この旅が自分にとってどれ程の転機になったかを少しお話ししたいと思います。
何か人の生き方を改めて捉え直してみたい、
とか考えている方などのヒントにでもなればいいなぁと思います。
あくまでも今の僕から見た方向性で説明していきますので、
基本的に人には様々な面があった上でのその歩みとして読んでいただければと思います。
まず今回の旅の目的地であるバンコクに行くこと自体が
ここ最近の自分では考えられなかったことだったんです。
例えば普段街へ出かけるだけでも明確な用事が無ければ一切行かないほど
街のワチャっとした雰囲気を敬遠していました。
若かったころはそれこそ何かを見つけようと、
何の用事が無くても街へ繰り出していったものです。
でも、ただ物事を消費していくだけのような生き方をやめてからは、
街に渦巻くエネルギーがどこか間違った方向を向いているような気がして
自然の中にいて自分を整えられるようにしたくて街を離れていきました。
去年の11月に夫婦で興福寺を訪れて、
その時に僕の奥さんが釈迦如来像に感動した経緯から、
タイの涅槃寺、ワットポーにいる釈迦涅槃像に逢いたいということで
今回の旅は始まりました。
僕自身は今回で4回目のタイになるんですが、
涅槃寺だけは行ったことが無く、
ブッダ兄さん好きの僕もまさかこのタイミングで会いに行けるとは思ってませんでした。
前回行ったのももう20年も前になり、
ここ最近のバンコクの発展ぶりの話を聞くと
僕が好きだったタイの柔らかい雰囲気が残っているかどうか少し不安でもありましたが、
あの土地全体がオープンで陽気な雰囲気の中、
建物の高さが変わっただけのような感じにも思えました。
ただ行ってみて驚いたのは、
ここ20年という最近の街の発展ぶりで、
想像していた以上に綺麗で洗練されていて、
映画に出て来る近未来都市のような電光表示の看板に、
それらを気にすることなくスマートに動く人の流れの中、
この街がこういう風に発展しているのが本当に正しいのか?
という疑問も同時に湧いてくるのでした。
そんな中でも街の中心地にエラワンの祠と呼ばれる
バラモンの神さまブラフマが祀られているところがそのままあったり、
大都会の中でその場所がちらりと見えるだけの位置から、
通りすがりに手を合わせる人が居るのを見て、
そこに暮らす人たちの心の中には
大切なものがちゃんと息づいているのが分かりました。
でもこのような発展の裏側には必ず暗闇の面があって、
そういうところが発展していくことに対してどこか懐疑的に見てしまう、
僕が街を避けている理由となっているのでした。
でも僕が以前バックパッカーとしてバンコクを旅していた時、
同じように社会の闇の部分があって、
そこでたくましく生きている人達の笑顔に触れて、
どこか人生をナメていたような自分に気づかされ、
それから生きることに肝が据わっていくことになったのを思い出しました。
そしてこのような時代の変化があったとしても、
そこに生きている人達の真っ直ぐなひたむきさは、
20年前から色褪せることは無く、今でもギンギラギンにパワフルなままで、
見ていて少し笑ってしまうような明るさがあるのが
バンコクのいいところなんだなぁと改めて感じることが出来たのです。
そんなごちゃまぜのアジアらしさの中、
実はバンコクのオーガニックやヴィーガンへの移り変わりも
日本よりあるかもしれないと感じました。
セブンイレブンやローソンと同じように女子高生が
オーガニックのスーパーでお菓子を買っていくのです。
そういう幅の広さを生で見ることが出来て、
何か僕の偏ったものの見方に気付くことが出来ました。
今全部ひっくるめて一緒に未来を創っていっていて、
その中で人は自分に正直に一生懸命生きていることをまず認めないと、
何もその先に希望なんて見えてこないんじゃないかなぁって思ったんです。
例えば人類がこの星のことを理解するのがもうちょっと先になってしまったとして、
そのせいで犠牲になる何かがあるとしたら、
それを今知っていて辛い思いをしていると嘆くことと、
その時まで理解出来ずにいて
自分の一部分が無くなってしまっていたことで辛い思いをすることに、
何も違いは無いということを理解することが出来たのです。
そのどちらの考え方も、実は未来を創れていません。
もっと未来をどうしたいのかよく考えてみると、
未来を明るく照らして、今を幸せに生きたいっていう風に思ったんです。
ということは例えばこの星のことを今僕が考えて行動しているかどうか、
しかもそれが未来を心配してではなくて、
未来に希望を持って明るく行動しているかどうかの方が
大事だなぁと思ったんです。
そこに辛さを持ち込むのは、
僕の個人的な屁理屈のようなもので、
地球やこの世界は一生懸命未来に向かって行ってるだけなんだって思ったんです。
そう思うと誰かを単純に責めるようなことも思わなくなりますし、
目の前の人の一生懸命を評価した上で、
僕自身がするべきことに集中できて、
それが変な説教なんかよりもっと効果のある言葉のように
今を明るくするんですよ。
もしも今という時を明るい状態のままずっと維持していけるとしたら、
未来はどうなるでしょう。
そういう部分に自信が必要とか無いとかも関係ないんですよ。
今僕が感じているのは
本当にはどこに目を向けて
今何を感じて何をしているかに集中出来るかどうかで、
この世界って変わるんじゃないのかなぁって
そう思ったんです。
2019年の年明け早々に
自分の中から変に曲がったものの見方を取り去ることが出来たのは、
何となくあの涅槃のブッダ兄さんが見ていてくれたからなんじゃないかなぁって
そんな風に思う旅になったのでした。