2016年1月25日月曜日

自己を滅して他の為に

今回テーマにさせてもらう

自己を滅して他の為にという言葉、

僕の経験の内で、

確認できた部分の考察を

記していきたいと思います。


文字通り、

自己を滅して他の為に成すことで、

幸せが成就するのは間違いありません。


自分のことばかりを優先すれば、

妬み謗りを受けるのは当然のこと、

周りの支えがあって生きられるのに、

それを蔑ろにしていれば、

知らず知らずの内に、

支えは無くなっていきます。


かと言って、

完全な自己犠牲に偏ってしまうと、

一見美しく見えるその行為に喜びは無く、

別のねじれが生じてしまうのは、

過去の多くの経験からも分かることと思います。


ものごとには、

つねに丁度よい加減というものがあります。


足りなければ努力も必要ですし、

過ぎたるは及ばざるが如しなのです。


その大変曖昧なものを

どのようにして自分の中に

形成していくのかが、

成長していくということに他なりません。


その基準となる自分の感覚を信じられるとき、

自信という形で喜びが溢れてきます。


そこに至る過程にあっては、

必ずしも心地好いと

感じられることばかりではありません。


そういう場面にあって、

乗り越えていく過程にあるから大丈夫、と

意識できることもありません。


ではどうしていけばよいかというと、

他の為に、

と常々思うことです。


人間というもの

自分可愛いのはやはりしょうがないことで、

常々思うぐらいでやっと他のことも考えられるのだと思います。


その中でどうしても許せないことも起こりますが

そこで本当の優しさと厳しさを見極めることができるようになります。


では何故わざわざ他の為、と思う事に

意味があるかというと、


まず人というのは、

自分自身の感覚器官によってしか、

この世界を捉えることができません。


どういうことかというと、

自分がいくら相手を意識しても、

相手が何をどの程度感じているのかは

分からないにもかかわらず、


自分ならばこの時こう思う、

という概念を当てはめて

相手もそうだと思ってしまうのです。


自分の考え方を見て、

自分の感じ方を見て、

自分の思い方を見て、

自分以外の人もそうしていると

思ってしまっているのです。


この3次元の物理的世界に命を持っているので、

大まかなところでは一致するため、

そのままでもまぁ何となく過ごせているのですが、


はっきり言ってしまうと、

その見え方の中には自分以外の人は存在していません。


それを解消するためには、

他の為に、

ということを意識することから始めるのが

いいと思っています。



できる限り

相手が喜ぶ行為や言葉を、

丁寧に選ぶように努めます。


それでも

喜んでくれない事があるときに、

何が自分の思っていたことと違ったのか、

それが分かるようになってくれば、

自分だけの世界に相手が現れてきます。


相手のことをそれぐらい意識して初めて

自分以外の人のことが分かるようになるのだと思います。


そうでなければ、

普通ならこう思うとか、

こんな風に感じるのが普通だと思い込んだ

自分の感覚を改めて感じているだけになってしまって、


相手が喜んでいるのかも、

悲しんでいるのかも、

本当の意味では全く気付かないで、

自分だけの世界で生きていってしまうことになります。


例えば

急に大きな音がすればびっくりするのはみんな同じ、

ぐらいに思っているのですが、

それ以外の事もそう考えているのです。


でもその思い込みを外していくようにするため、

他の為、と意識しているようにすると、

そのうち自分というものも意識しなくなってきます。


それらによって生かされているということの方が

自分より大きく感じるからです。


その中で、

どうしても見極めなくてはならないものもあります。


人間には弱さがあって、

人の善意に入り込んでくる悪意が生まれてしまうのです。


そこはちゃんと加減を心得ていれば、

入り込む隙はないのですが、

バランスを欠いた思いから、

相手も意識していない悪意を生んでしまう事があるので、


相手を生かすことは、

