2016年8月24日水曜日

不要な考えが作り出すもの

最近目にしたネットコンテンツに、

とある有名な科学者の方が述べた

人工知能の将来的な危険性についての話しが出ていました。


その記事とリンクして、

宇宙人がもしいたとしても、

地球人と仲良くなる見込みは無いだろうという考察を

述べている記事も読んでみました。


おおよその話しとしては、

知能の高いものが現れた場合、

地球人を愚かしく思って滅ぼしかねない、

といった内容でした。


人間が滅ぶかもしれないとの考え方を

以前の僕ならフムフムと納得しながら

読んでいたかもしれません。


でもなぜか今回は読み終わった後に

いろんな疑問が湧いて来ました。


その知能の高いもの達が、

もし人間を滅ぼしたとして、

その後に新たな脅威になる存在も、

全部滅ぼしていくのでしょうか。


人間以外にも昆虫やウイルスやバクテリア、

酸性のきつい土壌や強アルカリ性の物質など、

この地球上には生命活動にとって脅威となるものが多くあって、

今は人間が多い状態の中でこの環境バランスなので、

人間がいなくなれば別の脅威がやってくる可能性は大いにあります。


それらを全部無くしていくためには、

結局地球が無くなるまで排除し続けなければならないかもしれません。


それは大袈裟であったとしても、

常に何か敵になりうるものをずっと排除し続ける行為はキリが無く

必要なエネルギーは膨大なものになるので、

そのエネルギーを別の建設的なことに使う方が

生きていく上では効率がいいのではないかなぁ、

なんて思ったのです。


例えば命の危険について考えたとき、

どこまでもそれを遠ざけることが

安全を担保していくという考え方も

間違いではありません。


でも危険というものは、

いつ何処にでも存在していて、

それらは自分が存在する限り

無くなることはありません。


必要以上に不安になった状態では、

生命活動さえもままなりません。


でも生命はある一定の距離に危険を感知しなければ

リラックスして過ごすことが出来ます。


その状態でも五感はしっかりと働いていて、

何かの異変を感じれば

対処するように出来ています。


なので普段は必要以上に不安になることは無く

過ごすことが出来ます。


ただここで最初の話しに戻して考えてみましょう。


確かに行き過ぎた感のある科学技術もある現在の世界です。


そこから派生して、

高い知能が過ちを繰り返す人間を敵に見立ててしまうかもしれない

という思考にたどり着いたようですが、


そこの奥に見え隠れする

強いものが生き残って弱いものが死んでいくという考え方も

高い知能がわざわざ別の生命を滅ぼしてまで繁栄しようとするような考え方も、

ものごとを一方的な方向から見ている気がします。


大きくまとめてしまえば、

不安と恐れから見ています。


そのように見える側面も実際にはあるんですが、

弱肉強食では説明のつかない生命の営みは

この世界のいたるところにあります。


ライオンやトラが個体数を減らしているのに、

ネズミやハムスターは世界中にいます。


人間が増えたのは確かですが、

高い知能をもってして増えたのではありません。


実際歴史上においても高い知能が役に立ったことはありません。


自然の不確実性の中で

たまたま環境に適応した形で存在することが出来た生命体だった、

ただそれだけのことです。


しかもまだまだ発達中で

進化のさなかに居るという視点が抜けています。


最近のDNAの研究でも

先祖から受け継いだもの以外の情報、

例えば共生しているものなどから、

異種族間でのDNA情報がコピーされているということが発見されています。


そうやって違う種族も含めて環境変化を乗り切って来た生命の和の中に、

人間も居るわけです。


それを知能というか、

思考という行為でもって生き抜いてきたかのような思い上がりは、

滅んでしまっても仕方がないかもしれません。


思考というものは

一つのエネルギー波動で、

ポジティブにもネガティブにも

作用を及ぼします。


そのエネルギーが凝り固まるように働いてしまえば、

新しい変化に柔軟に対応できる自然な能力を削いでしまいます。


いくら高い知能で思考しても一方向へしか向いていない状況であれば、

その方向と違う変化に対しては非常に弱いものとなってしまうのです。


本当に高い知能を有している生命体がいるなら、

その辺を理解していただけるはずです。


分からなくてよいものを

分からないままでも

不安になる必要がないことを理解できれば

それ以上の思考や知能は

不安を作り出すだけの

不要なものなのです。


知識や知能で理解しようとするのではなく、

今自分には理解しえない何かが

ずっとあちらこちらにあることを感じられればいいのではないでしょうか。


そしてそれらは決して恐れるだけの対象でもなく、

浮かれてしまうような事象でもないのです。


分からないだけでいいのです。



2016年8月13日土曜日

コミュニケーションの本質について

僕は今まで何人の人とコミュニケーションしたでしょう。


言葉を交わした人の数で言えば、

とてつもない人数になると思います。


でも、その中で

伝えたいことがお互いに共有出来たと感じたのは、

