





2015年9月6日日曜日

知りたい気持ちが導いてくるもの

これまで僕は

さまざまなことに疑問を抱いては、

その答えを探していろいろと経験してきました。


僕の思考は少し厄介で

納得できないことを

受け入れてくれませんでした。


納得のいく答えが見つかるまで

取りあえず置いておいた疑問で

頭の中は破裂しそうになっていました。


調べれば調べるほど、

いろんな答えに巡り合います。


そこからさらに疑問が増えて

にっちもさっちもいかなくなってくると、

結局そこにある言葉遣いの好き嫌いで

気に入った言葉を選んで

分かったような気になってしまっていたことが

ほんとに多くありました。


そのような、

分かった気になっていることは

自分の本当の知恵にはならないので、

生きていくための強さには

なってくれません。


そのような知識をどれだけ詰め込んだとしても

今、僕がここで幸せを感じるための

手助けにはならないのでした。


逆に自分の経験を通して感じた

内側から湧いてきた感覚は

力強く自分の自信になっているのです。


最近僕はこの内側で感じる感覚を

分かる、ということとして捉えるようになりました。


この内側から来る

分かる、という感覚は

すでに分かっていた自分を

思い出すような感覚で訪れます。


この感覚をもって日々の生活を送るようになると

新しく知りたいと思うことは格段に減りました。


自分が出会うこと一つ一つが

自分にとって何なのかその場で分かるのです。


そしてその場で分からないことが

今自分に必要のないことなのが分かるので

それ以上求めなくて済むのです。


例えば誰かが

どんなに素敵な言葉で語りかけてくれたとしても

それがまだ自分の経験でないうちは分からないのですが、


しかし、それが分かる時には

新しい知識が外からやって来たのではなく

すでに知っていることと照合できたときなのです。


自分の外側にあるものを見ている状態では

それを知りたいという気持ちは収まりませんが、


内側に湧いてきた気持ちは

一度の経験でずっと唯一無二の宝物となっています。


これは何を表しているのでしょうか?


知識として表されるものより

もっと深淵なものを僕らはすでに持っているのです。


知識でそれを表すことはできません。


僕らが超越して存在することができないために

与えられた内なる感覚としてしかありえないのです。


でも、

確実に一人一人に

内なる感覚としてあるのです。


しかもそれが感覚として機能するのは

今という瞬間の中だけです。


過去の記憶の中ではありません。


未来の仮説の中でもありません。


経験している感覚に

注意を向けて見て下さい。


一か月でどれほど分かることがあるでしょうか。


一週間で

一日でどれほど

自分がここで生きていることを

感じられるでしょうか。


過去や未来は

生きて感じる幸せとは関係ありません。


ここから離れて行こうとする意識を

今ここにいることに落ち着けてみましょう。


ちょっとしたことなどは

一旦置いて

ゆっくり深呼吸してみてください。


分かるでしょうか。


これが幸せということです。

2015年9月3日木曜日

意識が向かうところに現れてくるもの

僕のいるこの世界は

たった一つの今の中にしか

存在することはありません。


現実も

真実も

虚構も

空想も


昨日見た夢も

思い描く明日も


愛する人といる温かさも

小憎たらしいやつに苛まれる辛さも


理想に近づく歓びも

逆境に耐えるだけの苦しさも


全て今感じる経験として起こっています。


それぞれの人が

自分の思う幸せを目指している中で、

今その人の意識の向いているところが

その人にとってのこの世界の見え方になります。


その見え方を

他の誰かが経験することは無くて

その経験を通して

その人に合った和する技術を養いながら、

本当の自分に気付いていきます。


本当の自分、

ありのままの自分はずっと

今ここにいるということを

とても遠回りに思える道のりで

一つづつ確かめています。


でも一つづつ確かめていくことが

最も近道だということが分かれば

もうその道は苦ではありません。


気を付けたいのは

技術的なことに

重点を置きすぎないことです。


技術を養うこと自体を目的としてしまうと、

本当の自分に気づくことが難しくなってしまいます。


意識が『目的』に向いてしまうからです。


技術的な優劣を気にしてしまったり、

上手にできなかった過去や

上達するはずの未来へ

意識が向いてしまいます。


そこに

本当の自分は現れてきません。


それよりも

今いるここ、ここが全ての起点となることに

意識を向けることです。


なぜなら

今ここにしか自分はいないからです。


意識が向いている部分から見ているものに

感情が反応して世界の見え方が変わっていくのですから、


その中心である自分のいる、

今ここ、に意識を向けて見ることで


変化を感じるよりも中心にあるものが

本当の自分であることが分かります。


針の孔を通すような感覚で

中心を探していた頃もあったのですが、


全ての力を抜いて

今ここ、に意識を落ち着けることで

分かるようになりました。


僕は今

ここに生きています。