お互いに影響しあって
さらに新しい何かを作っていきます。
それら全てを把握することはまず出来ないので、
完璧な予想を立てることは出来ません。
計画的に物事に働きかけて、
結果を導きたい方向へ向けて行くことは
ある程度出来ても、
それを完璧にするということが、
いかに難しいかは説明するまでもありません。
これはどんな事にも当てはまります。
どんな事も完全に思い通りにならないが故に、
そして一つの結果を自分の思うカタチにするために、
努力というものが必要になってきます。
何度も繰り返していく中で少しの変化を覚えておいて、
もう少しこうしてみようとかあぁしてみようとか試していきながら
自分の求めるカタチに近づけていきます。
例えばある結果を出すのに期限が決まっていたりすると、
その繰り返す頻度も頻繁に必要です。
また逆に期限など無い場合は、
気長に構えて少しづつ試していったりするでしょう。
さて、
これはどんなことと照らし合わせていけるのでしょう。
スポーツのこと、
仕事のこと、
試験のこと、
なりたい自分のこと、
対人的なこと、
健康のこと、
思い描く夢のこと、
性格のこと、
経済的なこと、
世界情勢のこと、
そのどれに対しても、
自分が働きかけて進めていきたい何かがある時、
この努力をしないわけにはいきません。
この時その努力の道のりが
楽しさとウキウキする感覚で満たされるようにすれば
人生大成功!!!
みたいな話しを僕は片手落ちだと思っています。
もちろん楽しくウキウキすることはとても重要な要素で、
自然とそう感じることに対して敏感でいることは
自分の向かう道を確かめるのに必要です。
でもそれだけでは見えてこない部分があって、
そこを意識できるようになることこそが、
あるがままを受け入れるということになっていくと感じるからです。
物事が新しく進んでいく時、
その中心にいる自分は、
どうなっているのでしょうか。
結果の部分だけに執着してしまうと、
望む結果を得られないかもしれないという
不安を持つことになりますし、
その過程で見えてくるはずのものも見えない上に、
楽しむ余裕も無くなってしまうでしょう。
やり方や方法論ばかり気にしていても、
望むカタチには程遠いまま、
いつまで経っても納得できずじまいです。
物事が進んでいくということは、
新しい変化を起こしてさらに次へと、
向かわせてくれる動機となっていきます。
嬉しかったが故に、
楽しかったが故に、
気持ちよかったが故に、
苦しかったが故に、
辛かったが故に、
嫌だったが故に、
その時々に抱く感情と共に
次へと進んでいくことになるのです。
苦しさや辛さ、
悲しさや切なさや淋しさも、
ある時ある人にとって最大のエネルギ-源となって
その世界の中心に存在します。
それを排除して考えることを
僕はお勧めしないのです。
物事が動いてそれが及ぼす影響というものが、
必ず一方向だけということもあり得ません。
同じ経験から感じることも一つではないのです。
ある人、
ある時、
感じ方は様々です。
それらは全て自分を動機付ける要素として
自分の中心に湧き起ってきます。
一歩づつ進んで望んだカタチを目指していく時、
その中で心が変化していく自分を見つめて、
自分を理解して信じられるようになっていくためにも、
感じられることを拒まないことが必要です。
大きく進んでいくという見方とともに、
同時に幾つもの感情へ
自分を開いていくという見方が必要だと思います。
どんな感情に出会ったとしても
そこからさらに進んでいく自分を思い描けるでしょうか。
自分を、この世界を信じることが出来たなら、
何を恐れる必要があるでしょう。
そしてそれは誰かにやってもらうことでしょうか。
全ての感情を感じられるのは
紛れもなくそこにいる自分です。
他の誰かが感じるのではありません。
感じる事は一つのエネルギーとして、
自分の向かうべきところに向かうように仕向けてくれます。
その作用には嘘がありません。
そしてその作用によって
全てが動いているのです。
自分も、
自分の感情も、
この世界も、
この作用の流れの一部にすぎません。
その流れを作り出しているのが、
また戻って僕たち自身です。
心を開いてその状況を見るには、
何かを拒絶していては出来ないことなのです。
拒絶することを無くした瞬間に、
ただこの大きな流れが
一部であるはずの自分自身と
何の境目もないことがわかります。
その時、
自分を信じることも、
世界を信じることも、
中心には自分がいて、
その自分が全ての陰陽の根本として
ここにいることが分かります。
良いことも悪いことも、
どちらも大切にしたうえで、
さて、
自分の望みのカタチをもう一度
目指して進んでいきましょう。
計画的に物事に働きかけて、
結果を導きたい方向へ向けて行くことは
ある程度出来ても、
それを完璧にするということが、
いかに難しいかは説明するまでもありません。
これはどんな事にも当てはまります。
どんな事も完全に思い通りにならないが故に、
そして一つの結果を自分の思うカタチにするために、
努力というものが必要になってきます。
何度も繰り返していく中で少しの変化を覚えておいて、
もう少しこうしてみようとかあぁしてみようとか試していきながら
自分の求めるカタチに近づけていきます。
例えばある結果を出すのに期限が決まっていたりすると、
その繰り返す頻度も頻繁に必要です。
また逆に期限など無い場合は、
気長に構えて少しづつ試していったりするでしょう。
さて、
これはどんなことと照らし合わせていけるのでしょう。
スポーツのこと、
仕事のこと、
試験のこと、
なりたい自分のこと、
対人的なこと、
健康のこと、
思い描く夢のこと、
性格のこと、
経済的なこと、
世界情勢のこと、
そのどれに対しても、
自分が働きかけて進めていきたい何かがある時、
この努力をしないわけにはいきません。
この時その努力の道のりが
楽しさとウキウキする感覚で満たされるようにすれば
人生大成功!!!
