2018年6月25日月曜日

人に優しく

僕らは多くの関わり合いの中で生きています。


出会う人や物事によって刺激を受けて感動したり、

拒否反応から学んで自分の行動を制御できるようになったりしながら、

この世界では他の存在を通して人生を経験していきます。


経験から何を学ぶかは人それぞれの生き方があるので、

順番も違えばまたその意味の深さも場面場面で違います。


自分らしく生きることにどんどん開かれていく今の時代では、

今までの価値観の捉え直しが必要になることも多いと思います。


世界の在り方が変わっていく今、

「優しさ」を真っすぐに表現することは、

誰にとっても重要なことだと思うので、

ここに僕の捉え方を記しておきたいと思います。


どんな人も相手の居る世界の一員として生きていて、

相手や自分の扱い方を間違えることはとても生きづらい環境を作ってしまいます。


基本的には人が生まれて持つ「優しさ」は、

みんな同じように備わっていると思っています。


ただいろんな環境下で、

自己本位に成っていってしまったり、

自分らしく振る舞うことを恐れてしまうようになったりして、

「優しさ」をどう表現するのがいいのか迷いが生じるのだと思います。


もちろん人が持つネガティブな側面も、

「優しさ」を複雑な場所へ追いやってしまうものとして見ておく必要があります。


優しくある必要などないと考えて、

自分の思うままにしか行動しないと決めている人であっても、

ふとした瞬間に自分の在り方に疑問を感じては

それを打ち消すことにエネルギーを注がなくてはならないでしょう。


「優しさ」とはいつの時にあっても、

最大のテーマとして取り組んでいくべきものだと僕は思っています。


そうやって積極的に「優しく」あろうとするところに、

自分が取り組むべき課題が見えたり、

人の素敵なところが見えたりしてくるので、

如何に難しくてもこのテーマをないがしろにすることは出来ません。


ただとても奥が深いことでもあって、

やみくもに優しくなろうとしてバランスを崩してしまったこともありました。


やはりそこはバランスの上での話しであることを理解しなければなりません。


自分と相手、もしくは自分自身にでも、

想いをよせることでバランスを保てる感覚は、

大切にしますという意思表示を丁寧にしなければなりません。


言葉をかけるにしろ、

手をそえるにしろ、

自分の奥から流れるエネルギーの使い方という側面で見ると、

丁寧に扱うことでしか「優しさ」として現れてこないのです。


例えば自然に溢れ出て来るように見える人もいますが、

その人の経験してきた道のりや心に感じていることなどを

いくら推し測ったところで自分がそのように出来るとは限らない以上、

丁寧に、と自分に意識するだけのその面倒な作業を怠った瞬間から、

怠った形でしか現れて来ないものなのです。


ただここで注意するべきなのは、

対象に対して丁寧にエネルギーを注いでいく中で、

そのエネルギーの対象がこちらへの丁寧さを欠いていると感じるなら、

「優しさ」を厳しさとして表すことも必要になります。


もちろんこの時に自分側からの丁寧さを意識できているならば、

それに呼応する形で返って来る丁寧さに対応するだけでいいと言えます。


求めるのではなくこちら側からの意識の使い方として見ていれば、

「優しさ」は常に発動している状態でエネルギーは流れているので、

時にそれが厳しかったとしてもそういう「優しさ」として出ていくからです。


ただこの時に必ず意識が「自分の世界」ではなくて、

世界の中にいる自分と相手とをバランス良く見ていないといけません。


世界という環境の中にいてはじめて「優しさ」というものに意味があるのです。


相手がいるということは、

向こうの側からも流れてくるエネルギーがあって、

その交流があることで世界は維持されているということ、

そこを見失ってしまうとバランスをとることが出来なくなってしまいます。


常に意識してバランスをとっているつもりでも、

何かしらのきっかけで簡単にひっくり返ってしまうのも

人であるなら日常茶飯事です。


だからこそ「優しさ」を意識して過ごすことが

この世界の一員として大事なのではないかと思います。


うまく「優しさ」が出せなかったとしても、

その経験を活かして次の、そしてまた次の機会に頑張れればいいと思います。


少しずつ少しずつ変わっていくものだと思います。


