罪を憎んで人を憎まずという言葉があります。
生きていく上でいろんなテーマがありますが
僕はこのことがちゃんとできれば、
世の争いごとは無くなっていくはず!と、
ずっと一番に思っていたところがあります。
でも、
嫌なことをされて、
それをまったく気にしないようにするなんて、
それはさすがに変だ!
間違いはやっぱり正さなくては!!!
また同じことが無いようにしなくては!!!
と、人を責めてしまう気持ちが湧いてきます。
「あの人があんなことをするからだ!」
「いや、自分も間違うことがあるし、、、」
「いや、でも今のは完全におかしい!」
「でも、分からなかったんだからしょうがないよなぁ、、、」
「いや、分からないからってやっていいことと悪いことがある!」
などと答えの無い問答をして、
何とかその場を収める目的でいるようで
本当の自分に蓋をしたまま
実はものすごい怒りを振り撒いてしまうのでした。
そうなるのが嫌だと思いながらも人を責めてしまうことの
原因となっていたものとそれを解放できたことについて
記させてもらいたいと思います。
僕が素直になることだけを
念頭に置いて過ごすようになると、
自分が自分の行動に違和感を感じることを
どんどんごまかさなくなって行きました。
小さなことでも誰かを責めてしまうことを
嫌だとハッキリ意識できるようになっていきました。
僕はもともと怒りを表現することに
苦手意識がありました。
人に優しくありたいと思っていたこともあって、
とても温厚でめったなことがなければ怒らない
自信のようなものもありました。
辛抱強く、
相手に合わせて言葉を選びながら空気感を大切にして
全体として上手くものごとが回っていくように
心を配ることを意識していました。
偉そうになるのも嫌だったので
上から目線ではなく、
常にどんな相手でも面と向かって、
一対一で対等に話すことを心がけていました。
このように見ていくと、
別にそのまま行けばいいんじゃない?
ぐらいに感じるかも知れません。
もちろん人との調和を保とうと意識することは
人として成長するためにとても重要な要素となります。
でも、僕が上に記したように思っていた要因は、
過去に閉ざしてしまった経験を申し訳なく思っている自分が自分に対して
良い人でいようと一生懸命していることだったのです。
それに気がつくことができたのは、
喧嘩になったしまったときに言ってくれた
妻の一言からでした。
「あなたは自分に対して怒っているのが分かる?」
そう言われたとき、
すでに怒りの向けようがどこにもなく、
観念したような気持ちになりました。
それから徐々に
子供のころのことを思い出し始めます。
僕の育った家庭はとても厳格で、
父親の言うことは絶対でした。
昭和の時代にはよくある話です。
でも僕の場合
小学校に入る頃には、
すでに僕は心を閉ざしていました。
どのような怒り方をされても、
誰も止めることはありませんでした。
そんな中にあっても、
僕は良い子を演じていました。
家族を好きになりたいと思っていたのです。
ある日父の勘違いが原因で、
人のいる前で殴られました。
それは勘違いだと言うと、
父の怒りは止まらなくなりました。
誰も止めることはありませんでした。
そのとき僕はもう誰にも本当のことを言わない、
そう誓ってしまったのでした。
年月を重ねてそんな記憶も薄れていき、
自分の体が大きくなるにつれて、
社会も広がり、経験を積んでいく中にあって、
僕は僕の家庭で養われた生きる術を持って
閉ざしてしまった部分のある心を抱えたまま、
幸せになろうとしていたのでした。
怒りの矛先がどこにも向けられなくなったとき、
この自分だったからこそいろいろ学べてきたことと、
閉ざしたままではこれ以上進めないことがすぐに分かりました。
閉ざしてしまった自分が
子供のままその記憶の中にいて
ずっと言えない思いを抱えたまま
癒えない時間が止まってしまっていました。
その止まったままの自分は
ずっと僕を、僕に関わる人を
見ていました。
嘘をついていないか、
ごまかしていないか。
それに呼応してしまう現実を呼び起こしては、
一番奥に閉ざされたままの自分が怒りを表していたのです。
僕は本当に心の底から
閉ざしてしまったことを
子供のままの自分に謝りました。
そして、
現実にその矛先を向けてしまった妻にも謝りました。
