つい先日仕事が終わって歩いていた時のことです。
交差点で女性が自転車を下りて信号待ちをしているところへ、
僕の前を歩く男性がぶつかっていくのが目に入りました。
何か不自然なぶつかり方をしている感じがして、
ぶつかられた女性もふらつきながらビックリしているようでした。
まぁ前をよく見ていなかったりすることもあるかもしれないし、
変に勘ぐって注意するのもいけないと思い、
進む方向が同じことからそのまま後ろを歩いていたんです。
そしてとあるマンションからお母さんに連れられた子供二人が出て来た時です。
お母さんが前を行く子供に気を取られていて、
後ろの子がお母さんから少し遅れて小走りで追いつこうとするその子供に向かって、
その男性は避けることなくひざを子供にぶつけて行ったのでした。
子供は寸前で人が来るのに気づいて少し避けたこともあって、
ぶつかったものの倒れることなくふらつきながらお母さんの方へ行くことが出来ました。
その瞬間僕は「それはあかんやろ!」という言葉とともに、
思わず駆け寄って彼に「子供に謝れ!」と言い寄りました。
正直今の世の中、変な輩もいるので、
とんでもない事へ発展する可能性も頭をよぎりました。
相手によっては本当に危険な場合もあるかもしれませんが、
この時僕は非常に冷静にいろんなことを見て決断していました。
周りの人の数や場所、車の通る台数、警察官が居るだろう場所までの距離、
そして何より目の前の男性の仕草と目線です。
僕の声が聞こえたと同時に足早になったその仕草はすでに
自分に非があることを認めています。
僕が相手の真横へ駆け寄って「あれはあかんやろ!」と言っても無視する
その横顔を見て僕は彼が思った以上に若かいことに驚きました。
大学生か大卒一年目の社会人ぐらいです。
この時僕は
この子に形だけの説教などしても意味は無いのはすぐに分かりました。
身なりや髪型がちゃんとしているということは、
彼が普通に生活することの意味を理解しているということで、
注意されても謝ろうともしないその頑なな態度は
本当は自分がやってはいけないと知っているルールを犯してまで、
自分の鬱憤を弱者に向けているのを分かっているのです。
でも案の定自分の非を認めようとしはしませんでした。
急に出て来るような、子供をちゃんと躾けていない親にまず言えとか、
あんなところに居るヤツが悪いとか、言い続けるのです。
その時僕はその言葉の中から、
この子はたぶんそういう事を大人から言われ続けて来たのかもしれないと思い、
彼の何が間違えてるのかをそのまま伝えました。
「あのな、全部まちがってる。
自分より弱いものを見つけて、自分の憂さを晴らすのはやめろって言ってるんだ。」
彼は少し考えてから僕にこう言いました。
「僕はずっとやられ続けているんだ!」
実際に彼が誰に何をやられ続けているのかまでは分かりませんが、
彼がそこまで自分を追い詰めてしまう程に、
誰かに理不尽なことで責め続けられていると思っているのは確かです。
もしそれが彼の被害妄想であったとしても、
それを彼に分からせてあげる愛情のある人は彼の近くには居ないのです。
親か、仕事の上司か、周りにいる誰かが、
彼の正常な判断力を奪ってしまう程の追い詰め方をしているのです。
恐らく責められている理由を彼は理解できないまま、
それを弱者に向けてしまう自分にもイラついているかもしれません。
僕の目線から彼が逃げようとしてまた足早に行こうとしましたが、
読み取れた確かな部分と自分にも過去にあった似たような現実から、
こう彼に説明しました。
「それも間違ってる。人の人生はいろいろある。
無茶苦茶だと感じることなんていくらでもある。
だからってそれに負けて自分まで無茶苦茶になったらだめだ。
何があっても真っ直ぐに成れるんだよ。それを諦めたらだめだ。」
というと、彼は少し足を止めて何かを言い返そうとして僕を見てきました。
僕はただ彼に本当の事を伝えるしか手段がなかったので、
それ以上は何も言いませんでした。
何も言い返せなかった彼には、
実際それは本当の事でしかないので、
言われなくても分かっているはずです。
でも、どうしていいのか分からなくなるほど自分を責めていたのではないかと思います。
もう僕は「絶対いけるんだよ。もっと頑張るんだよ。変な方向むいちゃだめだ。
真っ直ぐに頑張るんだよ。」と言うしかありませんでした。
彼の人生を僕がどうこう出来る訳もないので、
もう本当に彼に頑張ってもらうしかないのです。
そこで僕の行く方向と彼の方向が分かれたのでそのまま彼に手を振りました。
彼は何度かこちらを見ましたが何も言わずにそのまま進んで行きました。
この出来事が彼に響いて欲しいとは思いますが、
なんだあのおっさん、と思われていてもそれはもう仕方ありません。
前をしっかり向いて自分の人生に真っ直ぐに生きて行ってもらえたら嬉しいですが、
僕が僕以外の人の人生をあぁしろこうしろ言うのは絶対してはいけないと思うので、
彼が決めてスタートを切ってくれたらいいと思います。
例えばそれが誰か他の人から見てちょっと違うとしても、
自分で自信を持ってこういう風に生きたいんだと胸を張って言える道を
進んで行ってほしいと思うのです。
今回僕が彼に注意をしたのは、
自分のやっていることに言い訳しかない、
しかも本当に胸を張って自分のやっていることに自信を持てないこと、
これは違うと自分で分かっていることをやってしまう事、
それは間違えているということなんです。
正直言えば若さゆえ間違いかどうか分からないまま過ちをしてしまったこと、
