自己を滅して他の為にという言葉、
僕の経験の内で、
確認できた部分の考察を
記していきたいと思います。
僕の経験の内で、
確認できた部分の考察を
記していきたいと思います。
文字通り、
自己を滅して他の為に成すことで、
幸せが成就するのは間違いありません。
自分のことばかりを優先すれば、
妬み謗りを受けるのは当然のこと、
周りの支えがあって生きられるのに、
それを蔑ろにしていれば、
知らず知らずの内に、
支えは無くなっていきます。
かと言って、
完全な自己犠牲に偏ってしまうと、
一見美しく見えるその行為に喜びは無く、
別のねじれが生じてしまうのは、
過去の多くの経験からも分かることと思います。
ものごとには、
つねに丁度よい加減というものがあります。
足りなければ努力も必要ですし、
過ぎたるは及ばざるが如しなのです。
足りなければ努力も必要ですし、
過ぎたるは及ばざるが如しなのです。
その大変曖昧なものを
どのようにして自分の中に
形成していくのかが、
形成していくのかが、
成長していくということに他なりません。
その基準となる自分の感覚を信じられるとき、
自信という形で喜びが溢れてきます。
そこに至る過程にあっては、
必ずしも心地好いと
感じられることばかりではありません。
そういう場面にあって、
乗り越えていく過程にあるから大丈夫、と
意識できることもありません。
ではどうしていけばよいかというと、
他の為に、
と常々思うことです。
人間というもの
自分可愛いのはやはりしょうがないことで、
常々思うぐらいでやっと他のことも考えられるのだと思います。
その中でどうしても許せないことも起こりますが
そこで本当の優しさと厳しさを見極めることができるようになります。
では何故わざわざ他の為、と思う事に
意味があるかというと、
まず人というのは、
自分自身の感覚器官によってしか、
この世界を捉えることができません。
どういうことかというと、
自分がいくら相手を意識しても、
相手が何をどの程度感じているのかは
分からないにもかかわらず、
自分ならばこの時こう思う、
という概念を当てはめて
相手もそうだと思ってしまうのです。
自分の考え方を見て、
自分の感じ方を見て、
自分の思い方を見て、
自分以外の人もそうしていると
思ってしまっているのです。
その基準となる自分の感覚を信じられるとき、
自信という形で喜びが溢れてきます。
そこに至る過程にあっては、
必ずしも心地好いと
感じられることばかりではありません。
そういう場面にあって、
乗り越えていく過程にあるから大丈夫、と
意識できることもありません。
ではどうしていけばよいかというと、
他の為に、
と常々思うことです。
人間というもの
自分可愛いのはやはりしょうがないことで、
常々思うぐらいでやっと他のことも考えられるのだと思います。
その中でどうしても許せないことも起こりますが
そこで本当の優しさと厳しさを見極めることができるようになります。
では何故わざわざ他の為、と思う事に
意味があるかというと、
まず人というのは、
自分自身の感覚器官によってしか、
この世界を捉えることができません。
どういうことかというと、
自分がいくら相手を意識しても、
相手が何をどの程度感じているのかは
分からないにもかかわらず、
自分ならばこの時こう思う、
という概念を当てはめて
相手もそうだと思ってしまうのです。
自分の考え方を見て、
自分の感じ方を見て、
自分の思い方を見て、
自分以外の人もそうしていると
思ってしまっているのです。
この3次元の物理的世界に命を持っているので、
大まかなところでは一致するため、
そのままでもまぁ何となく過ごせているのですが、
はっきり言ってしまうと、
その見え方の中には自分以外の人は存在していません。
それを解消するためには、
他の為に、
ということを意識することから始めるのが
いいと思っています。
できる限り
相手が喜ぶ行為や言葉を、
丁寧に選ぶように努めます。
それでも
喜んでくれない事があるときに、
何が自分の思っていたことと違ったのか、
それが分かるようになってくれば、
自分だけの世界に相手が現れてきます。
相手のことをそれぐらい意識して初めて
自分以外の人のことが分かるようになるのだと思います。
そうでなければ、
普通ならこう思うとか、
こんな風に感じるのが普通だと思い込んだ
自分の感覚を改めて感じているだけになってしまって、
相手が喜んでいるのかも、
悲しんでいるのかも、
本当の意味では全く気付かないで、
自分だけの世界で生きていってしまうことになります。
例えば
急に大きな音がすればびっくりするのはみんな同じ、