自分も生かすこと、

必ずその場全体として

どうなっているかを見るようにすることで

対処できると思います。


なのでやはり自分から

他の為、と意識して行動することです。


損得感情や恐れが邪魔をする人には

こんなことをお伝えしてもいいかと思います。


自分を生かしてくれているものを、

ちゃんと心で感じられるように開く前の段階で、

何かを恐れて閉じてしまっていては、


自分だけの世界に登場してくれる

その何かも本当のものではありません。


自分の思い込みをはめただけの世界に

登場しているのはどこまでいっても

自分の思い込みだけです。


世界に対して心を開くと現れてくるのは、

自分の理解を超えた感覚や考え方、心の有り様で、

確実に恐れを超えていきます。


生き死にの問題ではなくなるほど、

目の前にある物事がえげつない程の存在感で

そこにあるだけなのです。


理解しようとすることが

どれほど馬鹿げた事かを

瞬時に分からせてくれます。


自己を滅して他の為に、

と意識して過ごすことは、

自分をこの世界に開いてゆく

第一歩になっていくのは

間違いありません。

2016年1月11日月曜日

「当たり前」という思いを手放す

毎日を丁寧に過ごすように気をつけていても、

生活していく中で単調な繰り返しが続いてくると

知らず知らずのうちにものごとを

「当たり前」に思ってしまうことがあります。


この「当たり前」という思いを

いろんなものごとに対して持ってしまうと、

有り難みが無くなって、

文句も言いたくなるし、

なんだか腹が立って来るし、

良いことが全く無くなってしまうんです。


有り難いことだなぁ、と

感じることができると、

それだけで心がフワッと

柔らかくなって来るものです。


無理に思おうとせずとも、

「当たり前」のことが、

どれ程「有り難い」ことなのかに、

目を向けるといいと思います。


日々の生活の中では、

良いことばかりではありません。


そういうことが起こると、

どうしても起こったことに

意識が向いてしまいます。


そうして全体を捉えることなく、

細かいことに自分の感情が揺さぶられると

そのことがらに対しての自分の反応は

当然のこととして思えてくるようになります。


そうなってしまうと、

出てくる言葉や行動は、

もう当然のごとく行なっているので、

感情が昂ったまま自己本位に行動してしまっているなどと

考えもつかない状態になっていきます。


その状態では、

当たり前に

自分は正しくて周りが間違っている

という結論しか出てきません。


そうなってしまったときは、

自分の感情が昂っていることを、

一度ちゃんと認識してから、

一息ついて、


そこにある自分自身も、

取り組んでいたことがらも、

取りあえず今そうなってしまってる結果も、

何一つ当たり前のできごとなどないことを

思い出してみましょう。


同じようにやってみても、

二度と同じ時間は来ないのです。


似たような経験はあるかもしれませんが、

その時に感じることも、

それに対して反応することも、

まったく別のものなのです。


もし何度も同じことを感じていることがあれば、

それこそが、

「当たり前」に思っている自分なのです。


そう思って当然だと

思ってしまっているのです。


自分がここに居ることは

奇跡の連続だったことを

思い出してみましょう。


ギリギリのこともあったでしょうし、

少し余裕を感じていることもあったでしょうが、

本当にいろんなものごととの関係性の中で、

今の自分がやっと辿り着いている場所が

今ここなのです。


もうちょっとこうだったらとか、

あぁだったらとかは、

少し置いておいて、

「当たり前」になってしまった自分自身を

「有り難い」ものと捉え直してみましょう。


自分のすぐ近くにあるものも、

部屋の中にあるもの、

外にあるもの、

地上にあるもの、

空やもっと遠くにあるものも、

何一つかけがえの無いものばかりです。


当たり前にあるものは、

どこにもありません。


当たり前に思ってしまった瞬間に

全てのバランスが崩れてしまいます。


これは全てのものに

感謝をしましょう!