僕は沢山あります。
でも、間違いと分かってもやることはどうしても出来ませんでした。
結局は自分が惨めになる事に耐えられなかったからです。
恐らくその部分、
自分が惨めになることにまで言い訳で逃げてしまうようになったら、
何処まででも人は堕ちていけると思います。
どんな時も自分の誇りだけは守っていって欲しいんです。
そんな綺麗ごと言ってる場合じゃない人とか、
もしかしたらこのブログを読んでるかもしれませんが、
僕が言えるとしたらそこだけかもしれません。
本当の自分を捻じ曲げてしまうように感じることは、
全力で跳ね除けて欲しいんです。
例えばそれが今の自分にとって正しいルール、に則っていたとしても、
苦しくてたまらないような場所からは全力で出てきて欲しいんです。
そこは正しいと信じ込まされているだけの処かもしれません。
自分も周りの人たちも心地よく過ごせるところというのは、
完全に嘘が無い状態で初めて手にすることが出来るんです。
幸せそうなフリしてるだけの人なんていっぱいいます。
そんな人のフリしなくていいんです。
逆にそんなに傷ついてもいないのにしんどいフリしてる人もいっぱいいます。
そんな人にこちらが傷つくことは無いんです。
自分の持っているエネルギーを間違った方向に使わないで欲しいんです。
若いっていうのは、
それだけで凄いエネルギーなんです。
自分に真っ直ぐに使えば必ず人生にいきなり道がついて来ます。
それをやめさせようとする、
やめてしまっただけの人達から全力で離れてください。
そうすれば自分で切り開いた人が集まっているところに行き着きます。
そこには真っ直ぐ自分と向かい合える人がいます。
自分に真っ直ぐ生きていることでそこに行き着いた人達だからです。
諦めたらだめです。
頑張りましょう。
2018年12月13日木曜日
2018年12月5日水曜日
ボヘミアン ラプソディー
先日夫婦で映画ボヘミアンラプソディーを見てきました。
Queenという1970年代から80年代にかけて多数のヒット曲を生み出した
伝説のバンドの伝記映画です。
まだ映画も上映中なので、
内容に触れることはここには記しませんが、
この時期にこの映画を見たことで
僕の中に大きな変化をもたらしたことについて書き記しておきたいと思います。
僕にとって映画とは、その中でテーマとされていることや、
登場人物の人間性、心の動きなどが、その後の自分に大きな影響を与えて、
人生をとても彩り豊かにしてもらえる重要なツールです。
今までも映画を通じていろんなことを教わってきました。
でも今回見たボヘミアン ラプソディーは、
現時点で最高の映画になったことは間違いありません。
Queenというバンドはもちろん知っていましたが、
僕が音楽を聴き始めたころにはすでにめっちゃ売れている有名な人たちという印象で、
それよりも新進気鋭な若い人たちの音楽に興味を持っていたこともあって、
この映画を見るまでよく知りませんでした。
それでも曲は聴いたことがあって、
主人公のフレディー マーキュリーのイメージもなんとなく思い描くことが出来る、
そんな感じでこの映画を見に行ってみたのでした。
僕自身バンドを組んで曲を作ることの楽しさや大変さを経験したことがあるので、
映画で描かれている役者さんの仕草や表情が自分をどんどん引き込んでいきました。
その合間合間に見えて来るフレディー マーキュリーの抱える葛藤や不安が、
多かれ少なかれどんな人でも持つかもしれない人生の一場面と重なっていくように、
物語りが進んで行くのに合わせて有名な曲がそれぞれのワンシーンを
力強く心の奥に刻み込んでいくように流れていきました。
そして見終わったあと、
何日たってもQueenの音楽に感動している自分がいます。
もう生で彼らの演奏を見ることは出来ませんが、
時代を超えて僕の心にこのような感動を残してくれたことにとても感謝しています。
映画ということでもちろん話しが大げさに盛られていることもあるかもしれませんが、
彼らの作った歌が作られてくる実際の人生はもっと複雑で
簡単に描き切れるようなものではないと思います。
でもヴォーカルのフレディー マーキュリーが
今の自分よりも若い年齢で旅立ったその事実を思うだけでも、
彼の歌に込められたメッセージはとても強く響いて来ます。
人生は自分という一つの形をどんな条件下であっても生ききることで、
輝くことを思い出させてくれました。
それはそれは勇気のいることです。
自分自身でさえどうしていいのか分からない程の、
人が本来持っている感情や欲望から来るエネルギーを
音楽という形に変えながら真っ直ぐに生きた人から生まれた音楽は、
僕ならどうするのか?という問いを真正面から突き付けて来ました。
これほど年齢的に大人になった今、
一つの音楽がこんなにも心を震わせてくれるとは思ってもみませんでした。
例えば音楽でなくても、
自分が今接しているものに自分が100パーセント向き合っていくこと、
そうしていくことが自分の人生の一瞬一瞬を創っていくことに他なりません。
過ぎていくことに気を取られている時間はありません。
本当の自分は今どう思い何を感じているでしょう。
いつの間にかただ何となく過ぎていくだけの人生に
慣れてしまっているような気がします。
だからといって血眼になって何かを貪るような
無駄なエネルギーの使い方をしなくてもいい程には、
大人に成ってきたと思っています。
今ここからの人生、
まだまだ始まったばかりです。
この時にこの映画に出会えて
本当に良かったと思います。
登録:
コメント (Atom)