2016年9月29日木曜日

陰陽の流れが全てを司っていること

この世界に起きている物事は

お互いに影響しあって

さらに新しい何かを作っていきます。


それら全てを把握することはまず出来ないので、

完璧な予想を立てることは出来ません。


計画的に物事に働きかけて、

結果を導きたい方向へ向けて行くことは

ある程度出来ても、

それを完璧にするということが、

いかに難しいかは説明するまでもありません。


これはどんな事にも当てはまります。


どんな事も完全に思い通りにならないが故に、

そして一つの結果を自分の思うカタチにするために、

努力というものが必要になってきます。


何度も繰り返していく中で少しの変化を覚えておいて、

もう少しこうしてみようとかあぁしてみようとか試していきながら

自分の求めるカタチに近づけていきます。


例えばある結果を出すのに期限が決まっていたりすると、

その繰り返す頻度も頻繁に必要です。


また逆に期限など無い場合は、

気長に構えて少しづつ試していったりするでしょう。


さて、

これはどんなことと照らし合わせていけるのでしょう。


スポーツのこと、

仕事のこと、

試験のこと、

なりたい自分のこと、

対人的なこと、

健康のこと、

思い描く夢のこと、

性格のこと、

経済的なこと、

世界情勢のこと、

そのどれに対しても、

自分が働きかけて進めていきたい何かがある時、

この努力をしないわけにはいきません。


この時その努力の道のりが

楽しさとウキウキする感覚で満たされるようにすれば

人生大成功!!!

みたいな話しを僕は片手落ちだと思っています。


もちろん楽しくウキウキすることはとても重要な要素で、

自然とそう感じることに対して敏感でいることは

自分の向かう道を確かめるのに必要です。


でもそれだけでは見えてこない部分があって、

そこを意識できるようになることこそが、

あるがままを受け入れるということになっていくと感じるからです。


物事が新しく進んでいく時、

その中心にいる自分は、

どうなっているのでしょうか。


結果の部分だけに執着してしまうと、

望む結果を得られないかもしれないという

不安を持つことになりますし、

その過程で見えてくるはずのものも見えない上に、

楽しむ余裕も無くなってしまうでしょう。


やり方や方法論ばかり気にしていても、

望むカタチには程遠いまま、

いつまで経っても納得できずじまいです。


物事が進んでいくということは、

新しい変化を起こしてさらに次へと、

向かわせてくれる動機となっていきます。


嬉しかったが故に、

楽しかったが故に、

気持ちよかったが故に、


苦しかったが故に、

辛かったが故に、

嫌だったが故に、

その時々に抱く感情と共に

次へと進んでいくことになるのです。


苦しさや辛さ、

悲しさや切なさや淋しさも、

ある時ある人にとって最大のエネルギ-源となって

その世界の中心に存在します。


それを排除して考えることを

僕はお勧めしないのです。


物事が動いてそれが及ぼす影響というものが、

必ず一方向だけということもあり得ません。


同じ経験から感じることも一つではないのです。


ある人、

ある時、

感じ方は様々です。


それらは全て自分を動機付ける要素として

自分の中心に湧き起ってきます。


一歩づつ進んで望んだカタチを目指していく時、

その中で心が変化していく自分を見つめて、

自分を理解して信じられるようになっていくためにも、

感じられることを拒まないことが必要です。


大きく進んでいくという見方とともに、

同時に幾つもの感情へ

自分を開いていくという見方が必要だと思います。


どんな感情に出会ったとしても

そこからさらに進んでいく自分を思い描けるでしょうか。


自分を、この世界を信じることが出来たなら、

何を恐れる必要があるでしょう。


そしてそれは誰かにやってもらうことでしょうか。


全ての感情を感じられるのは

紛れもなくそこにいる自分です。


他の誰かが感じるのではありません。


感じる事は一つのエネルギーとして、

自分の向かうべきところに向かうように仕向けてくれます。


その作用には嘘がありません。


そしてその作用によって

全てが動いているのです。


自分も、

自分の感情も、

この世界も、

この作用の流れの一部にすぎません。


その流れを作り出しているのが、

また戻って僕たち自身です。


心を開いてその状況を見るには、

何かを拒絶していては出来ないことなのです。


拒絶することを無くした瞬間に、

ただこの大きな流れが

一部であるはずの自分自身と

何の境目もないことがわかります。


その時、

自分を信じることも、

世界を信じることも、

中心には自分がいて、

その自分が全ての陰陽の根本として

ここにいることが分かります。


良いことも悪いことも、

どちらも大切にしたうえで、


さて、

自分の望みのカタチをもう一度

目指して進んでいきましょう。





2016年9月22日木曜日

自我の放棄と感情というエネルギーの関係

日々いろんな物事が身の回りで起こります。


楽しいことばかりだといいなぁと思ってみても、

そんなわけはありません。


だからと言っていつも気を張って

辛い目に合わないようにしているのでは

疲れてしまいます。


いかに辛いこと苦しいことから、

自分を遠ざけようとしても、

残念ながら世界のどこへ行っても

それらが無い場所はありません。


それらが無くならないのであれば、

直接対決で何とかしたい!

