ある所に物事を変幻自在な角度から見る事ができる人がいました。
その人が生きる上で本当に必要な知恵とは何なのだろうかと深く考えていたある時、
この世界を構成する物事は悠久の時間で考えれば
全ていつかは形を変えて無くなってしまうということの真意に気づいて、
それならば初めから大した意味など無いと思っても同じことではないだろうか、
と思いました。
そうするとそれまで色々と思い悩んでいたことなども、
どうせいつか無くなってしまうものを悩む必要があるのだろうかと思えて、
見る見るうちに悩みごとは消えて無くなってしまいました。
そしてこう言いました。
よく聞いてくれ。
物事というのは何時か必ず消えて無くなってしまうものなんだ。
僕自身や僕の言った言葉、僕の思ったことも、いつか形を変えてしまうし、
無くなってしまうだろう。
そこにあると思っていることも何時か無くなるのに、
その意味は何なのか一生懸命考えては思い悩んでいる、
そういったこと自体を悠久の時の流れの中で見てみれば、
大した意味など無いと思わないか?
もちろんいろんな出来事に出会ってはいろんなことを感じて、
それによって悲しくなったり、楽しくなったりもするだろう。
でもそういう場面があったとしてもそれも一過性のものなんだ。
大した意味は無いと思えるかどうかだ。
今目の前で起こるものごとが全てであるかのように感じることもあるかもしれないが、
それも時が経てば感じ方も変わってしまうしもっと言えば忘れてしまうだろう。
覚えていることがあったとしてもそれはただの記憶でしかないし、
それが今の自分を本当の意味でどうのこうの変えられるものじゃない。
大した意味は無いのにとても大きな意味があってそれが自分をどうにかしてしまうように
思ってしまっているだけなんだ。
例えばそれを深いところで理解できたからと言って、
意味の無いできごとが無くなる訳じゃない。
悲しい出来事は起こるだろうし、楽しいことを追い求める気持ちも止まないだろう。
そしてそういう心の動きを誘う物事が起きてしまうとしても
それらはこの世界に於いて
決して元から汚らわしいものだったり素晴らしいものだったりするのではないし、
増やしたり減らしたりできるものでもない。
それぞれが思い思いに行動するのだし、
そのことに始めから意味など無いしそれを理解できている人さえ居ないのだから。
このように大した意味など無いものに意味を持たせているのが
自分の意識なのだとしたら、
そういう風に世界を捉えなおしてみれば、
見えるもの、聞こえるもの、香るもの、味わうもの、感じるもの、意識するものでさえ、
自分のその時の好き嫌いで意味があるように捉えて何が大切かなんて、
全く無意味なことだと気が付くはずなんだ。
それに気づくことが出来れば、
ちょっと分からないことに不安になって落ち着きが無くなったりすることも無いし、
かと言って分からないものごとが無くなる訳でもないし、
どうしたらいいのか分からないまま
どんどん年だけ重ねていくことに気を取られることもないし、
そのまま死んでいくかも知れなくても気にすることもないし、
それにそうやって年を重ねるしかないし、
何時かは死んでしまうということに変わりはない。
僕らが思い悩むことはどんどん出てきて無くならないし、
その一つに当てはまる答えが分かったとろで大した意味は無いし、
それによって得ることも大した意味は無い。
こういう風に悠久の流れの中で
ものごとが変化しているだけだということを理解してしまえば、
心は無邪気なままでいて何の問題も無いのが分かるし、
無邪気でいれば何かを恐れて不安に苛まれることも無いし、
不安が変な考えを引き起こして間違った方向へ進んでしまうことも無くなる。
そうすればいつも前向きな心で居られるだろ?
現在、過去、未来っていう時間の中に、素晴らしいものが出来上がるんじゃなくて、
何も大した意味なんか与えなければ、これからもそれは変わることは無い、
そのことを理解出来たらそれで十分ということなんだよ。
何かもの凄い事を理解する必要はない。
それ以上ではないしそれ以下でもない。
今、自分の思うままにすればいいと言うのはそういうことなんだよ。
それに別の何か大きな意味を与える必要はないし、変わりっこないんだ。
どうせいろんなことを考えてしまうだろうし、それ自体が悪い事なのではない。
そういうことに引き摺られないことだ。
だからそのまま思いきってやって思いきって感じればいい。
それ以上でも以下でもないのだから。
そのように言いました。
南無。。。。。。