今朝、いつもの通りに紫陽花が咲きはじめていました。
もう5月も終わりに近づいたのに気がついて、
ずっと変わらない巡りと、
その中で少しずつ変わっていく自分を感じました。
先週僕は、本当に久しぶりに風邪をひきました。
自分の内側の変化に敏感に対応するようになっていた僕は、
体調を崩す前に、初期の症状に合わせた食べ物を摂ることで、
熱が出たり、頭痛になったりするのを抑えて、
自分の体調をコントロールすることを
生活の一部としていました。
実際、もう風邪をひくことなんか無いかも、
ぐらい気をつけていたので、
鼻孔の奥に痛みを感じて、
頭がど~んと痛くなり始めた時、
いろんな妄想が頭の中を駆け巡りました。
普通に生活しているだけで、
身体は無数の病原体、化学物質やら放射性物質やらに
晒されています。
身体を作る食べ物をコントロールして、
自分の排出力を最大限活かすようにしておけば、
身体が必要としないものは出てってくれるので、
それを上回る非常に深刻な環境になっていて、
知らない内に自分の身体にとてつもないことが
起こってしまったのでは!と
少し不安がよぎりました。
風呂に入っていたとき、
痰が絡んだのをぺっと出すと、
ちっちゃな血の塊が入っていたのです。
時代も時代ですから、
いろんなことを考えてしまいましたが、
そうこうしているうちに熱が上がって来るのが分かりました。
思考能力が落ちて来て、
身体を楽に保とうとすることばかり考え始めて、
その時必要無い事など考える余裕が無くなってきました。
その状況でも何処か冷静さもあって、
この身体の苦痛から来るネガティブな思考が
現実を着色してしまわないように、
あくまでも起こっていることと、
自分が考えていることを
分けて捉えるようにしていました。
身体が感じるしんどさが、
横になっていても変わらないことと、
苦痛からくる思考のしんどさによって、
じっとしている方が辛いことを考えて、
仕事に行くことを選択しました。
体温計を見てしまうと、
しんどさに気持ちが負けてしまうので、
寝れる時間は寝るようにしました。
身体がしんどい中で見えた日常は、
僕自身がどのようにありたいのかを、
よく見るいい機会になりました。
人が僕に対してしてくれることや、
僕がしたことへの反応などが、
また新しい角度から見えてきました。
自分がしたい以上のことは、
当たり前ですが、しんどくて出来ないんですよね。
この当たり前のことを
改めて感じる機会って、
日常の中ではなかなか無いんですよね。
熱が出てから3日が経って、
これ以上続くようなら
別の対処をし始めないとなぁ、と思った夜から、
汗が出始めました。
治るなぁ、となんとなく感じたあと、
自分の思考が以前より軽くなっているのを感じました。
その時に理解できたのは、
体内の菌類の状態が変わるうえで、
この熱が必要だったということです。
例えば、腸内の菌類が精神状態に
とても深く関係していることから、
このポジティブな変化は、
熱を出す前の体内環境から
大きく変わったことを意味しています。
それに共なって腰回りが柔らかくなりました。
腰椎2番が感情と関係していることを考えると、
この時期に一気にバランスが変わったことが
風邪という事象として現れたのがわかります。
それを身体の視点で捉えてみると、
生きることへの不安などを
ポジティブに変化させようとして、
菌類を含めた体内環境を大きく変えるために、
発熱を伴うウイルスを必要な分だけ
身体が繁殖させたと見ることが出来ます。
今は少し喉に痒さが残る程度にまで回復していますが、
妻に移ってしまいました。
僕と比較すると
喉から肺へかけての症状が出ています。
肺は悲しみや憂いと関係しているので、
この時期にそういった感情の捉え方が、
大きく変わっていくのかもしれませんね。
でも、移してゴメン。。。
キツい、ですよね。
どうかより良い変化が訪れますように。
2016年5月26日木曜日
2016年5月9日月曜日
原発事故の起きた国
チェルノブイリの事故から30年、
福島の事故から5年が過ぎました。
