2019年10月1日火曜日

家族という絆

どうも最近、親との関係性で悩んでしまう人達の言葉が気になっていたので、

そういう事で中々前に進んでいけない人へ向けて、

今年に入って僕が経験した、親との別れについて記したいと思います。


今年の春、僕の父が他界しました。


その何か月か前に母から連絡がありました。

「もうお父さんも長くはないってお医者さんに言われたから。」


その時の僕は、親とも年賀状のやり取り以外ほとんど話しもしない状況でした。


父は何年か前から痴呆が出ていて母が一人で介抱していたような状況でした。


僕は正直に言うと、

この人生を持ってして親に仕返しをしてやろうと子供の頃に誓ったことがあります。


僕が小学生の時点で

父には僕の本当の気持ちを一切話さないと決めた出来事が何度もありました。


父が機嫌が悪いと、

酒に酔って誰かに八つ当たりが来るのですが、

それをいかに避けるかのために僕の人生は大きく歪んでいきました。


母はそれを良く思っていなかったのは見て取れましたが

決して父を諫めるようなことはしませんでした。


ただそれを母なりに

「どうしたらいいの?」

という悩み事として僕に話してくるので、

いつも僕がそれを慰めていたのでした。


僕から見ても大人気ない父の我がままっぷりは、

普段は立派な男としての父からは想像が出来ません。


人にはいろんな側面がある、ということで理解しようとしても、

人として完全に否定されるような事を親からされたら、

それを受け止めるなんてことは天と地がひっくり返るような出来事になっているのです。


それでも僕は親を大切にしたいと、

お寺に通ったりして自分の考えを何とか改めたいと思っていました。


父も母も年を重ねて身体が弱くなっていく中で、

何とか打ち解けて和解したいと、色々試していました。


ただ、僕の中では、

両親に一言、謝って欲しいと思っている部分は黙っていました。


だんだん両親が物忘れが激しくなって来だすと、

イラついて来るようになるのでしょう、

言葉遣いが粗くなってくることが増えてきました。


僕はそのようになってからも、

食べ物をなるべくナチュラルなものへ変えるように提言していましたが、

返って来る答えは

「良く分からないからいい。」というものでした。


そんな中、

あることに気が付いて来ました。


自分で自分をコントロール出来なくなってしまう前に、

自分の我がままで相手を傷つけることのないように

ちゃんと自分を整えることを放棄してしまった人が、

成るようになっていってる様を見せてもらっているという側面です。


自分で考えて何をするべきかを、

放棄してしまった人が辿るべき道がそこで展開していました。


段々僕が何を言っても

「うるさい!」とか言うようになって来ると

昔受けた心の傷が疼くようになり、

また心が離れていくようになりました。


そして、その頃に父の死期が近づいたとの連絡でした。


僕は何とも言えない気持ちになり、

改めて父へ取り敢えずでも「ありがとう。」と伝えた方がいいのではないかと思い、

母へそのように言いました。


その時母はこう言いました。


「あの人は会いたくないって思ってるわ。」



この一言が僕にとって全てでした。


いろんなことが読み取れます。


母が一人で苦労してきたこと。


それを皮肉めいた言い方をしてしまう母の幼稚さ。


そして僕に対する怒り。


「死」という一つの終わりがそこに見えた段階に於いても、

敵対するという手段を取ってしまった母が

乗り越えなければならなかった人としての試練を、

僕からの努力だけでは成立しない親子関係として自らの言葉で作ってしまったのでした。


それから後は、

僕が父や母からどれだけ謝って欲しかったか

という思いが堰を切ったかのように溢れてきましたが、

もう手遅れでした。


母はもう僕の言うことに、

一切耳を貸さなくなっていきました。


それまで父から受けたものが自分の方が辛かったということを

僕に言うようになってきました。


その時僕はやっと

母から受けていた身体的ではない、心の暴力に気が付いたのでした。


母の皮肉めいた嫌らしさは、

そう言えば昔から僕に無言の圧力を与えて来ていました。


それに気が付いた僕は、

僕の理想の一つだった親と子供の関係を捨ててしまおうと決めました。


人間関係というものは、

両方からの歩み寄りによって発展維持できるもので、

片方だけの努力で出来上がるものではありません。


それは血を分けた親子であっても、

同じということが完全に理解できたのでした。


例えばもう少し前の時点で僕の側から何か出来ることがあったのかもしれません。


でも実際にそのように出来なかったいろんな事情があります。


もしもそれが魂的に未熟が故にそうだったとしても、

それはそれでもう今さら悔やんだところでどうすることも出来ない現在にいるのです。


ならば、その未熟なままの自分を素直に認めて、

出来ないことにエネルギーを使うより、

今ある大切にしたいものに精一杯エネルギーを使った方が

心が晴れやかに開いてくることが分かったのです。


理想というものが妄想となって

自分の自由な現実を妨げてしまっているなら、

そんな理想は捨ててしまった方が自分が輝き始めることもあるんです。


この経験は僕を

この混沌とした現実世界の中から抜け出させました。


理想は理想として掲げてそれに向かっていくのは多いに結構なことですが、

それに縛られて心が塞ぎ込んでしまうとしたら、

その理想は自分には合っていないという事として別の理想を描いてしまえばいいのです。


一つの理想を手放して後悔するとして、

その経験を経て次の理想へと向かって行けばいいのです。


綺麗事だけでは済まない世界を身を持って体験し、

そこからもう一度真っ直ぐ前を向いて歩いて行くことに決めたのです。


僕はこの夏に裁判所を通じて

相続放棄という手続きを踏んで、

親の連絡先を一切消しました。


その手続きが終了すると同時に大きなものが吹っ切れて

本当に心が軽くなりました。


世間的に見たら親子関係が上手く行かなかった人ですが、

それはそれで別に大したことでは無いと言えるようになりました。


似たような綺麗事で自分を縛り付けてしまっていることがとても多くありましたが、

どれも大したことではありません。


相手が未熟であったとして、

それを大目に見ることが魂の成長に必要なのだとしたら、

それと同じように

自分の未熟なところも大目に見てあげて、

相手を思う存分に嫌ってても

それが必要なのだからそれを変える必要はないんです。


胸を張って「あいつがキライ!」でいいんです。


たとえばそれが唯一の親と子供の関係だったとしても。


お蔭様で今の僕は本当に

毎日がスッキリした気分で送れています。


今、僕が大切にするべき家族が僕にはあります。


それは僕だけではなく相手もこの関係を大切にしようとしてくれているその気持ちが

この家族を家族として維持できている最大の要因です。


大切にしなければいけないのではなく、

大切にしたいと思う気持ちがお互いを繋ぎとめている、

自らの内側から出てきているものの現れが今ここに在るということを

実感しているかどうかが大切だと思うのです。