みたいな話しを僕は片手落ちだと思っています。
もちろん楽しくウキウキすることはとても重要な要素で、
自然とそう感じることに対して敏感でいることは
自分の向かう道を確かめるのに必要です。
でもそれだけでは見えてこない部分があって、
そこを意識できるようになることこそが、
あるがままを受け入れるということになっていくと感じるからです。
物事が新しく進んでいく時、
その中心にいる自分は、
どうなっているのでしょうか。
結果の部分だけに執着してしまうと、
望む結果を得られないかもしれないという
不安を持つことになりますし、
その過程で見えてくるはずのものも見えない上に、
楽しむ余裕も無くなってしまうでしょう。
やり方や方法論ばかり気にしていても、
望むカタチには程遠いまま、
いつまで経っても納得できずじまいです。
物事が進んでいくということは、
新しい変化を起こしてさらに次へと、
向かわせてくれる動機となっていきます。
嬉しかったが故に、
楽しかったが故に、
気持ちよかったが故に、
苦しかったが故に、
辛かったが故に、
嫌だったが故に、
その時々に抱く感情と共に
次へと進んでいくことになるのです。
苦しさや辛さ、
悲しさや切なさや淋しさも、
ある時ある人にとって最大のエネルギ-源となって
その世界の中心に存在します。
それを排除して考えることを
僕はお勧めしないのです。
物事が動いてそれが及ぼす影響というものが、
必ず一方向だけということもあり得ません。
同じ経験から感じることも一つではないのです。
ある人、
ある時、
感じ方は様々です。
それらは全て自分を動機付ける要素として
自分の中心に湧き起ってきます。
一歩づつ進んで望んだカタチを目指していく時、
その中で心が変化していく自分を見つめて、
自分を理解して信じられるようになっていくためにも、
感じられることを拒まないことが必要です。
大きく進んでいくという見方とともに、
同時に幾つもの感情へ
自分を開いていくという見方が必要だと思います。
どんな感情に出会ったとしても
そこからさらに進んでいく自分を思い描けるでしょうか。
自分を、この世界を信じることが出来たなら、
何を恐れる必要があるでしょう。
そしてそれは誰かにやってもらうことでしょうか。
全ての感情を感じられるのは
紛れもなくそこにいる自分です。
他の誰かが感じるのではありません。
感じる事は一つのエネルギーとして、
自分の向かうべきところに向かうように仕向けてくれます。
その作用には嘘がありません。
そしてその作用によって
全てが動いているのです。
自分も、
自分の感情も、
この世界も、
この作用の流れの一部にすぎません。
その流れを作り出しているのが、
また戻って僕たち自身です。
心を開いてその状況を見るには、
何かを拒絶していては出来ないことなのです。
拒絶することを無くした瞬間に、
ただこの大きな流れが
一部であるはずの自分自身と
何の境目もないことがわかります。
その時、
自分を信じることも、
世界を信じることも、
中心には自分がいて、
その自分が全ての陰陽の根本として
ここにいることが分かります。
良いことも悪いことも、
どちらも大切にしたうえで、
さて、
自分の望みのカタチをもう一度
目指して進んでいきましょう。