今まだ多くの人がこれらの事故の影響で
大変な生活を強いられている現実がそこにあります。
未だ不確実な部分の多い科学的知見は
偏った思い込みを補強するのには役立つのですが、
それ以上のことは教えてくれません。
チェルノブイリの事故が起きたとき、
多くの大人が口にした放射能の恐ろしさを
福島の事故に至って
全く逆のことを言い出す人たちを見て、
この国で生きるということを
改めて考え直すことになりました。
何となく楽しかったそれまでの
与えてもらっていた価値観は
全てお金に換算することができて
それはそれでいいのですが、
ちゃんと循環することなく、
余りにも理不尽な命の扱われ方をしている人たちを
さらに厳しい状況へと追いやっていくシステムの中で
人生のために必要な価値のように思わされているのでした。
幸せになろうとするということが
そのシステムの構築のために
一役買ってしまうジレンマをどのように解釈してみても、
そのシステムが格差と対立を生みだし
それによって粗末に扱われる命があることを考えると、
このシステムは間違っていると言わざるを得ません。
経済を優先して立て直すことで
この国が本当に豊かになると言っている人たちが
以前言っていたことと
全く逆のことを口にしても何も気にならない程に
この国の多くの人が「嘘」というものに
麻痺してきているのかもしれません。
状況の変化に対応するために
以前言っていたことと逆の立場をとる必要があるならば、
それをそのまま言うことで理解が深まりますが、
明らかに真逆のことを
以前からそう言っていたかのように言ったり、
ひたすら隠そうとする行為は
ただの嘘でしかありません。
嘘をついてまでやる行為とは
自分にだけ都合の良い行為を
隠そうとする心の現れです。
どんな解釈をしていても現実は進行していて
目の前で繰り広げられる大人たちの対応を見たとき、
この日本に於いて
かなりシビアな事故が起こっているのは
間違いありません。
この現実が人々の行動に変化をもたらし始めていて、
いろんな物事、いい大人が嘘をつくことなんかを
噴出させているように思います。
嘘をついてまで固執しているものを
守ろうとしてしまうのでしょう。
システムに固執する人もあれば、
信条や理念に固執する人、
欲に素直になる人もいれば、
神秘的方向へ向かう人もいます。
それぞれの人にとって、
何が正解で何が誤りということではありませんが、
今、この日本では
本当に大切なものは何か、
そうでないものは何なのかを
見極められる時期に来ていると思います。
チェルノブイリの事故の後、
ベラルーシとウクライナでは、
とても興味深い変化が起きました。
ベラルーシは共産主義的な独裁政権が生まれます。
情報は統制されて
何が起きているのかが見えにくい状況に置かれます。
病気になる人が増え、
30年たった今、
健康に生まれてくる赤ん坊のほうが少ないという実状です。
ウクライナでは西側に解放的な政策から、
比較的情報量が多く
食べ物の危険性などを共有できたこともあって、
ベラルーシ程の健康被害は起らなかったようです。
しかし事故の後、
社会主義の崩壊とともにナショナリズムが強まり、
意見の食い違う人たちの間で内戦となり、
ファシズムを公言する政党が勢力を伸ばすなど、
自由の意味を少しはき違えた人達によって
結局失われていく命は少なくないという状況になっています。
一方のベラルーシでは、
ビシッと独裁が効いているので、
ヨーロッパで唯一死刑制度があり、
街は静かで美しくゴミも落ちてない状況のようです。
これらの国は事故後、
その処理のためにそれぞれのやり方で
国というシステムを維持してきたのです。
そしてそこに暮らす人々はそれぞれの環境の中に
命をつないでいます。
僕のいる日本という国も
今現在進行形で変化しています。
これからまだまだ複雑なものごとが
湧き上ってくるはずです。
綺麗ごとを並べ立てても
命には代えられないという時が来るまで、
本当に大切なものは
理屈ではないということが分かるまで
いろいろと現れてくるでしょう。