何十回も無いかもしれない。


僕が思うこの回数を見て

皆さんはどう思うでしょうか。


例えば、物凄く感動する言葉を聞いて、

自分の中に何かを貰ったような気がして、

次の日から自分なりに行動を起こしてみようとしても、


何かの変化はとても曖昧になっていて、

目の前にある全く代わり映えのない現実に

うる覚えの言葉が全く通用しないという経験は無いでしょうか。


その言葉を聞いた時、

僕は何を受け取っていたのでしょうか。


受けとったと思っていたものは何だったのでしょうか。


この疑問を解かずにずっと過ごして行くうちに、

ほとんどのコミュニケーションは、

ただ放出されるだけの音声が

テレビから流れるだけなのと同じようになってしまっている、

現代はそういう世界になっているような気がします。


いやいや、そんなことは無い!、

話したことがちゃんと伝わっていなければ、

今の社会は成り立ってない!と思っている人が

ほとんどだと思います。


でも、実際には決められたルールに則っていれば、

外れることが無い社会の中では、

言葉の裏側にある細かな違いを読み取るより、

そのルールから外れないかどうかに気を遣って過ごすことを

優先してコミュニケーションしている人の方が多いでしょう。


そのルールを守っている状態が社会を形成することなので、

そこから外れないようにすることの方に気を遣うのが当然であるかのようです。


もちろんその社会の中で過ごす以上

そこをわざわざ破壊するような言動をしないようにするのは当然としても、


自分の中で生まれてくる本当の感情を押し殺してまで

社会を優先させるルールが全体を覆ってしまうようになっていたとしたら


そこにあるコミュニケーションには

言葉の裏側にある心をやりとりすることなどは

面倒くさいこととして追いやられてしまうのだと思います。


おそらく僕の言う言葉の真意を感じるという感覚は、

子供の頃にどこかへ置いていってしまう人が多いかもしれません。


ただこの感覚を子供じみた行為と蔑んでいる

社会のあり方に目を向けてみてください。


子供が将来のお金を生み出すための

労働力の素として扱われていくことが

心無い人を作り出しています。


全ての行いの中に自分の感情を乗せて

相手の感情を汲み取れるように心を開いて

お互いのためのコミュニケーションをしなくなると、


自分の言いたいことだけを優先する

自分の結論以外の存在を拒む人たちが社会を形成して、

見るも無残な争いごとが増えるのは当然です。


多様性を認めない方が

導き出される答えが単純で済むのですが、

その単純さを良い事と思ってしまわない方がいいでしょう。


変化に対して非常に脆くなるので、

不安に苛まれるようになるだけです。


自分と違うものを恐れるようになり、

周りの全てが敵になっていってしまうでしょう。


もう既に社会がそのように動いているとして、

矛盾だらけの状態にあって、

建前という嘘と分かっていてもそのまま続けて

いつ心の底から解放される時がやって来るのでしょう。


このブログではずっと

僕の解放の仕方をひたすら書いているのですが、

また書いていきましょう。


この世界に

自分という意識の中心になるべきものがあるのは確かです。


そこには他の誰とも違うと断言できる自分がいるのですが、

そこから見ている世界と自分を切り離して

単独に存在感を感じているのではありません。


自分とは違う他の者たちとの差によって

自分というものを意識させられています。


ある時は全く逆の感覚であったり、

ある時は本当に一緒のように感じたりするのですが、

何一つ同じものなどこの世界には存在しません。


そして得意不得意があって

それぞれのタイミングで人生の課題として取り組んでいる事も全く違います。


誰も経験したことの無い未来を切り開いていくとき、

解決したい方向性も

大切にしたい想いも千差万別なので

ヒントとなるような出来事や考え方は

あればある程手助けになります。


結局自分の目の前にある未来の扉を開けるのは自分なので、

その手助けになるかもしれない力添えを貰えるかも知れない

千載一遇の出会いの言葉を大切にしようと思えば、

自ずとコミュニケーションの質も変化していきます。


自分をごまかしてしまうようなことがあれば、

二度とめぐりあうことの無い瞬間がどれだけあるでしょう。


本当に必要な言葉が自分にとって優しいだけのものとは限りません。


地獄の底へ叩き落されるような言葉かもしれません。


でもそれを自分で扉を開けるための鍵として

自分を最大限尊重してくれる人に貰えたとしたら、

その言葉は人生を開いてくれるでしょう。


僕は今でも忘れられない言葉や瞬間を与えてもらったことがあります。


そのお陰で何とかやってきたようなところもあります。


一度でもそんな瞬間に触れることが出来たなら

人生の意味は変わります。


粗末にしていい命など無いことを

真に理解するようになります。


嘘の無いコミュニケーションをするようになるので、

心は軽くなります。


その経験を思い出すことで謙虚さを取り戻せます。


そういう経験をどうぞこの世界で

恐れずに探してみてください。


どんな時でも自分に嘘をつかないことから

始めてみてください。