ぐらいに思っているのですが、
それ以外の事もそう考えているのです。
でもその思い込みを外していくようにするため、
他の為、と意識しているようにすると、
そのうち自分というものも意識しなくなってきます。
それらによって生かされているということの方が
自分より大きく感じるからです。
その中で、
どうしても見極めなくてはならないものもあります。
人間には弱さがあって、
人の善意に入り込んでくる悪意が生まれてしまうのです。
そこはちゃんと加減を心得ていれば、
入り込む隙はないのですが、
バランスを欠いた思いから、
相手も意識していない悪意を生んでしまう事があるので、
相手を生かすことは、
自分も生かすこと、
必ずその場全体として
どうなっているかを見るようにすることで
対処できると思います。
なのでやはり自分から
他の為、と意識して行動することです。
損得感情や恐れが邪魔をする人には
こんなことをお伝えしてもいいかと思います。
自分を生かしてくれているものを、
ちゃんと心で感じられるように開く前の段階で、
何かを恐れて閉じてしまっていては、
自分だけの世界に登場してくれる
その何かも本当のものではありません。
自分の思い込みをはめただけの世界に
登場しているのはどこまでいっても
自分の思い込みだけです。
世界に対して心を開くと現れてくるのは、
自分の理解を超えた感覚や考え方、心の有り様で、
確実に恐れを超えていきます。
生き死にの問題ではなくなるほど、
目の前にある物事がえげつない程の存在感で
そこにあるだけなのです。
理解しようとすることが
どれほど馬鹿げた事かを
瞬時に分からせてくれます。
自己を滅して他の為に、
と意識して過ごすことは、
自分をこの世界に開いてゆく
第一歩になっていくのは
間違いありません。
大まかなところでは一致するため、
そのままでもまぁ何となく過ごせているのですが、
はっきり言ってしまうと、
その見え方の中には自分以外の人は存在していません。
それを解消するためには、
他の為に、
ということを意識することから始めるのが
いいと思っています。
できる限り
相手が喜ぶ行為や言葉を、
丁寧に選ぶように努めます。
それでも
喜んでくれない事があるときに、
何が自分の思っていたことと違ったのか、
それが分かるようになってくれば、
自分だけの世界に相手が現れてきます。
相手のことをそれぐらい意識して初めて
自分以外の人のことが分かるようになるのだと思います。
そうでなければ、
普通ならこう思うとか、
こんな風に感じるのが普通だと思い込んだ
自分の感覚を改めて感じているだけになってしまって、
相手が喜んでいるのかも、
悲しんでいるのかも、
本当の意味では全く気付かないで、
自分だけの世界で生きていってしまうことになります。
例えば
急に大きな音がすればびっくりするのはみんな同じ、
ぐらいに思っているのですが、
それ以外の事もそう考えているのです。
でもその思い込みを外していくようにするため、
他の為、と意識しているようにすると、
そのうち自分というものも意識しなくなってきます。
それらによって生かされているということの方が
自分より大きく感じるからです。
その中で、
どうしても見極めなくてはならないものもあります。
人間には弱さがあって、
人の善意に入り込んでくる悪意が生まれてしまうのです。
そこはちゃんと加減を心得ていれば、
入り込む隙はないのですが、
バランスを欠いた思いから、
相手も意識していない悪意を生んでしまう事があるので、
相手を生かすことは、
自分も生かすこと、
必ずその場全体として
どうなっているかを見るようにすることで
対処できると思います。
なのでやはり自分から
他の為、と意識して行動することです。
損得感情や恐れが邪魔をする人には
こんなことをお伝えしてもいいかと思います。
自分を生かしてくれているものを、
ちゃんと心で感じられるように開く前の段階で、
何かを恐れて閉じてしまっていては、
自分だけの世界に登場してくれる
その何かも本当のものではありません。
自分の思い込みをはめただけの世界に
登場しているのはどこまでいっても
自分の思い込みだけです。
世界に対して心を開くと現れてくるのは、
自分の理解を超えた感覚や考え方、心の有り様で、
確実に恐れを超えていきます。
生き死にの問題ではなくなるほど、
目の前にある物事がえげつない程の存在感で
そこにあるだけなのです。
理解しようとすることが
どれほど馬鹿げた事かを
瞬時に分からせてくれます。
自己を滅して他の為に、
と意識して過ごすことは、
自分をこの世界に開いてゆく
第一歩になっていくのは
間違いありません。