僕が震災を経験したとき、
助け合う人たちには権利や義務や資格などは
全く関係ありませんでした。
確かに最低な輩もいて、
むちゃくちゃなことしてる場面もありましたが、
どこかの偉いと謳われた方々が居なくても、
その地その地で何とかしていっていました。
外から見てる人たちが
もっとあぁしたほうがいいこうしたほうがいい言いますが、
それは大体的外れなことが多かったです。
今回の九州で学ばれた方も多いのではないでしょうか。
冷静になって周りをよく見極めて、
助け合って命を繋いでいく、
それができれば大丈夫なのです。
日本ではすでにそういう綺麗ごとではない
真の助け合いが出来るということが、
もうすでにいたる所で見受けられます。
心配を煽っていろんなことに
お金を使わせるだけのシステムでは
真に豊かになれることは無くて、
そのようなシステムを維持することよりも
大切にするべき優先順位に気づいてしまえば
複雑なものごとの噴出は無くなるでしょう。
それらを必要だと思い込んでしまって、
屁理屈を並べ立てられているので、
複雑に見えるのです。
あれば便利なものは
本当に必要でしょうか?
備えあれば患いなしと言っても、
どれだけ備えれば気が済むのでしょうか?
どれだけ備えても無くならない心配事を作りだし、
それに偽物の解決法を提示して、
お金を得ている今の日本のシステムを、
政治で解決しようとする振りをする人達に
この国を良くすることは出来ません。
金融経済システムを維持することが
幸せに向かって行く一番必要なことと
そのように信じている人達には、
多くの老人介護問題の現実や、
多くの子供達が虐待にあっている現実を、
そのシステムの矛盾として見ることが
できないのでしょう。
莫大な消費を支える
莫大なエネルギーによって、
贅沢を見させられたこの国の人たちが、
もう一度この国土の有り難さに
気づいて生きて行くのは、
いつになるのでしょうか。
福島の事故から5年が過ぎました。
今まだ多くの人がこれらの事故の影響で
大変な生活を強いられている現実がそこにあります。
未だ不確実な部分の多い科学的知見は
偏った思い込みを補強するのには役立つのですが、
それ以上のことは教えてくれません。
チェルノブイリの事故が起きたとき、
多くの大人が口にした放射能の恐ろしさを
福島の事故に至って
全く逆のことを言い出す人たちを見て、
この国で生きるということを
改めて考え直すことになりました。
何となく楽しかったそれまでの
与えてもらっていた価値観は
全てお金に換算することができて
それはそれでいいのですが、
ちゃんと循環することなく、
余りにも理不尽な命の扱われ方をしている人たちを
さらに厳しい状況へと追いやっていくシステムの中で
人生のために必要な価値のように思わされているのでした。
幸せになろうとするということが
そのシステムの構築のために
一役買ってしまうジレンマをどのように解釈してみても、
そのシステムが格差と対立を生みだし
それによって粗末に扱われる命があることを考えると、
このシステムは間違っていると言わざるを得ません。
経済を優先して立て直すことで
この国が本当に豊かになると言っている人たちが
以前言っていたことと
全く逆のことを口にしても何も気にならない程に
この国の多くの人が「嘘」というものに
麻痺してきているのかもしれません。
状況の変化に対応するために
以前言っていたことと逆の立場をとる必要があるならば、
それをそのまま言うことで理解が深まりますが、
明らかに真逆のことを
以前からそう言っていたかのように言ったり、
ひたすら隠そうとする行為は
ただの嘘でしかありません。
嘘をついてまでやる行為とは
自分にだけ都合の良い行為を
隠そうとする心の現れです。
どんな解釈をしていても現実は進行していて
目の前で繰り広げられる大人たちの対応を見たとき、
この日本に於いて
かなりシビアな事故が起こっているのは
間違いありません。
この現実が人々の行動に変化をもたらし始めていて、
いろんな物事、いい大人が嘘をつくことなんかを
