ここ最近、日本という国の変容が
いたる所で目に映るようになって来ました。
この変容が良くなる兆しとして見えている人もいる一方、
悪くなるばかりでどうして良いのか不安になってしまう人も多くいるかと思います。
いろんな人が様々な側面から、
この変容をどう見ているかを述べていますが、
ここでは自分自身をまとめてこれからの時代を強く生き抜くために
僕の視点で見えることを書き留めておきたいと思います。
基本的には大きな変化として見えている部分の裏には、
何も変わらない静かな正しさがずっとあって、
それを軸に振り子のように行ったり来たりするエネルギーが働いて、
物事は変化していくということを理解しておくと、
変化に翻弄されずに過ごすことが出来ると思います。
ここ最近の国内での変容は物凄く簡単にまとめると、
日本という国が封建社会から脱却している最中なのだと感じています。
歴史上では封建主義などとっくの昔に無くなっていると、
そう思っている人も多いと思います。
でも実際は日本に本当の自由と平等を過ごした人が、
今まで居たでしょうか。
僕の思うところでは恐らく縄文時代以降何かしらの権力機構が作り上げられて、
平和を維持するためにそれらは何かしら人を抑えつけながらこの国を形作って来ました。
国という概念さえも無かったころは、
自分の身近なところで豊かさを自由に享受できる世界が広がっていたのではないでしょうか。
それでも予期せず罹災することもあったかもしれません。
そんな時にもそれぞれの立場を超えて和を保って乗り越えていたコミュニティがあったと思います。
それが大きな和と書く「大和」ではないかと思います。
おそらくその頃は、そのコミュニティは血族をもとに構成されていたでしょう。
昔の血族的な統治は比較的に理解しやすいと思います。
自分の住む場所の平和をその血族の長が護る訳です。
護ってもらうにも知っている信頼の置ける人であれば、
安心感があっただろうと思います。
時代が進むにつれて人が増えて血縁も薄くなって来ると、
理想的に長として相応しいと信じる人物に託す形で統治するようになりました。
完全には知りえない人物に自分たちの平和を託すという信頼関係が必要になり、
決まり事を作ってそれに則って治めなくてはならなくなったことでしょう。
そうなってくるとその統治機構をしっかりと機能させるためにも、
細かいルールを決める必要が出来てきました。
ルールに背いたりすればそのコミュニティーを壊してしまうことになりかねません。
出来る限り多くの人にそのコミュニティーでのルールを共有してもらって
違反した者には罰が下るようになりました。
仕方の無いことだったのでしょうが、
権力というものが出来てしまいました。
人が生きる上でどうしても持ってしまう不安に対して
コミュニティーを形成することはとても大きな安心に繋がります。
団体で運命共同体として生活するようになると、
ルールはとても大事なものになります。
それ故に情報の共有が難しい時代には権力を持つ者に絶対的な力が与えられました。
そんな状況下では上に立つ者は、民を治めるに価する者、
でなければならなくなります。
そのような価値競争が戦乱を招いた時代もありました。
しかし比較的平和で安定していれば、
生き死にの問題まで発展しにくいこともあって、
コミュニティーを壊すようなことは起こりにくいはずです。
ただ特定の人物がそのコミュニティーの行く末や属する人に関することを
独断で決められる決定権がある中での話しです。
個人個人が自分で考えて行動できる自由は基本的には無いからこそ得られる、
限定的な平和だったのです。
日本という地勢的に島国である環境では、
外的要因でコミュニティーが破壊されにくかったこともあって、
大きな変化による意識改革というものは起こりにくかったのだろうと思います。
でも世界が大きく動いて江戸時代が終わりを迎えるように、
今まで見たこともないような価値観の変化が外側から押し寄せてきました。
その時それまで鎖国していたこともあって、
新しい外的要因に対する対抗意識と、
それを受け入れて自分たちも変化して行こうとする
