出会う人や物事によって刺激を受けて感動したり、
拒否反応から学んで自分の行動を制御できるようになったりしながら、
この世界では他の存在を通して人生を経験していきます。
経験から何を学ぶかは人それぞれの生き方があるので、
順番も違えばまたその意味の深さも場面場面で違います。
自分らしく生きることにどんどん開かれていく今の時代では、
今までの価値観の捉え直しが必要になることも多いと思います。
世界の在り方が変わっていく今、
「優しさ」を真っすぐに表現することは、
誰にとっても重要なことだと思うので、
ここに僕の捉え方を記しておきたいと思います。
どんな人も相手の居る世界の一員として生きていて、
相手や自分の扱い方を間違えることはとても生きづらい環境を作ってしまいます。
基本的には人が生まれて持つ「優しさ」は、
みんな同じように備わっていると思っています。
ただいろんな環境下で、
自己本位に成っていってしまったり、
自分らしく振る舞うことを恐れてしまうようになったりして、
「優しさ」をどう表現するのがいいのか迷いが生じるのだと思います。
もちろん人が持つネガティブな側面も、
「優しさ」を複雑な場所へ追いやってしまうものとして見ておく必要があります。
優しくある必要などないと考えて、
自分の思うままにしか行動しないと決めている人であっても、
ふとした瞬間に自分の在り方に疑問を感じては
それを打ち消すことにエネルギーを注がなくてはならないでしょう。
「優しさ」とはいつの時にあっても、
最大のテーマとして取り組んでいくべきものだと僕は思っています。
そうやって積極的に「優しく」あろうとするところに、
自分が取り組むべき課題が見えたり、
人の素敵なところが見えたりしてくるので、
如何に難しくてもこのテーマをないがしろにすることは出来ません。
ただとても奥が深いことでもあって、
やみくもに優しくなろうとしてバランスを崩してしまったこともありました。
やはりそこはバランスの上での話しであることを理解しなければなりません。
自分と相手、もしくは自分自身にでも、
想いをよせることでバランスを保てる感覚は、
大切にしますという意思表示を丁寧にしなければなりません。
言葉をかけるにしろ、
手をそえるにしろ、
自分の奥から流れるエネルギーの使い方という側面で見ると、
丁寧に扱うことでしか「優しさ」として現れてこないのです。
例えば自然に溢れ出て来るように見える人もいますが、
その人の経験してきた道のりや心に感じていることなどを
いくら推し測ったところで自分がそのように出来るとは限らない以上、
丁寧に、と自分に意識するだけのその面倒な作業を怠った瞬間から、
怠った形でしか現れて来ないものなのです。
ただここで注意するべきなのは、
対象に対して丁寧にエネルギーを注いでいく中で、
そのエネルギーの対象がこちらへの丁寧さを欠いていると感じるなら、
「優しさ」を厳しさとして表すことも必要になります。
もちろんこの時に自分側からの丁寧さを意識できているならば、
それに呼応する形で返って来る丁寧さに対応するだけでいいと言えます。
求めるのではなくこちら側からの意識の使い方として見ていれば、
「優しさ」は常に発動している状態でエネルギーは流れているので、
時にそれが厳しかったとしてもそういう「優しさ」として出ていくからです。
ただこの時に必ず意識が「自分の世界」ではなくて、
世界の中にいる自分と相手とをバランス良く見ていないといけません。
世界という環境の中にいてはじめて「優しさ」というものに意味があるのです。
相手がいるということは、
向こうの側からも流れてくるエネルギーがあって、
その交流があることで世界は維持されているということ、
そこを見失ってしまうとバランスをとることが出来なくなってしまいます。
常に意識してバランスをとっているつもりでも、
何かしらのきっかけで簡単にひっくり返ってしまうのも
人であるなら日常茶飯事です。
だからこそ「優しさ」を意識して過ごすことが
この世界の一員として大事なのではないかと思います。
うまく「優しさ」が出せなかったとしても、
その経験を活かして次の、そしてまた次の機会に頑張れればいいと思います。
少しずつ少しずつ変わっていくものだと思います。
そしてある時ふと自分が大きく変わっていることに気が付く時があります。
その時本気で他の人に対しても、
心から頑張れって思うようになっていますから。