ということとは違います。


「有り難い」ことであっても、

自分にとって必要なことと必要ないことが

もちろんある訳ですから、

自分にとって必要ないものまで、

感謝することはありません。


心がウキウキすることにだけ、

どんどん向かっていけばいいのです。


それらに対して

「有り難い」奇跡と巡り合えていることを意識してみれば、

勝手に心の底から感謝の気持ちが湧いてきます。


そこで出てくる言葉が、

「ありがとう」

なのだと思います。


また今日から一つ一つを

大切にしていこうと思います。


ありがとうございます。



2016年1月2日土曜日

波に乗ること

新年明けましておめでとうございます。

今年も一瞬一瞬を大切にしながら

目に触れて心地よいブログになるように

していきたいと思います。


今年初のテーマは

波に乗ることです。


僕は文字通り、

波に乗るのが好きで、

休みの日にはほとんど海へ出かけています。


この、

波に乗るという行為によって

自分がこの地球の一部分として生きている感覚を

養なうことができると分かってからは、

自分自身をクリアーにして

大自然と呼吸を合わせられるようにするために、

海へ向かうようになりました。


人それぞれに楽しみ方があると思いますが、

その辺のお話しをさせていただこうと思います。


10年程前、

自分の身長の3倍程の波に

初めて乗った時のことでした。


この地球が生きているということを

身体で理解することができたのです。


僕ら人間や動物や植物と同じように意識を持って

とても長いサイクルで命の営みを送っているということが

言葉を超えた感覚として僕の中に降りてきました。


波に乗り終えてまた沖に戻ろうと

水平線に目を向けた時に見えた、

とてつもなく大きな波を起こす

そのエネルギーが僕の体の中に伝わって来たとき

鮮明なヴィジョンとして見えたのです。


大自然の営みによる

夏と冬のサイクルは

極地で嵐を巻き起こし、

その風で海を荒立てて

やがてウネリとなって

何千キロも海を渡って来ます。


そのエネルギーが

何億年もかかって出来た海底にぶつかって、

キラキラする水の壁を作って

僕を軽々と持ち上げて、

グイグイ押してくれたのです。


誤って波の力に抗うようなことをすれば、

死を意識するほどの

ものすごいエネルギーです。


そのエネルギーが海面を押し上げて

すぐ目の前で自分の背丈を超えて壁になっていく景色は、

どこかで何かのタイミングが

ずれてしまうようなことがあったら、

決して見ることはできなかったのです。


そのタイミングは

地球の営みの中

とてつもなく大きな規模で

作り上げられて提供されたものでした。


そのタイミングとピッタリ合わせられたとき

この地球がしていることの意味が分かりました。


地表に於いて必要な

熱の移動にともなって発生するエネルギーは、

夏や冬といった季節を作り

風を動かし、

水を流れさせて、

命を育む条件を整えます。


そのエネルギーは

命を養っているのです。


太陽が放つ熱エネルギーも

絶妙な距離で公転するエネルギーも、

その中で自転して夜と昼を作り出すエネルギーも、

どれかが勝ってしまうようなことがあれば、

僕らの命はありません。


全てが完全に調和してはじめて

命が育まれるのです。


僕らの周りには

この地球の営みによってできた

空気、水、砂、植物、動物などが

絶妙な調和という優しさの上に存在しています。


ある一定のタイミングで変化し続ける

この地球の営みの中で、

調和を取るため

エネルギーが移動して

それが波となって僕らの

生活を彩っています。


僕はその波の力を上手に利用することで

幸せに楽しく生きられると思います。


抗おうとしてしまうと、

大変なことになります。


調和の中に不調和を持ち込むことに

なってしまうからです。


大切なのは

自然のタイミングに合わせることと、

波の力を上手に利用できるように

自分の力を抜くことです。


たまに力が入ってしまうこともありますが、

気が付いたら抜けばいいのです。


あとは波が運んでくれます。


今年もいい波に乗りたいですね。