この宇宙に向けても、
怒りのエネルギーを放出していたことを謝りました。
そうすると、
本当に心がどんどん軽くなります。
家族から受けた影響の良い面も悪い面も働いて
自分の弱さを克服することができました。
辛くてたまらなかったのも
もう終わります。
多くの方に自分の弱さから
ご迷惑をおかけしたことを謝りたいと思います。
ごめんなさい。
でも、もう大丈夫です。
誰かが悪いのではないことが、
僕にはハッキリ分かったからです。
僕の場合は
家族というキーワードをたよりに、
自分の閉ざされた部分を開くことが出来ました。
多くの人に同じようなものを感じるのです。
このブログが誰かのお役に立てれば幸いです。
2015年12月20日日曜日
2015年12月10日木曜日
がんばる時代の終わり
僕が、
この日本という国の豊かさに
本当の意味で気づいたのは、
ごく最近のことです。
僕が子供の頃は、
海外の国を手本として、
便利で豊かな国にするために
この日本という国の豊かさに
本当の意味で気づいたのは、
ごく最近のことです。
僕が子供の頃は、
海外の国を手本として、
便利で豊かな国にするために
みんなで一生懸命働いてお金をたくさん持つことが
とても良いこととされていた時代だったと思います。
何となくおかしな部分もあるけれど、
それで幸せになって行けるのだから、
がんばろう!みたいな雰囲気がありました。
大人になるにつれて、
僕の中で、
何となくおかしな部分から、
目を背けることができなくなってきます。
便利で豊かになるはずが、
環境問題は次から次へ出てくるし、
争いごとは必ず何処かで起こってるし、
病気になる人の数は減らないし、
追い求めていた豊かさは
いったいいつになったら
この地上で具現化されていくのかという疑問を
見過ごせなくなったのです。
でも多くの人達が、
豊かさを追い求めてがんばることを
とても良いことと信じていました。
そしてあまりにも当然のように
みんなで豊かな幸せを未来に思い描いていて、
その豊かさのイメージから外れるものは、
良くないことのように扱われていたので、
立ち止まって、
今求めているものごとが、
本当に豊かさをもたらすのかどうか
見つめることはありませんでした。
広い庭付きの家、
大きくて速い車、
仕立てのいい有名なブランドの服、
大きな冷蔵庫には
新鮮なお肉や魚介類、
大きなテレビで迫力の音響、
それらが豊かな人生に必要なものであって、
まだ手にしていないうちは、
豊かではないと考えてしまっていることに
気がついたのでした。
そして、今、、、、
我が家には、
ものがほとんどありません。
断捨離と呼ぶような行為も、
だいぶん前にして、
スッキリとした空間の中で、
テレビもステレオも無くて、
とても静かな時間を
穏やかに過ごしています。
食事は毎食、
お坊さんでもびっくりするだろうほどの、
シンプルな玄米菜食をしていて、
なるべく旬のもので、
無農薬、自然農法のものを選んでいます。
お蔭さまで、
記憶にある年数のうち、
僕は風邪をひいていません。
そんな僕の健康な身体と心を
育んでくれる食材達を
雑な調味料で味付けする訳にもいかず、
塩は対馬の塩、
醤油も木樽仕込みのものを
選ぶようになりました。
そうなると、
料理をするにも、
フライパンを鉄の叩き出しのものにして、
料理用油も圧搾だけで作った
菜種油を使うようになりました。
主食である玄米は、
釉薬に有害性の無い土鍋を使って炊き、
手触りの良い漆の器によそって食べています。
このあたりの食材や道具を選ぶ目利きは、
妻がピシャリと良いものを
捜し当ててくれるので感謝しています。
食べ物から道具に至るまで、
確実に良いものを選んでくれます。
しかもそれほど高額でなく、
本当に良いものでスッキリとした空間を
心地好く演出してくれます。
以前の僕が考えていた豊かさとは、
全く別の豊かさの中にいます。
広い家や速い車といった
象徴的な夢を思い描くこと自体は、
悪いことではないし、
自分自身の向上のため必要な場面もあります。
でも、
それらを手にしようとするために、
心が貧しくなってしまっては、
意味がありませんでした。
すぐ目の前にあるものに全く気付かないほど、
豊かさのイメージを追い求めていたのです。
この国には、