二つの意識の流れが起こったように感じます。
明治時代と呼ばれるこの頃に、
今現在の日本の原型が出来上がったのではないかと考えています。
僕個人としては、
良くも悪くも明治時代に壊れてしまった部分というのがあって、
その時代背景をもとに作り上げられた日本というものが
今の時代までしっかりと根を下ろしている封建的な感覚、
「日本人ならば~しなければならない。」という意識として残っていると感じているのです。
圧倒的な軍事力にモノを言わせてくる欧米諸国に対して出来ることは、
とにかく挙国一致で呑み込まれないようにすることだったのではないかと思います。
それまで自由と平等について自分達から手に入れようとしたことのなかった日本の人々と、
自由と平等を長い年月をかけて自分たちで作り上げてきた新しいルールを持つ欧米の人達は、
争うことで変化を迎えることになりました。
そして戦争に負けたことで
日本人として掲げていた理念の裏側にあったいやらしさは白日の下に晒されました。
そのまま敗戦国として欧米のルールを新しく実践するに至った日本は
自由と平等という名の元に資本主義というルールの実験台となりながら、
冷戦の楯になるべく完全に破壊しきれていなかった封建社会の構造を利用されて、
一部の人々のお金儲けのための社会となってしまっていったのでした。
いろんなところで荒みきって命の尊厳も踏みにじられてしまったような事象に
目を塞ぎたくなります。
同じ人間同士がどんな理由があって
イジメや差別を繰り返し、
自分よりも立場の弱い人に強く出ては、
間違いを正すこと事を恐れて口をつぐんでしまうのでしょうか。
その中にあっても生きる意味や相手を思いやる気持ちを
持ち続けることが出来た人々もいます。
真の自由と真の平等を本当の意味で理解している人たちです。
その人たちは国という枠を超えて、
自分の言葉で多くの人に語り継いでいます。
僕の内に宿る魂はその人たちの思いに反応しはじめました。
これからもこの星の一員として人の道を歩んでいくために
昔の御先祖さまが残してくれた言葉の
散らばってしまっていた意味を拾い集めて、
この国の人として今一度考えて欲しい言葉が
「大和」ということばです。
これは戦うための道具ではありません。
余りにもいろんな時代をくぐり抜けてきたせいで、
本来の意味が完全に見えなくなってしまっていますが、
皮肉にもヤマトにあてられた当て字がそのものの意味を物語っています。
「大和」とは、
自分を含めた世界と調和している状態のことです。
一つでも嘘やごまかしがあれば成り立ちません。
例えば自分の意に反することが起きても、
それを調和に導いていけないと「大和」にはならないのです。
この時勘違いして欲しくないのは、
「大和」という状態の中に自分の意も置かれているだけであって、
自分の意に従って「大和」をどうにかしようとすることが
「大和」を乱してしまう要因になるという事です。
命が命を繋いでいく最も大切な関係であることを知っていた
昔の日本人は全ての物事に命を与えて八百万の神として大切に扱いました。
それは自分より上位に扱うべくして神と捉えていました。
それ程丁寧に扱うようにしていたのです。
例えば避けたいような物事でさえ、
触らぬ神に祟りなしというように
神として丁重に触れないようにしたのです。
調和をとるという事は
周りに起こる物事に対して
ひたすら丁寧に接することで成り立つものです。
勝手な思い込みで余り確認もせずに、
何となくの習慣から出て来る行動では調和をとることは出来ません。
今の時代散々に壊されてしまった人としての自尊心から、
ひたすら丁寧に物事に取り組んでいくことに抵抗のある人も多いかもしれません。
でももう一度思い出してください。
大きな変化の裏側にずっと流れている静かな正しさは、
「大和」の民だからこそ感じるものなのです。
その自分に嘘をつかずに居ればいいだけです。
真の自由と平等の上にしか真の調和は訪れません。
誰もそこから漏れることはないのです。
どんな物事も尊重して、
その総和からその時その時のベストを積極的に選んでいくだけです。
この世界に大きな和をもたらして生きましょう。