そしてある時ふと自分が大きく変わっていることに気が付く時があります。


その時本気で他の人に対しても、

心から頑張れって思うようになっていますから。



2018年6月21日木曜日

地震で変わった僕の視点の置き方

つい先日大阪府北部を震源にした地震がありました。

その時僕はけっこう新しく建てられた建物の中にいて、

数メートル先で幅が50cmはある鉄筋コンクリートの柱が大きく揺れるのを見ていました。


僕は阪神淡路大震災の時にも震度5強を経験していて、

あの時揺れ続けていた部屋の中で

余りにもあっけらかんと「死」を受け入れたのを思い出しました。


自分に起こりうる苦痛の大きさに順序を付けて、

大きいものから遠ざけるように行動していたのですが、

その中で「死」は比較的避けたい事の中ではそれ程大きなものではありませんでした。


揺れが収まるまでの数秒間、

僕の思考回路はフル回転で状況を見極めていましたが、

「死」が平然と起こる可能性を拒絶しませんでした。


今回揺れが収まった時には、

「死」が自分の中で余りにも普通に感じられていたことで、

僕の「生」に対してスイッチが入ったかのような感覚になりました。

 
僕はもちろんこれからも生きていくわけですが、

今生きていることを本当に大切にするということの意味が

今までと少し変わって感じられるのでした。


僕という人間が生きている意味があるとしたら、

それは一体どういうふうに感じることが出来るでしょうか。


この世界ではいろんな出来事が同時に様々な場所で起こります。


多くの命が自分の目指すべきところへ向けて一生懸命に生きているんです。


どんな形であれそこに展開する命は

光と闇を経験しながら物語を創っていて常に両方の意味を持っています。


例えば僕が希望を抱いて生きているとして、

もしもその希望が叶わないまま命の物語が終わるとしたら、

僕は闇に包まれて消えていくのでしょうか。


希望を叶えるその先に光が差しているのではありません。


なかなか希望の状態に近づいて行かない状況であってもそれは闇の中ではありません。


どんな状況に置かれていてもそこに光は差していて、

その陰に闇の部分があります。


心を閉ざしてさえいなければ

魂が成長していく中で光を認識できる目も養われていくようになりますし、

闇の深さも理解して行くようになります。


その両方を見ることと自分の進むべき道を行くことを

別々の視点で見られるようになったのです


何処へ行くとしてもそこには光と闇が同時に存在していて、

常に影響しあって変化してくことは理解していました。


ある所では必要であったものも、

所が変わればまったく要らなくなってしまうものも多くあります。


ある時は正しいとされていることも、

時代が変われば誤りであるとされることも、

またその逆もあるのです。


そういう状況下で今この世界中で起きている出来事を

僕が個人的に好きか嫌いかという観点以外に、

真実を見ることがどうやってできるでしょうか。


例えば今このブログを読んでくれている誰かの物語を

僕はどうやっても全部を知ることは出来ません。


いろいろと話してイメージを膨らませて繋ぎ合わせてみたところで

本当の自分自身を知っているのは、自分だけしかいないのです。


例えばそれが光に包まれていると感じていても、

ずっと闇に包まれていると感じていたとしても、

それはそういう視点で自分自身が自分を見ているだけかもしれません。


時代が進めば全く変わって見えるようになるその可能性は否定できないはずです。


僕に分かることがあるとすれば、

目の前に在ることにその時感じること以外には無いのです。


光と闇の側面がコインの表裏だとしたら

それと同じように生きている命が織りなす出来事を

自分の物差しであぁでもないこうでもないと判断していた了見の狭さに

人間らしさとはこういうものだったのかと感じるようになった次第です。


いろんな出来事の中には避けたいものもあれば

是非一度は味わってみたいものなど様々で、

それらは思いもよらない形で突然にしかも当然のごとくやってきます。


僕がそれらを真っ直ぐ受け取らずに、

それらの経験を選り好みしていて何を得ることが出来るでしょうか。


僕自身が真っ直ぐに生きることを選択しているのならば、

それによって起こることも真っ直ぐに受け取ればそれによって

真っ直ぐに進んでいくことが出来る、

そのことに気が付くことが出来たのでした。