本当の豊かさが溢れていることを、
どれだけの人が気づいているでしょう。
僕はこの国の住人なので、
他の国や地域について、
あまり確かなことは言えませんが、
同じような豊かさが
世界中に溢れていると思います。
ただ、その真の豊かさに気付かずに、
象徴的な豊かさを追い求めて
生きている人達が多くいると思います。
僕は何かを我慢したりとか、
特別な境地に達したりしたのではありません。
自分自身に正直になってみると、
本当に欲しいものって、
そんなに無いことが分かったんです。
欲しいと思って買ったのに使わなかったり、
手にした瞬間から次が欲しくなったり、
本当に欲しいものへのつなぎと思っていたり、
持つことがただの自慢であったりするとき、
それらを本当に欲しいと思って手にしていません。
本当に欲しい必要なものとの出会いは、
心にピンと来るものが
ベストなタイミングで起こって、
ものごとがうまく回って
喜びとともに自分の手もとにやって来ます。
それは
手に触れて心地好く、
見て心地好く、
使って心地好く、
その出会いに深いご縁を感じます。
手にすると嬉しさが湧いて来て、
感謝の気持ちが味わえるものを、
そういうものを吟味して、
選択していくようにすると、
自分の居る空間が
どんどん豊かになって来るのです。
それは道具だけに限らず、
食べ物から自分が口にする言葉も
自分を豊かにしていくこととして、
選択できるということも分かってきました。
豊かさを作り出すのは、
紛れもなく自分自身の選択だったのです。
貧しさを感じてしてしまう
選択を見極めて、
本当に必要でもなければ
欲しくもないものを
手にしないようにするだけで良かったんです。
誰かの意見に流されたり、
誰かに気を使ったりして、
ものごとを選択してしまうと、
豊かさを味わうことはできません。
もしも、
自分に純粋に従っているのに
豊かさを感じないとしたら、
ただの思い込みを
自分の心の声と勘違いしている状態です。
本当に心は自由そのもので、
この世界にある無数の選択肢の中から、
常に心地好い状態で居ることを
選択していきます。
わざわざ心地好くないと感じることを
選択をしているということは、
ナチュラルな心を押さえて
思考や意思が働いているということです。
自分の心に従うより、
思い込みを信じることで成り立っている
この現代人間社会に於いては
自分の心の声に従うことは、
その他大勢の意見と違うかもしれませんが、
それを選択しなければ、
自分に豊かさを感じることはできません。
追い求めた先に
豊かさがあるのでは無くて、
自分の心を自由に解放してあげれば、
豊かさの中にいることを感じるのです。
でも、
あまりにも長い歴史を
豊かさとは何なのかを
求めることに費やして来たために、
求めようとする行為をやめることに
不安を感じてしまうこともあります。
今豊かさを味わえていなくても、
求めることで安心できてしまうからです。
ただ求めることをやめるだけで
この世界の豊かさを味わえるなんて、
嘘だと思うかもしれません。
身体に染み付いた癖を
ただやめるというのが本当に難しくて、
やめる以外のことを探してしまうかもしれません。
そしてあまりにも多くのことを
誤解したまま思い込んでいたために、
それを一つづつ解放していくことが、
途方も無いことのように感じてしまうかもしれません。
でも、
すでに豊かさの中に居ます。
それに気付かないほど、
がむしゃらにがんばっている自分の
肩の力を抜くだけです。
がんばらなくては生きて来られなかった時代は、
もう終わります。
この星に生まれて
豊かさと共に生きることを選択すると、
始めのうちは、
自分で気付かずにしていた
わがままや共生できない考え方が
不必要になってくるので、
自分の嫌な部分としてどんどん出てきます。
でも、
どんどん手放していけば、
この星の豊かさと共に生きる楽さを
実感していくようになります。
がんばってしまっていた自分の
力の抜けていく感覚は、
ただただ気持ちいい限りです。
この楽な感じです。
これが僕の求めていたものだったんです。
豊かさは、
所有しているものを手放していけば、
限りなく共有できるのです。
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