そう思ったその瞬間から

また疲れていってしまう道を選んでいます。


その繰り返しから離れて

ただ自分に起こっている感情の変化が

何なのかに目を向け始めると、

自分の全てを受け入れる準備が整って来ます。


悲しみや怒りを簡単に解放すること、

例えば愚痴にしたり、

誰かに相談することもそうですが、


その段階では、

自分の中で涌き上がって来るエネルギーを

理解出来ないまま手放している状態です。


目の前にある出来事を、

自分の経験や知識に照らし合わせて

解釈しようとしても出来ないこと、

それが悲しみや怒りとして

自分の中に表れているのを、

そのまま表現している状態です。


大人しくしていたとしても

喧しくなっていたとしても

それ自体には大した差はなくて、

周りに振りまいているエネルギーは

刺々しいものです。


いかに多くの人生経験をしていても、

その時に涌き上がって来る

自分の持っているエネルギーの変化を理解出来なければ、

ずっと同じようなことで怒ったり悲しんだりしてしまいます。


自我を放棄して自分を解放するということは、、

明るくホワッとするようなイメージを持つかも知れません。


でもそれはとても偏ったイメージで

常にどこかで発生する苦しいことや辛いことが

無くならない原因を探すはめになってしまいます。


そしてそれらを責めるか、

それらから逃れるか、

結局繰り返してしまうだけで、

そのループから逃れられる術はありません。


沢山の経験を積む上で、

自分の中で起こるエネルギーの変化を、

よく見て理解出来るようになることが、

自分を知るということです。


自分を知って

その感情の起伏を

別の視点で捉えられるようになれば、

感情を揺さぶって来る事象に振り回されることは無くなります。


そしてその感情エネルギーを別の方向へ向けて、

クリエイティブなことに使うことが出来るようになってくると、、

辛い、苦しい、という感覚ではなくなってきます。


この経験を何度も繰り返す中で、

心の静寂がどんどん深まっていくのです。


自分らしさを持って、

決して完璧を求めず、

別の何かに変換することを学んでいけば、

その感情エネルギーは心の成長に必要だったのだと気が付くでしょう。


自我という拘りを捨てて

自分を解放するということは、

持っている全てのエネルギーを解放して

それによって自らが成長していく行為です。


抑えたり、

堪えたり、

見ないようにしたり、

変な解釈を加えてみたりしても

自由な感覚には辿り着きません。


簡単に出来ることもあれば、



絶対に無理と感じることもあります。


自分の中にあるものを受け入れるのに、

それがなかなか出来なくて、

何度も経験する必要があることもあります。


しかも人によっても違うので、

自分の中で抱えこんんでしまうしか無いこともあります。


それはとても辛くて苦しいことです。


そんなとき、

この世界にある全てが

不完全なままずっと変化し続けていて、

それは今成長していっている自分と

何も違いが無いことに目を向けてみて下さい。


どれだけ経験を積んでいても、

どれだけ恵まれた環境にいても、

いつの時代も、

完全である必要はないのです。


不完全であるからこそ、

幸せを感じられるし、

伸びることが出来るのです。


自分を開くタイミングは

人それぞれ違いますが、

変わることを恐れなければ

もうすぐにでも始まります。


2016年9月20日火曜日

天地(アワ)の歌

ホツマツタヱにはアワの歌として

次のように詠まれている歌があります。


アカハナマ イキヒニミウク

フヌムエケ ヘネメオコホノ

モトロソヨ ヲテレセヱツル

スユンチリ シヰタラサヤワ


イザナギ、イザナミが民達の言葉の乱れを整えようと

詠んだと記されています。


日本語の元となる48音全てを配して、

しかも順序も一定のリズム感を持ったこの歌には、

どのような想いが込められているのでしょう。


縄文時代と言われる頃に使われていた

大和言葉の元となる言葉達は、

現代の僕らには少し解釈しにくくなってしまっています。


ホツマツタヱについては、

いろんな方が深く調べて公表して下さるようになってきています。


アワの歌にも触れる機会があるかもしれません。


ミカサフミというこれもヲシテ文字で書かれた文書にも、

アワの歌の解説を記した部分がありますが、

その部分も歌として詠まれているので、

現代日本語では掴みにくいところです。


僕自身は、

長歌であるところに様々な意味を込められた

その奥深さをそのまま味わうのが、

本当の意味では良いと思いますが、

入口として、

興味を持っていただけるように、

アワ歌に込めた二神の想いを

僕が感じたまま訳したいと思います。


~~~ 天地(アワ)の歌 ~~~

開け放ったままでいること。

それは生きた霊魂に身を受けてこの地に降りた

人としてするべきもっとも大切なこと。

上手くいかないことも多々ありますが、

それでも上を目指して自分を伸ばしていけば、

天に還ることもできるのです。

太陽が照れば素直に伸び行く

青々とした樹木のように、

真っすぐに生きていきましょう。

それには身体を大切に健康に保つこと。

そうすればこの地上はとても爽やかに素晴らしいものとして、

広がっていることでしょう。

~~~~~~  ~~~~~~ 

            
僕が初めてホツマツタヱに触れた時、

何とも言えない優しさを感じたのを覚えています。


全編を通して

陰陽の働きによって全てが生まれるという

物事の道理を示していながら、

人としての感情の揺れを軽く扱っていない、

そういった物語りに出会ったことは、

僕の人生を大きく変えるきっかけになりました。


太古の神々さま達も、

悩みながら民を率いて歩んで行った軌跡が

生き生きと詠まれているその歌から、

完璧では無いことこそが

実はとても大切なことなのではないかと、

感じるようになったのです。


これを読んで頂いた方も、

どうぞご自分の感覚で、

太古の英知を自身の言葉に置き換える事をお勧めします。


太古の昔から生きる上で必要なことは、

とてもシンプルなことだったのではないかと感じています。


ただシンプルであるが故に、

複雑な人の感情や欲などに

簡単に揺さぶられてしまうものなのかもしれません。


アワの歌はそんな人の弱さを

優しく抱いてくれる愛情にあふれているように思います。