噴出させているように思います。
嘘をついてまで固執しているものを
守ろうとしてしまうのでしょう。
システムに固執する人もあれば、
信条や理念に固執する人、
欲に素直になる人もいれば、
神秘的方向へ向かう人もいます。
それぞれの人にとって、
何が正解で何が誤りということではありませんが、
今、この日本では
本当に大切なものは何か、
そうでないものは何なのかを
見極められる時期に来ていると思います。
チェルノブイリの事故の後、
ベラルーシとウクライナでは、
とても興味深い変化が起きました。
ベラルーシは共産主義的な独裁政権が生まれます。
情報は統制されて
何が起きているのかが見えにくい状況に置かれます。
病気になる人が増え、
30年たった今、
健康に生まれてくる赤ん坊のほうが少ないという実状です。
ウクライナでは西側に解放的な政策から、
比較的情報量が多く
食べ物の危険性などを共有できたこともあって、
ベラルーシ程の健康被害は起らなかったようです。
しかし事故の後、
社会主義の崩壊とともにナショナリズムが強まり、
意見の食い違う人たちの間で内戦となり、
ファシズムを公言する政党が勢力を伸ばすなど、
自由の意味を少しはき違えた人達によって
結局失われていく命は少なくないという状況になっています。
一方のベラルーシでは、
ビシッと独裁が効いているので、
ヨーロッパで唯一死刑制度があり、
街は静かで美しくゴミも落ちてない状況のようです。
これらの国は事故後、
その処理のためにそれぞれのやり方で
国というシステムを維持してきたのです。
そしてそこに暮らす人々はそれぞれの環境の中に
命をつないでいます。
僕のいる日本という国も
今現在進行形で変化しています。
これからまだまだ複雑なものごとが
湧き上ってくるはずです。
綺麗ごとを並べ立てても
命には代えられないという時が来るまで、
本当に大切なものは
理屈ではないということが分かるまで
いろいろと現れてくるでしょう。
僕が震災を経験したとき、
助け合う人たちには権利や義務や資格などは
全く関係ありませんでした。
確かに最低な輩もいて、
むちゃくちゃなことしてる場面もありましたが、
どこかの偉いと謳われた方々が居なくても、
その地その地で何とかしていっていました。
外から見てる人たちが
もっとあぁしたほうがいいこうしたほうがいい言いますが、
それは大体的外れなことが多かったです。
今回の九州で学ばれた方も多いのではないでしょうか。
冷静になって周りをよく見極めて、
助け合って命を繋いでいく、
それができれば大丈夫なのです。
日本ではすでにそういう綺麗ごとではない
真の助け合いが出来るということが、
もうすでにいたる所で見受けられます。
心配を煽っていろんなことに
お金を使わせるだけのシステムでは
真に豊かになれることは無くて、
そのようなシステムを維持することよりも
大切にするべき優先順位に気づいてしまえば
複雑なものごとの噴出は無くなるでしょう。
それらを必要だと思い込んでしまって、
屁理屈を並べ立てられているので、
複雑に見えるのです。
あれば便利なものは
本当に必要でしょうか?
備えあれば患いなしと言っても、
どれだけ備えれば気が済むのでしょうか?
どれだけ備えても無くならない心配事を作りだし、
それに偽物の解決法を提示して、
お金を得ている今の日本のシステムを、
政治で解決しようとする振りをする人達に
この国を良くすることは出来ません。
金融経済システムを維持することが
幸せに向かって行く一番必要なことと
そのように信じている人達には、
多くの老人介護問題の現実や、
多くの子供達が虐待にあっている現実を、
そのシステムの矛盾として見ることが
できないのでしょう。
莫大な消費を支える
莫大なエネルギーによって、
贅沢を見させられたこの国の人たちが、
もう一度この国土の有り難さに
気づいて生きて行くのは、
いつになるのでしょうか。
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