2019年8月27日火曜日

隠すという美学

夏も終わりが近づいて朝夕は涼しくなって来ました。


実は僕はというとお盆を過ぎた頃から、

アレルギー反応が顔に出てしまい、

左目の周りが物凄く腫れるという事が起こりました。


もう今は腫れも退いて、

薄く皮膚がかさぶたになったのが

取れていくのを待つだけの状態になっています。


何が原因で、ということで考えると、

お盆休み明けで仕事場に皆さんが持ち寄った

お菓子の中に何か自分に合わないものがあったところに、

夏の暑さに内臓が少し弱っていたことが

複合的に合わさったのかなぁと、思っています。


実際普段の食事は産地や添加物なども気にして

ほぼビーガンとしての食を摂っているので、

最初まぶたが腫れた時は、

ものもらいになったのだと思っていました。


でも、パンパンに腫れ上がった左まぶたに

とてつもない痒みが走り始めて、

「これはまずいなぁ。」と思いました。


何をしても治まらない痒さは触れば触るだけ、

まぶたを腫れ上がらせてしまいます。


どんどん変わっていく自分の顔に、

考えたくない妄想はどんどん膨らんでしまいます。


でも、日常は普通に過ぎて行きました。


時間帯によって痒みが治まっている時もあって、

そんな時は比較的腫れも退くので、

少し気持ちも落ち着くのですが、


もうどうしようもない痒さが何分も続くと、

どうしても触ってしまい、

また腫れ上がって、

痒みに対するイライラと、

顔が腫れ上がる不安に押し潰されてしまいそうでした。


周りの人達には、

余り心配をかけないように振る舞っていましたが、

奥さんには、

やっぱり伝わってしまう部分があって、

それを何とか出来なければ、

もしこの症状が長引いた場合、

お互いの関係性に良くないと感じ始めていました。


今まで何か身体に良くないものが入って来た場合、

とにかくお腹を壊すという事で、

対処出来ていた部分があったのですが、

今回の出来事では完全に心が凹んでしまいそうになりました。


そこからいろんな不安が妄想を呼び起こして、

自分の中に潜むネガティブな感覚がどんどん自分を飲み込んでいきそうになりました。


気を使ってくれる奥さんにも

これ以上不憫な思いをさせないようにするには、

今の状況をどうにか捉え直して、

自分が感じることをどう表に出していくのかを見直す必要が出てきました。


そんな時、

「どれだけネガティブなものを振り撒いたところで、

この痒さは軽くならないし顔もヤバイまんまだし、

何より人としてカッコ悪い。」

という思いでした。


そこで、自分の中に湧いてくる負の感情を上手に「隠す」にはどうするのがいいだろう?

という考えが浮かんできました。


ちょうど今月のあたまに、

人間性を隠していく過程に人としての格好良さが現れるところに興味を抱いて

そんなものの見方を研究していた矢先でした。


いろんな物事がオープンになって行くこのご時世に、

昔の侍や着物を着た女性などから感じる神秘的な格好良さに感じるものがあって、

何か最近少し違う視点が必要なのではないかと感じていたのです。


どんどんこの世界がオープンに成るにつれて混沌としていく様子を見ていて、

オープンにするだけではまとまらないのであれば、

昔の武将が多くを語らないあの神秘性が何かヒントになるかもしれないと思ったのです。


確かに今まで無かったことにされていた思いや、

無いものとして扱われていた人達などが、

明るい日の本へ現れる事で、

新しい視点をもたらして、

少しずつ開かれた明るい世界へと

向かって行くのは確かなことです。


ただ、それは自分の外側で起こる事象に於いてと、

内側の感覚に於いてと少し別けて考える必要があると感じていました。


事象として起こる出来事は、

多くの人がその出来事から自由に学ぶことが出来るよう、

オープンになって行く事はとても大切です。


でも、そこから感じる事をどう表現するのか、に於いて、

何を言ってもいいわけではありませんし、

自分が居る環境の中で表現された後それがどう影響するのかによって、

「隠す」事も含めて考えなければならなくなります。


感じたことを表に出すことで何が変化していくのかを見極められるようになって来たら、

その出し方によって周りがどう変わっていくのかを良く見ておくと、

全てを出す必要が無いと分かって来るようになります。


出しても変わらない場合は、

出さない方がいいという事がとても多くあるのです。


出してすっきりする、

という事は多いのですが、

それが次の何かを巻き起こす原因を作り出します。


もしも自分の蒔いた種が自分が思うよりネガティブなものだったりすると

自分で刈り取るだけで多くの時間を費やしてしまいます。


そしてその結果が思わぬ方向へと自分を引っ張って行ってしまうことが

多くあるように思います。


思っていることを表に出したところで

大きく何も変わらないということを前もってイメージ出来たとしたら、

自分の感じていることをごまかすのではなく、

「隠す」という手段があるのです。


この「隠す」という行為はごまかすのとは違って、

自分の感じていることを意識したままそれをそっと仕舞う所作に意識を置くので、

自分が成長していっていることをその時に感じるために、

鬱憤がたまったりすることには繋がっていかないんです。


僕自身どちらかというと、

自分をどう表現するかということに重きを置いて生きて来ていたため

「隠す」ということと、ごまかすということの違いが良く分かっていませんでした。


ただ今回のアレルギー症状で出てきた

自分のネガティビティをどうにか抑えたいと本気で考えた時に、

我慢をしたりごまかしたりするだけでは絶対に持たないと思った時に、

「隠す」美学について自分なりに考えていたことを、

実践するちょうど良い機会となったのでした。


もちろんいきなり上手くはできませんでしたが、

刀を鞘に納めているかのような感覚で、

自分の感じていることをそっと仕舞っておく感じが

とても大人に成れていっている実感と共にあったのでした。


この感覚をもっと別の場面にも当てはめていければ、

不必要な表現から生まれて来る結果にエネルギーを消費させずに、

必要な表現に集中していけるようになると感じたのでした。


今年に入ってから実にいろんなことが起っていますが、

その中でも今回アレルギー反応で顔が腫れたことで感じた

自分自身の変化はこれから先の自分にとって

必ず良い方向へと向かう変化になったと確信しています。


昔の武将が伝説として語り継がれるているような、

研ぎ澄まされた格好良さは「隠す」美学を意識していけば

かなり近づくことが出来るでしょう。


そうすれば混沌としたこの日本も

本当に美しさを取り戻していくのではないでしょうか。


まだまだ気づいたばかりで実践が浅いですが

もうその生き方を始めることが出来ました。


日本画に描かれるような人に成っていきたいですね。